国民同胞巻頭言

第595号

執筆者 題名
第56回全国学生青年合宿教室
(江田島)
運営委員長 飯島隆史
「国の個性」「国柄」を体認しよう
- 震災後のいま、改めて問ふ「日本はどうあるべきか」 -
小柳 陽太郎 阪神淡路大震災の教訓
今林 賢郁 小柳陽太郎先生の御所論を読み
東日本大震災の「今」を思ふ
中村 正和 八紘一宇の本当の精神(下)
- 「わが国の道」を求めて -
歌だより〉15年の集大成
合本『澤部通信- 歌と消息 -』上梓さる
「師友の御霊に捧げたい」
新刊紹介『日本人として生きる- 道徳の教科書』
(株)寺子屋モデル 発行

 いま、我々は戦後最大の「国難」に直面してゐる。千年に一度と言はれる東日本大震災、それに追ひ打ちを掛ける原子力発電所の事故である。地震発生から既に1ヶ月余になるが(原発事故収束の目途は未だに立たないが)、被災者の落着いた行動には本当に頭が下がる。被災地にあっても、窃盗・掠奪が横行することもなく、治安が保たれてゐる。この日本の「国柄」を私は心から誇りに思ふ。

 英国在住のある邦人ヴァイオリニストによれば、大震災の様子は英国でも大きくマスコミに取り上げられ、その多くが「大災害に見舞はれた場合、日本国民のやうに落着いた態度でゐられるだらうか」といふものだったといふ。米国CNNテレビのキャスターも「ショッキングなほど掠奪も暴動もなく、被災者は冷静に行動してゐる」と解説したとのことである。教育の荒廃、愛国心の喪失、文化伝統の断絶が指摘されて久しいが、一たび事有るときの日本人の身の処し方は実に冷静で、秩序立ってゐる。阪神淡路大震災の折もさうだったが、これはどこから来るのであらうか。

 特に若い人々のこの大事に処する姿勢はたいへん感動的であった。例へば、仙台市内のボランティアセンターに連日集まる3百人余の若者達、被災者なのに笑顔でボランティアに励む高校生、泥を拭取った「卒業証書」を両手でしっかりと受取って目を輝す中学生…。これこそ、理屈や分析の次元を超えた歴史的な「日本人の心」の表れであり「国の個性」=「国柄」であると思ふ。

 震災発生四日後の3月16日、発せられた天皇陛下の「お言葉」の中に次のやうな一節があった。

 

「そして、何にも増して、この大震災を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれます」

 私はこの一節から全幅の信頼を国民にお寄せになる陛下の御心が感じられてならなかった。「お言葉」が直接、胸に染み込む感じがしたのである。菅総理を初め閣僚達の言葉が空虚に響くのはなぜだらうか。政治家が言葉を飾るのは実は国民を信じてゐないからではないかとふと思った(編注・陛下の「お言葉」は本紙前月号2頁に全文謹載)。

 「お言葉」には、被災者と国民の上を思はれる溢れんばかりの御心が感じられたが、それは先の大東亜戦争を戦ひ抜き、そして戦後の復興に取組んできた我々の祖父母や親たちにお寄せになった昭和天皇のお気持ちと同じではなからうか。昭和天皇の国民への御思ひと、今上陛下の被災者に注がれる御眼差しとはまぎれもなく同じであると思ったのである。

 昨夏の合宿教室(阿蘇)で小柳左門先生が「昭和天皇の戦後御巡幸」の一齣を紹介された。

 昭和24年5月22日、佐賀県基山町、因通寺境内の「洗心寮」(戦災引揚孤児収容施設)に行幸された昭和天皇は、六歳から十歳前後のの孤児たちにお声をかけられた。

   「どこから」
   「満州から帰りました」
   「北朝鮮から帰りました」

 そして、二つの位牌を胸に抱いた女の子にお顔をお近づけになり、静かなお声で「お父さん、お母さん」と尋ねられた。その時、陛下のお目からはハタハタと涙が畳の上に落ちていった。

   みほとけの教へ守りてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ

とは、この折の御歌であった。

 皇室に承け継がれる「国安かれ民安かれ」の御精神のもとにあって、代々の日本人は「心の通ひ合ふ世界」を大切にしてきた。「ボランティア」などといふ言葉はなくとも、その実質は歴史の中に枚挙に暇なしである。謙抑で他者の気持ちを大事にしてきた日本人には、被災地の治安が保たれることなど当然のことであった。

 震災後のいまこそ、改めて「日本はどうあるべきか、先人はどう生きてきたか、私たちどう生きるべきか」を学ぶことが重要であり、それによってこそ「国難」は克服される。合宿教室での学びには大きな意義があるものと確信してゐる。若い方々、志のある方々、多数の参加を心からお待ちしてゐます。

(4月15日)(新明電材(株)常務取締役)

〈編注・東北地方太平洋沖地震 東日本大震災 後の「現在」にあって、16年前の兵庫県南部地震 阪神淡路大震災 (平成7年1月17日午前5時46分発生)の直後、小柳陽太郎先生がお書きになった御所論を左に掲げる。地異天変に処する人の心の動き、非常事態に備ふるべき国家のあり方など、「現在」に大いに示唆するものありと考へて転載をお許しいただいた。〉

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 阪神の大震災以来、毎日の新聞には心打たれる記事の絶えることがない。昨日の読売新聞にも家屋の下敷きになって息絶えた人々の最期の言葉、あるいはわが子の死の間際まで、渾身の力をふりしぼって語りつづけ、励ましつづけた父や母の姿が記されてゐて心にしみた。例へば芦屋市のある父親は、壁の下敷になって、わづかに動く右手だけを頼りに、必死に掘り進みながら、傍らに倒れて泣きじゃくってゐる二つになる長女に、大好きだった童謡、「ぞーおさん、ぞーおさん、お鼻が長いのね」を優しく、そして懸命に歌ひつづける。しかしいつしか泣き声は消え、女の子は命絶える。このやうな記事はあの日以来いたるところにあふれてをり、テレビでも度々放映されてゐるが、そのやうな場面を目にするたびに私の胸に去来するのは『方丈記』の一節である。

 鴨長明は『方丈記』の前段に、濁世末法の暗澹たる平安の末期、次々に襲ってくる火事、つむじ風、飢饉、そして地震、その中を逃げまどふ民衆の姿を描いてゐるが、中でもとりわけ忘れがたいのは飢饉に苦しむ人々の、地獄のやうな世界の中に長明が見出した人の心の美しさである。

 人々ははげしい餓ゑのために次々に死んでゆく。だが、よく見ると、「さりがたき妻、をとこを持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ」のである。離れられない妻や夫を持ったものは、愛情の深いほうが必ず先立って死んでゆく。それはいふまでもなく「人をいたはしく思ふあひだに」、相手に対する同情の深さのために、たまたま手にはいった食べ物も、自分はあとにして相手に譲るためであった。この地獄のやうな極限の状況の中にあって、しかもなほ、相手に食べ物を譲る愛情の深さ、それを目にして、長明は「いとあはれなる事も侍りき」と、万感のおもひをこめて書き記してゐる。

 さらにこの話をうけて長明はいふ。「されば、親あるものは、定まれることにて、親ぞ先立ちける」、さういふわけだから、親子の場合には当然、愛情の深い親が、子供に食べ物を与へるために「定まれることにて」、疑ひやうのない法則のやうに、親が必ず先に死ぬのである。この「定まれることにて」といふ一句に注目したのは山田輝彦先生(元福岡教育大学教授)であったが、たしかにこの一句にこもる長明の、人間に対する、子を思ふ親の心に対する確信には千鈞の重みがある。長明が生きたのがかかる末法濁世の時代であったからこそ、その中で、あへて「定まれることにて」と断言した長明の心の強さ、心の深さは忘れがたい。その言葉が、今、阪神の大震災の中で新たに蘇ってきたのである。

          ◇

 平安末期から現代まで、その歴史の流れを貫いて、この人間のもつ深い心情は遂にゆらぐことはなかった。とりわけ戦後50年、世相はいよいよ乱れて、人間不信の嵐は日本列島を包みこむかに見えた。そのさなかに、被災者の方々は身をもって、その人間の愛情のたしかさを、いかに時代は変らうとも、「その思ひまさりて深きもの」が必ず先立って死んでいくといふ、献身のかなしみを私たちに示されたのである。

 だが被災者の方々の表情は明るい。司馬遼太郎さんも「感動しつづけたのは、ひとびとの表情だった。神戸だけでなく、西宮、芦屋など摂津の町々のひとたちをふくめ、だれもが人間の尊厳をうしなっていなかった」。「ひとびとは、家族をうしない、家はなく、途方に暮れつつも、他者をいたわったり、避難所でたすけあったりしていた。わずかな救援に対して、全身で感謝している人が圧倒的に多かった」と書いてゐる。この司馬さんの言葉に代表されるやうな、すがすがしく、健康で明るく、心こまやかな人々の表情が心を打つ。

 外国の記者たちが、被災者の冷静さ、秩序立った行動を称賛する言葉も数多く目にした。私のところにも関西の友人から手紙が来たが、その中に「うれしかったことは被災地の人々のお互いを思いやる心が十二分に見てとれたことでした。私の会社の新入社員も一人神戸に住んでいますが、日頃自分勝手で協調性がないと皆から思われていたのに、随分人助けをしたり無事だった自宅に周囲の人々三家族を収容して、今は毎日水や食糧の調達にかけずりまわっているとの事です」と書かれてゐた。

 どうしてこんな美しい情景が展開されてきたのだらう。どうして、などといへば被災者の方々に誠に失礼だとは思ふけれども、それでも現代の世相を思へば、やはり不可思議の感に打たれるのは私だけではあるまい。その大阪の友人も、その手紙の中に「学校教育や家庭でのしつけは不十分でも日本の伝統の『まごころ』が非常の時に発揮されたと思われます」と書いてくれてゐる。私はこの手紙を読みながらふと『法隆寺を支えた木』といふ書物の中で、法隆寺の宮大工の棟梁西岡常一さんが書いてをられた、「1200年も前に建った法隆寺の柱の表面をカンナで2、3ミリ削ってみると、まだヒノキ特有の芳香がただよってくる」といふ一節が思ひ出されてきた。

 たしかにさうだらう。教育はこれほどまでに歪められ、思想はこんなに乱れてゐるのに表面を、2、3ミリ削ったヒノキの柱のやうに、非常の時に際会して人々の心の中に「日本の伝統のまごころ やまとごころ」といふ日本人特有の芳香がただよってきたのだらう。さうとしかいひやうがないのである。あの、常日頃、日本といへば敵意をあらはにする韓国の新聞が、「日本人は沈着だった」といふ社説を掲載、被災者が感情を抑へた秩序意識を見せたのは「日本人が『和の精神』を学んでいるため」と分析してゐるといふ記事もあった。だが残念なことに、韓国の新聞記者が想像してゐるやうに、現在日本では「和の精神」を学ぼうとはしてゐない。「和」といふことを強調すればむしろ、封建的なムラ意識とさへとられかねないやうな風潮が日本の教育界にはある。なのに一旦、事がおこると、そのやうな教育界の雲霧は一挙に吹き払はれて「今こそ『隣人』のきづな!」といふやうな見出しが新聞に現れてくるのである。

 だがそのためには、あの法隆寺の柱を削ったカンナに匹敵するものがどうしても必要だった。それが阪神を一瞬にして襲った大震災といふ「非常事態」だったのである。

 兼好法師は『徒然草』の中で、人間は死を意識しない間は人生の本当のよろこびを知ることはないといひ、「無常の身に迫ること」、すなはち死が目前に迫ってゐるといふ厳粛な事実を「心にひしとかけ」つかのまも忘れることがなければ、人の心の濁りも薄くなるといってゐる。戦後50年、日本人は死の恐怖にさらされることはまったくなかった。戦争は人々の視野から遠ざかり、医学の進歩によって、よほどのことがない限り、病気で死ぬといふ危険度も著しく減少した。交通事故にさへ注意しておけば、人生80、90の齢は確実に約束される。今の世の濁りは、専らかかる「無常の身に迫る」ことを忘れ果てた人の心のおごりにあった。だが戦後50年、まさに記念すべきこの年その冒頭に、かかる惰眠を覚ます天の怒りのごとく日本の国の文字通り中央を引き裂いて、活断層がその姿を現したのである。

          ◇

 だが天の怒りはこのやうな一人一人の惰眠を覚ますためだけではなかった。それは戦後50年、日本といふ国が歩みつづけてきた生き方そのものに対する抜本的な反省を迫るものであった。戦後の日本の生き方、それは兼好法師の言葉を借りれば「無常の身に迫ること」、すなはち国家が常に解体の危機にさらされてゐることを、「『ひしと心にかけて、つかのまも忘るまじ』といふ覚悟」の喪失であった。それは何も特殊な、国の生き方ではない。世界中どのやうな国であらうと、国が国として生きてゆく以上、すべて瞬時も忘れることなく、対処してきた生き方であった。それは過去のあらゆる国家も、現在の百数十に及ぶすべての国々も例外なく、歩んでゐる道である。ただ日本だけが、戦後の日本だけが世界史で例外中の例外として、そのやうな覚悟をもたうとはしなかった。それはいふまでもなく「日本国憲法」による呪縛であった。その前文にいふ。「日本国民は、恒久の平和を念願し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。

 震災後「危機管理」といふことが盛んに論じられるやうになった。「危機管理」に対して無能だった政府の対応がきびしい批判にさらされてゐる。だがこの危機管理といふ言葉を使ふならば、この日本国憲法こそは、国の危機管理を「平和を愛する諸国民の公正と信義」に委ねるといふ、おどろくべき「危機管理放棄宣言」ではないか。日本をとりまく国々はすべて平和を愛する国である以上、その公正と信義を信頼してゆきさへすればいい、そもそも人間を信頼してさへゆけば危機そのものがありえないことなのだ、それが日本国憲法の示す世界観だった。われわれはこのやうな憲法を後生大事に守りつづけて五十年を生きてきた。このやうな惰眠をむさぼる国にはたとへ地震のやうな天災であらうと、危機管理を期待するのはどだい無理なのである。

 現に今度の震災において、自衛隊への出動の要請のおくれは世界の人を驚かせたが、そもそも自衛隊を敵視する社会党が政権をとってゐた現状からして、それは当然の成り行きであった。たしかに出動要請の際の手続きに法的な欠陥があったのも事実であらうが、いづれにしても政府自体に自衛隊に対する心の底からの敬意と信頼が蘇らない限り、たとへ法の整備を急いだとしてもどうなるものでもあるまい。

 大本は一つ、それは国家の非常事態の発生を想定することさへ怠り、強いてそれを先送りしようとする人生態度、現代日本の体質そのものである。この度の震災はまさにかかる国をあげての惰眠から目覚しめんとする天の怒りであった。

 われわれの住む国の直下では何時、活断層が暴れるかまったく予測がつかない。そのやうに世界の状勢は瞬時も静止することはなく、日本の危機は刻々に迫ってゐる。その不可測の生を生きてゐるといふ現実、戦後50年捨てて顧みなかったその現実のきびしさと恐ろしさを、国民すべてが身にしみて知ったのが今度の震災ではなかったか。

 これもある新聞のコラムの一節だが、ある人が「欲しくてたまらなかったものが、もう欲しくなくなった」といふ感想をもらしたといふ。一見さりげない言葉だが、この中に戦後多くの人々が抱いてきた価値観が一朝にして色褪せてゆくおもひが実によく現れてゐると思はれて心に残った。

 では今われわれにとって本当に必要なもの、生きてゆくために、一人一人が、といふだけでなく国民全体がいのちあるために大切なものは何か。今われわれはその重大な問ひかけの前に立ってゐる。この震災の悲劇を日本再生の契機たらしめるために、私たちは一人一人がその問ひに対する答へを用意しなければならない。それがいま私たちに求められてゐる覚悟であり、貴い命を失はれた五千を超える被災者の方々に対する慰霊の道なのである。

(本会副会長、元福岡県立修猷館高校教諭・元九州造形短期大学教授)

- 御著『教室から消えた「物を見る目む」、「歴史を見る目」』(平成12年、草思社刊)所載、もと現代カナ。文中の◇は編集部 -

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 ここに掲載された小柳陽太郎先生の御文章「阪神淡路大震災の教訓」はかつてたしかに読んだのだが、過日若き友人たちとの懇談の折にこの文章に話題が及びあらためて再読して考へさせられることが多かった(以下拙文中の〈 〉の部分は先生の文章からの引用)。

 この一文は時事を論じながら時事の域を突抜けてわが国の戦後を蔽ひつくした特異な風潮 -〈国家の非常事態の発生を想定することさへ怠り、強いてそれを先送りしようとする人生態度、現代日本の体質そのもの〉- への根源的な問ひかけとなってゐる。文中の〈阪神大震災〉を今回の「東日本大震災」に、〈戦後50年〉を「戦後66年」に置換へて読んでみれば、事の本質はいささかも変ってゐないことに気付かせしめられ、今更ながら国の危ふさが思はれてならない。

 それにしてもこの度の大惨事はわれわれが営む日常の日々が紛ふことなく非常の日々と隣り合せであることをまざまざとわれわれに突きつけた。人も家屋もビルも車も船も橋も巨大な津波に呑みこまれて街全体が瓦礫の山と化した映像を見た時、これは国が亡ぶ前兆ではないかとの戦慄が一瞬身体を走り抜けた。突如として安全と安心の日常が崩壊し尋常ただならぬ非常が出来したのである。そのあまりの厳しさにわれわれは立ちすくんでゐる。

 思へば戦後66年、日本人は死の恐怖に直面することは一度たりとてなく、〈交通事故にさへ注意しておけば、人生80、90の齢は確実に約束される〉日常を当然としてきた。その結果、どうなったか。

 

〈戦後の日本の生き方、それは兼好法師の言葉を借りれば「無常の身に迫ること」、すなはち国家が常に解体の危機にさらされてゐることを、「『ひしと心にかけて、つかのまも忘るまじ』といふ覚悟」の喪失であった。〉

 政治の要人たちもわれわれ国民も次第にそれを良しとして今日まで来てしまったのではあるまいか。日本人自身がみづからの手で内外に亘る非常事への危機感覚を麻痺させてきたと云ってもいい。

 国の内も外も止むことなく動いてゐるといふのに、われわれは非常事への備へを忘れ平穏無事の日常を当り前のこととして過してゐたのである。何事も他人任せであったそのやうな時に〈惰眠を覚ます天の怒りのごとく日本の国…を引き裂いて、活断層がその姿を現し〉〈不可測の生を生きてゐるといふ現実…その現実のきびしさと恐ろしさ〉を苛酷なまでの形でわれわれは見せつけられてゐる。国土の下層でうごめく活断層の暴発は予測し難く、日本をとりまく諸国の思惑もまた止むことのない活断層である(例へば、被災地への救援隊派遣はありがたいことではあったが、その一方で、ロシア空軍機は二2度3度とわが領空に迫り、中国機も東シナ海で警戒中の自衛艦に異常接近を繰り返してゐる。さらに韓国は竹島近海に海洋科学基地建設を目論んでゐる)。

 内も外も固めなければならない。長寝から目覚めよう。今回の大震災が戦後日本の生き方そのものに抜本的な反省を迫ってゐるものと受け止め、それぞれがこれまでの己の生き方を見直すことから始めようではないか。〈不可測の生を生きてゐるといふ現実〉をしかと受け止め、真に独立した日本、本当に日本らしい日本をつくりあげるための覚悟を定めよう。

 日経新聞朝刊(4月12日)「春秋」欄の次の記事が目に止まった。ことしのプロ野球では反発力の小さい「飛ばないボール」を採用するといふことだが、長い間「飛ぶボール」を使ってきた弊害についての、野球評論家豊田泰光さんの「一番の罪は打者のスイングから品格を奪ったことだ。へっぴり腰でもオーバーフェンスするから、だれも腰の入ったスイングをしようとしない」といふ文章を読んだ日経の記者が書いたもので、そこに「思えば、ことは野球に限らない。『何とかなるだろう』とへっぴり腰で構えているうちにそれが習い性になってしまう。そんなわが身を映しだす鏡のような言葉である。そして、この国に住む一人ひとりが今ほどへっぴり腰と訣別しなければならぬ時はない。飛ぶボールはもう来ないのだ」と自戒を込めて書れてゐて共感を覚えた。「飛ばないボール」が採用される今季のプロ野球では「おなかがよじれるくらい振り切った美しいスイング」が見られるだらうか。

 確かに「ことは野球に限らない」。戦後のわれわれの国の生き方もまさしくさうであった。外交も安全保障も「へっぴり腰」だった。米軍の駐留に慣れっこになって、与へられた「平和」を享受してきた。飛ぶボールで「オーバーフェンス」をし、今後もそれで「何とかなるだろう」と構へてゐるうちにそれが「習い性」になってしまひ、「だれも腰の入ったスイングをしようとしな」くなってしまった。

 政治家は自立意思に支へられた国の姿を思ひ描くことを忘れ、国民の側も国の自立のための義務と責任を担ふ決意を欠いたままに日々を過してきた。しかし、どう考へても国民ひとりひとりが主体的に生きる意思と試練に耐へる覚悟を定める時がきてゐる。先づは日々の生活の中に生起する種々の事柄の判断を他人任せにすることをやめ、また多勢に無勢だからと云って「へっぴり腰」にならずに堂々と前に進み出て、時には国の行く末にも思ひを馳せ そのやうなことに努めながら、今までの「習い性」から一歩を抜け出さうではないか。自らを律し、自らの足で立ち、自らの責任を果すやうな独立心旺盛な国民の輩出なくして国の基礎をしっかりと支へる岩盤に行き着くことはできない。

 先生は、法隆寺の宮大工棟梁の西岡常一さんの「1200年も前に建った法隆寺の柱の表面をカンナで2、3ミリ削ってみると、まだヒノキ特有の芳香がただよってくる」との一節に触れて、〈教育はこれほどまでに歪められ、思想はこんなに乱れてゐるのに表面を、2、3ミリ削ったヒノキの柱のやうに、非常の時に際会して人々の心の中に「日本の伝統のまごころーやまとごころ」といふ日本人特有の芳香がただよってきた〉と書かれてゐる。

 この度の大災害に遭っても〈日本人特有の芳香〉が失はれることはなかった。自分もまた日本人としてこの〈芳香〉の一片を放つひとりでありたいと強く思ふ。

(本会副理事長、(株)伊勢利代表取締役社長)

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1、八紘一宇の本当の精神序
2、わが国の文化的使命序
     - 「尚武のこころ」 -
     (以上、先月号)
3、わが国の道

 「和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」とは聖徳太子『十七条憲法』の御言葉である。日本の文化的使命を初めて明確に示されたのが太子であった。太子は東洋文化の伝統と理想を深く理解される中で、わが国の本質が「和」であることをお示しになったのである。「大和」といふ日本の呼称は、「大いなる和の国」といふ意味である。「和」とは、「やわらか」「なごやか」であり、心の「まろやか」な理想的な境地である。「大和」とは、平和な国であるやうにとの祈願である。日本は「大いなる平和」を理想としてゐる国柄なのである。

 さらに、わが国の「道」の淵源を遡れば、清らかに澄んだ和合を求める「皇神の道」に至りつく。とりわけ「三種の神器」にその道の根本が示されてゐる。「三種の神器」とは、皇室に代々伝へられゐる「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣(草薙剣)といふ三つの宝物である。「八咫鏡」は「天の岩屋戸」から天照大神をお引き出し申したときのあの鏡である。「八尺瓊勾玉」もこの岩戸隠れの時に八咫鏡とともに榊に掛けられたものである。また、草薙剣は須佐之男命が八俣大蛇を退治して、その尾から取り出した剣である。そして、日本武尊が倭比売命から賜り、尾張で美夜受比売の「床の辺」に置きし剣である。

 これら鏡・勾玉・剣の「三種の神器」は、それぞれ「知」「仁」「勇」を表してゐると言はれる。そして、最も重視される「八咫鏡」は、天照大神の御神体であると同時に、曇り無き「無私なる心」の象徴である。それは、明るく清らかに「澄んだ心」を大切にせよとの天照大神の御教へである。「八尺瓊勾玉」は、和合する慈愛の力であり、「草薙剣」は、わが国の「尚武のこころ」の由来である。

 三種の神器に象徴されるわが国の神話の理想が、二千年以上にもわたって皇室によって守り続けられ、今日に至ってゐるといふことは世界に類例をみない奇跡である。それはわが国の文化力を真に証するものである。その「皇孫の道義」は、わが国の歴史の中であらゆる文化に影響を与へ、わが国のすべての「道」に貫流してゐる。「わが国の道」の根本に、この「古の道」があることに思ひを馳せなければならない。

 たとへば、「天皇」の「すめら」といふ言葉は、清らかさの形容である「澄む」を語義としてゐると言はれる。剣の素振りの稽古においても、大刀筋が「澄む」ことが求められる。弓道の離れにおいても、「澄んだ」離れが求められる。私どもがやってゐる書(筆禅道)においても、「澄んだ」線質に深まらなければならない。剣においても、弓においても、書においても、「澄む」ためには、自分自身の心が「澄んだ」ものにならなければならないといふのが、わが師匠の教へである。そして、己自身が「澄む」ためには、邪念を去って、「無私なる心」となってまことを尽くすほかはないのである。

 4、筆禅道の意義

 わが師匠の寺山旦中先生が、「日本の文化の中で最も洗練された優美なものは、平仮名と日本刀である」と言はれたことがあった。

 「書」における篆・隷・楷・行・草書では、残念ながら本家中国の名筆には及ばない。しかし、草書から生み出された日本独自の「ひらがな」は、「高野切れ」「蓬莱切れ」等に見られるやうに、和の芸術の粋と言へる。その清らかに澄んで強く張りつめた線質。柔らかく流麗に連綿する優美さ。そして、無駄を一切省いて練り上げた簡素にして深淵な境地。まさに、「ひらがな」は日本の「和」と「雅」の極地を表現するものであり、書はわが国の「道」となったのである。

 先日、日本刀剣会の山田靖二郎先生から「観刀」について、直接教へを受ける機会に恵まれた。かつて、寺山先生は、靖二郎先生の父君である山田研斎先生を毎月秩父まで訪ねられた。その「観刀」で寺山先生は何を学ばれたのか、山田研斎先生はそこに何を求めたのか。愚鈍なる私には、まだ分らない。しかし、今回、靖二郎先生から、「日本刀の本質美を見極めることがわが国の文化の根源を知ることである」と教へていただいた。わが国には「尚武のこころ」といふ伝統がある。そして、わが国の「尚武のこころ」を見事に表現したものこそ、日本刀である。

 日本刀の刀匠は、身を清め、神仏に祈願して、打ち込みを繰り返すと言はれてゐる。刀匠自身の魂が清らかでなければ、鉄から不純物を抽出し、強靱で美しい刀身を生み出すことはできない。日本刀のすらりと身の引き締まった造形美。その研ぎ澄まされた刀身に浮き上がる不思議な「匂」と「沸」の魅力。

 中でも日本刀特有の「和反り」の優雅さは、刀身自体に至高の精神性を与へてゐる。そして、古名刀の「和反り」の美しさに接すると、殺人剣の邪気は消え去り、心が和むのを感じる。

 刀は相手を殺めるための武器である。しかし、真の名刀を拝する時には、逆に、心が清められ、荒魂は鎮められるのである。大森曹玄老師は剣の極意が「相抜け」にあると言はれ、相手を切るのではなく己を切るのだと教へられた。山岡鉄舟も剣と禅を究めることで無刀流に突き抜けた。日本人は、清明なる心と同胞相親しむ和を貴び、そこに「道」を求めたのである。そこにこそわが国の武士道があり、「尚武のこころ」の真面目がある。

 剣は命のやり取りである。つねに日常が死と隣り合はせであった昔の武士は、まさに己の刀に命を託し、敵と対峙したのである。従って、死の恐怖と戦ひ、そこを抜け出すために必死で禅に道を求めたことも、剣の稽古をすることで少しは納得することができる。そして、わが国の先人達がついにたどり着いたのがわが国の「道」であったのだ。その道が、この現代にまで確実に伝承されてきたのである。

 わが国は「道」ある国である。わが国は誇りある武士道の国である。そして、わが国には、世界に果すべき文化的使命がある。

 これからの子どもたちが世界に出て活躍するためには、まづ、わが国の文化と歴史を知らねばならない。わが国の文化的使命を自覚し、これを肝に銘じなければならない。そして、自らわが国の「道」を探求し、その「道」の深さを学ばなければならない。さうしなければ、本当の国際貢献などできるはずがない。

 寺山旦中先生がわれわれ弟子たちに残された筆禅道は、今の日本において「武士道」を継承し、守り抜かうとする数少ない根本道場である。さらに、大森曹玄老師・横山天啓先生・山田研斎先生の三師から継承された剣禅書を一如とする道は、悠久なる「わが国の道」に繋がるかけがへのない教へである。

 筆禅道で剣と禅と書を行ずることで、日本人が忘れかけてゐる「わが国の道」を再発見することができる。この現代の日本において「道」を求めるといふことの大きな意義を、最近になってわたしは改めて痛感させられてゐる。

(『筆禅』第32号所載、一部改稿)(神奈川県立大船高等学校教諭)

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   =標題書"合本『澤部通信- 歌と消息- 』"の〈あとがき〉から=

 青砥宏一先輩が、昭和四17年から14年間に亘りご逝去の間際まで、『青砥通信』を発刊され、79号を最後に、お亡くなりになったのは昭和61年1月28日のことであった。その年の暮れに銀座の国文研事務所を訪れた際、「青砥通信がなくなって寂しいですね」と何気なく述べたところ、長内俊平事務局長に「青砥さんの遺志を継ぎ、澤部通信を発刊せよ」と勧められ、引受けてみたものの、やり初めて大変だと気づいたが、後悔先に立たずで、手書きで悪戦苦闘の末、第一号が完成したのは昭和62年の1月15日であった。当初は仮名遣ひの間違ひも多く恥かしい限りであった。今は亡き小田村寅二郎先生、夜久正雄先生、山田輝彦先生、廣瀬誠先生、川井修治先生、三浦貞蔵先輩、徳永正巳先輩、松吉基順先輩方が、殊の外お喜びになるのを見て励まされ、あらためて『青砥通信』は、全国津々浦々で、仕事に精励する国文研の同人達の心をつなぐ場であったのだと気づかされたのだった。

 東京から大阪への転勤を機に使ひ始めたパソコンのお蔭で36号からは、編集は楽になり、当初150人だった送付先は次第に増え380人となった。31号からは小田村理事長のご好意で送料の一部を国文研に負担して頂き、また同人のお申し出に添って切手代を頂戴したこともあった。123号からは、新勤務地のジャカルタでの編集となったが、苦労したとの思ひはなく、むしろ四季折々に送られてくるお歌に、社用に追はれる身はどれほどの活力を与へられたことか。師友からの折々の歌・友情の歌・哀悼の歌等が、この度“合本”となって、上梓されたことは実に嬉しく、多くの人達にぜひお読み頂きたいと思ふ。

 15年を振り返ると、長内俊平事務局長、小柳陽太郎先生及び寳邊正久先輩には、編集等に関しても一方ならぬご助力を頂いた。厚く御礼申し上げたい。

 尚、『澤部通信』終刊の平成13年からは熊本市役所勤務の折田豊生さんが編む『短歌通信』に引継がれ、既に73号を数へ賑ってゐる。

本書を、死の間際までお歌を寄せられた多くの師友の御霊に捧げたい。

合本『澤部通信- 歌と消息- 』(B5版555頁)送料込み頒価 2000円

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 若いときは、なぜ偉大な人物に憧れるのか。もし、若いときに、自分だけの尊敬する人物をもってゐたら、その若者は幸せだ。偉大な人物の思想や行動や言葉に感動する。それは、胸の中で熱を帯び、いつしか日常生活のなかに現はれてくる。血となって全身を巡るのだ。

 小林秀雄(文芸評論家)は、かう言ってゐる。

 

「人は様々な可能性を抱いてこの 世に生れて来る。彼は科学者にもなれたらう、軍人にもなれたらう、小説家にもなれたらう、然し彼は彼以外のものにはなれなかつた。これは驚く可き事実である」

 若者が感動とともに発見した「一真実」が、彼の全身を血球と共に巡る。その人にとっての「一真実」とは何だったのか。老いも若きも、偉大な人物に憧れる。今も昔も変らないのである。美しい花に憧れるやうに、偉大な人物に憧れる。憧れのない人は、心を固い鎧で武装してゐる人にちがひない。「一真実」に出会ふとは、感動であり、眩暈であり、大きな事件なのである。私たちの心は、いつも大事件に出会ふことを待ち構へてゐる。

 しかし、敗戦後の日本は占領軍によって、犯罪国の烙印を押され、過去の偉大な人物たちは「封建的人物」の一言で捨てさせられた。当然の如く「修身」の授業は廃止となって、公教育の眼目が消えてしまった。これからの日本人は「民主的に生きよ」と、改宗を迫られたのである。

 日本人はどう生きればよいのか、その生き方のお手本を見失ってしまった。何が尊いものなのか。何を信ずればよいのか。何を子供に教へればよいのか。私たちは、戦争については十分過ぎるほど悔悟の念を持ってゐるが、戦後の日本人が見失ったものは余りにも大きかった。

 先輩たちは、「修身」の授業復活に向け大変な苦労をされた。敗戦後十余年で「道徳」の名で復活はしたが、しかし中味がいのちだ。教材は何なのか。教へる先生にやる気があるのか。感動があるのか。

 本書には、名も知られてゐない警察官や「いじめられっ子」、出光佐三・石橋正二郎などの実業家、聖徳太子・間宮林蔵・伊能忠敬・吉田松陰などの歴史上の人物、さらには日本の誕生にちなむ日本武尊や須佐之男命など、多岐にわたる二十五の感動の物語が収められてゐる。若者がこれらの人々の思想や勇気ある行動、そして言葉を具体的に知ることの意義には計り知れないものがある。

 たとへば、石橋正二郎であるが、誠実で約束を守るごく平凡な着物の仕立物屋であった。ただ徒弟制度を賃金制に改めるなど人情の機微には敏感な人であった。草鞋に足袋履きの労働者を見て、足袋にゴム底を付けられないかと考へて、地下足袋を完成した。さらに、この技術を練磨して、自動車タイヤの国産に漕ぎつけた。今日の「ブリヂストンタイヤ」の礎である。彼の頭の中には、「世の中に役に立つ物を提供したい」との願ひがあり、その願ひを実行に移した人物であった。

 中江藤樹の教へをうけた馬方は、飛脚の置き忘れた二百両もの大金を持ち主に返したが、お礼のお金を受け取らうとしない。正直といふ道徳の美しさに私は感動する。「民主的に生きよ」よりも、ずっとわかりやすい。

 これらの独創性豊かな人物たち一人ひとりの心の中を想像してゐると、亀井勝一郎(文芸評論家)が「私たちが歴史に向ふときには二つの欲求がある」云々と指摘してゐたことを思ひ出す。一つは「自己の生の源泉を、民族性や時代の流れのうちに確認したいといふ欲求」即ち「日本人とはそもそも何かといふ問ひ」であり、もう一つは、「史上において典型的人物と思はれる人と邂逅し、新しい倫理的背骨を形成する上での根拠を発見しようといふ欲求」である。

 本書は、この二つの欲求を満たさうと努力してゐる。2弾、3弾の発行を期待したい。

(昭和音楽大学名誉教授 國武忠彦)

 『日本人として生きる- 道徳の教科書』のお申し込みは左記まで

   発行者  (株)寺子屋モデル
   電話   092(411)3055
   頒価   1,200円
   送料   (1冊)80円
   複数部の送料は別途

 第56回全国学生青年合宿教室 江田島で、歴史に学ぼう!
招聘講師に小堀桂一郎先生
先人はどう生きてきたか
私たちはどう生きるべきか

 ◎「海軍兵学校」関連施設見学 8月19日(金)〜22日(月)

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編集後記 

 大震災を機に、県知事を初め市長・町長・村長ら被災地自治体首長の表情や発言をテレビで見聞、それぞれの地にしっかりした人物がをられる、日本はすごいと思った。それに引き換へ…などとは言ふまい。産経紙のテーマ川柳「民主党」の入選作に、以前の流行歌をもぢったのだらう「これっきり、これっきり、もうこれっきり」とあった。喜ぶべか、悲しむべきか。

本号所載の小柳陽太郎先生の御所論「阪神淡路大震災の教訓」はまさに「現在」を語ってゐる。(山内)