国民同胞巻頭言

第597号

執筆者 題名
野間口 俊行 国柄と「日本人の生き方」
- それは歴史の賜物である -
小柳 志乃夫 震災の御製
- 国民文化講座(5月15日 於・靖国会館)における所見発表 -
本田 格 「表現教育」への疑問(上)
- 「自己表現」とは何か -
高木 悠 東日本大震災泥掻きボランティアに参加して
内外で営まれた大震災宗派合同追悼式
政教関係を正す会「リサーチ&レポート」No.292から
  書籍紹介
桜田門外の変と蓮田一五郎
但野 正弘著  錦正社 税別1,100円

 3月11日午後、東北地方太平洋岸を襲った大津波は、家や車を流し道路を激流と化し、瓦礫の山を残して退いて行った。6月15日現在、死者1万5千4百34人、行方不明者7千7百42人を数へ、なほ多くの人達が避難所で不自由な生活を強いられてゐる。

 ところで、多くの海外メディアは、被災後の日本人の行動を、冷静で秩序と礼節を重んじてゐると礼賛した。暴動が起きないことがショックだとの評まであった。この日本人の行動はどこから来るものなのだらうか。その因子を俗に「地震国」とか「災害列島」とかと言はれる地異天変の多さに求める見方があるが、予期せざる出来事は程度の差こそあれ、どこの国にもあるわけだから、それが最たる要因とは思はれない。やはり、日本にあって外国にないもの、日本にしか存在しないものに焦点を当て考へるべきだと思ふ。

 遡れば神々の系譜にまで連なる一系の君主を戴く国は他には存在しない。君主は何より民の安寧を第一に、それを日夜祖先の神々に祈念なさってをられる。民はその御心を仰ぎそれに応へんと日々の生業に努めてゐる。つねに他のことを先にと思ひを馳せる君民一和の長い伝統が日本にはある。日本にはわれ先にと他を押しのけることを卑しとする伝統がある(日本の製品が何故海外で好まれるのか。使ふ人の立場に立って誠心誠意でモノづくりに当るからである)。

 この度の震災によって海外から注目された日本人の秩序立った振る舞ひは、我々には当り前のことであったが、それは私心なく国民の平安と世界の平和を願はれる歴代の皇室を戴くことによって、培はれてきた言はば「歴史の賜物」なのである。

 天皇陛下は3月16日といふ、まだ未曾有の大震災に国民が途方に暮れてゐた時期に「お言葉」を発せられた。それは、犠牲者に思ひを致し、被災者を慰め、そして自衛隊員達や国内外の支援者を労はれる内容であった。そして最後は「国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」と結ばゐた。さらに、その後両陛下は被災地を御訪問になり、被災者を慰問されてゐる。どんなにか、被災者は力づけられたことだらう。

 この度の震災では、自衛隊、警察、消防等、身を粉にした救援活動の最中に命を落した方が何名もをられる。消防だけで二百名を超える。中でも南三陸町の職員、遠藤未希さん(24歳)の若い死には衝撃を受けた。

 彼女は防災無線のマイクを握り、「6メートルの津波がきます。早く高台に避難してください」と何度も何度も呼び掛け、自らは津波に呑み込まれてしまったのだ。この報道に接した時、昭和20年8月、日ソ中立条約蹂躙のソ連軍が樺太に侵攻した際、婦女子に対して緊急疎開命令が出てゐたにも拘らず、通信を維持するため電話交換業務を続け、最後は自決した真岡電話局の電話交換手9人の姿が重なった。

   ますらをのかなしきいのちつみ重 ねつみ重ね守る大和島根を

 この三井甲之の歌は、戦時に限らず、平時の緊急事態においても、否、日々の生業においても、直向きに実直に生きようと努めた「限りあるいのち」が重ねられて、今の日本があるといふことを詠んだものと受け止めることができる。ここには代々の日本人の胸中に脈々と受け継がれてゐる生き方が示されてゐる。勿論「ますらを」には婦女子も含まれる。

 ピーター・ドラッカー(米国の経営学者・社会学者、2005年歿)は、「つまるところ、いかなる一般教養を有し、マネジメントについていかなる専門教育を受けていようとも、経営管理者にとって決定的に重要なものは、教養やスキルではない。それは真摯さである」(『現代の経営』)と記してゐる。

 ドラッカーに言はれるまでもなく、一個の独立した人間の生き方として「決定的に重要なものは、教養やスキルではない。それは真摯さである」と、私もさう考へる。そして日本人は歴史的にそれを立派に現実のものとしてきた。この度の震災でもそのことが改めて証明されたのである。

(鹿児島県信用保証協会監事)

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 本日は、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後の3月16日に発せられた天皇陛下の「お言葉」を御参会の皆様とともに拝読して、さらに関連する御製を拝誦したいと思ふ。

 われわれ国民は、天皇陛下がお詠みになったお歌を拝誦することで、陛下の御心に触れる機会を得てゐるが、このことは世界に例のないことではなからうか。歴代の天皇方は歌をお詠みになることを趣味的なものとしてではなく、御自らのお心を見つめ直す修練の道と考へて来られたと思ふ。御製を拝読することでわれわれは陛下の御心を知り、国民の詠んだ歌を通して陛下もその心をお知りになるといふ、精神的に非常に豊かな、高い文化を日本は培ってきた。

       この度の震災での陛下の御姿

 震災後、発せられた陛下の「お言葉」(本紙四月号に謹載)については、川島侍従長が『文藝春秋』5月号に、陛下のお気持ちはこの「お言葉」に尽きてゐると書いてをられる。「お言葉」は被災者だけでなく、自衛隊、警察、海保、消防、或いは東京電力などの関係者に大きな力を与へたことと思はれる。川島侍従長は、皇居における自主停電や帰宅難民のお世話、御用邸の被災者への開放検討など震災後一週間、陛下がお取りになった御行動や御判断についても丹念に書いてをられるが4月の下旬からは両陛下御揃ひで毎週のやうに被災地へお見舞ひの御視察を繰返されてゐる。

 穏やかな御表情の陛下ではあるが、77といふ御年齢でどれだけお疲れのことだらう。我が身を忘れて、我が子を思って居ても立ってもをられない親の気持ちそのままに、被災地をお訪ねになる、そのただならぬ御心が拝察されるのである。そこには単なる愛情を超えた高い精神が拝されるやうに思ふ。

 このやうに「お言葉」と御心と御行動を一つにされてゐる陛下の“真実”といふものを国民は感じとって、力を頂くことになるのだと思はれるのである。

       震災についての御製

 かうした今上陛下の御姿はこの度の震災だけではない。陛下には地震に関する御製が多いが、その幾つかを御紹介したい。

       奥尻島(平成5年)
     壊れたる建物の散る島の浜物焼く煙立ちて悲しき

 奥尻島(北海道)は平成5年7月にマグニチュード7・8の地震に見舞はれたが、その二週間後に両陛下は現地を訪問された。その折の御製である。「建物」は普通はしっかり立ってゐるもので、倒れることは希にはあるとしても「建物が散る」とは普通にはあり得ない御表現であり、あり得ない光景である。しかし、今回の東日本大震災で私たちにはその光景が想像できるやうになった。「建物が流され、消える」といふ光景を目にしたからである。奥尻島も津波で大きな被害を受けたので被災の様子はこの度の震災と似たものがあった。その様子がこの「建物が散る」といふ御表現に示されてゐる。

 「物焼く煙立ちて悲しき」- その「物」はもともと今まで人々が生活してきた家屋であり、あるいは使ってゐた道具であって、いはば人と共に生きてゐた「物」であった。それが、地震と津波で破壊され、いのちを失ひ瓦礫となって、丁度火葬されるやうに浜に焼かれて煙を上げてゐる。大自然の力によって人と物との生きた関係が壊されるといふのは今回の震災と同様であらう。その光景を陛下は「悲しき」と御思ひのままに表現されたが、「物」を介して深いところで国民の悲しみを感じとってをられるやうに思はれるのである。

       阪神・淡路大震災(平成7年)
     なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき

 「なゐ」とは地震のことで、地震で家が倒壊し、或いは傾き歪んで余震で住めなくなったり、或いは火事で焼け出されて、屋外で過さざるを得なくなった人々、家を失ふだけでもさぞかしつらいことであらうに、さらに加へてその人々の上に冷たい一月の雨が無情にも降り注いでゐる。ここでも奥尻島と同じく「悲しき」と結ばれてゐる。

       新潟県中越地震被災地を訪ねて(平成16年)
     地震により谷間の棚田荒れにしを痛みつつ見る山古志の里

 山古志の谷間の棚田、それは実に美しい棚田だったが、地震の被害が最も激しい地域となって全村民が避難した。そこを自衛隊のヘリコプターで視察された際の御製である。この棚田は山古志の人々が先祖から丹精をこめて来たもので、その棚田が激しい地震に崩れて荒れた様子を「痛みつつ見る」と表現された。この「痛みつつ」といふ御表現はなかなか出てこないやうに思はれる。慣用句的に「心を痛める」とか「痛ましい」とかと言ふが、「痛みつつ」とは本当に心から痛みを感じてをられる御表現ではなからうか。陛下がどれほど深く国民に思ひを寄せてをられるかが覗はれるのである。
陛下は奥尻島について後年さらに次の御製をお作りになってゐる。

       奥尻島の復興状況を聞きて(平成10年)
     五年の昔の禍を思ふとき復興の様しみてうれしき

       奥尻島(平成11年)
     六年を経てたづねゆく災害の島みどりして近づききたる

 この度の震災後の「お言葉」の最後に、陛下は「国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」と仰ってゐるが、陛下はまさに奥尻島に長く心を寄せてこられた。それは阪神・淡路でも山古志でも全く同様で、陛下のまごころの深さ、真実さといふものをここにも仰ぐのである。

       昭和天皇の御製

 しかも、以上のことは今上陛下お一人の御人格によるものと申すだけでは足りないのであって、歴代の天皇方に脈々と受け継がれてきた御心であった。陛下の被災地御訪問の御姿を拝見するとすぐに思ひ出されるのが昭和天皇の戦災地御視察の御姿である。

 昭和天皇の戦後の全国御巡幸は昭和21年から始められるが、その最初に発表されたお歌は次のものであった。

       戦災地視察(昭和21年)

     戦のわざはひうけし国民をおもふ心にいでたちて来ぬ
     わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ
     国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 一首目の昭和天皇の御心はそのまま今上天皇の御心と思はれてならない。二首目の御製にも今回の御視察と同じく天皇と国民の心の通ひ合ひが現れてゐる。これこそが日本の国柄なのであって、皇室と国民の間には海外の王室のやうな緊張関係ではなく、深く暖かい「心の通ひ合ひ」と「絆」が生きてゐる。そこに生れる力こそが3首目に見られるやうな戦後復興の精神的な原動力となったのだし、この度も陛下から復興の原動力を頂いてゐるやうに思はれるのである。

       明治天皇の御製

 最後に明治天皇の御製を拝誦したい。明治天皇は御生涯に9万余首ものお歌を詠まれたが、発表された御製の中には地震に際してのお歌はないやうである。しかし、明治37年、日露戦争の折の御製を拝読すると今回の今上陛下の御心と一貫するものが拝されるのである。

       述懐
     民草のうへやすかれといのる世に思はぬことのおこりけるかな

       人
     世の中の事ある時にあひてこそひとの力はあらはれにけれ

       心
     しきしまの大和心のををしさはことある時ぞあらはれにける

       述懐
     うらやすき世にもおもひはあるものを國民いかに身をつくすらむ

       をりにふれたる
     ますらをのこころの花のかぐはしとめでられぬるがわれはうれしき

 2首目と3首目の「ことある時」- 今回の震災と津波と原発事故は痛ましい限りであるが、かういふ非常時には、人の真情が美しい行為や勇敢な行為となって現れる(明治天皇御製と同じ「ををしさ」といふ御表現が、今回の陛下の「お言葉」にもある)。自衛隊員や消防のレスキュー隊員の活動もさうであったし、中国人の研修生を助け自分は落命した佐藤水産の専務、最後まで防災無線で避難放送を続けて亡くなった女性職員の方など、多くの心打たれる事実があった。それを知った若者から「日本の誇り」を取り戻さうとの発言が多く聞かれたのも嬉しいことだった。

 また、被災時に於ける秩序立った日本人の行動は海外から賞賛されたが、五首目はさういふ日本人の行動に対する当時の海外の賞賛を受けての御製と拝されるのである。

          ○

 最後に一言申し述べたい。

 私自身の日常を振り返ると、恥かしながら身の周りのことで一喜一憂するばかりであるが、さういふ自分にとって、陛下の御心を仰ぎお偲びすることで、「国を思ふ」といふ広やかな道が開けるやうな感じがしてゐる。御製を拝誦すると、ここに確かに日本の国のことを本当にわがことのやうにお考へになり、その平安を日々祈られる方がをられると心底から思はれるのである。

 今日の政治家や官僚たちが陛下の御心を偲ぶ努力を惜しむことなく、それにお応へしようといふ気持ちを抱くならば、日本の政治は大きく変るやうに思はれる。陛下のお蔭で「国のまとまり」が保たれてゐる。その御心は御製に示されてゐるのである。

(興銀リース(株)勤務)

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       一人歩きする「自己表現」

 「表現」といふ言葉がまづ問題である。もともとexpressionなどの翻訳語として明治時代につくられた語である。「外にあらわれること。また、外にあらわすこと」といふ意味だが、さらに「内面的・主観的なものを、表情、身振り、言語、音楽、絵画、造型など、外面的、感性的にとらえられる形式によって、伝達できるようにすること」(『日本国語大辞典』)といふ意味がある。現在の社会に十分定着してゐる語なのだが、観念語といふ感じはやはり否めない。

 この「表現」といふ語は、私たちが「国語」について語るとき、「理解」といふ語とともに、それを抜きに語ることはできないものだ。さらに、この「表現」に「自己」をつけた「自己表現」といった場合、「表現」と比べてどう違ふのだらうか。この「自己表現」といふ言葉も、教育の場ではよく使はれてゐる。

 今年(平成23年度)から小学校5、6年で、外国語活動を実施することになってゐることは周知のとほりだが、「小学校学習指導要領解説(外国語活動)」を開いてみると、その中には「外国語でのコミュニケーションを体験させるとして、「例えば、将来の夢を扱った場合に、指導前に児童はどのような夢をもっているのかを調べるなど、児童の主体的な自己表現を促すよう配慮する必要がある」などと書かれてゐる。

 「配慮する必要」性についてはともかく、「児童の主体的な自己表現」といふ言ひ回しは、誰もが納得できるものなのだらうか。ここでいふ「自己表現」とは深い意味合ひはないのかもしれない。それにしてもこの言ひ回しには、児童ははっきりした自己を持つ、といふことが前提になってゐる。さうした自己を「主体的に自己表現する」ことが求められてゐるのである。しかし児童といふのは、そのやうな自己を持つものなのだらうか、それがまづ疑問である。持たないから児童だともいひうるからである。

 「自己」とは一体何か、その定義が第一に問題になると思はれるのだが、児童は児童の「自己」を持ち、大人は大人の「自己」を持つといふことなのだらうか。さらに「自己表現」とは、「自己」が「表現」することなのか、それとも「自己」を「表現」することなのか、「自己」が「自己」を「表現」することなのか。そもそも「表現」するとはどういふことなのか。「自己表現」といふ言葉は、内容が不明確なまま一人歩きしてゐる感がある。

       そもそも「自己表現」とは

 「自己表現」するとはどういふことなのか。大人にしても、はたして「自己表現」といふことを普通するだらうか。日常的には使はない用語である。芸術活動のやうな、創作の場では使ふかもしれない。亡くなった作家の立松和平が自分の作家活動を、さう呼んでゐるのをかつてテレビで聞いたことがある。それが芸術作品であるなら、他のものとは違ふこと、独自であることが何よりも重要視されるものだと思ふ。そこでは他とははっきり違ふ「自己」、個性の世界の徹底的な追及がはかられて、そしてはじめて作品が成立するといへるだらう。

 「自己表現」といふときの「自己」といふものだが、日常的な次元で、私たちはそれを、必ずしも「他者」といふものと一線を画するものと見なしてゐるわけではない。人間関係の親密さの度合ひによっても違ふだらう。家族かどうか、同じグループに属するかどうか、それによっては「他者」と同じ「自己」も当然ありうるのである。同じ考へ、同じ気持ちなら、「自己」と「他者」とをそんなに区別する必要はないはずである。いふまでもないが、ふだんから私たちは話したり書いたり、生活上、言葉を道具のやうに使って自分の気持ちを伝へることを行ってゐる。しかし、それをあへて「自己表現」とはいはないだらう。使ふ言葉を、いちいち「自己表現」などとはいはない。強いていふなら「発言」、あるいは単に「説明」とでもいふべきである。

 先の指導要領解説に戻るが、今回の外国語必修化のねらひは、コミュケーション能力の向上にあるやうだが、「コミュニケーションの働きの例」として、「気持ちを伝える」場合は、I'm fine(happy). 、「考えや意図を伝える」場合は、I want to be a soccer player. といった例が並べられてゐる。これらが「自己表現」といふことなのだらうか。How are you? と聞かれたら、I' m fine(happy).と答へるのは、会話が成立する際の、決り文句といふべきである。I want to be a soccer player.にしても、型どほりの問ひかけの答へとして、職業の一つをただ述べたといふにすぎず、「考えや意図」といふにはほど遠い。文脈にもよるが、「自己表現」といふには、もっとその人を感じさせるものが必要ではなからうか。少なくとも、その理由づけがあってしかるべきである。それにしても「コミュニケーション」能力の向上に欠かせない言葉の習熟と、「自己表現」力とどう兼ね合ひをつけるのか、教育現場の困惑が想像されるのである。

       「書くこと」をどう方向づけてゐるか

 外国語活動における「自己表現」について少しふれたが、次に、小学国語において、表現、とくに「書くこと」はどのやうに方向づけられてゐるかを検討してみたいと思ふ。ここでもやはり、自己表現といふことが中心に据ゑられてゐる。
ある教科書(教育出版)の、1年から6年までの単元の題をそのまま並べてみよう。

 ・「した ことを おもい出してかこう」した ことや 見た ことの 中から 一つ えらんで、よく おもい出して かこう (1年)

 ・「じゅんじょよく思い出して書こう」0したことやできごとのじゅんに、よく思い出して書こう。(2年)

 ・「中心をはっきりさせて書こう」0中心にする場面をはっきりさせて、その時の気持ちがつたわるように書こう。 (3年)

 ・「段落と段落とのつながりを考えて書こう」0身近なできごとを選んで、中心となる場面の心の動きが生き生きと表れるように書こう。(4年)

 ・「構成をくふうして書こう」0構成をくふうして、体験した事実をもとに、自分の考えをはっきり書こう。(5年)

 ・「効果的な書き方をくふうして書こう」0内容に応じて構成や書き表し方をくふうし、自分を見つめて書こう。 (6年)

 「書くこと」の総合として、それぞれの学年で、自己表現単元が位置づけられてゐるが、以上はそれだけを並べたものである。特に経験したことや家族のことなどを、小学校の低学年から書くことが奨励されてゐることが目を引く。例へば小学一年の教科書で、「いもうとと おふろに入った」といふ題の作文が模範例として示され、それは、家族三人がお風呂に入った様子について書かれたものである。そしてこの「○○さんのように、このごろ した ことの中から、かきたい ことを 一つえらびましょう」とある。また2年生では「はいしゃさんへ行った時に、とてもどきどきしたこと」が、3三年生では「長なわとびを友だちと練習したこと」が、4年生では「電車の中で どきどきと心の動く体験」が示されてゐる。5年生では「体験の中から、感じたり考えたりしたこと」として、ポスターを作って貼ることが、6年生では「小学校を卒業する自分に大切なこと」として、一枚の写真の思ひ出が、それぞれ示されてゐる。

       身近な事は書きやすいとは限らない

 かうした例をみて、これらははたして子どもにとって、書きたいことなのだらうかといふ素朴な疑問が浮ぶ。あまりに自分のことばかりなのである。身近な出来事は書きやすいと考へられてゐるのかもしれない。たしかに具体的なことや、生活現実に目を向けさせること自体は意味のあることだとは思ふ。しかし家族のことはとくに、むしろ書きたくないといふことがありうるのではなからうか。親から棄てられた子どもが少数ながらこの世には確実にゐるのである。両親が不和の場合もあらう。不幸な家庭があって、子どもが傷を負ってゐることも十分想像できることだ。不幸とまでいへなくても、家族とさう親しくない関係もあるだらうし、経験したことにしても、自分にとって面白い経験がそんなにないこともあるだらう。親について書くとしたら、子どもは子どもなりに配慮が必要だと感じることもないとはいへない。友人関係についても同じで、うまくいかず、悩みが深いこともありうるのである。さうしたことを書くことで、心理的な負担がもしあるとしたら、さうまでしてものを書きたいとは思はないはずである。隠しておきたいことはあって当然である。それを明らかにされることを本能的に忌避することが考へられるのである。

 何でも自分の思ったことを、包み隠さず、あからさまに書くこと、それは表現教育のねらひとしてふさはしいのだらうか。

(元北海道立高等学校教諭)

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 4月15日から19日までの4泊5日の日程で、宮城県石巻市へ行ってきた。日本財団が呼びかけた「大学生泥かきボランティア」に参加したのである。

 3月11日の東日本大震災の発生以来、何か自分にも出来ることがあるのではないか、現地へ行ってお手伝ひをしたいと思ってゐた。一方では、災害ボランティアの経験のない自分が行っても何も出来ないだけではなく、逆に迷惑をかけるのではないかとも思ひ、行動に移せないでゐた。そのやうな時に在籍学科(地球惑星物理学科)のメーリングリストで知ったのが「大学生泥かきボランティア」の募集であった。

 現地までの交通手段を提供してくれて、その上簡単な事前講習もやってくれるといふ。これは参加すべきだと思ひ、同じく正大寮生の山中利郎君(埼玉大学教養学部三年)を誘って参加することにした。山中君も私と同様のことを考へてゐたやうだ。

 参加者は80人弱で、様々な人が応募してゐた。7つの班に分れての作業となったが、山中君とは別の班であった。作業は実質3日間で、到着した翌日の2日目、中学校の中庭のヘドロ掻きを行ひ、3日目と4日目は、海岸から僅か4百メートルしか離れてゐない普誓寺といふお寺に出向き、縁の下に堆積したヘドロ掻きと、本堂、庫裏の掃除を行った。中学校の中庭のヘドロの厚さは二、3センチ程で、既に乾いてゐたので作業も比較的容易だったが、お寺の縁の下のヘドロは、五センチ程堆積してゐてまだ水分を含んで重く、その上強力な異臭を放ってゐた。

 物理的な作業がほとんどで、住職さんを除いては、被災した人達と直接に関はる機会は無きに等しかった。その所為かもしれないが次のことが印象に残ってゐる。

 3日目と4日目の作業には、早稲田大学のラグビー部員15人程が合流したのだが、報道陣が取材に来てゐたからその報道でそれを知ったのか、4日目の昼に地元石巻高校のラグビー部員二人が訪ねてきた。そしてお寺の駐車場で、ちょっとしたラグビー「講習会」が始まったのだ。手本を示す早大生の動きは、作業着に長靴姿とはいへ、俊敏で、さすがだと思った。早稲田のラグビー部といへば大学選手権常連の強豪チームであるから憧れの存在なのだらう、高校生達は目を輝かせて聞き入り、体を動かしてゐた。短時間ではあったが、彼らは感激したに違ひない。未曾有の災害に見舞はれながらも、希望を失はず技倆向上のチャンスを逃すまいとやってきた高校生の直向きな姿に元気を貰ったやうに思ふ。

 4日目の午後、私を含む10人程がお寺の裏の墓地の泥かきを行ふことになった。墓石の多くは津波によって倒れてゐて、元の形をとどめてゐるのは僅かしかない。中には土台の石までが動き、骨壺が見えてゐるものもあった。縁の下の泥掻きでは声を出し合ひながら作業してゐたが、ここでは皆自づと口数が少なくなってゐた。ただ黙々と作業を続けるだけだった。津波は物理的な被害だけではない別の傷跡も残したのだと思った。

 津波による被害状況は、報道等で幾度も目にして知ってゐるつもりだった。しかし、墓石までもが移動した墓場の様子は報道されることはない。津波は実に様々なものを流し去ってしまったのだといふ現実を改めて思ひ知らされた感じだった。そして、災害は、事後の片付けが本当に大変なんだといふことを身を以て知った。お寺では、泥掻き以外の作業もあったが、何十人もの人手で丸一日以上かかって、やうやく縁の下のヘドロを取り除くことが出来た。しかし、墓地には縁の下のヘドロ以上に厚くヘドロが堆積してゐて、さらに墓石も倒れてゐて作業は容易ではなかった。残念ながら、こちらでの作業はほとんど進捗しなかった。

 当然、泥掻き以外にも街の瓦礫も片付けなければならない。ブルドーザーやシャベルカー等の重機の入れない所も多いやうで、さらに多くの人手が必要である。さういふ意味では泥掻き作業等の経験がほとんどなかった私でも少しは役に立ったのかもしれないが、作業中は地に足がついてゐないやうに感じられてならなかった。

 山中君は「自分なりには一所懸命取り組んだ積りだが、どれだけ役だったんだらうか。果してどうだったんだらうか」といふやうな意味のことを言ってゐたが、それでも参加することがなければ、私達は被害の大きさにしても復興の大変さにしても、実感を伴はずに多くのことを見逃すことになっただらう。

 僅かでも実際に現地で見聞きし作業したことが、今後この震災を考へる時の一つの核となって行くやうに思はれる。

(東京大学理学部3年)

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 東日本大震災の復興の目途が立たないこともあって、遅れが懸念されていた犠牲者の対する追悼や供養の行事も、何とか49日に当たる4月28日には被災各地でしめやかに営まれたと伝えられています。

 仙台市宮城野区の孝勝寺では肉親を亡くした檀家ら約120人が集まって法要を行いましたが、津波と火災で本堂が跡形もなくなった岩手県大槌町の蓮乗寺では境内に建てられたプレハブの仮本堂で営まれ、また、宮城県東松島市では約330人が眠る仮埋葬場に祭壇を設けて死者の冥福を祈ったように、その多くは不自由な中のこと。

 それに先立つ震災発生から1か月たった4月11日、鎌倉市の鶴岡八幡宮において「東日本大震災 追善供養 復興祈願祭」が執り行われました。これは、鎌倉時代に国難に際して社寺がまとまって祈願を行った歴史に倣って、同八幡宮と鎌倉市仏教会・キリスト教諸教会が合同で追悼・供養ならびに被災地復興の祈願を込めて斎行したものです。

 当日の午後2時30分、雅楽が奏せられる中を神職・僧侶・牧師・神父らが参道を進んで祭場となった舞殿に至り、舞殿では神職が大祓詞を奏上、僧侶が読経し、牧師・神父が祈祷するという、それぞれの宗教の形式にしたがって鎮魂の祈りを捧げ、主催者が祈願文を奉読。さらに、海が穏やかになることを願って巫女が「浦安の舞」を奉納し、舞殿前に設けられた焼香台では、境内を訪れた一般の人たちの焼香する姿も見られました。

 この祭典は、八幡宮や鎌倉宮の神職、建長寺・円覚寺などの僧侶、新旧キリスト教会の牧師・神父・修道女など約150名の奉仕によるもので、その後、三つのグループに分かれて市内を歩き、義捐金の寄付を呼びかけましたが、すべて行政とは関わりのない純然たる民間主催の行事でしたから、政教問題になるような余地はまずありません。

 一方、同じ日に遙か海の彼方の米国ワシントンDCにあるナショナル大聖堂において、同様の趣旨で死者の追悼と被災地の復興を祈願するミサが行われました。琴の音が響く中で大聖堂のサミュエル・ロイド主席司祭が祈祷の言葉を述べ、被災地である岩手県出身の宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」が英文で朗読され、ワシントン近郊在住のソプラノ歌手・嶋田貴美子さんが「さくらさくら」を独唱するという心の籠った内容です。カートン・キャンベル米国務次官補も出席、藤崎一郎駐米大使は日本を代表して感謝の意を表しました。

 この大聖堂は正式には「聖ペテロ・聖パウロ大聖堂」と称し、宗教・宗派を問わず式典を開くことが特徴とされ、今回もキリスト教だけでなく、神道・仏教・ヒンズー教・イスラム教などの聖職者も参加したと報じられていますが、祭壇の正面の十字架には何10本ものローソクが点され、浄土真宗の僧侶が詠歌を読誦している以外は概ねキリスト教色に染まった祭典との印象が強い。

 日米両国政府関係者の参列もあることですから、もしこれが政教問題に厳しかった一昔前の日本のことならば、少しばかり論議されたかもしれません。

- 仮名遣ひママ -

 右の「政教関係を正す会」(会長・大原康男國學院大學教授)の記事中に「…純然たる民間主催の行事でしたから、政教問題になるような余地はまずありません」とあるのは、言ふまでもなく憲法20条(信教の自由、政教分離)の非歴史的な教条的解釈から、政府・自治体等の公的機関が「宗教」との関りに極めて及び腰になってゐる現実を指す。

 鶴岡八幡宮での神道・仏教・キリスト教の三者合同の慰霊供養祈願祭は、古来、数多の天神地祇とともに存在するわが国に相応しい祭儀であり、神官・仏僧・神父・牧師が一同に会する祈りとは真に有難いことである。地元・鎌倉の市長も参列したやうだが、当然であらう。鶴岡八幡宮は市の中心に位置すると言ってもよく、例年正月3が日だけでも2百万人余が参拝する。その舞殿は境内のほぼ中央に位置してゐて周囲から見上げる構造になってゐる。当日も1万人近い人達が舞殿を取り囲むやうに参列してゐたといふ。

 もし憲法20条からくる政教問題がなければ、鎌倉市に限らず周辺自治体が協賛で名を連ねた文字通り聖俗(宗教と行政)連携の「慰霊と復興祈願の祈り」となったことだらう。恐らく主催者側は政教問題を意識して端から自治体には声を掛けなかったのではないか、などと推測するのは穿ち過ぎだらうか。言ひたいことは、GHQ製“外来”憲法が歴史的に培はれてきた日本人の「自づからなる心の動き」に箍をはめてはゐないかといふことである。

 記事の末尾に「…もしこれが政教問題に厳しかった一昔前の日本のことならば、少しばかり論議されたかもしれません」とあるが、鎌倉での「純然たる民間主催」の合同祭儀を思ふ時、日本人の心の動きを縛る「見えない鎖」は猶、堅牢であると言はざるを得ないのである。

(6月4日記、山内健生)

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 水戸人物シリーズ1『桜田烈士「蓮田一五郎」』として昭和58年に上梓されたものが昨年七月改稿されて、シリーズ8として改めて刊行されたのが本書である。

 一昨年は水戸藩開藩4百年であり、昨年は安政7年(万延元年)=1860=3月3日の「桜田門外の変」から150年であった。それに因んで吉村昭原作の映画「桜田門外ノ変」も公開されてゐる。

 桜田門外の変については多言を要することはあるまいが、国史上、稀有な大弾圧であった「安政の大獄」を断行した大老井伊直弼が、登城の途次、水戸・薩摩の浪士に襲はれ白昼落命した事件である。

 本書は事件の経緯を概略述べた上で、大老要撃に加はった桜田十八烈士の一人蓮田一五郎の「人となり」を、その生ひ立ち・遺書・歌・漢詩などを通じて、浮び上らせてゐる。一般には「蓮田市五郎」と呼称されることが多いが、著者は遺書の署名等から「蓮田一五郎」であったと思はれるとしてゐる。

 事後、脇坂家の屋敷に自訴した一五郎は、細川家、本多家、柳沢家へと預け替へになり、1年半後の文久元年(1861)7月、伝馬町の牢で斬首に処せられた。29歳であった。「水戸藩士とは言っても、最下級の微禄の役人であったわけであり、如何に天下に広い影響力をもった水戸藩とはいえ、幕末尊王攘夷運動における一五郎の寄与は、ほとんど無かったと考えてよいであろう」(130頁)。

 しかし、11歳で父を失った困窮の中での勉学精励、二重牢格子の中で書き綴った母・姉宛の遺書や遺詠、沈着冷静な目で描写した要撃時の手記・画、取調べ尋問への見事な応答…等々が、後世多くの人に哀惜された理由ではなからうかと著者は指摘する。130頁余りの本書は決して大部の書ではないが、著者が指摘する通り、そこから浮上する「人間・一五郎」の心情には、確かに読む者を感動させるものがある。

 以下紙数の許す限り、遺歌遺文に触れることで(「尋問への応答」も実に見事だが)、本書の紹介としたい。

     3月3日、閣老脇坂之邸に於て、口吟

     頽波を挽きて世運を回さんと欲し一朝斬破す姦魁の頭

     残躯縦ひ粉と為りて滅ぶも凛々たる英名千載流る

と吟じた一五郎は

     隅田川の花いと盛にて人々花見に出るよしを聞て

     もろ人の花見るさまにひきかへて 嵐まつまの身ぞあはれなる

と詠み、また

     守人の桜の花一枝折ていだしけるに守人のあはれみなくば此春はなれしさくらもいかに
     詠めん

と歌ってゐる。
「一朝斬破す姦魁の頭」と激しく胸の裡を告白した一五郎は、桜の花に揺れる心の持ち主でもあった。

かねて孝心厚き一五郎の、母への思ひは切ないまでに深い。一五郎には姉が二人ゐたが、男児は一五郎のみだった。左は遺書の一節である。

(母に宛て)「 …28ヶ年の御鴻恩、露塵報ひ奉らず、先立不幸ハ如何様存上候而も、只今致方もこれなく恐入候儀ハ申上る迄も無二 御座、一

何卒く御ゆるし下され候様ねがへ上まゐらせ候… 御姉様へよき

婿御取遊バし、私と思召御一生を御くらし遊さる外、有レ之間敷と奉レ存候…」。(姉に宛て)「…御母様をバ御姉様が御あづかり被レ成候事と、せんくより之定り事かと存上まゐらせ候。くれくも御母様の御事ばかり御大切ニ願上まゐらせ候…」

 元福岡藩士・平野国臣(元治元年=1864、37歳で斬首さる)は「吾がこころ岩木と人や思ふらむ世のため捨てしあたら妻子を」と詠んだが、一五郎も「無題」と題して、

     道理肝を貫き義胸を填む従容笑って処す死生の中

     安んぞ知らん一片忠魂の鬼夙夜厳然として皇宮を護らん

と覚悟の懐ひを賦しつつも、

       母を思て(三首の中の一首)

     あはれなりひるはひねもす夜もす がら胸もたへせぬ母の面かげ

と涯なき胸中を詠んでゐる。

義に殉ぜんと身命を賭した一五郎の胸の裡は、溢れんばかりの私情とともにあったのだ。血も涙もあるその心情は靖国の英霊にも通ふものがあるだらう。「こころ」が「岩木」であらうはずがない。

(山内健生)

御礼

「我が領土領海を守るための署名」への御協力、有難うございました。

編集後記

世界広しと言へども「領土領海を守るため」関係法令を整備せよ!などと署名活動をしなければならない国が他にあるだらうか。「尖閣」に関しては緊急を要する。この一事を見ても戦後憲法体制の欠陥は明白で、これまでも歯儼みしてきたが、民主党政権になってさらに露大統領の国後訪問、韓国閣僚の竹島上陸を許してしまった。平時の内政外交でさへ重荷の民主党内閣は、「政治主導」で官僚の意欲を殺ぎ、震災・原発対処でも定見なく「その日暮し」だ。ここ二年弱の国政の停滞を見よ。s国立つる基を知らでか策をのみ弄すと見ゆるは悲しかりけり“国政の重きをいかほど悟りしか外交の不在国威の失墜”。

(山内)

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