国民同胞巻頭言

第601号

執筆者 題名
天本 和馬 ドイツを再訪して思ったこと
- 自らの歴史を愛しむ心の涵養を -
今林 賢郁 幕末外交と幕臣たち(上)
- 阿部正弘、岩忠震、井上清直 -
朝永 清之 稲田健二君と私
- -
関口 靖枝 前理事長・故小田村寅二郎先生の奥様
「白萩」のごとく慎ましく
- 小田村蓮子様の思ひ出
平成23年慰霊祭 9月24日 於・東京大神宮
献詠抄(中) 会員(続き)
  新刊紹介『朗読のための古訓古事記』: 岸本 弘 編集・発行

 今年5月に22年振りにドイツを再訪した。1990年に東西ドイツが統合して21年を経た新生ドイツが、特に旧東ドイツ地域が、どのやうになってゐるかに興味を持った。一言で印象を述べると、旧東ドイツ地域の、経済再建のため基盤整備はほぼ完了してゐた。

 ベルリンの壁が崩壊(1989年11月)する8ヶ月程前のベルリンは西ベルリン地区でさへも何かしらうらさびれた所であった。目抜き通りの繁華街こそきらびやかであったが、一歩そこから離れると時が止ったやうな印象を受けた。路面電車のレールが壁で分断されてゐたり、戦災で残った建物のレンガの壁が剥き出しであったり、西ドイツの他の街とは全く違った復旧の意思が感じられないところであった。

 東ベルリン地区は当時共産圏の優等生と言はれてゐたが西ベルリンとはまた違った意味で停滞といふか息切れしてゐる感じであった。例へば、機械式の電車の券売機はどこも半分近くは故障してゐた。今回、22年前の面影を探さうとしたが西も東も区別出来なかった。フリードリッヒシュトラーセ駅、そこは東ベルリン地区にあり列車は西ベルリンから入り再び西ベルリンへ戻るルートの途中駅で、東ベルリンへの入口の一つにもなってゐた。その列車に乗ることができればそのまま西ベルリンへ行けるため、かつては駅ホームは警戒厳重でホームごとに自動小銃を持った東の兵隊が常時パトロールしてゐた。そのホームのたたずまひは変ってゐなかったが高架ホームから見る町の様子は明るくきらびやかであった。かつて目にした気の重くなるやうな風景は今はどこにもない。基盤整備が終ったと述べたのはこのやうな印象からである。

 されば街の再建とともにドイツの真の統合はなったのだらうか。旧東ドイツ地区のベルリン、ドレスデン、ライプチッヒのいはゆる観光名所と言はれる教会や宮殿のある地区を廻ったが、例外なくクレーンが林立し大工事の真っ最中であった。ベルリンの博物館や美術館が集まる博物館島、ドレスデンの旧市街といったドイツの歴史的建造物は当然に石造りであるが旧のままに復さうとしてゐる。美しい古都で知られたドレスデンは大戦末期にイギリス空軍の空爆で灰燼に帰し、戦後瓦礫のままで復旧をあきらめるほどだったが、その歴史的建造物も再建されたり或は再建途上にあった。再建といっても使用可能な石材を再利用しての文字通り元の姿に戻す努力が払はれてゐた。先づインフラ整備を優先し、その後に旧市街の復旧に取り組む姿にドイツ人の不断の意思を見る思ひがした。思ひを込め建造物を再建することで自らの歴史の連続性を確認しようとしてゐるかのやうであった。

 かつては分断されたベルリンの現実を見て日本は恵まれてゐると思ったものだが、今回はこのやうなドイツの光景をみて羨ましい気持ちになった。歴史とのつながりを建造物に託さうとするドイツ人の意思が感じられたからである。

 翻って日本はどうか。例へば敗戦の苦渋を抜きには語れないはずの現憲法を「平和憲法」と美称する教科書、経済効率優先で鎮守の杜に隣接して聳え立つ高層マンション、三連休を創るための一部祝日の月曜日移行…等々、日本の現状は歴史とのつながりを自ら断ち切ってゐるやうに思はれてならない。小林秀雄先生は「歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそぼくらは過去を惜しむのである。 それは、例へば、子供に死なれた母親は、子供の死といふ歴史的事実に対し、どういふ態度をとるか、を考へてみれば明らかな事でせう。 かけ代へのない命が、取り返しがつかず失はれて了ったといふ感情がこれに伴はなければ、歴史事実としての意味が生じますまい」(『歴史と文学』)と述べられてゐる。

 ドイツを再訪して、改めて自らの歴史を愛しむ心の大切さを痛感した次第である。

((株)MCエバテック) - 神戸市在住 -

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     福地桜痴著『幕末政治家』

 慶応3年(1867)年11月、第15代将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還、同12月、王政復古を経て新政府が樹立された。翌慶応4年(1868)1月、薩長軍を中核とした明治新政府は旧幕府勢力に対して東征を開始、所謂戊辰戦争がはじまった。進軍する政府軍は「官軍」を名乗る一方で、幕府側は征伐されなければならぬ朝敵であり「賊軍」とみなされた。そして幕府軍はこの戦ひに敗れ、爾来「勝てば官軍、敗ければ賊軍」といふ次第となったが、「勝てば官軍」とは良く云ったもので、日本近代化の布石となった幕臣たちの努力の軌跡は正当に評価されることもなく、「賊軍」の名と共に埋れてしまひ、近代国家をめざした日本の辛苦と功績はことごとく新政府のものとなってしまった、と云へば過ぎるであらうか。

 幕末から明治にかけての幕臣であり、ジャーナリスト、文学者でもあった福地源一郎(桜痴)はその著『幕末政治家』の冒頭に、徳川末期と雖も幕府に全く人材がゐなかったわけではない、幕府を「衆愚の府」とみなし、その行為はことごとく「国家を誤り日本に禍」をもたらし、そのために朝廷からの咎めを蒙り滅亡したのだ、と云ふがごとき論断は浅見にすぎない、自分が親しく観察、見聞したところを見ても、「私を棄てゝ公に殉ぜる者」「国家を以て己が任とする者」「百難を排するの器を有せる者」「権豪を憚らざる者」など幕末にもすぐれた政治家はゐたし、この人たちは明治の今の世においても得難い人材である といふやうなことを書いてゐる。幕府側から見た幕末史論に過ぎないと云ってしまへばそれまでだが、しかし、たしかに幕府にも有能な士はゐたのであり同感を禁じ得ない

     老中首座阿部正弘の明確な方針

 幕末と云へば通常、ペリーの浦賀来航(嘉永6年・1853)から戊申戦争(慶応4年・1868)までの15年間であるが、必要があって自分なりの「幕末年表」をつくった。それを眺めてゐると幕末の当初の5年間に外交、内治の重要課題が複雑に絡み合ひながら、同時併行的に進行して行く様がよく見てとれた。即ち幕末初年の嘉永6年はペリーの浦賀来航と徳川家定が第13代将軍に就任した年であり、その5年後の安政五年は諸国との修好通商条約が締結される一方で、国内では、所謂「将軍継嗣問題」(第13代将軍徳川家定の身体的欠陥から後継者を巡って一橋派と南紀派に分れて争はれた事件)が結着した年でもある。そしてこの両課題に解答が出るのを待ってゐたかの如くにその年の秋に「安政の大獄」がはじまるのであるから、政治の要衝にあった者にはひときは多難な5年間であったと云っていいだらう。

 ペリーが浦賀にやってきた時の幕府の老中首座(今の総理大臣)は阿部正弘で、この時35歳、彼は備後(広島)の福山藩主で老中首座となって既に8年が経過してゐた。彼が殿中を歩くと大奥の女性たちが隙間から覗いたと云はれるほどの美男であったらしい。彼はまた肥満体で挙措にいささかの難儀もあったが、人の話をよく聞く人で長時間でも正座して聞いたので、彼が席を立った後は畳が汗でジットリ濡れてゐたとも云はれる。人格は円満で先を見通す力は充分に備へてゐたが、決してことを急いだり強行するやうなことはなかった。緩急を心得て衆議による合意を慎重に待つ姿勢を崩さなかった。云って見れば、とろ火でゆっくりと時間をかけてコトコトと煮込んでいく、そのやうな心構へが阿部にはあった。だから- と云ふわけでもないのだが、彼の評価は完全に二つにわかれてゐて、ひとつは開明的で極めて有能な政治家と云ふもの、いまひとつは八方美人で優柔不断な政治家とみなすもので、どちらかと云へば後者の評価の方がより強いのではあるまいか。

 だがハッキリ云へることがある。阿部の巧みな「政治主導」である。阿部は有能な吏僚と見込めば身分も年齢も問はずに抜擢、政治の要所に就けた。任命された彼らもまた縦横にその才を揮って阿部に応へた。阿部は十全な布陣を敷き、内外の諸課題に全方位的に目配りしながら慎重にことを進めて行った。その阿部の眼には開国は最早避けがたいものとして捉へられてゐた。ペリー来航から3年後、阿部は開国に関する己の見解を発表した。交易が開始されればすべての国と通商することになるだらうから、いままでの海外渡航厳禁の国策を変へ、こちらから外国に出かけて行って通商による利益を獲得し、それを財源に軍備を強化すること- 「交易互市の利益を以て富国強兵の基本」とすることこそが今求められてゐる喫緊の課題ではないか。明確な開国方針でありその実現の方途が期待されたが、彼はこの方針を表明した翌年39歳で病死した。惜しんでも余りあるが、しかし、この開国方針は次の老中首座堀田正睦に確実に受継がれ、諸国との外交課題は阿部がかつて抜擢した幕臣たちによって修好通商条約として実現していくのである。

     幕閣をリードした岩瀬忠震

 安政5年(1858)に、米、蘭、露、英、仏の列強5ケ国との間に締結された修好通商条約は「安政五ケ国条約」また「安政の仮条約」とも呼ばれるが、この五ケ国とのすべての条約交渉に関与し全条約の調印者の一人となったのが岩瀬忠震である。阿部に重用されて以来、最も積極的な開国外交論者として終始当時の幕閣をリードした岩瀬であったが、政治の舞台での華々しい跳躍はほぼ5年に過ぎない。将軍継嗣問題で徳川慶喜を擁立した一橋派に加担したため井伊大老に嫌悪され、安政の大獄では幕臣としては最初に、且つ永蟄居(生涯外出厳禁)といふ最も重い処罰をうけて向島別荘に隠棲、その2年後に44歳で世を去った。文字通り舞台を駆け抜けて行ったとの感が深いが、そのさはやかな個性と相俟って幕閣からの信望と期待とを一身に担った、本当に得難い幕臣であった。その岩瀬を生涯の師とも兄とも慕った軍艦奉行木村芥舟(咸臨丸渡米時の総督)の評がある。- 以下の記述の多くは土井良三『幕末 五人の外国奉行』に拠る- 。

  「肥後守岩瀬忠震、初め修理と称す。又伊賀守、天資明敏才学超絶、書画文芸一として妙所に臻らざるはなし。嘉永7年、目付に任じ深く阿部執政に信用せられ、海防外交の事をはじめ、およそ当時の急務に鞅掌(携はる)尽力せざるものなし。講武所、蕃書調所を府下に設け、海軍伝習所を長崎に開くが如き、皆此人の建議経画する所なりと云へり」

 岩瀬の非凡と阿部の岩瀬への深い信頼が自づと浮び上がる評である。天資明敏才学超絶 生来の資質からして聡明で頭脳の働きは鋭く、群を抜いた才覚と学識には並ぶ者とてなかった。しかも筆も絵も文芸にいたるまですべてを極めてゐたといふのだから、岩瀬の天分がいかに突出したものであったかを示してあまりある。この岩瀬の、いかにも岩瀬らしい頭脳のキレを示す書簡がある。日米和親条約の約定に基づき、下田にやってきたハリスが繰り返し要求してゐた将軍への謁見がやうやく実現したのは赴任から一年余を経てゐた。この時岩瀬は長崎出張から江戸に向ふ途中であったが、同僚からの書簡でそのことを知った岩瀬はただちに老中宛に長文の書簡を書き上げた。要約して紹介する。

     岩瀬の横浜開港論

 すでに開港してゐる下田は不便だと云ふことで、諸国は遠からず下田に替はる「港替への儀」を要求してくるだらう。江戸の近くであれば問題ないが紀州(和歌山)等で掛け合へば、彼らは必ず大阪を主張するに違ひない。何故なら大阪が全国の諸貨物が方々から集まってくる都市であることを彼らが心得てゐるからである。だが、大阪は開港してはならぬ、と岩瀬は強く云ふ。大阪は皇居(京都)に一日程度で行くことが出来るし、しかも地形的には険しい所もなく「開け抜け同然」の上に、皇居に近い大阪開港となれば人心も動揺してどんな事件が起るかも予測し難く、断然大阪は避けなければならない。だがこれは建前で岩瀬の意図は別にある。陸海ともに地形の利に恵まれた大阪は今でさへ「日本全国の利権の七、八分」を握ってをり、また長崎交易の利潤の「八、九分は大阪商売」となってゐる。この大阪に若し新たに外国貿易の利潤が加はればどうなるか。江戸をはじめ全国の都市は悉く衰微してしまふだらうし、大阪のみが「肥え太る」ことになる。それに大阪は京都に近いし万事が不都合である。江戸は全国の諸侯が集まってくる処だから日を追って人口も戸数も増加して繁栄してきてゐるが何分にも運漕の便が悪い。

 ここで岩瀬は「横浜」を開港せよと説く。当時は名もない一寒漁村に過ぎなかった横浜だが開港すればどうなるか。国内の官吏たちが同地に赴任することになるのは勿論、外国の領事たちの駐在地を横浜と定めれば江戸を望んでゐるかれらの意向を如何様にも押へることもできる。そして何よりも、横浜を開港すれば輸出用のすべての品々が全国から横浜に集まり、そこで仕分されて外国へ向けられることになるし、また輸入される諸貨物は江戸で捌いて全国へ配賦するといふことにすれば交易の利潤は関東に集中し、「天下の利権」はすべて幕府の手に落ちることとなる。更に横浜近辺が海防、軍事の観点からも幕府にとって適地であることにも言及する。かうして「すべての精美」をまづ江戸に取り込み、そこから全国に押し拡げていくやうにすれば、「天下の権勢」はいよいよ幕府のものとなり、その結果、幕府再建といふ「中興一新」の大業も可能になると論じてゐる。

 経済の一大勢力圏を大阪から関東に奪還し、その力をバネに幕府の抜本的改革をすすめる 見事な国家改造論である。

((株)伊勢利代表取締役)

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 去る6月14日、稲田健二君が79歳(数へ年)で帰幽した。

 稲田君とは半世紀にわたる山あり谷ありの付き合ひで、思ひ出の数々を限りある紙数では語り尽くせないが、ご依頼に応へて交友の原点である佐世保の短期大学時代のことを中心に書いてみようと思ふ。

     君が代三羽烏…   卒業式に国歌斉唱を

 手元にある古いアルバム帖の中に「君が代三羽烏」といふコメントが付いたモノクロの写真(上段掲載)がある。ロングコートにベレー帽姿の稲田君と、トレンチコートに前髪を垂らした恰好のT君に挟まれて、背広姿の私が写ってゐる。場所は、当時佐世保駅前の高台にあった長崎県立短期大学佐世保商英部(現在の長崎県立大学佐世保校の前身校)の学舎の玄関前である。私はSP盤のレコード盤を手に持ってゐる。

 瞬時に、丁度50年前、昭和36年のあの日のことが蘇った。私が手にしてゐるレコード盤は国歌「君が代」である。

 稲田君とT君は、その短期大学の昼間部の2年生、私は夜間部の3年生で、共に3月の卒業式を控へてゐた。T君は昼間部学友会(学生自治組織)の会長、稲田君は文化部長、私は夜間部の学友会長として学生組織を率ゐてきた仲であった。昼夜併せて1学年2百人足らずの小規模な短期大学であったので、入学・卒業式だけでなく文化活動も体育行事も昼夜合同で行なはれた。学友会は必然的に昼夜合同で協議や実行に当る機会が多く、昼間部の役員が夜間部の登校を待つか、夜間部の役員が昼間に時間を作って登校して合同会議に臨まねばならなかった。たまたま私の職場が大学に近かったこともあり、昼休みの時間を利用して登校して対応することが多かった。

 昭和35年の四月、新役員となった昼夜両学友会の初合同会議が行はれ、その席が稲田君との初出会ひであった。昼間部の学生は高校からストレートに入学した者が殆どで皆20歳前である中に一人だけ年長の学生がゐた。それが稲田君であった。室内であるのにベレー帽を被ったままの色白の男を見て「きざな野郎だな」と思ったのが初印象であった。

 一方、夜間部の学生は高校卒業で就職して、数年を経て入学した者ばかりで25歳過ぎが殆どであった。夜間部の学生達と年齢が近いことから、初印象は悪かったものの、夜間部の学生達にとっては親近感のもてる存在であった。後になって稲田君は私の初印象を「生意気な野郎だな」と思ったと洩らしてゐた。当時稲田君は28歳、私は25歳である。稲田君は長崎県立諫早高校を卒業してから青年期の苦悩と放浪の期間を経て県立大学の門を叩いたのであった。

 初対面からお互ひが後輩に役員を譲るまでの10ヶ月ばかり、ややもすると意見の噛合はない昼夜の学友会組織の中で、常に昼間部の仲裁役に立つのが稲田君の任務のやうになり、何時しか夜間部の役員との間に交友関係が生れていった。

 役員組織を一年後輩に譲って卒業を前にした頃、稲田君と私は「卒業式で国歌君が代を斉唱することを教授会に申し入れよう」と語らひT君も賛同して三人でその旨を大学の学生部長に申し入れた。学生部長は、その前の年に雲仙で開催された国民文化研究会の夏の学生青年合宿教室(第5回)への参加を稲田君と私に奨めてくださった野口恒樹教授であったので、当然賛同いただけるものと思ってゐたが、意外にも「君たちの希望は有難いが教授会は簡単にはいかないよ」と、残念な顔をされた。

 「それでは学内の全部の先生方に私達で申し入れます」と訴へる私達に「そりゃあ少し拙くないかな」と言はれたが、私達が学友会活動を通じて何度も強引なお願ひをしてきたことをご存知の先生は「無理はするなよ」と暗黙の了解を下さった。

 それからの毎日、私は職場の昼休み時間に登校して、稲田君、T君と一緒に教授室回りを実行した。「君が代三羽烏」の写真はその折のスナップである。

 結果的には「卒業式では認めないが、その後に行なはれる学友会主催の謝恩会の席で斉唱することは黙認する」といふ教授会の結論を、しぶしぶ納得せざるを得なかったのであった。

     私は稲田家の外息子

 稲田君は短期大学卒業後、福岡大学に編入学して福岡市内に移住した。
移住するに当たり稲田君は佐世保にひとり残る母君に気を配って欲しいと、私をはじめ学友会活動で親しくなった仲間に申し出た。

 稲田君のご母堂は地方銀行の頭取公舎の管理員として住み込みの勤務をしてをられた。稲田君は在学中、短期大学の委託学生寮で生活してゐた。その頃には稲田君を取り巻く仲間が「悪友会」と呼び合ってゐたが「小母さんのお世話は悪友会で引き受ける」と親衛隊ぶりを発揮した。

 福岡大学を卒業した稲田君はNOMA(社団法人日本経営協会)に就職してコンサルタント業務を主に関西地区で仕事をし、独立後は自らの事務所を福岡市内に置いたことから佐世保に帰ることはなかった。

 ご母堂が管理員の仕事を辞して福岡の稲田君の家族と同居するまでの20年余の間、私はまるで息子のやうなお付き合ひをすることになった。よく頭取公舎をお訪ねしたし、私が結婚した後は家内もよくお邪魔し、時には娘の子守をお願ひすることもあった。稲田君が正月や盆に帰ってくると悪友会のメンバーが押しかけて賑やかな大所帯となることも多かったが、稲田君はその都度「君たちが本当の息子のやうだな」とぼやいてゐた。

 稲田君が他界する直前に刊行した自詠の短歌集『齢 玄冬に入りて』(平成16年から22年の年末までの短歌を収む)の中に、ご母堂の白寿の祝ひをするについて

   ともかくも白寿祝へと外息子ら言ふ言葉に押されて内息子動きぬ

 との歌が載ってゐる。「外息子」には「とも」、「内息子」には「むすこ」とルビが振られている。ここに詠まれた「外息子」とは、私とW君(悪友会の一人。現在、悪友会メンバーで生存しているのは二人だけである)のことである。

 私にとって稲田君とは、親友でも心友でも信友でもなく、また悪友でもなかった。稲田君の短歌が示すやうに、ご母堂を要としたまさしく兄弟のやうな関係であったと言へるのであらう。だから二人の間では兄弟喧嘩も堪へず、この50年の間、友好の期間よりも絶交の期間が長かったやうな気がする。

 学友会運営の理念で論争した短期大学時代はまだしも、その後の国文研の合宿参加後の考へ方にも大きな開きがあった。稲田君が経営コンサルタントとして企業や行政の定員管理に関する理論を構築した後は、公営企業の効率化問題で労使交渉の矢面に立たされてゐた私との意見はまったく噛合はなかった。仲間との飲み会の席であわや掴み合ひの喧嘩にならうとすることもしばしばで、その都度仲間に諫められた。その結果、長い期間の冷戦状態が続くが、いつの間にか仲直りをしてゐるのが常で、それを繰り返した50年であった。

 だから、稲田君が自分の事務所を国文研の福岡事務所として提供したことも、国文研の活動に回帰したことも、冷戦期間であったので皆目知らなかった。

     新たな交友

 稲田君から報告の電話があったのは随分後になってからのことであったが、それは「短歌を詠みはじめたので君の意見が欲しい」との依頼を伴ってのことであった。「国文研の皆さんのやうな純粋思考にはついていけない」と言ってはばからず、「短歌は女々しい表現形式だ」と揶揄してゐた稲田君の急旋回に私は大いに驚いた。しかし、この電話で最後の冷戦が解消したのではある。

 小母さんが白寿を迎へることに気付いてゐた私は、W君と連絡をとり稲田君に白寿の祝ひを行なふことを申し入れたのであるが、前出の短歌はそれを詠んだものである。

 稲田君との新しい交友が短歌を通じてはじまった。FAXや郵便でをりをりの作品が送られてきて、私はそれに所見を付けて返信した。しかし、稲田君はなかなか持論を曲げず、私が添削した歌に「これは君の歌で俺の歌ではなくなる」とクレームがつくのがしばしばであった。

 いつの間にか手元の「稲田健二君歌稿関係」のファイルが分厚くなっていった。

 稲田君が国文研に回帰し、短歌に挑戦を始めたことで、これで二人の絆が深まると喜んでゐる中での悲報であった。現世での永遠の断交となってしまった。この悲しみは癒しようがない。何時の日か来世での再会を期待するのみである。

          ○

     W君から「稲田君。今し逝く」との電話を受けて
   にはかには信じられざることにあり三日前まで電話し合ひしに
   友の編みし歌集の我に届かぬを気遣ひ幾度も電話たばりし
   「誰よりも君には早く見て欲しい」の言葉遺して友は逝きしか
   着便を伝へむものと幾たびも架けし電話に友は出ざりき
   再びの入院の床と聞きをれば交信不能ならむと諦めしまま
          (*C型肝炎でここ10年来、入退院を繰り返してゐた)
   かくほどに重篤なりし病状に気づきえざりし己を恥ぢる
   百歳の母君のこして旅立ちし友の思ひの偲ばれ悲し

(元・佐世保市交通局次長)

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 「母は歌舞伎を観るのが何よりの愉しみでした」- 小田村蓮子様の告別式で、10月5日、御長女の公文静代さんの御挨拶を耳にした時、在りし日の奥様の若々しいお顔が鮮明によみがへりました。

 それは、今から50年も前のことです。九州から上京し、念願叶って大学に通ひはじめた私は、南青山の小田村寅二郎先生のお宅に隣接した国文研事務所に足繁く通って居りました。

 合宿教室の報告集『国民同胞感の探求』の三部作(正・続・続々)が理想社から出版された頃でした。

 修猷館高校の小柳陽太郎先生が、大先輩として、並々ならぬ敬意を払はれる小田村先生とは、どのやうなお方かと恐る恐る訪ねたものです。

 閑静な住宅地にある門を入ると、正面に見事な萩の、こんもりとした株が二つ、三つ。そこが御自宅で、右手に在る建物が先生のお仕事場、事務所でした。

 小田村先生は、吉田松陰出身の地「萩」に因んだ萩を、なかでも白萩を賞でられたと奥様に伺ったことがありますが、後日、それだけではないことがわかりました。

 小田村先生が26歳、『学生生活』(東大文化科学研究会刊)といふ雑誌に書かれた、直心影流の高橋空山先生を訪問された時の文章です。

  「『小田村君、どうです、あの萩は』と縁先を指された。見れば籬のほとりに珍しい真っ白な白萩がやさしくうるはしく咲こぼれてゐた。『はあ、萩はなんとも云へずよろしうございますね。…(略)…萩は日本の婦人の姿そのままだと思ひます』と胸奥に浮び上って来る感興をそのまゝお伝へした。」

白萩の、あの楚々とした風情、朝露に濡れれば更に低く枝を撓め、陽が高くなれば元へ戻るしなやかさ、そこに日本婦人の美徳を見て居られたのでせう。

 事務所には、既に先生の片腕として、奥様の妹様、山岸(現姓、中山)瑞穂さんが働いて居られました。その物腰の上品なこと、言葉遣ひの美しいこと、やはり東京の方は違ふ、と感じ入ったものでした。

 そこへ地味なズボンに、まことに控へ目な様子で、お茶を運んで来られた方が、奥様とわかり、これにも驚きました。

 その後、気をつけて居ても、先生との会話は「はい」「はい」「どういたしませうか」と言葉少なで、従順そのもの、すべて、小田村先生の御意向に従って居られる感じでした。

 控へ目で、慎ましいその御容子は、小田村先生がお若い頃、お好きだった白萩そのものでした。

 或る日の夕方のことです。事務所のドアが開き、「それでは出掛けてまゐります」との奥様のお声に振り向くと、そこには若やいだお召物に、晴れやかな笑顔の、まるで別人のやうなお姿がありました。先生が「久しぶりに歌舞伎に行くんだよ」と仰いました。

 三人のお嬢さまは、それぞれ良縁を得られて御親族も増え、曾孫さまおふたりまでも御覧になる幸運に恵まれて居られることを知りました。

 小田村先生亡き後の12年間、小田村家を守り、5月には13回忌の法要を営まれ、晩年にはお身内の皆々様の愛念に包まれての穏やかな御日常であった、と伺ひました。

 9月24日、90歳のお誕生日をお迎へになった7日後、庭の白萩がほろほろと散る秋の日に、奥様は小田村先生の許へと逝っておしまひになりました。

 帰幽遊ばされた先は、やがて自分たちも還ってゆくところとわかってゐても、寂しさは拭ひきれません。

 あのやうなお方- 連れ添った御主人に、あのやうなお仕への仕方が出来る人はもう居ないだらう、一つの時代が確かに終ったのだ、と言ひやうのない寂しさを覚えました。

 

 

(元高校教師)

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       札幌市 大町憲朗
 亡き師亡き友のみ霊よ至らざる我等が行く手を見守り給へ

       川越市 奥冨修一
 十五夜の月かげしるき窓辺にて亡き友どちを偲ぶ夜半かな

       宮若市 小野吉宣
 公を忘れて大臣ら徒党組み日本に蔓延る情けなきかな

       山根清先輩   横浜市 大日方学
 御病に斃れ給ひし先輩の御霊かなしく偲びまつるも

       熊本県 折田豊生
 おほなゐに逝き給ひたる我が友の父君も我らを目守りますらむ

       福岡市 鎹 信弘
 亡き友の心偲びつつもろともに学び交して進みゆきなむ

       横浜市 椛島有三
 日本青年協議会四十周年大会を迎へて
 四十年の長きにわたり我々を導き給ひし御魂をろがむ

       さいたま市 上村和男
 狭庭べのざくろも日ましに色づきてみ魂祭りは近づきにけり
    香川亮二先生を偲ぶ
 「合宿」をはじめ給ひし師の君の思ひのたけを偲びまつりぬ

       各務原市 神谷正一
   生前お見舞ひせし折に(山根清命)
 安からぬ具合なれども穏やかに医師の診断を説きたまひたり
 聞く吾の心穏やかならざるも静かに笑みて語りたまひき

       横浜市 亀井孝之
   大臣の認証式をテレビに見て、歌会始での夜久正雄先生の鞠
   躬如(最々敬礼)のお姿を偲びて
 松の間の御前にすすむ大臣らの得意満面の姿醜し
 先帝に最敬礼されるありし日の師のみ姿の思ひ出さるる

       小矢部市 岸本 弘
   夜久正雄先生、廣瀬誠先生をお偲びして
 今は亡き師のみ教へを慕ひつつふるごとぶみ(古訓古事記)を編みゆく吾は

       延岡市 北林幹雄
 師の君のみことばみすがたしのばれて応へざらめやと思ふけふかな

       茅ヶ崎市 北濱 道
 心なき言葉をやすく口にして恥ぢざる大臣を見るはいたまし
 かくばかり人の心の衰へしを目の当りにすと誰思ひきや

       江田島合宿 富山市 北本 宏
 心地よき語らひはずむ班別研修旧知の如く笑み交しつつ

       京田辺市 桐山澄子
 思はざる地震に遭ひたる人々の心癒えませとただ祈るなり

       藤沢市 工藤千代子
 亡き大人の語りたまひし天皇を戴く幸を思ふ日々かな

       横浜市 國武忠彦
 師の君のみ文いできて読みゆけば面影見えてなつかしきかな

       鹿児島市 黒木林太郎
 山の端(桜島)に湧き立ちのぼる噴煙は海越え我等に降り注ぎけり

       東京都 桑木崇秀
 小田村寅二郎命紹介し給ひしわが著書の続編(『自虐史観を払拭して本来の日本へ』)今捧ぐ世を正し給へと

       桑木悦子
 わが夫の精魂こめて書きましし書世に広く読まるるを願ふ

       久留米市 合原俊光
 法師蝉鳴けば偲ばゆかくり世のみ親らいかに嘆きますやと

       今年の災害に寄せて 鹿児島市 小原芳久
 次々とあまたのまがごとおこりけり八大竜王止めさせ給へ

       香川亮二先生  東京都 小柳志乃夫
 穏やかに語り給ひし師の君のやさしき御姿したはしきかな

       宮城に帰省せし折に 北本市 最知浩一
 三陸を襲ひし津波ゆ半年を経れど今なほ瓦礫残れり
 我が父の墓前に母と花たむけみたまやすらかにあれと祈るも

       香川亮二先生  町田市 坂本芳明
 老いてなほ学びの道を歩まれし大人のみ姿浮びくるかも

       小田村寅二郎先生  町田市 佐瀬竜哉
 ありし日の師のみ言葉を思ひかへし思ひかへして偲びゆくかな

       柏市 澤部壽孫
   香川亮二先生のみ霊に
 穏やかに横にいますと思ひつつ友らと辿る太子のみ文(法華義疏)を
   稲田健二先輩のみ霊に
 和歌集を編みて世に出し忽然と逝き給ひたる大人懐かしき

       小田原市 柴田悌輔
 亡き友の思ひを偲ぶ長月のみ魂まつりに吾も歌詠む

       宇治市 柴田義治
 荒れすさぶわが日の本を鎮めむと顕幽むすび日ごと祈らむ

       香川亮二先生  清瀬市 島村善子
 おだやかなまなざしにして諄々と説かれし師の君ただに偲ばゆ

       由利本荘市 須田清文
 さやかなるもち月の影ながむれば亡き師の君(夜久正雄先生)のみ歌よみがへる

       香川亮二命に  下関市 寶邊正久
 はるばると君とものいふここちして夜半の満月仰ぎ見るかな

       末次祐司先生  霧島市 七夕照正
 彼岸花を詠み給ひたる師の君も今はいまさずこのうつし世に

       川崎市 冨永晃行
   小田村寅二郎先生『歴代天皇の御歌』を拝読して
 ありのままみる心こそ人の上に立つ心なりとの御言葉沁み入る

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 このたび、富山の岸本弘先輩が本居宣長の訓で『古事記』にもっと親しんで欲しい、朗読しながら『古事記』に親しんで欲しいといふことで総振り仮名をつけた『朗読のための古訓古事記』(A5判・和綴・250頁)を編集発行された。

 最近はあまり見ることのない和綴本である。赤い綴じ紐が濃紺の表紙に映えた美しい装丁には恩師・国文研副会長、長内俊平先生の筆になる題字と合せて編者のこの出版に寄せる思ひの深さが伝はってくる。

 巻末の「解題」で編者は「私がまともに『古事記』に接したのは昭和43年の富山大学信和会合宿に於ける廣瀬誠先生の御講義“記紀の古伝承”でした」と記してゐるが、このときに廣瀬先生(のち富山県立図書館長、富山女子短大教授)のお声を通じて『古事記』に触れ得た感激を「それ以来、私にとって『古事記』とは、声に乗って発せられる言葉であり、耳を傾けて受け止める言葉でなければならないといふ思ひがとても強い」と述べてゐる。これが編者の『古事記』原体験であり、長年にわたって抱いてきた構想を現実に推進し得た強い動機になったものと思はれる。

 今から1300年前の昔(和銅5年・西暦712年)、元明天皇が太安万侶に献上させた時も、稗田阿礼の「誦む」ところの帝紀や本辞を撰録したわけであるが、安万侶は阿礼の「誦むところに随って」古言古意を失はないやうに苦心しつつ記録化したのであるから、『古事記』を声に出して誦み、耳でも聴くことは現代の我々が古に近づく道の一つであると言へるのではないか。私もこれまで『古事記』を声に出して読むことは少なかったが、「声高らかに朗誦されることを願ってゐます」との編者の思ひを受け止めて実践してゆきたいと思ふ。

 者は『古事記』を勉強するにあたって武田本(武田祐吉氏の校注)、倉野本(倉野憲司氏の校注)など、どの本が良いといふことはなく、本人の好みで一向に構はない、と述べてゐるが、宣長の『古訓古事記』もその中の一つに加へて欲しい、その為には気軽に読める本がなかったので、その機会を提供したかった、と刊行の動機を記してゐる。『古訓古事記』には聞きなれない表現もある。例へば「倭建命」の訓が「やまとたけのみこと」となってゐて、今日の多くの校訂本の「やまとたけるのみこと」とは違ひはあるが、宣長が訓んだやうに読むことも大切なことではなからうか。

 編者のホームページに、富山市出身の偉大な国語学者(『古事記序文講義』などの著書がある)山田孝雄博士と亡き師・広瀬誠先生の墓前(富山市呉羽山)に今回の出版を奉告された折の短歌が掲載されてゐる。

       山田孝雄博士のお墓に詣で(呉羽山五百羅漢の近く)
香のけぶりゆらぐがなかに誦しまつる安万侶の序を聞きたまへかし

        廣瀬先生のお墓に詣で(呉羽山前田御廟の近く)
この坂は幾度も来しなつかしき師の面影を恋ひやまずして
四十年の月日へだてて墓碑にふるごとぶみを吾は誦しゆく
月日やは過ぐはゆけども吾が耳を去らずありけりかの日のしらべよ

 恩師の導きによって『古事記』のひろやかな世界、日本人の魂の在処に心を寄せ続けてきた編者の敬虔な思ひのこもるお歌であり、『朗読のための古訓古事記』の編集発行に取り組んだ岸本先輩の思ひに並々ならぬものであったことが拝察されるお歌である。

(元東急建設(株)奥冨修一)

 

 『朗読のための 古訓古事記』刊行ご案内

 此の度、本居宣長の訓による標記の書を10月10日付で発行しました。総ふりがなになってゐますので、どなたにも読んでいただけると思ひます。頒価は岸本宛に直接お申込みいただく場合は、一般2,000円・学生1,000円(いづれも送料込)とさせていただきます。メールまたは葉書でご一報ください。

(代金のお支払ひは郵便振替用紙を同封いたします。学生さんは学生である旨、付記してください)。

932-0836 小矢部市埴生2036-3
岸本 弘  yamataoroti@nifty.com

 

 編集後記

 昭和47年9月、就任2ヶ月の田中角栄首相の訪中で日中国交が始まった。以来、田中氏がロッキード疑獄で公判中も、来日のケ小平氏ら要人は田中邸を訪ね「井戸を掘った恩人」と田中氏を持ち上げた。その田中氏は首相在任の2年間で5度、靖国神社に参拝してゐた。昭和53年10月、日中平和友好条約批准書交換で来日のケ氏は「尖閣の解決は次の世代に委ねよう」と棚上げを言った。本当に自国領と思ふなら「棚上げ」など言ふはずがない。自分の主張に根拠なきを知るが故に棚上げを言ひ、もともと「零」の主張を「五割」に嵩上げしようとした。今やわが首相は靖国神社参拝を手控へ、かの国は尖閣は自国領と公言して近海に漁業監視船を乗り入れてゐる。

 故小田村寅二郎先生の奥様が帰幽された。六頁に掲げさせて頂いたお写真は昭和60年頃のものかと思はれるが、先生の和んだお顔が何とも言へない。時の流れの無情と無常を嘆くばかりだ。
(山内)

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