国民同胞巻頭言

第596号

執筆者 題名
工藤 千代子 日台交流の絆を受け継ぐ青年たち
- 驚かされた台湾人学生の言葉 -
小田村寅二郎 追想 小田村寅二郎先生(1)
日本外交の脱皮
- 『国民同胞』昭和三十七年四月号所載 -
小田村寅二郎 追想 小田村寅二郎先生(2)
本合宿の感想(昭和32年8月)
- 第2回全九州学生青年合宿研修会報告から - - -
山内健生 小田村寅二郎先生の御論「日本外交の脱皮」を読んで
愈々増してゐる御指摘の重大性
- 講和独立の「区切り」を明確にしてゐない -
寶邊 矢太郎 ひとり思ふこと
- -
布瀬 雅義 日本の元気な老舗企業
- 情報企業やバイオテクノロジー分野で -
穴井 俊輔 東日本大震災の被災地から帰って思ふこと

 私事になるが大学3年生の長男は、台湾の学生との相互理解・交流を目的とした学生組織「日本台湾学生会議」(日台学生会議)に所属してゐて、1年生の秋、日本側の代表に就任して1年半余りになる。この会議の結成は平成17年で、毎年8月、約1週間の宿泊セミナーが日台の間で交互に開催されてゐる。現在、日本側には東北を含む東京本部の他に名古屋や関西にも支部が設立されてゐて、普段は台湾についての認識を深める学習会がほぼ毎週末、大学の枠を超えて開かれてゐる。日台双方のスタッフによるスカイプでの会議が、全員が揃ふ週末の夜から深夜にかけて行はれることもある。

 日本側は台湾に関心のある者は誰でも会員になれるが、台湾では親日の学生がたくさんゐて入会希望者も多く、スタッフによる面接審査を通った者しか入会できないといふ。

 日本ではマスコミでも台湾に関する情報は多くはないが、そんな中で長男が台湾に興味を持ったのは中学1年の時に台湾を訪問する機会を得て、現地の人達の「心」に触れたことからであった。その時「将来は日本と台湾の懸け橋にならう」と決意したことが現在の活動に繋がってゐる。日台学生会議の活動を通じて得た友人を息子が家に連れてくることがあるが、昨秋、台湾側の代表を務める黄宏瑞君が来訪した時のことが忘れられない。

 黄君は長男より一つ年上で、台湾大学に入って初めて日本語を学んだといふことだが、僅か2年で流暢に日本語を話し、日本語の書物も大方読めるやうになってゐた。黄君の話では、弟妹は未だ小さく、父上からは今でも「宏瑞の齢にはもう働いてゐた」と小言を言はれることがあるといふ。今回来日したのは日航主催のスピーチコンテストで優勝し、訪日研修団の一員となったからで、悲願の来日だったと語ってゐた。

 さらに驚かされたのは、黄君の「国の為に命を懸けた吉田松陰と坂本龍馬を尊敬してゐます」といふ言葉だった。そこで私が松陰先生亡き後、弟子たちが回天の偉業と後に称へられた明治維新の原動力になったと話すと、黄君は一言も聞き洩らすまいと真剣に耳を傾けてくれた。そして「感動して鳥肌が立ちました」、「日本の美しい精神を伝へる学者になりたい」と語るのだった。

 戦後の我が国では子どもたちから祖先の功をことごとく遠ざけ、歴史への共感を断ち切ってゐるが、歴史の中で展開した献身の人間ドラマは海を越えた台湾の一青年の胸内に生きてゐた。歴史の裡に人間の美しさを見出さうとする黄君の生き生きと輝く眼差しが今も瞼に焼き付いてゐる(黄君はその後、別の日本語スピーチコンテストでも優勝し、今春2月に再来日を果した。また今秋からの日本留学も決定した)。

 昨夏台北で開催された宿泊セミナーでは、台湾側40名、日本側60名の総勢百名の学生が1週間寝食を共にして、選挙制度から防災のあり方まで12の分科会に分れて語り合った。今夏は日本での開催となる。長男は、これまでのセミナーで直視されなかった、それぞれの国の発展のために、先人達が自分の幸福をさておいて尽した苦闘の歴史を学び合って次代に伝達したいと提案した。そして折角日本での開催なのだから台湾人兵士も祀られてゐる靖国神社を見学先に入れたいと提議した。台湾側スタッフの中には、「外省人の参加者がゐたら反発する」と不安視する声も上がったやうだが、息子がねばると、最後は黄君の「僕は靖国に行きたい」との一言が後押しとなり漸く提案が通ったといふ。

 台湾は現在深刻な中国の脅威にさらされてゐる。中国の覇権主義を許せばやがて我が国にも及びかねない。日台提携の重要性はいよいよ増してゐる。しかしながら、日本政府は自民党政権時代から腰が退けてゐるし、台湾も今は対中宥和の国民党政権で台湾人が回帰すべき歴史を曖昧にする施策が巧妙に進められてゐると聞く。厳しさを増す東アジア情勢ではあるが、日台の学生たちが青年らしい鋭敏な心で、国際政治や経済的利害の思惑に左右されずに、一世紀余りに渡って積み重ねてきた日台交流の歴史に光を当てほしいと願ってゐる。

(元コピーライター、主婦)

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 敗戦・被占領→独立・占領軍撤退→独立外交開始といふここ17年間の経過をみて、日本の外交のこれからの在り方について、いくつかの基本的な反省が要求されてゐる。ここに記す数項目は、ついさきごろ、N・H・U・H・Y・Nの6人の先輩たちと数回にわたる検討を試みてととのへたものである。

1 日本の外交は、日本の完全なる独立を目指すこと 現在の外交は、自主外交を行ってゐるといはれるが、われわれには、どうもさう思はれない。

 被占領時代と媾和条約締結後とのあひだに、国家の在り方および外交の在り方について、はっきりした「区切り」がつかなければいけなかったのに、その区切りがついてゐない。対米関係においても、追従を自主的に切りかへる必要がある。経済も、従属的体制からさらに脱皮して、提携・協力の体制に移行させ、政治においても、小笠原諸島の帰属など、大胆率直な交渉を開始すべき時期に来てゐる。自主外交といふのは、いかなる外国にも屈従的な態度であってはならない。従って、対米態度における反省では、「これこれのことをしたいが、どれだけ応援してくれるか」といふ卑屈な根性をやめて、「日本はこれこれのことをするから、これこれのことを当方にせよ」といふ交渉態度に変へなければならない。

2 平面的な中立外交は成り立たないが、「こちらの判断によって行ふ」やうな立体的な中立外交を確立すること。

 日本の自主性の面をはっきり確立すれば、日本外交はその意味で「反米反ソ」(対等交渉をする意)がその根幹となる。しかし同時に、外交政策の面からは、「親米親ソ」の態度をもつことに、なんらの不都合はない。

 次に、日本の現実的諸条件に立って、米ソいづれかを盟友としなければならない事態にあるとき(米ソが完全対立してゐるために)には、政策的見地と、物の考へ方の基本からして、ソを避け米と結合するのが妥当である。しかしその場合にも、原則的に「親米兼抗米(事によって抗議的態度でのぞむこと)」の態度を堅持しなければならない。

3 第二次大戦で喪失した日本領土について、国論を統一していく必要がある。沖縄(日本固有の領土であるから)すみやかに復帰させる方針ですすむ。小笠原諸島(〃)竹島(〃)即時日本の所有を確認させる。南極の領有権(日本発見)第二次大戦と無関係。千島列島のうちクナシリ・エトロフ以南(日本固有の領土である)をすみやかに復帰させる。

北千島(日露戦争前に帝政ロシアと樺太を交換して領土としたもの、従って固有の領土である)この帰属は国際会議によって再検討せられねばならない。

南樺太- 北千島と同じく再検討の要あり。

台湾(媾和条約で放棄したが、その帰属は未定になってゐる)蒋介石政権、土着人と蒋介石との和合による政権、土着人による政権、国連による信託統治、中共による統合の五つが考へられるが、中共の領有には断乎反対し、前四者のなかでは、土着人による独立政権の確立に協力すべきではないか。

朝鮮- 名目的にも実質的にも、日本と友好関係に立つ独立国となるべきもの。全鮮統一が必要であるが、日本との非友好国として統一する 場合は、日本の独立が危険にさらされるために断乎反対しなければ ならない。

4 サンフランシスコ媾和条約の内容の修正の方向を考へていかねばならない。

 前項の記述のなかには、サンフランシスコ条約と抵触する点がいくつかある。われわれ日本人は、ヒットラー論法のやうにベルサイユ条約「破棄」といふやうな方向をとってはならない。それは国際信義のうへに立って外交を貫いていくべきだからである。しかし、この条約締結の折は、日本は占領下にあり、全く非力な状態に置かれてゐたのであって、第二次大戦とは全く無関係の事項まで強要されてゐた。これらの点を、これからの日本外交は、逐次諸外国に対して倦むことなく指摘をくりかへし、世界の輿論に訴へていくのが至当である。その勇気と信念を日本外交に取り戻さなければ、真の自主性の回復にはならない。日本として放棄すべきでないものまで放棄させられてしまったことについて、堂々と所信を披瀝し、その誤りであったことの修正を求めることは、少しも悪いことではなく、また遠慮すべきことでもない。

5 いまの外務省は、アメリカ、欧州第一主義で外交官を配置してゐる。しかしアジアことに東南アジア諸国は、将来の日本友好国となるべきもの、未知数ではあっても、日本として大いに力を注がねばならぬ国々である。

 経済援助とかいって僅かな金を出すよりも、それらの国々の百年の大計のための「真の相談役」になっていかねばならない。経世家の素質をもつ有能な人材を配置すべきであり、将来の盟友としていまから対処すべきものと考へる。

6 日本は現実的にアメリカと歩調を合はせてゐるが、かうした立場にあるときには、その「歩調」についてよく見きはめていく必要がある。資本主義的立場で同じであるからといって、すべてが同一歩調になってよいことはない。それに、アメリカはアメリカ的世界の優位確保を目指すから、アメリカの支配下の諸国が、それで心服するわけにはいかないであらう。

 日本が正しい世界観と、日本文化・東洋文化の枠を身につけて、その対外態度を確立していくことは、もはや日本だけの問題ではなく、アジアをはじめ、世界人類にとっても大きな課題となってきてゐる。(もと現代カナ)

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 今御紹介いただいた通りわれわれは今から20年程前、当時の東京帝大で学生運動を始めたのであるが、学生運動とは言っても現在の全学連などが総評、日教組等と手をつないで政治運動に突き進んでゐるのとは異って学生生活は一体どうあるべきかといふことの深刻な反省が、与へられた学生生活の中ではどうしても得られなかったところから自然に学生運動といふものになって行ったと言ってもいいかと思ふ。即ちわれわれは学生生活の中に次の三点を反省しその打開の策を講じたのである。その一つは学生が国民生活から遊離した優越、特権の意識を持ってゐたこと、その二つは学問が知識の授受に終始してゐたこと、その三つは学生間の情意の交流が全くなかったことであった。

 このやうな耐へがたい空気は一体どうして生れてきたのか、勿論そこに色々の原因はあらうと思はれるけれども、学生生活の大本をなす学問の研究態度方法の中に何か根本的な欠陥があるのではあるまいか。われわれはそのやうなことを考へた。いふまでもないが、自然科学では研究の主体と客体は別個に対立したものであるが、精神科学(人文・社会)では研究の主体は既に研究対象の中に居るのである。そこに自ら明確な研究方法の差異が出てくるべき筈であるのに、今の現状では自然科学の方法論がそのまま人間を研究対象とする学問の領域にまで入り込んで来てゐるし、それに根本的な反省を加へようとする動きは皆無である。ところがわれわれは学生運動をつづけ先人の様々な言葉にふれてゐるうちに正しい学問の方法は国民生活の正しい理解の上に、切実な人間関係の体験の中に、はじめて築かれるものではあるまいかといふことを痛切に思ひ知らされた。

 聖徳太子のお言葉に「自行外化ヲ憶シテ以テ心ヲ調伏スト雖モ、若シ自他ノ二境ヲ存シテ修行セバ、則チ修スル所広カラズシテ、物トソノ苦楽ヲ同ジウスルコト能ハズ」とある。自他を分たぬといふことは人間にとって困難なことであり自他をどうしても分けてしまふのが人生であるが、絶えずそれを分けないやうに意志することが生きるといふことであると言へよう。この生きるといふ実感をはなれて一体何の学問であるか、即ち協力の世界、友情の世界を生み出さうとする努力の中にのみ正しい学問は育まれてゆくのである。この合宿が企てられた意義もそこにあると思ふ。即ち正しく学ぶことは正しく意志することである。自他を別たぬ友情の世界を意志することである。
(もと現代カナ)

- 第2回全九州学生青年合宿研修会(第2回合宿教室)報告『民族自立のために』27028頁所載 -

 

小田村寅二郎選集編集委員会編
『学問・人生・祖国  - 小田村寅二郎選集 - 』
                  (国文研叢書27)

小田村先生談「…しかし結果的に、委員会の選択基準に照し合せてみると、“実によく整理され、取捨されてゐるな”と、校正刷り段階ではじめて目を通させてもらって、つくづくさう感じたことであった」

定価800円 送料290円

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 先生は基本的な反省項目の冒頭「1」の中で、「被占領時代と媾(講)和条約締結後とのあひだに、…はっきりした『区切り』がつかなければいけなかった」と指摘されてゐる。この御指摘の重大性がいよいよ増してゐるやうに思はれてならない。

 わが国は昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効によって独立し主権を回復したが、それまでの六年八ヶ月はアメリカを主力とする連合国最高司令官総司令部GHQの占領統治下に置かれてゐた。「新憲法」「新教育制度」その他諸々の「戦後改革」と称せられるものは、日本が主権を喪失してゐた被占領期にGHQ主導で実施されたものである。しかし、独立回復後もGHQ起草の「新憲法」をそのまま奉じて、「戦後改革」の内実を自らの手で検証することを怠ったために、被占領期と独立回復後との「区切り」が曖昧になってしまったのである。

 先生がこの文章をお書きになったのは講和条約発効=国家主権回復から「10年後」のことであった。それからさらに現在までの「49年」もの年月をGHQ製憲法を後生大事に掲げて「区切り」をつけることを怠ったままである。来年四月で独立回復から「60年」になるが、この間の57年間は保守を看板にした「自由党 日本民主党 自由民主党」が政権の座にあった。吉田茂自由党内閣は被占領期を含め第五次内閣まで続くが、昭和24年2月から昭和27年10月までの第三次吉田内閣時代に、「被占領→独立」の本質的転換があったのだが、「同じ新憲法」で貫かれたため、独立回復についての祝賀行事はあっても、「国家の在り方および外交の在り方について、はっきりした『区切り』」をつけることがなかったのである。

 GHQの占領統治理念が「日本国ガ再ビ米国ノ脅威ト…ナラザルコトヲ確実ニスル」日本弱体化にあることは事柄の性質からも当然のことであった。従って独立後の「日本外交は、日本の完全なる独立を目指すこと」これまた当然のことであった。しかし、GHQ製憲法=精神的武装解除規定が置き土産となって、歴代政府を縛ってきた。主権国家が備へるべき国軍保持を否認する憲法を奉じるが故に「独立」は「占領軍撤退」とはならずに、(アメリカの世界政策もあって)占領軍が安保条約に基づく駐留軍となって残留し、さらにそれに頼ることでわが国は米ソ冷戦を乗り切った。この間歴代政権は経済最優先路線を突っ走り国防の義務を国民に説くことには極めて臆病だった。気づいてみれば自国の防衛は第一義的に自国で当るといふ主体的気構へが大きく損はれてしまった。「もはや戦後ではない」と経済白書が記したのは昭和31年であったが、衣食住はさうかも知れないが、政治・教育・言論など各般にわたってなほ一貫して「戦後は続いてゐる」。「日本弱体化」憲法がそのままだ。

 ソ連によって「ベルリンの壁」が構築されたのは昭和36年8月のことであり、この文章をお書きになったのは米ソ冷戦の真っ最中であったが、先生は「二」で「こちらの判断によって行ふ」日本の自主性を確立すれば「反米反ソ」となるし、「親米親ソ」の態度も執り得ると説かれ、アメリカと結ぶことは妥当ではあるが、その場合も原則的には「親米兼抗米」を堅持すべしとも提言されてゐる。「親米兼抗米」とはまさに至言であり、ここから双務的なあるべき日米安保体制が見えてくる。双務的関係の構築は喫緊の課題である。

 「3」では「第二次大戦で喪失した日本領土」にお触れになってゐる。このうち「小笠原諸島」(昭和43年6月復帰)と「沖縄」(昭和47年5月復帰)を除き、全てそのまま今日の課題として残されてゐる。とくに「北千島」「南樺太」(講和条約で「放棄する」とされたが帰属先は未定)の回復に関しては思ひを凝らし知恵を絞らなければならない。「4」で講和条約の「内容の修正の方向」にも言及されてゐる。敗戦国であるが故の非力から「第二次大戦とは全く無関係の事項まで強要されてゐた」からである(例へば「千島列島」「樺太の一部」及び南極の「大和雪原」の放棄)。その誤りの修正を求めることに遠慮することはないと切言され、「その勇気と信念を日本外交が取り戻さなければ、真の自主性の回復にはならい」と説かれてゐる。しかし、これまでわが国がソ連・ロシアに要求してきた四島返還とは「国後・択捉」と北海道の一部である「歯舞・色丹」の四島であって、「真の自主性の回復」からは程遠い。

 「5」と「6」での御指摘も、今日のわれらが心すべき基本的姿勢の御教示である。ことに結末の一節はまさに大きく日本の文明史的課題についての御指摘であり、われらの学びの方途を示してをられるのである。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 3月11日のあの大津波の日、船が山を登り、列車がくの字に曲ってどす黒い濁流に浮んだ。町が丸ごとあっといふ間に消滅した。そしてあの原子炉建屋の爆発である。身の凍るやうな三重苦に打ち拉がれた東日本であった。異国の者は我先きにと飛んで帰ったが、我が同胞は耐へねばならぬ。放射能といふ目に見えぬ魔物に向って進まねばならぬ。

 しかしサムラヒ達がゐた。「無理をしないで」といふ妻に「自衛隊を馬鹿にするな、今無理をしないでいつするんや」と返す自衛隊の夫の一言を何処かで見たとき、私は顔を手で覆った。原発に向ふ消防隊に現地の人は手を合はせるといふが我らも同じである。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」との教育勅語の一節は占領軍によって葬られたかに見えたが、どっこい我らの血潮に波打ってゐた。自衛隊は「暴力装置」と扱き下した政党が十万を超す隊員の出動を要請した。身勝手が堂々まかり通る。祖国防衛の誇り高き任に徹する集団なればこそ、この大国難に無類の貢献を果す現実を私達は骨髄に徹して知ったのである。

 「被災し苦しんでゐる人たちが大勢をり、電源すらない人もゐるのだから。寒いのは服を着れば問題ない」と天皇陛下は仰せられたと洩れ承ったが、3月15日から陛下は自主停電遊ばされた。御身もみ病をかかへておいでなのにsわれ、共に在りtとの思召しである。時には蝋燭の灯の下でのお食事もあったと聞くが、両陛下が停電の闇に身を置かれるその御背を思ふとき、平成17年、サイパン島に行幸啓の折、バンザイクリフに向ひ、断崖の突端まで歩を進められ、深くみ頭を垂れ給ふたお姿が重なった。そのときの皇后様の御歌「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし」にある「をみなの足裏」とは余りに生々しい御表現であるが、そのお気持はそのまま絶望の極みにある彼の地の人々の上に馳せられてゐたと拝する。我が子の無事を必死懸命に祈る親の姿である。祈るために闇を御所望なされたのであらうか。

 また平成16年、新潟県中越地方を震度7の激震が襲ったときも行幸啓遊ばされたが、そのときの皇后様の御歌「天狼の眼も守りしか土なかに生きゆくりなく幼児還る」も思ひ出される。押し潰された車と岩のわづかな隙間で二歳の男の子は漆黒の四日間を生き抜いてゐた。「天狼」とは大犬座の首星シリウスのこと。真冬の空にひときは白く輝く。「ゆくりなく」は思ひがけなくの意で、この幼児生還の奇蹟を「天狼の眼」が守ってくれたのであらうかと偲ばれたが、そのシリウスは皇后様御自身であり、はるか天空から日本列島のあの一極小点の男児を熟と眼を注がれてゐたのであらう。遠く離れてゐても天狼の如く、御まなざしを彼の地の被災者のおそば近くに注がれてゐるかのやうである。

 随分後で知ったことだが、幼児の生命反応を感知した人命探索機は「シリウス」と命名され、その名の由来は大犬座のシリウスであり、救助犬に肖って付けられたときく。そんなことまで御存知であったのか、と思ふ。

 先般宮城の震災地を行幸啓の折、お出ましのときはざわめきもぴたっと止み、澄みゆく空気の中で一人一人、膝をつかれてのお声がけである。「よく助かって下さいました、有難うございました」との御言葉を賜った被災者の人たちの気持ちはいかばかりであったであらう。こんな慰めと励ましの言葉がこの世にあるのかと思ふ。

 昨年、惑星探査機「はやぶさ」が満身創痍になりつつも、任務完遂し、無事地球に帰還したとき、皇后様は「その帰路に己れを焼きし『はやぶさ』の光輝かに明かるかりしと」とお詠みになった。筆者も「はやぶさ」に感催し歌を詠んだことがあったが、「己れ燃え尽き」とか「己れ燃え果て」とかの言辞は浮んだが、「己れを焼きし」といふ言葉は、己が身を焦がす焦熱の熱感なき人には生じ得ないのではないかと思ふ。

 この度の惨害をこの世に在って目の当りにして、「国が潰れる」かもしれないといふ恐怖におののく日々を生きた。店に物が無いなら無いでもよく、彼の地に呻吟してゐる人を思へば何でもないことの多さにも気付き、自分がといふ執心を離れ、車はお互ひに譲り合ふなど、何か大切なものが頻りに思ひ出された。その大切な心を御皇室はお持ち続けであったことも今更ながら思ったことである。

(山口県立熊毛南高等学校教諭)

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   老舗企業大国・日本

 わが国は、世界で群を抜く「老舗企業大国」である。創業百年を超える老舗企業が、個人商店や小企業を含めると、10万社以上あると推定されてゐる。その中には飛鳥時代、西暦五七八年に設立された創業1400余年の建築会社「金剛組」だとか、創業1300年にならうかといふ北陸の旅館、1200年以上の京都の和菓子屋など、1000年以上の老舗企業も少なくない。

 ヨーロッパには200年以上の会社のみ入会を許される「エノキアン協会」があるが、最古のメンバーは1369年に設立されたイタリアの金細工メーカーである。しかし、これよりも古い会社や店が、わが国には百社近くもある。お隣の韓国には俗に「三代続く店はない」と言はれてをり、せいぜい創業80年ほどの会社がいくつかあるに過ぎない。中国でも「世界最大の漢方薬メーカー」北京同仁堂が創業340年ほど、あとは中国茶、書道用具など100年以上の老舗が何軒かある程度である。

 さらに興味深いのは、わが国の百年以上の老舗企業10万社のうち、45,000社ほどが製造業であり、その中には伝統的な工芸品分野ばかりでなく、携帯電話やコンピュータなどの情報技術分野や、バイオテクノロジーなど先端技術分野で活躍してゐる企業も少なくないことだ。

   髪の毛の八分の位置の金の極細戦

 田中貴金属工業は明治18年(1885)に東京の日本橋で両替商「田中商店」として出発した。明治22年には、白金の工業製品としての国産化に成功。以来、貴金属の売買と加工を二本柱としてやってきた。

 現在の代表製品の一つが、金の極細線。最も細いもので直径0・01ミリ、髪の毛の8分の1ほどの細さのものが作られてゐる。たとへば携帯電話でバイブレーションするものは、大きさ4ミリほどの超小型モーターが使はれてゐるが、そのブラシに極細線が使はれてゐる。そのほか、ウォークマンや車のミラーを動かす超小型モーターにも、利用されてゐる。

 金は錆びないし、熱や薬品にも強く、導電性も高い。さらに薄く長く伸ばせる。一グラムの純金を、太さ0・05ミリの線にすると、3000メートルにもなる。さうした貴金属の特長を長年磨いてきた加工技術で引き出してゐるのである。今や世界中で使はれる金の極細線の大半は、田中貴金属が供給してゐる。同社ではさらに、プラチナでガン細胞の成長を抑へるとか、銀にカドミウムを加へて接点としての性能をあげるなど、貴金属の新しい特性を引き出す革新的な研究開発を続けてゐる。

 携帯電話の中で、折り曲げ可能なフレキシブル・プリント基板配線用の銅箔では、日本国内のライバル一社と合せて世界シェアの9割を占めるのが、京都の福田金属箔粉工業である。

 設立は元禄13年(1700)、赤穂浪士の討ち入りの2年前に、京都・室町で金銀箔粉の商ひを始めた時に遡る。創業三百年以上となる老舗である。以来、錫箔、アルミ箔、銅粉、アルミ粉など、箔粉技術一筋にやってきた。

 金箔の技術は仏教とともに渡来した。寺院や仏像、仏具の装飾に、金箔が広く使はれてゐた。当時の製法は金の粒を狸の毛皮に挟んで、槌で叩いて伸ばしていく。極細線と同様、髪の毛の八分の一ほどの薄さに引き延ばす。比率で言へば、10円玉の大きさの金を畳二畳ほどに広げる勘定になる。伝統的な職人の間では、「金箔は人の心を読む。機嫌の悪いときには言ふことを聞かない。時には嘲笑ったりする。金箔は生きてゐるから」と言はれてゐるといふ。こういふ職人気質を受け継いで、世界最高品質の銅箔を作り続けてゐるのだらう。

   「お米の持つ力を引き出してこなかった」

 香川県の勇心酒造は、安政元年(1854)創業で、すでに160年以上の歴史を持つ。現在の当主・徳山孝氏は五代目で、30歳の若さで勇心酒造を継いだ時、清酒業界はすでに斜陽で、老舗の造り酒屋が次々と倒れていった。東大大学院で酵母を研究した徳山氏はコメと醸造・発酵技術を結びつけて付加価値の高い商品を作らうと考へた。氏は語る。

 「お米の場合、清酒や味噌、醤油、酢、みりん、あるいは焼酎、甘酒といった非常に優れた醸造・発酵・抽出の技術があるんですけれども、明治以降、新しい用途開発がまったくと言っていいほどなされていなかった。つまり、近代に入ってから、お米の持つ力を日本人は引き出してこなかった。…/近代科学が行き詰まっているいまだからこそ、米作りのような農業と醸造・発酵の技術とをもう一度リンクさせ、付加価値の高いものを作ろうと、お米の研究に取りかかったのです」と。

 その成果が昭和63年に売り出して、年間300万本のヒット商品となったライスパワーエキス入りの入浴剤であった。

 しかし、ある大手製薬会社が詐欺同然のやり口で徳山氏の開発した製法を知り、同様の製品を売り出したため、売上げは激減、倒産一歩手前まで行った。そこに通産省の産業基盤整備基金融資3億6千万円と地元の通販社長の貸付金一億円を元手に商品開発を続け、平成十四年にアトピー性皮膚炎に効く『アトピスマイル』を売り出した。それまでに使はれてゐたステロイド剤の副作用がまったくないので、アトピー性皮膚炎の子どもを持つ母親からは「救世主」並に喜ばれて、口コミだけで1年で12万本売れた。さらに化粧品会社コーセーから、皮膚の水分保持能力を改善する『モイスチュアスキンリペア』を売り出すと、年間百万本を超す大ヒット商品となった。

 遺伝子組換へなどで自然界にない生物を作りだす西洋型のバイオテクノロジーに対して、日本古来の発酵技術の組み合はせによって、安全な新製品を開発するのが、日本型バイオテクノロジーだと徳山氏は言ふ。

 「西洋のヒューマニズムを『人道主義』と訳してきたのは、とんでもない誤訳やと思うんです。ある学者が言うてましたが、あれは『人間中心主義』と訳すべきなんです。つまり、何事も人間を中心に『生きていく』という発想。だから、人間と自然との乖離がますます大きくなってきた。環境問題ひとつ解決できない。こういふ人間中心主義は、もう行き詰まってきたんやないかと思うわけです。/一方、東洋には自然に『生かされている』という思想があります。私なんか、多くの微生物に助けてもらってきたわけで、まさに『生かされている』と思います」。

   老舗企業の共通性

 以上、日本の老舗企業が現代社会で逞しく生き抜いてゐる例をいくつか紹介したが、そこには、ある共通性が見てとれる。

 第一に、それぞれの企業は、箔粉技術や醸造・発酵技術など、伝統技術を現代社会の必要とする新しい製品に生かしてゐるといふ点。時代が進むにつれて、消費者の生活様式も変り、技術も進むので、必要とするものも変っていく。旧来の商品だけにしがみついてゐたら、これらの企業は時代の波を乗り越えられなかっただらう。

 「伝統は革新の連続」といふ言葉があるが、その革新を続けてきた企業が、老舗として今も続いてゐる。

 第2に、革新といっても、自分の本業の技術からは離れてゐない点である。神戸市灘区の創業200年の造り酒屋が、カラオケやサラ金経営に乗り出して倒産したといふ例がある。本業を通じて、独自の技術を営々と蓄積してきたところに老舗の強みがあるのであって、そこを離れては、新参企業と変らない。

 第三は、「金箔は生きている」「自然に生かされている」などの言葉に見られるやうに、大自然の「生きとし生けるもの」の中で、その不思議な力を引き出し、それを革新的な製品開発につなげてゐる点である。これはわが国の伝統的な自然観に基づいた発想であるとともに、西洋的な科学技術の「人間中心主義」の弱点・短所を補ふ、きはめて合理的・総合的なアプローチなのである。

 大学で西洋的科学技術しか学んでこなかった研究者・技術者が欧米企業と同様な研究開発アプローチをとったのでは、同じ土俵で戦ふだけで、独自の強みが出ない。老舗企業にはわが国の伝統的自然観が残ってをり、それが独自の技術革新をもたらしたのであらう。

   「老舗職人大国」日本

 アジアの億万長者ベスト100のうち、半分強が華僑を含む中国系企業であるといふ。その中で100年以上続いてゐる企業は一社もない。創業者一代か二代で築いた「成り上がり企業」ばかりである。

 これに比べると、企業規模では比較にならないほど小さいが、100年以上の老舗企業が10万社以上もあるわが国とは、実に対照的である。

 本稿を書くに当って参照引用した『千年、働いてきました』(角川書店、平成18年)の著者・野村進氏は、「商人のアジア」と「職人のアジア」といふ興味深い概念を提唱してゐる。「商人」だからこそ、創業者の才覚一つで億万長者になれるやうな急成長ができるのだらう。しかし、そこには事業を支へる独自技術がないので、創業者が代替りしてしまへば、あっといふ間に没落もする。それに対して、「職人」は技術を磨くのに何代もかかり、急に富豪になったりはしないが、その技術を生かせば、時代の変遷を乗り越えて、事業を営んでいけるのである。

 これらの老舗企業が示してゐる経営の智慧を国家全体で生かしていけば、わが国は老舗職人大国として末永く幸福にやっていくことができるであらう。

「国際派日本人講座558号、一部改稿」

 

(会社役員、在イタリア)

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 「君は、戦争を、祖国の苦しみを知らない。物に溢れた時代しか知らない。飢餓を味はったことがない」
数ヶ月前、私は関係する団体から月刊誌『生命の光』に載せるから「戦後の日本」について知るところを書くやうにとの依頼を受けた。そこで書き上げて提出したところ、一読した先輩はため息をつきつつ右の一言を洩らされた。それならばと私は一週間の断食と瞑想を試みたのだが、先輩の言葉の本質はさういふことではないと気づいたのは断食後のことであった。

 東北地方を襲った大震災から2ヶ月余り、未だ人々の悲しみは国中を覆ってゐる。最近読んだ『日本人として生きる』(寺子屋モデル発行)の中に東北の惨状と重なる箇所があった。それは「出光佐三」についての記述であった。

 敗戦直後、国の将来は見通せず、国民の多くが茫然自失する中で、出光佐三さんは、それまで築いてきた事業が全て失はれたにも関らず、社員に「我々の生きるべき道」を指し示して、今日の「出光興産」へと再び歩み出したといふのである。

          ○

 私は先般、岩手県上閉伊郡大槌町でワカメ工場を営む知人を助けるべく4人の仲間と訪ねた。いつもと変らない東京の景観を車窓の外に眺めながら、東北自動車道に入り北上した。しばらく進むと、高速道路の両側の壁に亀裂が目立つやうになり路面が波打ってゐることに気づいた。嫌な予感は膨らみ、車内は次第に緊迫感が増していった。

 車で約6時間。釜石のインターを降りるとき、背中に寒気が走った。人の声は全く聞えず、道路の両側は瓦礫とゴミの山。それがどこまでも連なってゐた。辛うじて建ってゐる住宅はといふと、入口のドアを鉄柱が突き破り、その穴から泥やゴミが家の中に流れ込んでゐた。さらに窓ガラスを割って飛びこんだ廃材で家が串刺しのやうになってゐる光景を何度も目にした。立体駐車場の中を覗くと、転がってゐた車の窓ガラスは割れ、車内には泥まみれのドライヤーや電気釜などがゴミと一緒に流れ込んで溢れてゐた。

 釜石市を過ぎ、大槌町へと向った。車の中に海水の臭ひが漂ってくる。約二時間走ると、町の全景が見えてきた。その瞬間、言葉を失った。町全体が灰色に変色し、廃墟と化して、ポツンと残った鉄筋コンクリートの建物は寂し気に何かを訴へ掛けてゐるかやうだった。

 私たちの車は、海岸線の港に向かって進んだ。知人の三階建ての工場の屋根には、数隻の漁船が乗り上げたままで、屋内の機材は全てゴミや泥に埋まってゐた。私たちの作業は、その中から鉄容器を掘り起し、水で洗ふ仕事である。数千枚の鉄容器が工場の内外に散らばってゐた。二重の防塵マスクは役に立たず、魚の腐敗臭の混ったヘドロの臭ひは強烈で気が遠くなりさうだった。

 翌日の作業中、ヘドロの中から御遺体が見つかった。すぐに警察に連絡し、自衛隊のトラックが到着した。死亡を確認し、周辺の瓦礫をそっと取り除いてトラックへと運ばれた。私たちは、マスクをはずしゴム手袋を取って、合掌することしかできなかった。私はたまらなくなり、近くの小さな丘の上に駈け登って天を見上げた。そして、「日本よ、永遠なれ!」と何度も叫んだ。

          ○

 大東亜戦争後、日本全体が壊滅的な被害を受けた中で、出光さんが社員に向かって叫ばれた言葉は、

 

「愚痴を言うな、世界無二の三千年の歴史を見直し、いまから建設にかかれ」

であった。日本中が望みを失ってゐるときに、人々の苦しみや悲しみを背負ひ歩まれた精神、そして気迫に私は打たれた。次は、私たちがたとへ若くても叫ばなければならないと思った。津波で亡くなった方の前ではかける言葉は見つからなかった。しかし、多くの犠牲がなければ芽生えないものがある。戦後の日本を支へた先輩方には、それが見えてゐたにちがひない。今こそ祖国への真の祈りと献身する心を捧げる一人でありたいと思ふ。

(平成15年福岡大学卒、団体職員)

 

   第56回合宿教室-(江田島)-

  先人はどう生きてきたか 私たちはどう生きるべきか
  招聘講師に小堀桂一郎先生
  8月19日(金)から22日(月)
 ◎「海軍兵学校」関連施設見学 案内パンフの御請求は事務局まで

 

 編集後記

年月の経過は時により折によって迅くとも遅くとも感じられるものだが、6月4日は小田村寅二郎先生の13回忌。先生の“息遣ひ”を仰がんと、50年程前の御文二編を掲げた。一般には「外交」と「学問研究のあり方」は別ごととされるだらうが、本来「学問・人生・祖国」は相即不離であり、内的関連のダイナミズムの裡に把握されるべきものと、御文を拝読しつつ改めて考へさせられた。震災復興も「憲法の欠陥」を直視し得る生々たる精神を伴ってこそ進捗する!。 (山内)

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