国民同胞巻頭言

第592号

執筆者 題名
岩越 豊雄 古典古文の素読暗誦が教育の出発点である
- 現行「公教育のあり方」に猛省を促したい -
  ◇平成22年にお詠みになったお歌から
須田 清文 平成23年年頭及び最近ご発表の御製、御歌を拝誦して
小野 吉宣 明治天皇の御学問(下)
- 若き日の御修養 -
新春詠草抄(1) 〜賀状から〜
  新春詠草抄(2) 〜賀状から〜

 私の郷土、小田原に福岡黒田藩の最後の藩主で貴族院副議長や旧制修猷館中学の校長も勤められた黒田長成の別邸「清閑亭」がある。今、国の登録有形文化財になってゐる。その隣は山下汽船の別荘跡で、あの『坂の上の雲』の秋山真之終焉の地である。私の主宰する「石塾」では、その清閑亭の柱や床を親子で「糠袋」で磨き、その後『論語』を素読し、季節に合はせた短歌俳句を学ぶ勉強会を年に数回行ってゐる。

 昨年の夏休みに第1回目を行った。その前日、ある雑誌で大阪大学名誉教授加持伸行氏のs『論語』ブームの背景tといふ文を読んだ。その中で加持氏は「国語を学ぶには古典が絶対不可欠になる。古典には古文と漢文がある。日本人は古文によって感性を培い、漢文によって知性を磨いてきた。日本人は古文と漢文との素養を生かして見事に感情と論理とを表現してきたのである」と述べ、文語調の心を引き締めるひびきがある文の一例として、秋山真之が起草したと言はれる、日本海海戦を告げる電文「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」を挙げてゐた。

 秋山真之は正岡子規の友人であり、当然、短歌俳句を学んでゐた。真之自身の短歌俳句も残されてゐる。つまり、人としての心の豊かさや、思考力、表現力などの人間力の基盤となる「国語力」を身につけるには、『論語』などの漢文の素読と短歌俳句の学習や暗記の両輪が必要だといふことになる。この一文に偶然出会ひ、不思議な縁のやうなものを感じた。子供達に『論語』の素読と短歌俳句を教へるこれまでの取り組みが、間違ひないものであると、励まされたやうな感じであった。

 ところで、最近「ユダヤ式教育」といふことを知った。ご承知のやうにユダヤ人は優秀である。因みに、ノーベル賞の4人に1人はユダヤ人だといふ。その教育法の一つが、徹底的な暗記教育であるといふのだ。例へば、6歳までに旧約聖書、9つまでに、ユダヤ教の聖典タルムードを暗記させるといふ。
子供は、9つまでを臨界期といって、そのまま素直に受け入れ暗記する能力に優れてゐる時期である。その頃覚えたものは、深層にインプットされる。その時期までに古典を徹底的に暗記させてゐるのである。

 今、インド人がプログラマーとして優秀であるといはれる。そのインドでも子供の頃に、ヒンズー教の経典を暗誦する教育が行はれてゐる。さう言へば、湯川秀樹博士も幼少時、四書五経を素読し、それがものを考へる基盤になったと述べてゐた。

 『論語』の素読や、短歌俳句などの古典の暗記暗誦などといへば、意味も分らない文章を丸暗記しても無駄だ、子供の自主的な思考を無視した教育だ、子供に考へさせることが大事だ、といふのが現代の教育論の主流である。

 『人間の建設』と題する数学者・岡潔との対話集で、文芸評論家の小林秀雄は素読についてかう語ってゐる。
「素読を暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるでしょう。一生かかってもわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を考えることは、実に曖昧な教育だと分かるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとした教育です」と。

 日本は資源の少ない国である。唯一、人材の育成でこれまでの繁栄を築いてきた。今、「ゆとり教育」とか、「児童中心」とかいふことで、子供の国語力の基盤づくりの大切な時期が浪費されてゐる。臨界期といふ、子供の大事な時期を無駄に過ぎてしまへば取り返しがつかないのである。
いまのわが国の「公教育のあり方」について、文教当局に猛省を促すものである。

(元小学校長、 寺子屋「石塾」主宰)

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     御製(天皇陛下のお歌)

       石尊山登山
     長き年の後に来たりし山の上にはくさんふうろ再び見たり

       大山千枚田
     刈り終へし棚田に稲葉青く茂りあぜのなだりに彼岸花咲く

       虫捕りに来し悠仁に会ひて
     遠くより我妹の姿目にしたるうまごの声の高く聞え来

       遷都1300年にあたり
     研究を重ねかさねて復原せし大極殿いま目の前に立つ

       奄美大島豪雨災害
     被災せる人々を案じテレビにて豪雨に広がる濁流を見る

       ○第61回全国植樹祭(神奈川県)
     雨の中あまたの人と集ひ合ひ苗植ゑにけり足柄の森に

       ○第30回全国豊かな海づくり大会(岐阜県)
     手渡せるやまめは白く輝きて日本海へと川下りゆく

       ○第65回国民体育大会(千葉県)
     花や小旗振りて歩める選手らに声援の声高まりて聞こゆ

     皇后陛下御歌

       明治神宮鎮座90年
     窓といふ窓を開きて四方の花見さけ給ひし大御代の春

       FIFAワールドカップ南アフリカ大会
     ブブゼラの音も懐しかの国に笛鳴る毎にたたかひ果てて

       「はやぶさ」
     その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明かるかりしと

          ◇平成23年歌会始お題「葉」

            御製
     五十年の祝ひの年に共に蒔きし白樺の葉に暑き日の射す

            皇后陛下御歌
     おほかたの枯葉は枝に残りつつ今日まんさくの花ひとつ咲く
            (御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

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     御製

       石尊山登山
     長き年の後に来たりし山の上にはくさんふうろ再び見たり

 声を出して拝誦するとゆったりとした時の流れが「はくさんふうろ」に集中され、最終句に作者の感動と思ひが統一されてゐる、心洗はれる御製である。年頭に、御製を拝誦することによって、天皇陛下の御感動をその御息づかひのままに味はせて頂くことのできる幸せを感じる。

 昨年喜寿をお迎へになり、12月23日、77七歳になられた陛下は、8月24日、ご静養のため長野県軽井沢町に赴かれた。そのご滞在中、秋篠宮ご一家とともに皇太子時代にご家族でしばしば訪れた石尊山(1667.7m)に約30年ぶりにお登りになられた折の御製である。

 「はくさんふうろ」(白山風露)は、本州北中部の亜高山帯だけに分布し、日当たりのよい湿った草原に生えて群落を形成する植物で、高さは30から50センチ。秋には美しく紅葉し、7月から8月にかけて白色に近いものから濃いピンク色までの花を咲かせる。花弁に縦の縞模様がある可憐な花である。具体的に花の名前が詠み込まれてゐて、「高原にみやまきりしま美しくむらがりさきて小鳥とぶなり」といふ昭和天皇の御製(昭和24年)が思ひ起される。

 陛下は「登りはまあまあでしたが、下りは滑りやすく、時々後からついてきた秋篠宮や眞子に助けられました。以前登ったときには考えられなかったことです」とお述べになってゐる。「長き年の後に来たりし」のお言葉には単に久しぶりにといふ意味だけではない深い思ひが込められてゐるやうに拝察される。

       大山千枚田
     刈り終へし棚田に稲葉青く茂りあぜのなだりに彼岸花咲く

 稲刈りの終った千枚田に広がる緑と、畦道の傾れ(斜面)に咲く彼岸花の赤とのコントラストが映える光景が髣髴としてくる。

 棚田とは傾斜地を耕して階段状に作った田んぼのことで、昨年9月、千葉県で開催された第65回国民体育大会に御臨席の折に、9月27日、鴨川市の大山千枚田をご視察になられた。そこには375枚の棚田があって、平成11年7月、農林水産省が発表した「日本の棚田百選」にも選ばれてゐる。

 「あぜのなだり」とは田と田の間に土を盛り上げ境とした畦が傾斜してゐる所を指す。「青く」の青は青・緑・藍など通して使用するが、ここでは稲の切株に生えてきた稲の葉の「緑」で、彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれ、秋の彼岸前後に赤い花を開く。移ろひ行く自然界の営みにお目を止められた心温まる御製である。

       虫捕りに来し悠仁に会ひて
     遠くより我妹の姿目にしたるうまごの声の高く聞え来

 悠仁親王殿下のお元気なお声で満たされてゐるお歌である。

 悠仁さまのことを陛下は「虫が好きで、秋には生物学研究所や御所の庭に来て、バッタやカマキリを捕まえたりしています」と述べられてゐるが、その折の御製と拝察する。

 「我妹」は男性が女性を親しんで使ふ語で、ここでは皇后陛下。「うまご」は孫、子孫。4歳の悠仁さまは、秋篠宮・同妃両殿下のことを「お父さま」「お母さま」と呼ばれてをられるとのことであるが、皇后陛下のことは何とお呼びになるのか、はたまたこの度はどういふお言葉を発せられたのか、想像するだに微笑ましい情景が浮んでくる。

       遷都千三百年にあたり
     研究を重ねかさねて復原せし大極殿いま目の前に立つ

 10月8日、平城遷都1300年記念祝典に御臨席のため奈良県を御幸啓になり、復原された「第一次大極殿」を訪ねられた際の御作である。
「いま目の前に立つ」といふご表現のなんと斬新であることかと驚かされる。普通であれば「大極殿の前にいま立つ」と表現するところだらうが「大極殿」「いま」「目の前に立つ」と表現されることによって、ここに今立ってゐるといふ感動が強まり、大極殿の巨大な姿までもが現れてくるのである。

 大極殿は即位の大礼や元日朝賀、あるいは外国使節来朝の際の儀式が執り行はれた所で、その復原作業は昭和53年に策定された「特別史跡平城京跡保存整備基本構想」から始まってゐる。奈良文化財研究所が主体となった復原原案づくりだけでも昭和58年から平成10年までの17年を要してゐる(奈良文化財研究所のホームページから)。「研究を重ねかさねて復原し」と、復原にまでこぎ着けた人々を労はれるお心が率直に詠まれてゐる。

 和銅3年(710)の 平城遷都は第43代元明天皇の御代であった。それから1300年を経て、第125代の天皇として「平城遷都1300年記念祝典」に臨まれた陛下の御胸中は、拝察するに余りあることだが、「大極殿いま目の前に立つ」とのご表現に、遙か奈良朝に思ひを馳せられたのではないかと拝するのである。

       奄美大島豪雨災害
     被災せる人々を案じテレビにて豪雨に広がる濁流を見る

 くぐもるやうな沈重な調べが一首を貫き陛下の被災された方々へのご深慮が伝はってくる。

 陛下はお誕生日に際し、宮内記者会と会見されて、1年を振り返ってをられる。その中で奄美大島での豪雨災害に触れられて、次のやうに述べられてゐる。
「10月には鹿児島県の奄美大島を、この地域の人々がこれまで経験したことがないような激しい豪雨が襲い、死者を伴ふ大きな災害をもたらしました。亡くなった人々の家族の悲しみ、住む家を失った人々の苦しみに深く思いを致して います。交通や通信が途絶した中で、かなりの時間を過ごさなければならなかった島民の不安な気持ちはいかばかりであったかと思います」。

 さらに続けて「40年以上も前に私どもは奄美大島を訪れ、当時の名瀬市から山道を通って、この度大きな災害を受けた当時の住用村に行きました。当時を思い起こすとき、このような道路が寸断された山地の多い島で、救助活動に当たった人々の苦労がしのばれます」と述べてをられる。恐懼するのみである。

       第六十一回全国植樹祭(神奈川県)
     雨の中あまたの人と集ひ合ひ苗植ゑにけり足柄の森に

 47都道府県のすべてで植樹祭が行はれたことになる昨年の「全国植樹祭」は、5月23日、神奈川県南足柄市と秦野市で行はれた。足柄森林公園丸太の森地区では、陛下がケヤキ、無花粉スギ、クヌギを、皇后陛下がヤマザクラ、イロハモミジ、シラカシをお手植ゑになり、ついで県立秦野戸川公園地区での植樹祭式典では、陛下がブナとスダジイの種を、皇后陛下がコブシとヤブツバキの種をお手播きになられた。

 ビニールの雨合羽姿の子供にお手植ゑに使はれた鍬を笑顔で手渡される両陛下のお写真を改めて拝見して(『皇室』平成22年秋月号)、「雨の中あまたの人と集ひ合ひ」と詠まれた陛下のお心持ちが察せられた。初夏の雨天の下で、「あまたの人と集ひ合ひ」が叶ったお喜びが感じられるお歌である。今次の植樹祭には8,200余人が参列してゐる。

       第三十回全国豊かな海づくり大会(岐阜県)
     手渡せるやまめは白く輝きて日本海へと川下りゆく

 6月13日、岐阜県関市で開かれた第30回全国豊かな海づくり大会に御臨席の後、長良川河畔で陛下はヤマメ、アユ、カジカ、皇后陛下はアジメドジョウ、アマゴの稚魚をご放流なされた。その際の御製である。この日と前日に県下の全市町村で行はれた関連行事には16万2千余の県民が参加してゐる。 「手渡せる」とは、人の手から大自然の清流へと「手渡す」の御意だらうか。「川下りゆく」といふ結句には、お手元から川の流れの中に泳ぎ出て白く輝くヤマメの、日本海までの長旅を祈るやうに見送られるお気持ちが伝はって来るやうに感じられる。

       第六十五回国民体育大会(千葉県)
     花や小旗振りて歩める選手らに声援の声高まりて聞こゆ

 花や小旗を振りながら入場行進する各県選手団に声援の声があがる。声援に応へて選手達はさらに花や小旗を高く振る、それを見て声援の声は一層高まっていく。その情景、一体感に感動された御製と拝する。

 鴨川市の「大山千枚田」に行かれた2日前の9月25日、千葉市・千葉マリンスタジアムでの第65回国民体育大会開会式に御臨席なされた折の御製である。

 「声援の声高まりて聞こゆ」とのご表現は、会場で声援を送る人々とともにご自分の心も高まっていくやうに感じられたそのお喜びのお気持ちを詠まれたものと拝するが、拝誦する私の心も喜びに満たされる。

          皇后陛下御歌
       明治神宮鎮座90年
     窓といふ窓を開きて四方の花見さけ給ひし大御代の春

 実にすがすがしく伸びやかに心が広がっていくやうな御歌である。

 明治神宮鎮座90年祭に当って、明治神宮からの願ひ出に応へられ、献じられたものである。

       明治天皇御製(明治45年)
たかどのの窓てふ窓をあけさせて四方の櫻のさかりをぞみる

 この明治天皇の御製に、日頃から皇后陛下はお気を留めてをられるのではなからうかと拝察する。この御製をご念頭に置かれながら明治天皇をお偲び申し上げて献詠されたものと拝するが、「大御代の春」といふお言葉のなんとすばらしいことか。明治天皇御製ともどもスケールが大きい御歌であると拝するのである。

       第六十五回国民体育大会(千葉県)
     ブブゼラの音も懐しかの国に笛鳴る毎にたたかひ果てて

 FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップが南アフリカ共和国で六月から七月にかけて開催された。それを詠まれた御歌である。

 あのけたたましいブブゼラ(南アフリカの民族楽器)の音も今は懐かしく、ホイッスルが鳴る毎に熱戦が終りを告げていったと詠まれてゐる。

 皇后陛下ご自身テニスをなさってをられるので試合に臨む者の気持ちも試合後の勝者敗者の心境もご理解なさってをられるものと拝察するが、「たたかひ果てて」といふご表現は独特で潔さが感じられる。この御歌を拝誦してゐると、ブブゼラの音をバックにしてホイッスルで試合が始まり、そして終った会場の情景が自づと浮んでくる。

       「はやぶさ」
     その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明るかりしと

 「己を焼きし」といふ自己犠牲の言葉は強く激しい。6月13日、小惑星探査機「はやぶさ」の大気圏再突入の様をお知りになって詠まれた御歌である。「はやぶさ」へのみ思ひの深さが感じられる。

 天皇陛下はお誕生日に際しての記者会見の中で、「小惑星探査機『はやぶさ』が小惑星『イトカワ』に着陸し、微粒子を持ち帰ったことは誠に喜ばしい今年の快挙でした。一時は行方不明になるなど数々の故障を克服し、ついに地球に帰還しました。行方不明になっても決して諦めず、様々な工夫を重ね、ついに帰還を果たしたことに深い感動を覚えました」とお述べになったが、陛下のご感想そのものが読む者に力を与へ下さる感じがする。

 任務を果して奇跡的に帰還した「はやぶさ」を真っ直ぐに受け止められる皇后陛下の御眼差しを感ずる。

       歌会始 お題「葉」

       御製
     五十年の祝ひの年に共に蒔きし白樺の葉に暑き日の射す

 「共に蒔きし」のご表現から陛下が皇后様を大事にされてゐるご様子が伝はってくる。

 平成21年、御成婚50年のお祝ひの年の立春に、御所の近くの白樺からお採りになった種を皇后様とご一緒にお蒔きになられた。その種から育った白樺の若木の葉に暑い日が射してゐる情景をお歌にされた。

 「の」が4回、「に」が3回使はれて一首が密接に繋がってゐる。お蒔きになられた種から育った若木の葉に日が射し、これから日々、育っていくだらうとの期待を込められた御製と拝するのである。

       皇后陛下御歌
     おほかたの枯葉は枝に残りつつ今日まんさくの花ひとつ咲く

 「今日」の言葉が新鮮で皇后様のご感動が感じられる。咲いたばかりのまんさくの花の瑞々しさも伝はってくる。「まんさく」は枯葉を枝に残したまま越冬して早春、黄色、線形の四弁花が咲く。

 枯葉が多く残るまんさくの木に咲いた一輪の花を目にされた時の、春の到来近しのお喜びの御歌と拝する次第である。
(本稿の記述に当っては、宮内庁のホームページ、月刊『祖国と青年』誌を参照させて頂きました)

(羽後信用金庫石脇支店)

   来年の歌会始   お題は「岸」   〆切 9月30日

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   3、漢籍・国典

   イ、素読

 安政6年(1859)4月27日、寶算8歳の睦仁親王は、世に言はれる素読を始めてをられた。『明治天皇紀』第一巻に拠れば次の通りである。

  「正二位伏原宣明を以て読書師範となす、未の半刻振り袖を著して御三間中段に臨ませらる、宣明参進して孝経の一節を侍読するこ と三反なり、是の日の読書始めは蓋し内儀にして、御世話卿中山忠能等陪侍(君主の傍らに侍る)するのみ、尋いで5月2日・27日、宣明(伏原宣明)参仕す、6月17日亦同じ、爾後、宣明参仕の時刻を巳の刻(午前10時)と定めらる」(172〜3頁)

 素読の最初の教材は儒教の教典の一つで孝道が解かれた『孝経』であった。師範の伏原宣明が孝経の一節を侍読する。「三反なり」それが三度に渡って為される。睦仁親王の傍らに侍るのは内儀であるから明治天皇外祖父である中山忠能らに限られてゐた。このやうにして萬延元年(1860)7月まで続けられた。7月29日に「孝経の素読将に畢らんとする」。孝経の素読はこの日に終ったのである。

  「29日 自今『大学』の素読 を始むべき旨勅命あり、…是の日、 師範伏原宣明をして、皇子の読書に充つべき『四書』に點註を加へて之を上らしむ、7月7日、宣明之を獻ず」(212頁)

 このやうに孝明天皇の勅命を受け公的に『四書』の素読が始められたわけである。同年11月12日には「大學の素読を畢へられ、17日に中庸に移らせらる」(231頁)とある。綿密な指導方針の下に着実に進められたことが伺へる。

   ロ、素読、そして輪読

 江戸時代、町人の子弟まで寺子屋で「読み・書き・算盤」を習ったから、当時世界のどこの国に比しても識字率が極めて高かったはず、と言はれてゐる。寺子屋は幕末には農村部にまで普及し、その数は一万を数へたといふ。そこでの「読み・書き・算盤」の「読み」が素読であって、意味を取るよりも先づ声に出して繰り返して読んだ。そして諳じた章句の意味を成長する中で理解して味合ふといふ理に適った人間形成の道筋であった。

 漢文典籍の素読には、平安朝以来、そのまま音読みするやり方と書き下し文にしたものを読むやり方とがあったが、江戸時代には後者が広まったといふ。

 日本人で初めてノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹と漢学者・貝塚茂樹兄弟は、小学校に上がる前年から毎晩、祖父から素読の指導を受けたといふ。「白い顎髭を生やした祖父の前におそるおそる座って、本を広げると、祖父は机の向こうから字つきの棒でひとつひとつ字をおさえながら、『論語』の本文を独特の節をつけて読んでくれる。…三、四度祖父について、声をはりあげて繰り返して読むと、最後に自分で指で字をついて読まされ、それがすむと授業が終る」。

 教育の場に必要な厳粛さが保たれた中で、三段階のことがなされてゐる。@指導者に続けて、三、四度、大きな声で繰り返して読むA最後に自分で指で字をついて読まされるBその日の教材をきちんとやり遂げた達成感を得て終る。

 声を張り上げて元気よく繰り返し読むことで、子供の心に古典の文章が染み込むのであらう。翌日はどのやうに進むか。「前日に読んだところを自分で二、三度読み、無事に間違えずに読みあげると、次の段に進むというやり方であった」(『世界の名著3 孔子 孟子』7〜8頁)。安易に次の節へ進むことはなかった。

 睦仁親王が素読に取り組まれるご様子をお察しするのに、湯川兄弟の体験談を引くのは些か粗略の誹りを免れないが、お許し願ひたい。昭和の御代になって、皇孫浩宮殿下(今の皇太子殿下)が『論語』の素読をなされた折りのことを漏れ聞いたことがある。前日のお浚ひの折りには、読むだけでなく内容に関する質問がなされて、殿下のその答へ方が勝れて「王者の発想」であったといふ。(『国民同胞』157号)。きちんとお浚ひをなされた上で次に進まれてゐる。

 文久元年(1861)6月以来、『論語』の素読を学習されてきて四年を閲した慶応元年(1865)の6月(御年・14歳)には、「論語素読を修了せらる」(『明治天皇紀』第1巻409頁)とある。4年は長い期間である。0指導する方も学習される親王も余程真剣であったと拝察される。庶民で言へば、卒業式に当るお祝ひの儀式がこの時点で挙行された。

  「漸く其の業を畢へたまふ、仍りて天皇に智恵粥を獻じ、又准后に之を進めらる、天皇之を賀して寄肴を賜ひ、准后亦鮮鯛一折を進ぜらる」(409頁)。

 天皇皇后両陛下は小豆の入った粥である智恵粥を頂かれる。親王は読書師範や関係の方々を若宮御殿に招待なされ祝ひ酒・智恵粥を振舞はれるのであった。

 明治2年(寶算18)から明治5年(寶算22)までの間にお読みになられた本を列記すると『古事記』、『国史纂論』(宮内省三等出仕福羽美静による毎月2・4・7・9の日の会読)、『日本書紀』『書紀集解』『日本外史』等がある。『神皇正統記』は輪読をしてをられた。さらに支那の書籍では『論語』、『四書』輪読、『資冶通鑑』(侍読、秋月種樹)、『孟子』(進講・侍読、中沼了三)、『十八史略』(進講・侍読、秋月種樹)、『春秋左氏伝』(御復読)等々とある。

 さらに『貞観政要』10巻がある。これは唐の呉競の著で、唐の太宗と群臣との政治に関する議論を、君道・政体などの40部門に分けて集めた帝王経世の書と言はれてゐる。『明治天皇紀』第2巻を読み直して見ると『貞観政要』は“輪読”なされたことが伺へる。

 一般的に会議の場合などでは議長が上に座り司会をしながらリードして行く。しかし、輪読では、文字通り全員が輪になって一冊の本に向ひ合ひ、疑問を提示したり、感想や意見を述べ合ったりする。地位や年齢の差を超えて、「内的平等感」が確立された上での遣り取りとなる。この折の参加者は、「侍読大學別当松平慶永・刑部卿正親町三条実愛等之れに侍す」(第2巻、475頁)とあって、若き天皇と侍読者達との講読の様子を拝察するだに、その場の凛とした雰囲気が伝はってくるやうで、思はず、6世紀末、来朝した高麗僧慧慈や百済僧慧聰らと共に大乗仏典の講読に勤しまれた聖徳太子の御姿が思ひ浮んだ。明治天皇の御修養を積まれる日々は、聖徳太子にも見られた常に衆知を集めようとする国風の伝統にも倣はれたのではないかと拝されるのである。

   4、洋学

 ここで、ご教育に携った明治の元勲達の苦心と高い見識を示す箇所をひとつ例示してみる。

  「当時、侍従長徳大寺実則・同河 瀬真孝及び宮内少輔吉井友實等、専ら聖徳涵養に力を尽す所あり、太政大臣三条実美、聖徳の日々に高きを膽仰して歓喜し、五月之を在外の全権大使岩倉具視に報じ、斯くの如くならば、今後一箇年の御修養は能く萬機親裁の實を挙げさせらるるに至るべしと陳ぶ」 (同、625頁)

 「聖徳の日々に高きを膽仰して歓喜し」のところに特にご注目いただきたい。若き天皇のご成長を心から喜んでゐる侍従長達の姿が目に浮かぶやうだ。それほどに心を込めてご教育にあたってゐたのかと、時代を隔てた私たちにもまごころが伝はり嬉しくなって来る。

 これまで、拙稿では「1、敷島の道」(短歌)、「2、国風」(祭祀)、「3、漢籍・国典」と、御修養の内容について管見を述べて来たが、英明なる君主としてお立ちになるために、一本の筋の通った上に、博く学ばれたことが伺へると思ふ。さらに御修養は西洋の諸学問にも及んでゐる。『明治天皇紀』第二巻から、取り組まれた学問と書籍を列記してみよう。

 欧米の政体・制度及び歴史、独逸語学の御講習、博物学、心理学、審美学、英米比較論、英国史、『国法汎論』(ドイツ国法学者ブルンチェリー)等々。

 これらの書物を現代から見れば大學でやってゐるのと大差ない、などと読み過ごしては事の本質は見えない。右記のやうな洋書を御進講申し上げることに異議を唱へた勢力が宮中にはあったのである。それは大典侍中山慶子(御生母)を先頭とする女官達であった。明治元年に出された「五箇条の御誓文」に

   一 知識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 との一箇条があるが、明治4年7月参議西郷隆盛の改革意見が通るまで、「旧弊を打破するに効果」は現はれず、「8月1日、悉く女官を罷免」するに及び、「翌年4月に至り、始めて内廷改革の実を挙ぐるを得た」(同、505、507頁)のであった。

 西郷隆盛は宮中の気風が一新されたことを、同年12月、郷里の叔父椎原與三次宛に「君臣水魚の交はり」が形になったと喜ぶ手紙を送ってゐる。「…変革の中の一大好事は御身辺の御事に御座候 全て尊大の風習は更に散し 君臣水魚の交はりに立ち至り申す可き事与存じ奉り候」(『大西郷全集』第2巻、大正15年)。
こうした忠心溢れる元勲達の誠心と努力があり、不世出の英主としての御資質とが両々相俟っての「若き日の御修養」であったと拝するのである。

       ○

 明治天皇は61年の御生涯でおよそ10万首の歌を詠まれたが、20歳代までのお歌に、次のものがある。

     秋夜(明治11年前)
秋の夜のながくなるこそたのしけれ見る巻巻の数をつくして

     述懐(明治11年前)
いにしへのふみ見るたびに思ふかなおのがをさむる国はいかにと

 秋の夜が更け行くままに古典を繙かれ、真摯に国の有り様に御心を砕かれる若き天皇のお姿が髣髴として来る。この天皇を国の中心に仰いで明治の日本は国の尊厳を保持したのである。

(福岡県立直方高等学校〈英語〉講師)

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          お題「葉」に寄せて

 

        佐世保市 朝永清之
厳寒の凍土に枯れし大根の葉を拾ひ来て飢ゑを凌ぎき(終戦後、北朝鮮にて)
霜枯れの枯葉を混ぜし雑炊の不味き匂ひは忘れられざり
我が庭の雑草の中に生え出でし蒲公英の葉の愛ほしまるる
蒲公英の葉も根も食ひて生きのびし苦難の日々も遠くなりけり

        東京都 坂東一男
葉を落とし光の花を咲かせたる樹々を楽しむ妻と娘と(明治神宮に詣で表参道の光のページェントを歩む)

        厚木市 福田忠之
日の本の置かれし事実その儘を示して余る尖閣の海
健やかな心にしあれば自づから国永久にあれと願ふも
松の葉の変らぬ色を人々に示されし御歌思ひ出ださる

        八千代市 山本博資
冬枯れの畑のなかの空豆の若葉を見つつ実る日を待つ
柿の木のまはりの落葉かき集め堆肥をつくる冬のひなたに

        柏市 澤部壽孫
真夏日の続く夕べの雨に濡れ朝輝く木々の緑葉

        横浜市 亀井孝之
そよ風に紅葉たふ桃の葉のゆれて淡き陽のさすさ庭に散りぬ

        府中市 磯貝保博
一年の命や尽きてはらはらとしきりに舞ひ散る落葉いとほし

        トロヤ遺跡にて 小田原市 岩越豊雄
神殿の跡に生ひたる桑の木の葉陰はるかにエーゲ海見ゆ

        宇部市 内田厳彦
白樺の葉の間ゆ光射し孫達と迎ふる蓼科の朝

        川越市 奥冨修一
浮き沈む落葉のごとく揺られつつ墨田の川にエイトは進む

        宮若市 小野吉宣
土用干し越えて稲の葉いや青く根は八方に張り渡るらむ

        鎌ヶ谷市 向後廣道
御園生の青葉照りはゆ警邏線友らと守りぬ若き衛士の日

        都城市 小柳左門
今はなき師の言の葉に導かれ行くぞうれしき難きこの世も

        福岡市 山口秀範
来る年も数多偉人の言の葉を語り伝へむ子らへ親にも
遺されし和歌や書にも溢れけり世を正すべき人の誠は

        さいたま市 北崎伸一
霜白く身は凍りても花キャベツ葉末の朝陽輝きを増す

        熊本県益城町 折田豊生
 (平成22年回顧)
還暦を 迎へたりける この年は 来し方行く末 見つめつつ 我がなすべきを 今一度 省み思ひ 定めむと その折々に むらぎもの 心鎮めて 師の君の み跡とぶらひ 亡き友の み心偲び 父母の み面思へば おのづから いつしか胸の さやけくも 澄みゆくごとく 思はれて 今しも秋の 長けゆけば 楓の紅葉 あでやかに さりとてややに つつましく 風のまにまに 惜しげなく 散りてや地をも 飾りては 風雅の極みに 我をいざなふ

   返歌
老いゆかばかくあれとこそ諭すなれ散るもみぢ葉の深き彩り

        藤沢市 工藤千代子
懸け橋になるを願ひて若葉さす季節に二十歳の吾子は旅立つ(日台学生会議日本側代表として友等と台湾へ)

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          下関市 寶邊正久
み墓べの楓紅葉の透くばかり明き心をしたしみおもふ(清水山 東行先生墓前)

          青森市 長内俊平
頂きし賀状いくたび拝しつつ友のみ姿おもふ嬉しさ

          さいたま市 上村和男
   友の百名山完登を祝し火打山(二、四六二米)に登る
みはるかすアルプスの山と富士の峰のみ空に聳ゆる姿雄々しき
霜柱ふみつつ登る山路をななかまどの実赤く照らしぬ

          東京都 梶村 昇
   嵯峨野に清涼寺を訪ね
法然の七日籠りて仰ぎみし生身の釈迦われも拝めり
虚空みつめ施無畏の印ものびやかにみ仏は今嵯峨野にいます

          佐世保市 朝永清之
悠久の歴史に輝く国柄をただなりに紡がむ民草われは

          浦安市 小林 功
國思ひ道ひたすらに歩みこしいつの程にかいまはななそぢ

          若宮市 小野吉宣
百年の大木となる庭の柿どこゆともなく鳥の集まる
山鳥は柿に足載せかしら下げ啄み続く我見詰むるも

          さいたま市 北崎伸一
尖閣へ逸る心を押へつつ過ぎし戦の戦士らを診る

          岡崎市 松藤 力
   県立職業訓練校造園科の実習にて
自らに想ひ定めし道なれどしたたる汗に心揺らぐも

          合志市 多久善郎
尖閣に「元寇」迫るこの夏ぞこぞり立つべし日本男児は

          由利本荘市 須田清文
   夜久正雄先生をお偲びして
「誠」なる言葉の意味を師の君はみづから成して教へたまひぬ

          昨年詠より  東京都 小柳志乃夫
ふく風に雲は流れて南の夜空にオリオンの星影さゆる(1月)
父母に見せまくおもふ都べの春の桜の花のさかりを(4月)
さはやかにみ空は晴れて若きらと代々木の宮に流鏑馬を見つ(11月)
ひさびさに会ひし友らと酒くみてくさぐさ語る一夜たのしき(12月)

          双子座流星群  交野市 絹田洋一
流星を求めて見上ぐる冬の空にカシオペア座の星瞬きぬ
流れ星に願ひ事せむと子供らと語り合ひつつその時をまつ
瞑天に流星群の光走り思はず子らと歓声上げけり

          深川市 服部朋秋
カルタゴの轍を踏ますなわが國は大君治らす皇國なれば
幾たびか夷狄を討ちて守り来しうまし國かな大和島根は
神洲のますらを我や迫りくる夷狄たばねて撃ち砕きなむ
東風のまにま箙の梅は香り立ついざ漕ぎ出でむ西へ北へと

          はやぶさ帰還  茅ヶ崎市 北浜 道
いくたびのいたづきを経てやうやくにひかり放ちつつ戻り来りき
カプセルにあと任すごといまひときは輝きて消えしはやぶさあはれ

          久留米市 與島誠央
   近現代史を教へつつ
生みの親の坂の上の雲めざしたる義理よ人情よよみがへれ今に

          由利本荘市 眞田博之
吾妹子の吾子の話を聞きをれば疲れも忘れて嬉しくなるも

   年初の「ひと言」抄 (賀状から)

 今朝(12/20)の記事で、「海保、50人以上処分へ」とのタイトルに、唖然としてをります。昨年は、論じるのも馬鹿々々しくなる様な事件の連続で、ホト ホト、呆れ果てゐます。
 器でない人物が宰相となったときの悲劇を見せられてゐる思ひです。

横須賀市 古川 修

 末っ子も4月より社会人となり、親として少し肩の荷が下りた感じがしてをります。/一方で、子ども手当を始め色々な「パン」を民主党政府は国民へ配ってゐますが、その「付け」は近い将来我が子らへ回って来ると思ひます。/小生の勘違ひ、杞憂であれば幸ひです。

横浜市 影島一吉

 軽薄なメディアや企業、政党により、国柄が壊されて、消費と金だけの土地と建物があるだけの入れ物としての国に成り下がろうとしている今日、悲しい限りです。今年こそは、国柄を取り戻し、よき物を成し、発展できる年であってほしいと願って止みません。(仮名遣ひママ)

静岡県清水町 木内博一

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 編集後記

 南洲遺訓に曰く「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。…夫れ故真に賢人と認むる以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ」。しかし、昨秋の国会での「…石にかじりついても頑張る」との首相答弁など、究極の「私」からの言葉だらう。そもそも現行選挙制度の下で、「私」の優越を言ひ募って当選した者が「真に賢人を認むる」ことは至難のことだし、「直に我が職を譲る」ことはさらに難しい。それにしても、かくまで「私」を顕した総理がかつてゐたであらうか。国威の失墜にまるで関心がない。「協心協力の精神」と「公私の関り」を説いた太子憲法に倣へ!と叫びたい。
今春も御製御歌を仰ぐことができた。謹解謹釈を御精読下さい。(山内)

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