国民同胞巻頭言

第591号

執筆者 題名
本会理事長 上村和男 綱領なき民主党には国政を任せられない
- 何故、政治家が年々「小さく」なって行くのか -
亀井 孝之 まことに危ふい「日韓図書協定」
- 「日韓併合100年」首相談話をめぐって -
小野 吉宣 明治天皇の御学問(中)
- 若き日の御修養 -
桑木 康宏 「日曜寺子屋講座」の取り組み
- 子供たちが生き生きと学ぶ場をつくりたい -
和泉 式部   さわらび抄(37)
  新刊紹介『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』
明成社編  税別1,300円

 「政治改革」が声高に叫ばれるやうになって20年近い年月が経過する。しかし、良い方向に向ってゐるとはとても思はれない。
経済の低迷はいづれ回復するであらうが、政治に不可欠な強いリーダーシップが今の政権からは感じられない。国民の意思をどこにもって行くかの「国家目標」を、民主党政権は明確に示してゐない。

 そもそも政権党となった民主党には党綱領がない。考へ方がバラバラで作れない。定款のない会社のやうなもので無目的集団となるから、国民にきちんとしたメッセージを示せるはずがない。選挙では「国民の生活が第一」などと訴へるバラマキ政策で国民の歓心を買ふしか方策がなかった。それが効を奏したのが、前回の総選挙であった。そして政権を握るや「政治主導」を掲げて、活用すべき霞ヶ関の人材と経験をことさらに無視してきた。その典型が事務次官会議の廃止であり外務省顧問(5人の事務次官経験者で無給)の解任であった。後者の場合、自民党政権時代に任命された顧問を解任する(昨年7月1日)ことで「政治主導」をアピールする狙ひがあると報じられてゐた。国全体のことより「党益」しか念頭にない。視野狭窄と言ふほかはない。

 従って歴史的な政権交代と持て囃された鳩山由紀夫内閣が迷走の末に僅か九ヶ月で退陣したのは当然である。その後を継いだ菅直人内閣にあっても内政外交の混迷は続いてゐる。何をしたいのかが丸で見えない。

 米軍再編に関連する「普天間」移転問題の行き詰り、そこから生じた日米安保体制の綻び。その隙に乗じた中国には「尖閣」で侮られ、ロシアには「北方領土」で振り回されてゐる。外交無策だけではない。内政でも、少子化対策か景気対策か曖昧なまま支給が続く「子ども手当」を筆頭に、高校授業料の無償化、農家への戸別所得補償、高速道路の無料化等々。税収を上回る国債の発行でやうやく予算を組む中でバラマキを続け、政権の維持に汲々としてゐる。

 確かに自民党政権にも数々の問題はあった。だから下野せざるを得なかったのだが、「憲法改正」を志向し、「日米安保体制」で国の安全を確保することを国民に明示してきた。「普天間」問題では地元沖縄の県・市と粘り強く向き会ってきた。特に外交面では国民に直接的な不安を与へるやうなことはなかった。しかし日米安保に依存するあまり、自分の国はまづは自分で守るとの独立国としての覚悟を国民に求めることには極めて消極的だった。集団的自衛権の行使についても明確な方針を打ち出せなかった。これらは自民党政権の大きな反省点である。憲法問題への取り組みにも波があった。

 「政治改革」と言ふなら、憲法改正の方向に沿ふことが何より大切なのはずだが、「政権交代を可能にする選挙制度を」云々といつの間にか焦点がずれて行った。そして平成八年の総選挙から「小選挙区制」が導入された。比例代表制を加味したものではあるが、既に5回の総選挙を経験してゐる。選挙のたびに当選者が小さくなっていくやうに思はれてならない。このことは与野党ともに言へることだ。定員1名で選挙区が狭くなると当選者の人物も小さくなるのだらうか。

 国会議員には内治外交を、そして憲法の正しいあり方を大いに論じてもらはねばならない。だが、果してそれに相応しい識見と力量を備へた候補者が当選してゐるのだらうか。以前の10人前後が立候補し3〜4名の定員を競ひ合った中選挙区制では、選挙区も広かったし、同じ政党の候補者がぶつかり合ふ場合もあったが、選挙戦が熾烈な分だけ当選者の器量は今よりも大きかったやうに思ふ。

 勿論、中選挙区制の時代でも、次の選挙での当選にしか目を向けない議員は少なくなかったし、要は「志」の有無といふことではあるが、選挙のあり方は民主党政権の問題とともに、もう一つの課題ではなからうか。小選挙区制で憲法改正が遠退いては国の将来が益々危うくなる。

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     不見識、恥の上塗り、拙速…

 菅直人首相は11月29日に開かれた日韓・韓日議員連盟合同総会に於て「朝鮮王室儀軌」などの朝鮮半島由来の図書1205冊に関して「来月半ばに李明博大統領が来日されるときにお返しできるよう(今国会承認に)協力いただきたい」と述べた(産経新聞、11月30日付)。

 民主党の規約には、党員とサポーターは18歳以上の個人(在外邦人及び在日外国人を含む)」と記されてゐるから、菅首相は9月の党代表選で当選できたのは、外国人党員・サポーターの応援のお蔭だと思ってゐるのではないか。だから、国会の審議も外国に応援してもらへれば通せると錯覚して“思はず”お願ひしてしまったのだらう。韓国議員がゐる席で国会承認を云々するとは、場所柄を弁へない何たる不見識であらうか(李大統領の来日は北朝鮮の延坪島への砲撃事件もあって延期された)。

 また、その翌30日の午前、官邸を表敬訪問した日韓・韓日議連のメンバーに対して、「王室儀軌などを韓国側に返すことは皆賛成してゐるのに、野党が反対ばかりするためになかなか返すことができない」と挨拶する姿がテレビで報道されてゐた。私には媚びた笑みを浮べてゐたやうに見えてならなかったが、責任逃れと論点のすり替へが得意な首相の本性が出てしまったのであらうが、この場にゐた韓国側の議員は、呆れて腹の中で嘲笑してゐたにちがひない。

 11月14日に日韓の外相間で調印され、16日に国会に提出された「朝鮮王室儀軌」お渡しのための日韓図書協定承認案件の審議が進まないのは、かねてから野党が要求してゐる小沢一郎元代表と鳩山由紀夫前首相の「政治とカネ」疑惑の国会での弁明に、党代表の首相が指導力を発揮せず、党執行部も頬被りして応じない傲慢に加へて拙劣な国会運営によるものであることは、何人の目にも明らかであった。それにも拘らず、韓国の議員を前に「野党が邪魔するから」と公言して責任を転嫁するのは、まさに恥の上塗りであった。

 そもそも「朝鮮王室儀軌譲渡」問題は、8月10日、閣議決定を経て発表した「日韓併合100年」首相談話の中に、韓国側の求めに応じて「日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くお渡ししたいと思います」と明記して、国内での検討も不十分なまま結論ありきで公に約束してしまったことから起ったものである。しかし、その後、日本統治時代に日本から持ち込まれた3万から数万点の文献が韓国側に保管されてゐることが発覚し、このため日韓図書協定は日本側の一方的な譲渡であって、双務性の外交原則に逸脱してゐると指摘される事態となってゐる(産経新聞、12月2日及び11日付)。まさに拙速の極みであって、国会承認どころの騒ぎではない。

     純宗の詔勅

 「朝鮮王室儀軌」とは、朝鮮国王の即位についての記録など、李氏朝鮮時代の主要な行事について、その次第や作法を絵や文書で記録した300頁程の冊子の総称であって、現在は宮内庁書陵部に保管されてゐる文化財である。李王朝第27代王(大韓帝国第2代皇帝)の純宗(日本統治時代は皇族に準じる王族で初代李王)が逝去したのは大正15年(1926)のことで、昭和20年、日本による統治が終って以来、今日までの六十五年間を共和制で来た韓国が、この時期に王室儀軌の「返還」を望んだ真意は何か。
日韓併合から百年を節目として、李王朝時代の文化を見直さうとの風潮が格別に強まったとも思はれないが、当時のことを研究したいのであれば、韓国における重要な資料である純宗王の詔勅を拝読し直してみることが大切ではなからうか。

 日韓併合条約は明治43年(1910)8月22日に両国の全権委員であった寺内正毅子爵と李完用内閣総理大臣が署名調印して結ばれてゐる。名越二荒之助先生の編著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版、平成11年)によると、韓国では調印当日、閣僚が昌徳宮に参内し、午後1時から王族代表や元老代表を招いて御前会議が開かれ、病気欠席した李容稙学部大臣を除く全員の賛成によって、併合が決定され、それを純宗皇帝が裁可し、次のやうな詔勅が出されたのであった。

  朕東洋平和を鞏固ならしむる為、韓日両国の親密なる関係を以て彼 我相合し一家をなすは、相互万世の幸福を図る所以なるを念ひ、茲に韓国の統治を挙げ、此を朕が極めて信頼する大日本皇帝陛下に譲与することを決定し、仍ち必要なる条章を規定し将来我皇室の永久安寧と生民の福利を保障する為、内閣総理大臣李完用を全権委員に任命し、大日本帝国全権統監寺内正毅と会同して商議協定せしむ、諸臣亦朕が意の確断したる所を体して奉行せよ。

     御名御璽     隆煕4年8月22日

     偏頗な「菅首相談話」

 首相談話で、王室儀軌の「返還」ではなく「お渡ししたい」と明記した理由について、菅首相は記者会見で「日韓併合条約は1965年の日韓基本条約での考え方を踏襲してきた。宮内庁に保管されていた朝鮮王朝時代からの資料は、請求権など法的なものは完全に解決済みとの立場で、『お渡しをする』という表現を使った」と答へてゐる。

 それなら、なぜ首相談話の中に、「日韓基本条約によって補償・請求権については完全かつ最終的に解決済みである」と明記し、「それとは別として韓国の貴重な資料なので譲渡したい」としなかったのか。それどころか、「…政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人には、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ」云々と記して、かつての韓国側の言ひ分にすり寄り、あたかも日韓基本条約の関連協定の改訂を目論んでゐるかのやうな偏頗な歴史観を明記した。その上、韓国議員を前にして「お返しできるよう協力…」と口を滑らせてゐる。

 昭和27年から始まった国交開始ための日韓会談は、韓国側が「併合条約は日本が武力で押し付けたもので当初から無効である」と主張したため拗れてゐたが、昭和36年(1961)に登場した朴正煕大統領が国内経済の浮揚には日本の協力不可欠と決断して日本側にやや歩み寄ったことから進展し、昭和40年に日韓基本条約が締結された。その第二条には旧条約は「もはや無効である」と記され、無効の時期を明示しないことで妥協がはかられたのである(これによる無償3億ドル・有償2億ドルの対韓経済協力が韓国経済躍進に繋がったことは言ふまでもない)。

 その後、日本側は、宮沢談話(昭和57年)・河野談話(平成5年)・村山談話(平成7年)と、国の後先を考へない一時しのぎの自虐的「謝罪」談話が続き、民主党政権となり、このたびの菅談話となったわけである。
一方、韓国側は、前述の『日韓2000年の真実』によれば、朴大統領の遺志を継ぐ全斗煥大統領は、1981年8月15日(光復節)、次のやうに述べてゐる。

  我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である。

 また、全大統領の次の盧泰愚大統領は平成2年来日した際、韓国大統領として初めて行った国会演説の中で「今日我々は国家を守ることができなかった自らを反省するのみであり、過去を振り返って誰かを咎めたり、恨んだりしようとは思わない」と語ってゐる。

 自国の歴史を考へることにおいて、両国の政治指導者の覚悟に大きな差違があったと言ふほかはない(ただ近年の盧武鉉前大統領のやうに、「反日感情」に寄り掛かる面も否定できないが)。

     民主党外交の自虐性

 「百年談話」を出すやうな民主党政権が続く限り、日韓基本条約の実質的な変更とも言へる「個別補償」を一方的に蒸し返す可能性が危惧される。

 報道によれば、7月7日、仙石由人官房長官は外国特派員協会で講演し、「法律的に正当性があるといってそれだけで物事が済むのか。改善に向けて政治的な方針を作り、判断しなければいけない案件もあるのではないか」と述べ、日韓に新たに個人補償請求問題を発生させ、補償を可能にする政治方針を打ち出すことを暗示してゐたからである。法律的に正当であってもダメだとは、いかにも、依頼人の弁護をするためには、クロをシロと言ひ張る理屈を駆使してきた、人権派弁護士らしい発想である。それを国家関係に持込まうとしてゐる。この延長上に「菅首相談話」がある。韓国側にしてみれば、国内の反日世論に応へるためにも、仙石発言はもっけの幸ひであらう。

 個別補償を言ふならば、相互性の観点からなされるべきで、例へば多くの日本人が半島に個人資産を置いてきた事実がある。仙石長官の念頭にそのことがあるのだらうか。長官の論理で言へば、「いくらサンフランシスコ講和条約で戦争状態の終了が謳はれたからといって、それだけで物事が済むのか。アメリカが原爆を二度も日本に使用したため、現在も後遺症に悩む被爆者に補償を可能にする政治判断をアメリカはしなければならない」と主張することもできる。しかし、アメリカには向はず自虐の方向に向くのみである。

 自虐史観による自分の思ひを、法廷闘争のレベルを越えて、国家間の条約に対する見解にまで持ち込んでは、国際社会のルールは成り立たない。このことは自明の理であらう。しかも、日韓基本条約とその関連協定で、両国間の請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」ことを承知の上で言ひ張らうとする。詭弁としか言ひやうがない。

 このやうな政権は、一刻も早くお引き取り願はねば、ますます国益を損ねるばかりである。国家がしっかりしなければ、やがては国民の上に災禍が及ぶ。

(元皇宮護衛官)

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     2、国風(承前) ハ、厳しい躾- 御生母から -

 御幼少時に、御生母中山の局は厳しい躾をなされた。

 昭和2年に出版された『明治大帝』(大日本雄弁会講談社)に所載されてゐる元掌侍藪嘉根子の「お腕白盛りから」に次のやうに書かれてゐる。これは明治天皇が御幼少のころ、お稚児としてお相手をした藪嘉根子の兄亀丸の回想に基づく一文である。

 

「聖上はお小さい時から、非常に勝気にましまして、稚児を相手に戦事を遊ばす際にも、自ら木太刀を以て勇ましくお切り合ひ遊ばし、決してお負けになるやうなことは無かったと承ります」(72頁)。

 父帝孝明天皇は長身であらせられ、そのお血筋を引かれた親王は、同じ年頃のお稚児連中では物足りない御成長ぶりであった。

 男の子は腕白盛りの頃がある、ここまではやっていいことと悪いこととが叱られて分ってくるものである。ある時は大切にお縁側に飾っておいた万年青の葉を、鋏でチョン切って坊主にして仕舞はれた。そんなお腕白に対して「御生母、中山一位局様は随分お厳しいお育て方を遊ばしたやうに承りました。悪いことはビシビシとお叱りになり、どうしてもお用ひのない時には、お文庫(御倉)の中へお入れ申してまでも、おたしなめになつたやうでございます」。誰しも、お襁褓が取れてヨチヨチ歩き仕出した頃、自分がどんないたずらをして叱られたかをすっかり忘れてゐる。と言ふよりも全く覚えてゐない。子を持つ身になって初めて親の有り難味が分るものである。

 幼少時の腕白、これは日本も欧米も変らない。英語に[Boys will be boys.]といふ章句がある。これを[少年は少年だらう]とは訳さない。Willは[傾向]を表はし「男の子はいたづらをするものだ」と訳される。だからと言って、いたづらは放任されて良いわけではない。きちんとした家庭では厳しく躾ける。その例が[Spare the rod and spoil the child.]である。「鞭を惜しんで子供を台無しにするな」、子供が可愛いならば鞭でお仕置をするべきである。さうしないと子供が[spoil]腐って仕舞ふ。

 日本では「甘やかす」とは砂糖の与へすぎで虫歯になる程度だが、欧米では「スポイル」=「腐って仕舞ふ」で、甘やかすと一生が駄目になるといふ深刻な意味なのである。私は長らく教壇に立ってゐるが、子育て中の方はこの受け止め方の違ひにぜひ気付いてほしいと思ふ。甘やかされて育った子供は、高校生になって先生から厳しい指摘を受けると、素直に反省せずにすぐにふて腐れてしまって伸びない。近頃はそんな高校生が如何に増えてゐることか。口先で「駄目だ」と教へるのは誰にでも出来る。しかし、自分の非を認めさせ素直に謝り、正しい習慣を身に付けるまで育むのが、本物の母性愛ではなからうか。それが洋の東西を問はない真実であらう。

 御生母は、厳しく鍛錬的な躾をなされたやうだ。「冬でも足袋を履くことが許されず、霜焼けが痛んでたまらなくなると、漸くのことで、その甚い方の片足だけお許しが出たと言ふ程に御厳重であったやうに承りました」(74頁)とある。今風に云へば、真冬でも足袋をはかせないのは児童虐待になりかねない「招来天皇になる方に其処まで厳しくしなくても…可哀いさうだ」の声が聞えて来さうである。だが、「三つ子の魂百まで」といふ諺があるやうに、数へで三歳くらゐまでに受けた躾が人格形成にとってどれだけ大切であるか計り知れない。厳しければ厳しいほど有り難かったと振り返るときが必ず来るのでなからうか。
のちに明治天皇は、御父孝明天皇の御代に仕へた人達を偲ばれて、次のやうに詠まれてゐる。

   たらちねのみおやの御代につかへにし人も大かたなくなりにけり
                           (明治37年)

 「たらちねのみおや」に仕へて維新回天の大事業に尽した人達にお心を寄せられ「大かたなくなりにけり」と詠嘆されてゐる。

   をさな子が遊ぶをみてもわれをかくおほしたてたる人をしぞおもふ(同)

 ここでは目にされた遊ぶ「をさな子」に御自分を投影されてゐる。深い情愛を籠めて育て上げてくれた人達を思ひ出してをられる。そして、最晩年になられても夢の中で「たらちねの親」にお会ひになられてゐた。

   たらちねの親のみまへにありとみし夢のをしくも覺めにけるかな
                           (明治44年)

 明治の諸改革の先頭に立たれ、無私の御姿勢で国内をまとめられた明治天皇が、夢の中では御幼少の頃に戻られ「たらちねの親の御前に」立ってをられる。「夢のをしくも覚めにけるかな」と詠んでをられる。「たらちねの親」は御生母をさすだけだらうか。御生母を偲ばれる折りは、また和歌詠草の手解きをして下さった父帝を、御神前でひたすら国の平安を祈られるその御姿を思ひ起されてゐたのではなからうか。「たらちねの親」に始まる御製はこの他にも多くあって、御自分を厳しく育てて下さったことに感謝してをられる。

 天皇が常に無私のお立場を取られる伝統は平成の今日も脈々と受け継がれてゐる。「今上陛下はテレビを正座してご覧になられてゐる。陛下は二時間に及ぶ御神事で足が痛いとか痺れるとかさういふ雑念があってはならない、とお思ひであらせられるから、日常からご自分に厳しくなされてゐる」と、渡邉允前侍従長がテレビのプライムニュース(12月14日)で語ってゐた。

     二、父帝の御志と帝王教育

 万延元年からお側に仕へた掌侍取扱の樹下範子が毎日の御日課について述べてゐる中で、午前中はお昼まで「お手習やらいろいろのお稽古のお相手、私は御墨をすったり、彼此とお手伝ひいたしました」とあって、昼の御食事を済まされた後に注目すべきことが書かれてゐる。
実の親子であっても天皇陛下の御前へは平服では進めなかったのである。

  「やがてお召替へになります。本 紋の緋綸子の御衣、白絹の御袴、鮮かな御姿で御所に参内遊ばします」(294頁)。

 睦仁親王は、内裏に参上するに相応しい身形に整へてをられる。「斯く午後の3時頃まで、毎日御父君孝明天皇の御傍に居らせられた」。その都度、和歌の御題五つを頂戴して、御詠進遊ばされてゐたやうである。現代で言へば小学校に上がられる頃からこのやうに直々に、帝王教育を受けられてをられた、と拝察されるのである。

 年表によれば、元治元年(1864)1月15日、将軍家茂入京。この年、睦仁親王(明治天皇)御年13歳。吉田松陰・橋本左内らを死罪に処した安政の大獄から5年余り、辣腕を揮った大老井伊直弼が兇刃に斃れて(桜田門外の変)既に亡く、公武合体の実をどう形にするかが問はれる展開となってゐた。

 孝明天皇は朝廷に参上した将軍家茂に次のやうな御宸翰(お手紙)をお授けになる。ここでは口語に改めて読んでみたい。

  「ああ、現在の日本の切迫した情勢をお前はどう思ってゐるか、内は国を治める糸筋はすっかり乱れてしまひ、上下はばらばらになって、国民は塗炭の苦しみの中で喘いでゐる。まさに国全体が『瓦解土崩』-総崩れになってゐると言っても過言ではない。それに外からは傲慢な国々から侮辱の限りを受け、今や我が国は国土を侵されるか否かの瀬戸際に立ってゐる。『其の危き事累卵の如く、又眉を焼くが如し』自分はそのことを思ふと夜も眠れないし、食物も喉を通らぬおもひである。『嗚呼、汝、是を如何と顧る』-ああ、お前はこの国のすがたをどう思ってゐるか」

 さらに、天皇はそれに続けて、「それはお前(将軍)の罪ではない」-「是則ち、汝の罪にあらず、朕が不徳の致すところ、其の罪朕が躬に在り」-すべての罪は天皇である自分が至らなかったためにこのやうになったのだ、と仰って、次のやうに続けられた。

  「汝は朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽回の成否に関係す。豈重きに非ずや」(参照、小柳陽太郎先生「君臣の情」、『日本への回帰』第35集所収、126-9頁)

 孝明天皇が徳川将軍に対して「赤子」と呼びかけてをられる。ここに、朝幕関係の齟齬が国家の分裂とならずに統合を生み出す深奥の秘密があった。日本の国柄ならではのことである。この御宸翰が睦仁親王に大きな影響を与へてゐたことが、「明治維新の御宸翰」から拝察される。これは五箇条の御誓文と同じ日(慶応四年=明治元年3月14日)に書簡の形で出された勅語であるが、かつて合宿教室で小田村寅二郎先生が「明治維新の五箇条の御誓文だけでなく、明治天皇が皇祖皇宗の神に誓はれた践祚第一の御宸翰を読んで欲しい」と言はれたことが強く記憶に残ってゐる。その一節を読んでみよう。

  「朕、幼弱を以て、猝に大統を紹ぎ爾来、何を以て萬国に対立し、列祖に事へ奉らんやと、朝夕恐懼に堪へざるなり」
「今般、朝政一新の時に膺り、天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し心志を苦しめ艱難の先に立ち、古、列祖の尽くさせ給ひし蹤を履み治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし」(『詔勅集』404-5頁)

 ここに述べられてゐる御心は将軍家茂に「汝は朕が赤子、朕 汝を愛すること子の如く、汝 朕を親しむこと父の如くせよ」と呼び掛けられた父帝孝明天皇の御心そのままと拝するのである。鎖国体制から国際社会の荒波の中に漕ぎ出した明治日本、その先頭に立たれた若き天皇の御決意の裡に、先帝の御志が偲ばれるのである。

(福岡県立直方高等学校〈英語〉講師)

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 この1年半ほど、国民文化研究会(国文研)の取り組みに改めて積極的に参加してゐます。昨夏の合宿教室(阿蘇)では初めて運営委員を務めましたが、仕事の忙しさとも相まって、本当にあっといふ間に日々が過ぎ去ってゆきます。かういふ忙しい時こそ、「飛び込んできた話を感謝して受ける」ことを心がけてゐます。今回頂いた本紙への執筆のお話は、諸先輩方に、若手会員の活動の一端をご報告する機会を頂けたと、感謝してお受けしました。めまぐるしい日々の中で、立ち止まって、自分を顧みる機会を頂けたことに心より感謝してゐます。

          ○

 現在、私は34歳。11月7日に待望の長男が誕生し、二児の父となりました。長男の名前は「信行」としました。聖徳太子憲法拾七條の第九條「信は是れ義の本なり。事毎に信有るべし」から、「信」の字を頂いて名付けました。ちなみに長女は二歳半。名前は「晴子」です。女の子はとにかく明るく晴れやかな子になって欲しいとの願ひを込め、妻が名付けました。

 国文研に出会ってゐなければ、多分このやうな名前を付けることはなかったと思ふと、国文研との巡り会ひは、自分の人生において、とても大切な出会ひであった、と改めて感じます。そもそも兵庫県出身の私が九州工業大学に入学したことで、夏の「全国学生青年合宿教室」の開催を知ったのでした。合宿教室参加後は学内に読書会を発足させ定期的に集ひを持つやうになったのです。

 就職して12年になる私が、1年半ほど前から、国文研の活動に改めて積極的に参加するやうになったのは、(株)寺子屋モデルで頑張る同社の講師・横畑雄基さんの生き方に気付かされたからです。彼とは合宿教室を通して知り合った仲で、同年齢です。山口秀範社長のもと、日々子供たちと向き合ひ、また、多くの方々と関係を築きながら、国文研で学ばせて頂いたことをより多くの人に伝へる活動をしてゐます。しかも、大学卒業後、高校の先生をしてゐたのに、その職を捨て、寺子屋モデルで仕事をしてゐます。

 それに対して私は卒業以来ずっと仕事中心です。ある時ふと横畑さんの「子供たちに国柄を伝へていく生き方」を心にとめて考へた時、人生への重みの掛け方の違ひを感じました。今の自分の生き方を否定したのではなく、彼の生き方を羨ましく思ふと同時に、もっと自分にもできることがあるのではないかと気付かされたのです。

 寺子屋モデルで横畑さんがメインで担当してゐるのは、ある特定の幼稚園の卒園生を対象とした「小学生寺子屋塾」です。その狙ひは、幼稚園時代に寺子屋モデルの「偉人伝」などしっかりとした教育を受けてゐたのに、小学校に進むと、いつの間にか所謂「ふつうの子」になってしまった子を持つ保護者の期待に応へることです。それを嘆く保護者に呼びかけて、小学生になってからも週に一度、幼稚園に子供たちを集めて、横畑さんがしっかりした教育を行ってゐます。内容は、通常の算数や国語に加へて、漢文の素読や、古典、和歌の朗誦です。これが如何に素晴らしい取り組みであるかは、参加してゐる子供たちが生き生きとしてゐる様子を見ると分ります。

          ○

 自分にもできることがもっとあるのではないかと感じ、そしてチャレンジしてみたいと思ったのは、この「小学生寺子屋塾」を、より多くの子供たちに届ける仕組み作りです。今は、特定の幼稚園の卒園生だけが対象ですが、これをどんな子供でも参加できる仕組みにして展開させたい。これが自分にできることなのではないかと、インスピレーションが湧きあがりました。

 そして今、山口秀範社長が推し進める「偉人伝」講座を軸とした教育活動を広げるべく、横畑さんとともに取り組んでゐます。重要なことは、事業として成立させることです。採算の獲れるしっかりとした収益のあがる仕組みにすることで、プロの先生を増やす原資を確保し、将来的にはより多くの子供たちに、いい教育を届けたいと願ってゐます。

 今、子供たちに「尊敬する人は?」と尋ねると、返答に窮する子供が多く、「ゐない」と答へる子がほとんどです。自分の生き方を考へるための鏡が、子供たちの中から失はれてゐるのを感じます。私もあまり偉さうなことを言へるやうな学問をしてきたわけではありませんが、国文研との出会ひによって、少しは学ばせて頂いたことがあります。

 具体的な動きとしては、福岡市の南にある那珂川町で学童保育の施設を日曜日にお借りして、「日曜寺子屋塾」をスタートさせてゐます。メインは「偉人伝」で、それを積極的に打ち出し、それに加へて、身の回りにある道具を活用した「科学実験」を実施してゐます。科学実験を行ふのは、「偉人伝」と聞いてピンと来ない保護者にも参加して頂き、「偉人伝」を聞いた子供たちの反応を見て頂くためです。

          ○

 日曜寺子屋塾の流れは、最初に、参加者みんなで腰骨を立てて正座し、『実語教』(弘法大師の著と伝へられる児童向け教訓書で、江戸時代の寺子屋でも活用された)から抜粋した文章を声を揃へて読む所からスタートします。そして、偉人伝、科学実験と続き、最後に明治天皇御製「物学ぶ道にたつ子よおこたりにまされる仇はなしとしらなむ」を、みんなで姿勢を正し声を揃へて読んで終るといふ流れです。初めて参加した保護者の中には少し違和感を持たれる方がいらっしゃいますが、子供たちが楽しそうにやってゐる姿を目にされてゐますから皆さん理解を示してくださいます。

 現在は、親子参加を必須として、日曜寺子屋塾の中で何を子供たちに伝へようとしてゐるのかを保護者にご理解頂くことを目的としてゐます。将来的には、ご理解を頂けた保護者と一緒に、平日週1回の塾を作りたいと考へてゐます。

 これまで3週間に一度のペースで5回開催し、延べ35名の子供たちが参加しました。回を重ねる毎に少しづつ内容を改善し、より子供たちが楽しめ、保護者がわが子の成長を実感できる仕組みになってきてゐます。実際、一度ご参加頂いた方々の半数は再び来てくださってゐます。内容、運営体制共に充実してきたので、今春からは広く勧誘に力を入れたいと考へてゐます。

 実は、保護者からの声として、「すごくいい内容なのに、日曜寺子屋塾といふ名前では何をやる所か分らない」といふご意見を頂いてゐます。「偉人伝」講座と聞けば、300人の参加者がすぐに集まる地域もあるのですが、那珂川町はさういふ地域ではないことが、これまでの取り組みを通じてわかりました。私にとって、これは非常に大きなチャンスだと感じてゐます。この地域で、より多くの保護者からいい反応をもらへて、たくさんの子供たちが集まる仕組みを作り出せれば、他の場所でも通用する仕組みになる。そんな思ひで、活動を進めてゐます。

 これまでの実績が町の担当の方への信頼となり、この一月には市内全ての小学校(7校)で「日曜寺子屋講座」のチラシを配布して頂くことになってゐます。本業の仕事も大変忙しい時期ですが、たくさんの子供たちが尊敬できる人と出会へて、生き生きと輝く目で勉強できる場をつくるため、横畑さんと共に、しっかりと取り組んでいきます。

((株)ハウインターナショナル)

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     ものおもへば沢の蛍もわが身より
     あくがれ出づる魂かとぞ見る

 和泉式部は天元元年(978)頃の出生で平安中期の女流歌人。父は大江雅致、母は平保衡の女。和泉守橘道貞と結婚し女子を生むが冷泉院の皇子為尊親王、ついで敦道親王の寵を受けた。両親王が若くして世を去ると一条天皇中宮彰子に仕へ、のち藤原保昌と再婚。 保昌は武芸にすぐれた歌人であった。和泉式部は奔放で情熱的に生きた女性として名高いが、その調べについて、『名歌でたどる日本の心』には「数々の情熱にあふれた恋の歌は、それと表裏する宗教的な心情とともに読む人の心を打つ」とある。

   冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

 右は20歳代半ばに詠んだものといふ。恋多き日々にあって稜線に懸かる月を眺めつつ自分の行く末に遙か思ひを馳せたのだらう。

 冒頭に掲げた歌には「男に忘られてはべりけるころ、貴船(貴船神社)にまゐりて、御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見て詠める」との詞書がある。夫・保昌の心変りに悩み、貴船の神に縋らうと参詣し折、御手洗川に飛ぶ蛍を見て、「まるでわが身からさまよひ出た魂のやうだ」と詠んでゐる。わが身から「魂が出づる」とはどういふことを意味するのだらうか。

 古くは、肉体からの霊魂の遊離は死を意味した。霊肉が相伴っての生である。死が到来すると、身内は遊離した霊魂を引き戻すべく例へば屋根に登って夜通し死者の名を呼んだ。「魂呼ばひ」である。今日、所謂通夜が一段落した後、ごく近い親族は明け方まで棺の傍らで夜を明かす。「魂呼ばひ」からくる本来の「通夜」である。霊魂の復帰がいよいよかなはぬとなって葬るのである。霊魂は永遠だが霊魂なき肉体は朽ちるからである。今日とて変らない。

 沢の蛍の明滅を見て「わが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」と詠んだ作者の胸中は「死ぬ」ほどのものだったのだらう。ここに日本人の伝統的感性の裡にある作者の心情を観るのである。
道貞との間に儲けた娘の小式部内侍も母に似て歌才に恵まれ恋情多き女性だったが、男子を生んだ折、母に先立って亡くなってしまふ。遺児(孫)とともに残された和泉式部は、

   とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり

 と詠んだ。逝った娘は子と親の私のどちらを哀れと思ってゐるだらうか、子の方だらう。私だって子と死に別れる方が辛いと歎いてゐる。 (山内健生)

 ○「さわらび抄」は、皆さんの愛誦してゐる短歌を、お心に残る短歌を、ご紹介いただく欄です。ご投稿をお待ちしてをります。

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 本書は皇太子殿下のご公務に関りがあり、殿下を間近に仰いでこられたお二人へのインタビューを中心に構成されてゐるが、殿下のお人柄を具体的に伝へてくれる稀有な有り難い本である。

 殿下は、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をお務めになり、水問題に関する国際会議ではご講演もなされてきた。水不足・水質汚染・洪水被害などの水問題は世界各地で起ってをり、地球的規模の問題と言へる。本書を読んでことに印象に残ったのは、殿下に御接見を賜ったことで各国の専門家達の問題に取り組む意欲が引き出されていくといふ箇所であった。例へば、第一回アジア・太平洋水サミット(平成19年)の準備会合の折に御接見を賜った専門家達は、東宮御所へ伺った帰路、「我々はもっともっと頑張らなければならない」と大変盛り上ったといふ。御接見に陪席した尾田栄章諮問委員は、「皆の胸中にある意欲や思いがかき立てられていくという感じなのです」と述べてゐる。

 本書を通して一貫して窺へるのは、相手の話を真摯にお聞きになる皇太子殿下のお姿である。殿下に話を聞いていただいてゐるうちに、話し手の思ひや意欲がかき立てられるといふのだから、そこに殿下のお人柄が思はれてならなかった。

 さらに、世界水会議の会長であるロイック・フォーション氏(フランス人)は殿下について「水分野におけるオム・デタ(Homme d'Etat)だ」と述べたといふ。「オム・デタ」とは、現世のドロドロとしたものを超えた存在であり、国や国民のことを本当に思ってゐる人のことを言ふのださうである。

 このやうな殿下のお人柄は非常に大きく深いものに思はれてならなかった。本書の冒頭の打越和子氏による「皇太子殿下- 皇位継承者としてのご決意」といふ一文には、「将来の天皇となられるべき(中略)重い定めを、どのように受容され、さらには、積極的な意志と覚悟に変えていかれるのか、余人には想像がつかない」とあったが、殿下のお人柄は正にこの「積極的な意志と覚悟」があればこそなのだらうと考へさせられた。殿下は、かねてから歴代天皇の御事蹟について御進講をお受けになられてきたが、その際は事前に御自ら御事蹟について学びを深めてをられたといふ。また歴代天皇の式年祭に先立って、両陛下が御事績の御進講を受けられる折には、近年でも雅子妃殿下もご一緒に陪席されてお聞きになってをられるといふ。妃殿下について、とかくの物言ひがなされてゐるが果してかうしたことを承知の上でのことなのだらうかと、ふと疑問を覚えた。

 水問題に取り組まれてゐる殿下の御活動は、国際的には非常に高く評価されてゐるのだが、私を含めそのことを日本人はあまり知らないのではと思った。海外の専門家は「殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知らないのでは」と言ってゐるとのことだ。この箇所を読み、私自身心苦しく思った。殿下について多くを知らないことに気づかされたからだ。

 打越氏の一文は「(日本の皇太子について一番理解してゐないのは日本人であるといふ)歪な構造を変えていく努力が、国民の側にこそ求められていると言えるだろう」と結ばれてゐる。正にその通りなのだと思ふ。
是非本書をお読みいただきたい。

(東京大学教養2年 高木 悠)

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 お知らせ

国文研創立50周年記念出版 増刷!
小柳陽太郎他編著(国文研版)
『名歌でたどる日本の心  スサノオノミコトから昭和天皇まで』
定価1,500円 送料290円

廣瀬 誠著(国文研叢書30)増刷!
『萬葉集 その漲るいのち』
定価900円 送料290円

 

 編集後記

 新年を迎へるに当って、改めて後世の者が先人から受け継ぐものは何かを考へてみた。例へば血・財産(モノ)・志の三つがあるだらう。血とモノは他者の眼にも写るから、その継承の真偽はごまかしやうがない。今なら血液型に加へてDNA鑑定もある。しかし「志の継承」は厄介だ。眼に見えないから継承の真偽は計り難い。その継承を自称して、他者を、そして自分自身を欺くこともできる。思ひ巡らせば「志の継承」ほど人間的な営みはないはずだが、難しい。しかし、それなくば、その時々の自己の利便のみに走って、より動物的に生きることにもなる。そこでは理想や誇りを口にすることはあっても、口にするだけ、と考へてきて、九段のお社に足を運ばない総理が、硫黄島に出向き遺骨収集作業を視察したとの報道には虫酸が走った。

 正月に当り、「稽古照今」の意味を改めて噛みしめてゐます。本年も宜しくお力添へ下さい。

 平成23年元旦 山内健生

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