国民同胞巻頭言

第593号

執筆者 題名
奥冨 修一 公益法人制度の改革について
- 甦る小田村寅二郎先生のお言葉 -
小柳 左門 天孫降臨の峰を仰ぐ
岸本 弘 廣瀬誠先生の御講義
「記紀の古伝承」のCD化
占部 賢志 硫黄島を訪ねて
-「あっ、あの鳥は市丸少将だ」-
栗林 忠道 -『名歌でたどる日本の心』から-
国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞかなしき
  追悼 本会参与 香川亮二先生
山内 健生 「つつむが如き御眼差し」
-香川亮二先生の思ひ出-
志賀 建一郎 『日本への回帰』の書名に 思ふ
-併せて二冊の好著をお勧めする-

 2年余り前の平成20年12月に新しい公益法人制度が発足した。本会(国文研)のやうな既存の法人は五年の経過措置の間に新法における「公益社団法人」、または「一般社団法人」のいづれかを選択し、さらに「認定」、または「認可」を受けて「新法人」として再スタートを切ることになってゐる。

 今回の制度改革の目的は「民間非営利部門の活動の健全な発展を促進し民による公益の増進に寄与するとともに、主務官庁の裁量権に基づく許可の不明瞭性等の従来の公益法人制度の問題点を解決すること」(公益認定等委員会事務局)にあり、従来の制度の問題点として「1、事業の公益性の判断基準が不明確である」「2、営利法人に類似する事業・共益事業を行う法人も税制上優遇される」「3、国と特に密接な関係を持つ公益法人へ公務員が再就職している」「4、国と特に密接な関係を持つ公益法人が補助金・委託費等に依存している」の四点を挙げてゐる。

 このやうな背景のもとに、今回の制度改革では「民による公益の増進という大きな哲学の転換」(平成20年3月岸田担当大臣)が求められてゐて、この機会を好機として事業や組織を見直すやうにと促されてゐる。
さらにまた「新法人」の基本は「日本の将来のため、公益的な活動を行う事業者の主役となることが求められる」となってゐる。しかし、考へてみると、これらのことは私ども国文研が、諸先生、諸先輩の指導を受けつつ営々と歩んできた道、そのものである。今回の法人改革に対応すべく、稲津事務局長を中心として八名で検討チームを編成し月毎に会合を重ねて二年余になる。すでに理事会の決定として、国文研は「公益社団法人」の認定を目指すことにしてゐる。この場合には「事業の公益性」を厳しく問はれることになるが、私が検討チームの一員としてこのことを考へるとき、いつも思ひ出されるのが前理事長、故小田村寅二郎先生の次のお言葉である。

 昭和55年の合宿教室終了時の「走り書きの感想文集」に寄せられたものである。

  「さいごに一言申したいことは、私どもは至難な国運のさなかに生きつづけてゐる、といふ痛感を、すべての『国文研活動』の基本に息づかせねば、といふことについてです。
合宿に若い人々を集めるのは、合宿を成功させるためだけではない。祖国の危急を担ふ人士を、一人でも多く集め、養成していかなくては、祖国の悠久の生命に断絶の時がきてしまふ。それを救ふためにこそ、合宿教室の開催があるのだ、といふ自覚こそ、会員各位ともどもに、心の中にしっかりと植ゑつけて進まうではないか、といふ私からの提言であります」

 今回の法人改革が求めてゐる「事業の公益性」とは、私どもにとっては小田村先生のお言葉にその原点がすべて込められてゐるではないか、と思はれてならない。

 また、今回、「公益社団法人」を取得すると、その特典として、私どもの会に寄付をお寄せいただく個人、法人の方には寄付控除が適用されることになる。

 右のやうな背景のあるこの度の制度改革に際して、これまで貴重なるご支援を寄せて下さった賛助者の方に対しても、新規に賛助をお願ひする方に対しても、そのご芳情に答へるべく一層の自覚と責任感を持って本会の事業推進に尽力せねばならないと意を新たしてゐる。そして、吉田松陰が大言壮語する久坂玄瑞に宛てて痛烈な批判を加へた書簡の、次の一節を肝に銘じたい。

 

「家族朋友郷党の兄(玄瑞)に従って節に死せんと欲する者、計幾人ありや。兄のために力を出さんと欲する者、計幾人ありや。兄を助けて財をいたさんと欲する者、計幾人ありや。聖賢の貴ぶところは、議論に在らずして、事業にあり」

(付記・平成23年度の認定取得を目指して新年度から、申請準備が本格化します。5月の総会〈正会員〉においては新定款の審議をお願ひすることになってゐます。それが「新法人」への第一歩となります。)

(本会理事、元東急建設常務取締役)

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 私の勤める都城病院から西を望むと、荘厳で美しい高千穂の峰がそびえてゐます。山といふ字の形をそのまま映したやうな左右対称の姿で、天に向ふ峰の左右に広がる台地は御鉢と呼び、かつて火山の火口でした。高千穂から中岳、新燃岳、韓国岳とつづく雄大な霧島連山は季節に応じてその姿を変へ、冬の朝などは時に雪をかぶった高千穂の高雅な頂きが望まれます。

 高千穂の峰は天孫降臨の霊峰と伝へられてゐます(宮崎県北部高千穂の二上山といふ説もあります)。天孫降臨と言っても最近は知らない人が多いのですが、古代に伝承された神話伝説を記す古事記によれば・・・。
高天原を治められる天照大御神の詔によって、荒ぶる地上の葦原中国(日本の国土)を治めるために、神々が次々に遣はされます。長い年月をかけて、苦心の末にやうやく葦原中国の主である大国主命が国を譲られることとなり、つひに高天原から地上に降りてこられたのが、天照大御神の孫にあたる天津日子番能邇邇芸命(以下、ニニギの命と略)でした。

 天孫であるニニギの命は、猿田彦を先導として神々を従へて高千穂の峰に降りて来られるのですが、古事記に記されたその描写は、古代の人々の言語のままを伝へて力強く、勇壮です。天の御座を離れると八重にたなびく雲が次々にあらはれ、これを押し分けながら神々しい道をたどり、天と地の間にかかる「天の浮橋」にお立ちになったニニギの命は、この地上をはるか見渡し、「高千穂のくじふる」岳にお降りになりました。「くじふる」とは神々が宿るやうな立派な山容をあらはす言葉です。

 ニニギの命は高千穂に降りて宣べました。「ここは韓国に向ひ、笠沙の御岬(鹿児島の野間岬)までまっすぐに見通せて、朝日が正面から射し、夕日が照るじつに佳いところである」と。かうして頑丈な岩が根に太い柱を立てて宮を建て、この国をお治めになった、といふのがこの天孫降臨の神話です。そこからニニギの命は笠沙に行かれ、美しい木花咲耶媛を見染めて結婚され、海幸彦、山幸彦が誕生しました。山幸彦の孫にあたるのが神武天皇で、大和の橿原において初代天皇として国を治められました。

 2月11日は建国記念の日ですが、昔は紀元節とよばれてお祝ひの歌がありました。その歌詞に

 「雲にそびゆる高千穂の高根おろしに草も木もなびき伏しけむ大御代を…」

とあります。

 ここ都城には、季節ともなればその高根おろしの風が吹きます。神武天皇は高千穂の峰のふもとで誕生されたと伝へられ、狭野神社といふ立派なお社があります。昨今これらの慶事も次第に忘れられつつあるのは残念ですが、それは家庭でも学校でも、神話を教へることが無くなってきたからでせう。

 近代の唯物的階級闘争といふ歴史観は、我が国の皇室の伝統や神話伝説を軽視し続けてきました。古事記や日本書紀に記された神話や歴史は、科学的証拠がないなどの理由で存在そのものを否定され、感動的な叙事詩も教へられることはありません。文字もない時代の語り伝へですから、証拠が見つからないのはある意味で当り前のこと。それくらゐに我が国の歴史ははるかに古いものです。神話はそのままが事実ではないとしても、古代日本の姿をかならず映してゐるはずですし、そこには日本人の原初としての感性や理想が描かれてゐます。そして何よりもその壮大な物語や数々の詩歌は、現代人が及ばぬほどの豊かな人間性や想像力に満ち、力ある言葉がみなぎってゐます。そこには祖先の方々の喜びや悲しみがこめられてゐます。それは我が国の大切な宝です。

 見えるものしか信じない、といふのは現代の一つの風潮ですが、むしろ目に見えないもののなかにこそ真実は潜んでをり、人智の及ばぬ世界に謙虚に向ふことこそ学問や人生のあるべき姿勢でありませう。
世界の各民族はそれぞれの神話や伝説を大切にしてゐます。我が国には私たちの祖先が描いた国民の歴史があります。この素晴らしい宝を是非とも次世代に伝へたいものです。

(平成23年2月2日付産経新聞 <九州山口版>所載、もと現代カナ)

追記・本原稿を新聞社に提出したあとの1月26日、霧島連山の新燃岳が突然噴火。都城は噴煙が空を覆ひ、見渡す限り火山灰が降り積りましたが、それから後も爆発的な噴火は繰り返してゐます。しかし先日は九州各地の国立病院機構の職員が120余名も応援にかけつけ、約40トンもの病院の灰除去作業を手伝ってくれたのには、心から有難いと感じたことでした。

-2月15日-(国立病院機構都城病院長)

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 廣瀬誠先生(元富山県立図書館長・元富山女子短期大学教授・平成十七年ご逝去)が、今から四十年以上さかのぼる昭和43年の第3回富山大学信和会合宿に於いて、「記紀の古伝承」と題して主に古事記に関する御講義をされたことがあります。
この御講義録は平成18年に小柳陽太郎先生(本会副会長)にご指導をいただいて復刻を果たしてをりますが、その元となった録音テープは、今日では再生が容易ではないオープンリールタイプであったため、長く放置したままになってをりました。最近、いろんな幸運が重なり、CD化にまでこぎつけることが出来ました。

 廣瀬先生をよく知る方々からは、〈国文研叢書等で廣瀬先生の文章にはよく接してゐるが、出来れば実際の御講義のお話をお聞きしてみたいものだ〉といふ御希望もお聞きしてをりました。また私は最近、「朗読のための古訓古事記」を編集中でありますが、古事記のテキストを提供できても、古事記にあまり親しんだことのない若い人たちに、古事記を楽しいものとして受け止めていただくための何かよい方法は無いものかと思案してをりました。そして思ひ至ったのが、廣瀬先生の御講義の録音テープの再生とCD化でありました。

 私たちにとって、この御講義は生れて初めての古事記との出会ひであったのです。私たちは何のテキストも手許になく、ただ耳を傾けて先生のお話に聞き入ったのです。「故、その御子を率て遊ぶ状は…」と語りはじめられた本牟智和気王の一節は今も耳に残ってをります。これが古事記なのかとただく圧倒される思ひでした。倭建命にお話が及ぶ頃、お話をされる先生も、聞き入る私たちも、古事記の世界に無心になって浸ってゐたやうに思ひます。

 当時の合宿記録に講義要旨をまとめた井原稔君(当時、富山大学文理学部三年)は、〈廣瀬先生は涙を浮かべて、声を震わせて講義をして下さった。先生はこうした物語の主人公の御心になりきって話されたのです。先生は高い学問を身につけられた方です。けれどもその純粋な御心情はいつまでもみずみずしいものがあります。私達はここであらためて先生に深い感謝の気持をささげたいと思います〉と記してゐます。

 私たちがこの御講義を思ひ起す時に幸せであったと思ふことは、古事記を文字として受け止める以前に、耳から聞くコトバとして古事記を受け止めたことでした。私たちは古事記に関する知識など全くと言っていいほど持ち合はせてゐなかったのです。それが古事記の世界に何の抵抗もなく入っていくことが出来たのは、先に井原君が書いてゐるやうに、私たちに古事記を伝へたいとされる、廣瀬先生の並々ならぬ情熱があったからでありませう。時に廣瀬先生四十七歳であられたことになります。

 国文研の古事記に関する出版物には、周知のやうに夜久正雄先生の『古事記のいのち』(国文研叢書1)、また同じく夜久先生の『「古事記」全巻の朗読CD』があります。そして廣瀬先生の『萬葉集 その漲るいのち』(国文研叢書30)も、古事記に関する記述がかなり多いのです。他に山内健生さんの『「古事記」神話の思想』もあります。私たちが古事記に親しむ道はいろいろと用意されてゐます。もちろん、角川文庫本や岩波文庫本の『古事記』のテキストもその筆頭に挙げなければなりません。

 私たちはそれぞれの道を辿って古事記の世界に親しめばよいわけですが、その中にぜひ、夜久先生の古事記朗読CDや、ここにご紹介した廣瀬先生の古事記講義のCDを加へていただけたらと思ひます。古事記が日本民族にとって不滅の口承文学であることを理解していただけると思ふのです。なほ、夜久先生と廣瀬先生は若い頃から折々に葉書による和歌の交換をされるなど無二の親友であられたことも書き添へておきたいと思ひます。

 この御講義の終りの方で、廣瀬先生は出雲国風土記の一節に触れてをられますが、これは全く先生の暗誦に依るものでした。最近、廣瀬先生の奥様からお聞きしたお話によりますと、先生は入浴されながら、萬葉集の長歌や、かうした出雲国風土記の一節を大きな声で朗誦されてゐたとのことです。「声は以て意を伝へ、書は以て声を伝ふ」(勝鬘経義疏)との聖徳太子のお言葉を、さながらに仰ぐ思ひが致します。(1月25日記)

(元富山県立富山工業高等学校教諭)

編注・廣瀬誠先生御講義「記紀の古伝承」にはCD版とA4プリント版とがあります。送料込み実費各五百円です。ご希望の方は編集部までご連絡下さい。取り次ぎます。

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     『萬葉集 その漲るいのち』   価900円 送料290円

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     鎮魂の夏

 昭和20年2月19日から40日間にわたって、硫黄島で一大決戦が行はれました。日本は約2万1千名、米軍の方は海兵全体を含めれば7万5千名。我が方は2万1千名のほとんどが玉砕しました。65年前の事であります。実は私はこの夏に(平成22年)、硫黄島に訪島させて頂くことができました。わづか1泊2日でしたが、貴重な鎮魂の夏となりました。

 御承知のやうに、硫黄島は埼玉県の入間基地から1250キロ先の太平洋に浮かんでゐます。両陛下が平成6年に行幸啓になられた時には三時間半を要してゐますが、現在は輸送機C130で2時間半で飛びます。硫黄島には原則として民間人は行けませんが、航空自衛隊春日基地の御高配で硫黄島基地隊の研 修会に外部講師として出講する栄に浴し、訪島することができました。

 研修会はちょうどお盆直前の8月12日でした。着くとまづ、天山慰霊碑といふ硫黄島全体の慰霊碑がありました。両陛下はここでお参りされたのですが、私も参拝しました。研修会では「勇気の遺産 歴史からのメッセージ」と題して二時間あまりの話をしました。

 そのあと基地隊司令から、「占部先生、硫黄島はね、夕焼けが見事なんです。是非見て頂きたい」と勧められまして海岸近くに出ました。もう圧巻でございました。

 それから夕食懇親の後、夜の9時から基地隊司令が是非星座を見せたいとのことで、摺鉢山の山頂に連れて行って貰ったのです。山頂から眺める星座は間近に迫り、息を呑むやうでした。時々流れ星が落下していくんですね。2万余の英霊も眺めた星座かと思ふと、胸が熱くなりました。かうして硫黄島の1日目を終へた次第です。

     哀切のローソク岩

 翌8月13日私は戦跡を廻ることにしました。私が一番訪れたかった一つはローソク岩です。ローソク岩といふのは、現地でもあまり知られてゐない場所で、事前に調べて頂いて場所は判明したものの、密林に阻まれて手前までにしか辿り着けないとのことでした。

 なぜ私はそこへ行きたかったかといひますと、硫黄島決戦で生き残ったほんのわづかな人の中に、松本巌上等兵曹がをられまして、この方の報告書の中にローソク岩でのエピソードが出てくるのです。市丸利之助少将の御遺族の方にも教へて頂きました。

 この遺族の方は、現在、佐賀県の唐津に住んでをられる市丸少将の御長女市丸晴子さんです。私が一年間かけて市丸少将の伝記を書いた時には、遺品の『冬柏』といふ短歌誌を数10冊お借りしました。市丸少将は与謝野鉄幹・晶子がやってゐた短歌誌の同人で、歌人でもあったのです。そのお父さんが最後に硫黄島に出撃する時に家族に預けたのがこの『冬柏』です。

 松本さんがその御遺族に御報告したなかに、かういふ文章があります。

  「紅顔の美少年ともいえる少年兵 が多数いた。夕刻彼らはよくローソク岩の下に集った。歩いて行くと少年兵の美しい声が耳に入って来た。彼らに遠慮するつもりで、反対側に廻ろうとしたら、市丸少 将が目を閉じて腰をかけていた。びっくりし挙手の礼をして立ち去ろうとしたところ、『シーッ』と 口に指をあててここに来いと手招きする。少年兵の歌声が流れて来た」

 この時、少年兵たちが口ずさんだ歌は、あの『故郷の空』です。スコットランド民謡です。

 ♪「夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く 思へば遠し故郷の空 ああわが父母いかにおはす」

 この歌を少年兵は夕方のひととき、米軍の空襲が止んだ時、あるいは地下壕の突貫工事の束の間の休息の時にローソク岩に集って歌ってゐたといふのです。

 松本さんは、「司令官の閉じた目から涙が一粒頬を伝って流れる。鬼神かと思われた司令官の涙、私もついに涙にむせんだ」と書いてゐます。この切ないシーンを知って以来、私はいつかローソク岩を訪ねたいものだと思ってゐました。

 現地に着き基地隊の司令を表敬訪問した時、司令室で真っ先に私に、「占部先生、実はローソク岩にたどりつける道を隊員が発見しました」と伝へられました。ずっとその後調査して頂いてゐて、地下壕をくぐれば行ける事がわかったのださうです。

 そこで、私は隊員の方たちに連れて行ってもらひました。当時、米軍上陸の際に攻撃目標を照らし出す探照灯のトーチカが設置されてゐて、その傍らに小さな地下壕があり、そこから抜けるのです。ほんの10メートルくらゐ向うに抜けて、急峻をちょっと上ると、つひに念願のローソクの形をした巨大な岩と対面できたのです。持参の太宰府の水を注ぎながら、「市丸少将、少年兵の皆さん、占部賢志、只今参上しました」と心から呼びかけずにはゐられませんでした。

     慰霊碑巡拝とイソヒヨドリ

 私は、硫黄島の多くの戦跡を慰霊して廻りましたが、線香や花は現地で用意して頂きました。ただ慰霊碑や戦跡に注ぐ水だけは持って行きたかったのです。硫黄島には水がなく、スコールをためるしか方法はありませんでした。どんなに水を焦がれたであらうかと思ふと、たまらない思ひにかられます。ですから、英霊に内地の美味しい水を飲んで頂かうと、私の住む大宰府の地下150メートルから湧き出る名水をペットボトル2本に汲んで現地に持参したのです。

 硫黄島には西竹一大佐の碑も建ってゐました。西大佐はロサンゼルスオリンピック大会の乗馬の部門で優勝した金メダリストです。大東亜戦争以前にロサンゼルスの名誉市民にもなった方です。西大佐は愛馬ウラヌスと人馬一体となってあの栄冠を勝ち得ましたが、その後、ウラヌスは引退し、厩舎で余生を送ってゐました。硫黄島に赴任した西大佐は、着任してひと月ほど経って、陸軍の用件で内地に戻りました。その折のことです。硫黄島に戻る直前、ウラヌスに会ひに行くのです。

 この頃のウラヌスはすっかり老いさらばへてゐて、もう立つ気力もない状態だったといひます。世話に当たってゐた係も随分心配してゐたさうですが、記録によりますと、或る時突然立ち上って興奮し、脚を踏みならし始めたのださうです。一体どうしたのか、厩舎の係は驚きました。すると、しばらくして西大佐が現れたのです。ウラヌスはかつての主人の足音を覚えてゐたのです。
西大佐は許可をもらひ、ウラヌスに跨り馬場をゆっくりと一周します。これが今生の別れと思ったのでせう。この時、愛馬のたてがみをいとをしむやうに撫で、その一握りを切り取って懐に納めました。かうして再び、硫黄島に戻って行ったのです。

 西大佐の命日は昭和20年3月22日となってゐますが、どのやうな最期だったかは諸説あって定かではありません。しかし、これだけははっきりしてゐます。西大佐の散華からおよそ一週間後、ウラヌスは後を追ふやうに息を引き取りました。哀切のエピソードです。

 ところで、現地では不思議な体験もしました。慰霊碑を廻る先々、車の前方をイソヒヨドリといふ鳥がずっと先導するかのやうに飛んでいくのです。私達が慰霊をしてをりますと、アンテナ塔の上に止まってじっとこちらを見ているのです。私が帰る時には、近くで「ぴーっ」と鳴く。はっと思って見ると、もう姿は見えませんでした。私はその時に、「あっ、あの鳥は市丸少将だ」と確信しました。

 65年目の夏を迎へた硫黄島は、澄み透るやうな青と緑に包まれた静かなたたずまひを見せてゐたのが印象に焼き付いてゐます。虚構ではなく、紛れもない実在がそこにはありました。

  -11月27、下関市に於ける「三島由紀夫烈士四十年祭」での記念講演録(『真情』第81号所載)の一部に加筆しました。-

 

(福岡県立太宰府高等学校教諭)

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 大東亜戦争で最大の激戦地となった硫黄島は小笠原諸島の南にあり、日本にとって本土防衛上必須の根拠地であったことから、昭和20年2月19日から3月下旬までの硫黄島守備隊と米軍との攻防は熾烈を極めた。栗林忠道中将(戦死後大将)は、現地最高指揮官である小笠原兵団長として約2万1千人の陸海将兵を指揮し、水なき火山島に全長18キロメートルに及ぶ地下壕を建設し、その地熱に耐へながら長期持久戦を敢行、圧倒的兵力を誇る米侵攻軍約十一万余に多大な損害(米軍死傷者約2万9千名)を与へた(中略)。同年3月26日に戦死。

 遺歌は、3月17日付の「今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ、最後ノ敢闘ヲ行ハントス」といふ大本営に宛てた最後の電文の末尾に付された辞世の歌で、本土防衛の要地確保といふ「重きつとめ」をつひに果たせず、弾も水も尽き果て、「最後ノ敢闘」を行ふにあたり、祖国の安危を案じつつ詠んだものである。(後略)

小柳陽太郎他編著(国文研版)
『名歌でたどる日本の心』税別1500円 送料290円

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 本会参与・香川亮二先生には昨年12月5日逝去。享年90歳。先生は大正10年2月7日、山形県西田川郡加茂町(現・鶴岡市)のお生れで、昭和17 年3月東京府立養正中学校(府立第一中学校の夜間部)をご卒業。中学時代、嘱託講師として教鞭を執られてゐた夜久正雄先生の指導を受けられた。同級生に茶谷武さん(昭和20年4月、ルソン島で戦死、24歳)がゐた。

 本会の前身、日本学生協会の菅平合宿(昭和15年)、比叡山合宿(16年)、西教寺合宿(17年)に参加。昭和18年2月、大正大学予科中退。同年4月から大政翼賛会錬成部に勤務(20年6月、同会解散により退会)。

 終戦後は昭和20年12月から23年10月まで故郷の加茂小学校で教壇に立たれてゐる。そして昭和24年2月から昭和56年3月の定年まで法政大学にご勤務。この間、通信教育部のお仕事をはじめ図書館閲覧課長、総務部長、図書館事務部長、学生部長、人事部長等の要職を歴任された。

 お勤めの傍ら、『新公論』(同憂の士が昭和20年代半ばに刊行した雑誌)や国文研叢書などの編集刊行に尽力された。ことに『いのちささげて- 戦中学徒・遺歌遺文抄- 』正・続の発刊は、先生に負ふところが多大であった。夏毎の合宿教室では若い参加者の指導に当られ、平成6年4月から本会の参与。また関東地区の月例勉強会「四土会」(黒上先生の「太子の御本」の輪読会)、「太子会」(聖徳太子義疏の講読会)にも参加され後進の指導に当られた。

 平成20年11月、社会教育功労者として、文部科学大臣表彰を受けられた。

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     「少し工夫してみてください」

 私が『国民同胞』の編集に携ったのは平成13年10月号からで、満9年余りになるが、先生にはこの間ずうっとお力添へをいただいた。

 製版会社から校正刷りがファックスで送られてくると、それを数部コピーし、その一部を再びファックスで先生宛に(毎月、20日頃)転送して見ていただくのである。やがて「赤」の入ったものが郵送されてくる。もちろん私も校正の作業を行ふのだが、国語力の乏しさに秘かに赤面することが何度あったことだらう。とくに「明らか」「尽くす」「当たる」「分かる」等の仮名の送り過ぎは幾度指摘されたことか。むろん編集段階で見落した脱字もある。

 また文意が「分りにくい」と思はれた箇所には赤い線が記されてゐて、お電話で説明させていただくと「ああ、さういふことですか。もうちょっと考へてみて下さい」と、指図まではなされない。「それではかう直します」とお答へすると「さうですか。分りました」とか、私が「調べ直してみます」とご返事をすると「もう少し工夫してみてください」と穏やかに言はれる。編集の段階で何度も読んでゐるので文意の通りにくい所が分らなくなってゐるのだ。

 最近は校正刷りを転送する際に「△△日の午後□時にお電話を差し上げます」と書き込ませていただいてゐた。従って月末になると必ずお電話をお掛けしてゐた。先生には昨年11月号の校正まで助けていただいたが、11月号の校正刷りは10月19日にお送り、お電話を差し上げたのは10月25日であった。 

 校正には私と同世代の会員の協力も得てゐるが、11月号に関して先生のみがお気づきの脱字があった。真に有難いことであったが、いまにして思へば最 期までご心配をお掛けしてゐたのだと恥入るばかりである。

   頼りなき編集者われをつつむごと見守りたまひし師の君逝きます
   いくそたび温きみことばたびたまふ師のはやなきが今のうつつぞ
   月ずゑにお電話を差し上ぐわがな らひ今はかなはぬうつつなりけり

     「今晩、香川さんが見えるから」

 初めて先生にお目に掛かったのは昭和43、4年頃だったらうか。しかしその前に、お名前は小田村寅二郎先生からお聞きしてゐた。

 昭和42年1月から2年余後の44年3月末まで、私は当時銀座7丁目にあった本会の事務所に勤めてゐたが、この期間は小田村先生編『日本思想の系譜- 文献資料集- 』全5冊が刊行された時期であった。その1冊目(42年3月刊)の「はしがき」を見ると、桑原曉一先生、葛西順夫先生、夜久正雄先生、戸田義雄先生、關正臣先生、梶村昇先生他の方々と共に、「法政大学総務部長」の肩書が小さく補記された先生のお名前が記されてゐる。ある日の夕刻、2冊目の原稿の束を前に、小田村先生が「今晩、香川さんが見えるから」と仰って、そのままお帰りになったことがあった。その時「夜中に来て作業をなさるらしい。香川さんとはどういふ人なんだらう」と、本当に不思議に思ったものだった。

 いまにして思へば割付のお仕事だったが、ご自分の本ならまだしも複数の筆者による区々の原稿を、章立から始まって各種活字のポイント、行間アケ、一字下げ等々の指定を行ふ作業は、本の全体像がイメージできて初めて着手できることであって、現在のやうに簡単にコピーができる時代ではなかったし、普通は恐くて容易に赤鉛筆を入れられない。

 それをご勤務の後、夜中に事務所に来られて、翌日には印刷に出せるやうに済ませてしまふとは、大変なことだといまでも思ふ。その上、当時の法大は教条的左翼思想の影響をうけた学生運動の言はばメッカの一つであって、総務部長のお立場ではお気の休まる暇も睡眠でさへゆっくりとはお取りなれなかったはずと思はれる。その頃のことなのである。

 所謂「70年安保」前後、中共文化大革命の影響もあって、昭和40年代を通して多くの大学は教育研究の場と裏腹の喧噪の巷と化してゐた。法政での騒動の模様は連日のやうに紙面を賑せてゐた。あの長く続いた紛争の渦中にあって、総務部長、そして学生部長の重職を担はれたについては、学内でよほどの信望を得てをられたからに相違なからうと改めて感じ入った次第であるが、やはりと言ふべきか、先生とて生身のお体であられたから、先日、御子息に伺ったところ、ご心労が重なり昭和50年には胃潰瘍で胃の三分の二を切除されたとのことであった。

     「第一に掲げるべき恩師でした」

 郷里の加茂町の小学校教員時代の教へ子の方から、御子息純さん宛に送られてきた“お悔み状”と、それに添へられた「仰げば尊と師(一)秋野亮二先生- 平成14年記- 」と題された“文章”を読ませていただいた(「秋野」は先生の旧姓)。そこには先生の他者を抱き包む如きお人柄が、さらに敗戦の厳しい現実にあって、古里の小学生達の「こころ」を見詰めてをられる若き日の先生のお姿が記されてゐた。
その一節を左に掲げて先生をお偲びしたい。

     ○「お悔み状」から

 「先生は、私にとりまして小、中、高校、大学を通じ、教わりました多くの先生方の中でも、第一に掲げるべき恩師でございました」

 「先生は疎開先の郷里から東京に戻られてからも屡々お便りを下さり、大学受験の時は、お宅に泊めて頂くというようなお世話にもなりました。」

 「私も社会に出て、転勤があったり、仕事が忙しくなるにつれて、ご無沙汰が多くなったことは、まことに申訳ないことでした。しかし年賀状のやりとりは、お互いこれまで一度も欠けたことはなく、来年の年賀状も既に出来ておりました。今年の『鳥海山と庄内浜』に続き、『月山と庄内平野』を描いたものです。先生にとってもありがたき故郷の山、懐かしい山河の筈です。これも同封しますので、是非御仏前に見せて頂くようにお願い致します」

     ○「仰げば尊と師(一)秋野亮二先生」から

 「小学校六年の時、担任の秋野亮二先生から『ビルマの竪琴』を読んで聞かせて頂いたことは、今でも忘れられません。」

 「作者の竹山道雄という方は、(略)敗戦後の混乱した状況を見て思うところあり、少年少女向けに初めてこの物語を書き下ろされた、ということです。」

 「秋野先生はこういう方々によって生み出された作品を、いち早く私たちに読んで下さったわけです。
『おーい水島、一緒に日本へ帰ろう』…話が進むにつれて皆ひき込まれ、静まった教室の中には先生の声がひときわ高く響いていました。50年以上経った今でも、その時の情景が昨日のことのように想い浮かびます。先生に『ビルマの竪琴』を読み聞かせて頂いた頃から、私は少しずつ本を読むようになりました。先生から受けたご恩は沢山ありますが、その中でも読書の楽しみを授かったことは、その後の私の人生にとって、まさに圧倒的なことでした。」

     「踊場」での太子会も今は空しく

 先生には『国民同胞』の校正で毎月ご連絡を差し上げてゐたが、さらに「太子会」で毎月お会ひしてゐた。この会は平成の初年に松吉基順先生の呼び掛けで始まり、松吉先生亡き後は香川先生を中心に続けられてきた。7人ほどによる真に地味な講読会で、いまは『維摩経義疏』を終り『法華義疏』の三分の二ほどの箇所に差し掛かってゐる。

 私などが生半可のまま喋々するとしばらくはお付き合ひ下さるが、「本に戻りませう」とか、「もう少し先を読んでからにしませうか」とか、やんわりと制されるのだった。

 平成19年7月から横浜市戸塚区のご自宅に近い踊場地区センターの一室で会は続けられ、私が横浜市民といふことで毎月借用の手続きを担ってゐた。先生をお乗せした御子息の車が玄関前に着くと、さあ始まるぞと毎回気持ちが引き締まった。「太子会」へのご出席は昨年10月の例会が最後となってしまった。

   師の君のいまさばこその「踊場」の学びの折節かりそめならず
   月毎に借用手続きかさね来し義疏講読会も今は空しく

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 第10回合宿教室の記録集が『日本への回帰』第1集の標題で刊行された昭和41年は、私が大学に入学した年であり、また雲仙で行はれた第11回合宿教室に初参加した年でもあった。この『日本への回帰』といふ書名には、敗戦以後の我が国の実情を憂慮する悲しさと、本来の日本を回復せんとする強い意志が込められてゐる。当時の編集者や理事の方々の総意として、また本会が目指すものを的確に象徴するものとして命名されたであらうことは、この後既に45集まで刊行されたことで推測し得る。私と同年代の会員は、この標題の意味するものを胸中に秘めてそれぞれの場所で戦ひながら今日までの人生を送ってきたと思ふ。

 この間、「民族」や「国家」を大切にすることを口に出すことさへ勇気を要する時代から、若者が国旗を打ち振りながら「頑張れ日本」と連呼したり、生活の各分野で伝統的な「和」の意味が尊ばれる時代となった。同時に鳩山由紀夫、菅直人、仙谷由人の各氏など、同時代に学生生活を送った人たちが政権の中枢を担ひ、拙劣な政権運営で国の基盤を揺るがすやうな失政を続けるといふ状況を目の当りにすることにもなった。「日本への回帰」は大きな成果を上げながらも道半ばで、政治や外交面での指針としては力が及ばなかったことを無念に思ふ。

 一方、昭和40年代には想像もできなかった中華人民共和国の軍事力と経済力の強大化に伴ひ、明治以降の我が国がアジアの先達としての使命感と文明史的な地位を確立してきた時代からの位相の転換が求められる時代となった。今、「日本への回帰」と共に時代を生きることができた喜びをかみしめると同時に、新たな目標を定める時代が来たことを痛感する。本会の原点は、幕末以降、列強の外圧に抗し、大正・昭和時代は共産主義思想と対峙し、さらに敗戦後は占領政策からくる亡国的思想的策動と対決する中で、「日本」を求め続けた、そして皇室を敬愛し続けた先人先輩達の足跡に続くところにあると思ふ。その原点を見詰めつつ、昨今いろんな思ひが去来する。

       ○

 ところで、先般知人から執行草舟氏の『友よ』『生くる』といふ二冊の書籍(講談社、税込各2415円)を紹介された。一読して驚いた。氏は私と同世代で同じ戦後を生きてゐたのだが、二十歳前から小林秀雄氏や三島由紀夫氏の知遇を得て多くを学びながら古今東西の詩文を読み続け、それを力として起業し会社を経営しながら今日に至った方である。例へば左の如くである

  「現代人は物事を理解しわかろうとし過ぎる。人生や人の心、果ては、あの世から宇宙そして未来にまで及んでいる」(『生くる』)

 自らの生き方を模索しながら詩文を読み、詩文に励まされながら生き抜いてきた著者の人生の軌跡が随所に記されてゐる。「心」を大切にしてゐるやうに見えながら、実際は「心」を見失ってゐる戦後的価値観とは無縁の好著である。2〜30歳代の諸兄にもぜひ一読をおすすめしたい。

(元福岡県立小郡高等学校長)

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 編集後記

 党綱領なき民主党の政権運営が行き詰まるのは当然だが、外交失策は容易には取り返せない。つひにロシア外務省報道官は2月17日、北方領土に関して「日本とはどのやうな交渉もしない」と言明した。韓国・中国に国後島への投資を呼び掛け、竹島・尖閣と絡めて、わが「返還要求」に止めを刺さうとしてる。曲りなりにも積み上げて来た領土交渉の経緯は無にされるのか。もともと「樺太での日露混住」(=樺太での日本権益容認)と「択捉以南の日本帰属」が幕末に於ける日露合意だった…。南樺太「奪還」に知恵を絞る者は自民党政権下でもゼロに等しく、今や「択捉以南」の四島返還要求さへ門前払ひされかけてゐる。

 さらに、南極海での調査捕鯨をシーシェパードの妨害で中止すると農水相が発表(2月18日)。「乗組員の安全確保が難しい」と。かかる場合、普通は海軍が遠巻きにガードして作業を続けるのではないのか。だから軍艦を派遣しかねない国の船には妨害をしないのではないのか。自民党政権だったら、「妨害は許さず」と自衛艦を派遣する、とはならないのが悲しいかな戦後の日本である。ことは捕鯨だけに止まらない。

 本紙の編集にお力添へを賜った香川亮二先生が帰幽された。長年にわたり温かくお見守りいただき御礼の言葉もない。(山内)

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