国民同胞巻頭言

第590号

執筆者 題名
山内 健生 呆れ返った二つの発言
- 官房長官失格ではないか -
寶邊 正久 和歌について
小泉 明義 会計に懸けた父の志を継いで
- 父(編註・小泉 明元本会理事)を語る -
小野 吉宣 - 月刊『致知』平成22年6月号(致知出版社刊)より転載 -
(サブタイトルは編集部で付けた。仮名遣ひママ)

明治天皇の御学問(上)
- 若き日の御修養 -
戸田 義雄 『祖国と人類の悲願- 諸民族の聖魂 -』
(国文研叢書33、平成4年刊)から

“怨念”を出で“寛容”の宗教へ
  新刊紹介

 官房長官といへば俗に首相の懐刀とか、女房役とか言はれる内閣の要である。その仙石由人官房長官が、11月18日、参院予算委員会の答弁の中で、自衛隊を「暴力装置」呼ばはりしたことは少なからず世間を驚かせた。国防の意義も意味も、全く考慮の外であることを白状したに等しいものだったからである。

 その一部始終をテレビの国会中継で目にした。前後の遣り取りから、自衛隊は武力を行使し得る組織であると言はんとして「暴力装置」発言となったのだが、ごく自然に直截的に口から出てきた感じだった。長官の発言に野党の委員席がざわついたことで、何か不味いことを言ったのかなと言った感じで、二言、三言、答弁を続けた後、野次で気づいたらしく「実力組織」と言ひ換へて、その答弁を終へた。直ぐに質問者が発言の取り消しと自衛隊への謝罪を求めると、種々弁明釈明を試みたが結局は「法律用語としては不適当だった。自衛隊の皆さんには謝罪する」旨を述べたのだった。「法律用語としては不適当」とは学術用語としては取り消す必要はないといふニュアンスを込めたもので“官房長官の国会答弁としては極めて不適当な物言ひだった”。要するに「暴力装置」発言は官房長官自身(旧社会党出身)の左翼偏向振りを自らダメ押ししたもので、その意味では驚くに当らない。

 しかし、首相が自衛隊の最高指揮官である現制度下にあって、その筆頭補佐役と目される官房長官がかかる思想の持ち主かと思へば心寒く慄然たるものを覚えざるを得なかった。当然、菅直人首相には重い任命責任があるが、果してどれだけ重大に受け止めてゐるのだらうか。

 11月8日の記者会見でも、わが耳を疑ふ奇妙な発言をしてゐた。

 

「(日露関係に関して)ロシアとは、まだ平和条約を結べていない。戦争状態を終わらせるには、どうしたらいいかだ」(9日付産経の4面)

 産経紙の記事はゴシップ扱ひで「仙石氏の勘違いだったようだ」の一言でサラリと片付けてゐた。しかし、この発言だけを取り上げても官房長官は失格であらう。確かに領土問題の絡みで日露間は平和条約に至ってゐないが、昭和31年の日ソ共同宣言を以て法的な戦争状態は「終了」してゐる(ロシアはソ連の後継国家だ)。国全体のことを少しでも考へてきた人物ならば、記者会見の場で「日露間の戦争状態をどう終らせるか」などといふ「勘違ひ」発言が飛び出すはずがない。まして官房長官である。

 前文と10項からなる日ソ共同宣言には、領事関係の回復・日本の国連加盟へのソ連の支持・ソ連抑留の「戦犯」釈放・平和条約締結後の「歯舞群島」「色丹島」の返還・通商条約締結交渉など、さらには批准条項まであって、平和条約に準ずる内容となってゐる。むろん「歯舞・色丹」に止まったことは禍根を残すことにはなったが、戦争状態の終了が宣言されて国交は回復したのである(北方領土に関して付言すれば、周知のやうに国後島・択捉島を加へた「四島返還」が戦後の日本の立場だが、旧連合国との絡みがあるとはいへ、幕末の日露接触の原点を思ふと如何にも腰が退けてゐる。先人に対して申し訳なく残念でならない)。

 米ソが世界を二分する冷戦下、ソ連と復交したことによって日本は国際社会にともかくも全面復帰した。広い意味では昭和39年の東京オリンピック開催の前提でもあった。日ソ復交は戦後史の中で4、5番目には入るであらう重大事であるが、その外交上の意義が官房長官には曖昧であったとは本当に驚きである。
戦後史に関する基本的知識を欠くといふべきか、そもそもその左翼志向からして国家と国家の関係如何には無関心だったのではないか。従って、今般の「尖閣」を巡る菅内閣の一連の退嬰的対処も、理の必然といふことになる。無原則な対中迎合を「柳腰外交」などとはぐらかして国威の失墜にまるで関心がない。

 昨秋の政権交代以降、鳩山内閣の外交もひどかったが、輪を掛けて菅内閣は外交無策である。いくら雇用拡大・景気回復・社会保障充実を叫ばうとも、領土領海を侵す国に憤怒の意志を示し得なければ全て画餅に終る。

(拓大日本文化研究所客員教授)

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 或る小さな会合で和歌の話をと頼まれた。時間は15分でといふ。あの歌を話さう、と心に決めたがその日が来た。あの歌とはこれだ。

     海かこむ山のふもとの蜜柑畑みかん熟れたり遠目にしるく

 松吉正資、昭和17年11月の歌である。海を囲んで遠く向ふの蜜柑畑、山口県周防大島・安下庄の海沿ひのそれも蜜柑の植わった丘の上の一軒家である。そこから遠くに点々と見えるみかんの色。みかん熟れたり(7言)遠目にしるく(7言)、それは更に(3・4)(4・3)と小さなリズムに聞きとれる。12月10日学徒動員による出征前、帰郷中の日々である。深い思ひで見渡す海と山とみかん畑。しんしんと揺れる情の律動。

     ゆく身にはひとしほしむるふるさとの人のなさけのあたたかきかな

 いまぞ出で立つこの古里。父、祖母、弟妹、隣の人、古里の人たち、その別れ、交したことば、手の触れ合ひ、全てに囲まれて此処を出で立つ。「あたたかきかな」といふことばは、いくつかのことばの中から作者が選んだものだらう。ありがたい、うれしい、胸に沁みる、ではなくて「あたたかきかな」と詠んだ。歌に刻まれた情と調べは古里のあるがままの姿を表現してゐる。彼の持つ、懐しいこの国の国語で歌はれた歌である。

     うつそみはよし砕くともはらからのなさけ忘れじ常世ゆくまで

 再び「なさけ」といふことばを刻して故郷を立ったが、この歌の通り、うつそみを砕いて松吉は散華した。昭和25年5月11日。彼は僚機と共に三機の水上機で指宿を発ち、沖縄の敵艦船攻撃に向ふ途中、故障着水して波上に転覆し爆砕したのだ。

          ◇

 その次に私はあの決死の、敗戦の、亡国の昭和20年といふ年の御製を拝誦した。

 昭和天皇が戦争終結に当って「朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」と大詔を発せられたのは昭和20年8月14日。のちに洩れ承った御製「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」に、御心境はつぶさに伺ふことができる。占領軍最高司令官マッカサーと御会見になられたのは9月27日。さうした御心痛極まりないこの年の秋の御製と思はれるおほみうた、

          母宮より信濃路の野なる草をたまはりければ 二首
     わが庭に草木をうゑてはるかなる信濃路にすむ母をしのばむ
     夕ぐれのさびしき庭に草をうゑてうれしとぞおもふ母のめぐみを

 母宮貞明皇后は5月の東京大空襲・御所全焼の後も疎開のおすすめをお聞き届けなく、信濃路(軽井沢)に移られたのは終戦占領の時点である。母宮おはします信濃路を「はるかなる」と偲ばせ給ひ、母宮の摘まれた草木をいとしまれつつ「さびしき庭」にありて母宮のめぐみと草木の生ひゆくのを「うれし」と詠ませ給うた。非常の時、今に生き継ぐこの国土と人の情をあるがままに、あきらかに、いつくしみ給ふ。
おほみうたも戦死者のうたも、ことばは神話を語った祖先のことばから伝はったままのことばではないか。天皇陛下も国民もその言葉を歌に活き活きと使ってわが日本の将来を輝かせてゐる。和歌こそは日本のいのち。日本文化の活きた核である。

          ◇

 時間はなかったが一言附け加へた。松吉君の作歌歴はまる3年だったと。その中で大きい弾みになったことがある。或る晩秋の夕、下宿の一間に十人位が房内幸成先生を囲んでお話を聞いたことがある。先生は「万葉はいいねえ」と何度も言ひながら

    多摩川に曝す手作さらさらに何ぞこの児のここだ愛しき(巻14 東歌)

を朗誦された。「万葉はいいなあ」とみんな思った。歌にふれて、心の躍る歓びに浸るといふ経験はありがたいことだった。歌心を継ぐとはさういふことではないだらうか。

(本会副会長、寶邊商店相談役)

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 「日本で1、2を争う煉瓦工場だった家が倒産したのは、経理の乱脈に原因がある」
この祖父の言葉が原点となり、父が22歳で会計事務所を開設したのは、昭和22年のことです。中学時代から仕事を掛け持ちして破綻した家計を支え、大学まで夜学に通い会計を学んだ父。自身の実体験から、適正な経理の必要性が身に沁みていたので、企業経営を守りたいという信念のもと、数多くの仕事を次々とこなしていきました。

 その後昭和44年、会計人としての使命感をさらに決定づける出来事がありました。TKC創設者・飯塚毅氏との出会いです。「職業会計人の運命打開、自利利他」という理念に共感した父は、一連の活動が一切利益にならないと分かっていながら、TKCの活動に身を投じ、講演等で全国を飛び回るようになりました。当時中学生だった私は、父の姿を家で見た記憶がほとんどありません。

 そういう後ろ姿を見て育った私は、父から「自由に生きろ」と言われていましたが、自然と後を継ぐものだと感じるようになりました。大学入学と同時に専門学校にも通い、公認会計士の試験勉強を始めました。ところが、自分では精一杯努力しているつもりでも、なかなか受からない。将来の見えない苦しい日々が何年も続き、苦し紛れにあらゆる仏教書に救いを求め、坐禅にいそしんでは自分を慰めていました。次第に父の存在は大きなプレッシャーとなり、「親父が会計事務所さえしていなければ俺はこんな苦労しなくて済むんだ」といった気持ちにまで腐り果てました。

 そんなある日、思いもかけず父の深い愛情を知る機会がありました。友人の合格証書に自分の名前を入れて壁に貼っていたところ、それを見た父が「遂に受かったなあ」と涙を流して喜んだのです。父の本心を知り、一層勉強に励みました。それでも結局試験には通らず30歳になったのを期に受験を断念しました。その後、大手の監査法人や外資系大手半導体企業の経理部での仕事を通して、会計の知識と技術を習得していきました。

 そして34歳の時、心臓病で倒れた父から「戻ってきてほしい」と言われ、事務所で仕事をするようになりました。しかし、そこから父との長く深刻な戦いが始まるのです。例えば、なんのシステムを使用するかでも全く意見が異なる。常に議論が絶えず、次第に関係は悪化していきました。

 遂に42歳の時、父と決裂し事務所を飛び出します。担当顧客を残してきたので、家族を抱えたまま完全にゼロからの出発。経営コンサルタントを開業し、友人の税理士から、会計事務所では手に負えない面倒な案件を回してもらうなどして、かろうじて生計を立てました。

 安定した仕事がなく、「食えない」不安で押しつぶされそうな私は、思い余って尊敬する方に相談に行きました。ところが、なぜかデパートやスーパーの試食コーナーに行くことをすすめられるのです。不思議に思いながらも藁をもつかむ思いでいた私は、実際に地元のスーパーを回ってみました。すると、お腹が十分満たされる。変なプライドを捨てたら絶対に餓死はしないわけです。その時、はっと気づきました。

 いわゆる「貧すれば鈍する」ではなく実際は逆ではないか。心が萎えてくると現実が貧してしまう。自分自身の心そのものが現実をつくり出しているのだ、思考が現実化するのだと。

 以来、余計なプライドや思い込みを極力排除し心の持ち方を前向きに変えると、おもしろいように仕事に恵まれ、仕事が楽しくできるようになっていきました。そして、絶対に受かるという確信のもと集中して一か月勉強した結果、長年残していた最後の一科目に合格し、税理士資格を取得しました。20歳で職業会計人に志してから、すでに22年経っていました。その間、父はずっと黙って待っていてくれたのです。

 それを機に、父に会いに行きました。「親父がやってきたことの素晴らしさを正しく評価せずに、勝ちたい一心で、勝手に自分の考えを自我でぶつけて申し訳なかった。ものすごく尊敬しているし、親父みたいになりたいと心底思う。世の中のためになれるようここで働かせてください」

 土下座して謝りました。感謝とは感極まって謝ることだと後日知りましたが、まさに涙にまみれた「感謝」でした。その時の父の対応は、いまでも実に見事としか言いようがありません。「同じ事務所に頭は二ついらない」と、計理士・税理士・司法書士・社会保険労務士、すべての廃業届を提出したのです。あと一年もすれば叙勲も受けられたにもかかわらず、それすら「いらない」と、私が仕事をしやすいよう配慮してくれました。

 多くの顧客の方々とスタッフに支えられ、平成19年には事務所創立六十周年記念の感謝の夕べを開催し、初代の父、二代目の私が揃って皆さまをお迎えすることができました。それを見届け安心したように、父は翌年82歳で永眠しました。

 父には心から感謝しています。人生を懸けるに値する素晴らしい事業を継承させてくれ、未熟な私が成熟するまで延々と待っていてくれ、男の生きざまを背中で見せてくれた父。感謝してもしきれない人生最大の恩人です。二代目の私は、創業者である父の志を忠実に継承し、さらにそれを発展させ、新しい時代の企業経営に役立つ会計(未来会計)を強力に推進していく所存です。

(小泉経営会計所長)

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 本会恒例の夏の合宿教室は8月20日から6年ぶりに熊本県の阿蘇高原で開催された。例年であれば高原の風が心地よく感じられるはずが、今夏は少し違った。しかし、夏が暑ければ暑いほど秋風が有難く感じられた。そして気づいてみれば、紅葉のたよりがもたらされてゐた。どんなに暑くとも涼風の吹く秋は到来する。山々に紅葉が見え始めると一層、私は日本に生れて良かったと、しみじみと思ふ。季節がさらに深まって、冷気が身に沁みる頃となったが、阿蘇合宿に参加された皆様は、学生諸君は、どうしてをられるのだらうかと、合宿の日々を思ひ返してゐる。

          ○

 さて、世界史上でも、英明なる君主として名高い明治天皇であられるが、明治天皇が阿蘇合宿参加の学生諸君と同じ位か、否、もっとお小さい御年齢だった頃、どのやうな学問をなされてゐたのか、拙いながら筆を執ってみた。

     一、敷島の道

 明治天皇は御生涯に10万首近いお歌をお詠みになられた。最初に歌を詠まれたのは、5歳の御時といはれる。『明治天皇紀』に拠れば

   安政4年(寶算6)11月 是の月 和歌を詠じたまふ、
   月見れば雁がとんでゐる水のなかにもうつるなりけり

 典侍中山慶子の遺物中に、自筆を以て『祐宮さまの御うた安政4年11月』と端書して此の歌を記 せるものあり」(第1巻139頁)
とある。月夜に雁の飛ぶのをご覧になりそれが池面にも写る様を捉へて詠まれてゐる。

 「寶算6」とは数へ年でのことだから、今風の満年齢でいへば5歳である。この頃から短歌を詠み始められてゐたことが窺はれる。祐宮は明治天皇の御称号であり、因みに典侍中山慶子は御生母である。

 元治元年正月には「和歌の御稽古」の見出しで、「78歳の比、天機を候したまふや、天皇、毎に和歌五題を課し、その詠進を待ちて始めて菓子を賜ふを例と為したまふ」(同361頁)とある。明治天皇が708歳の頃のこととして、御父孝明天皇に御挨拶に伺ふと、天皇は待ってをられたかのやうに毎回、五首の和歌を詠むことを課されたといふのである。そして歌を詠むのをお待ちになって、それからご褒美としてお菓子を与へられたといふ。微笑ましい光景であるが、同様な場面は私共も経験しなくもない。そんな折、この順序をよく誤りがちだ。先に褒美を与へて子供の意欲を殺いでしまふのである。

 孝明天皇は黒船の来航に端を発した内治外交の国事多端の時期に皇位を践まれてをられた。その難題多き中で、親王の詠んだ和歌に対しては「天皇の御添削」が必ずあったと記録されてゐる。

 「一日、親王、
   あけほのにかりかへりてそ春の日のこゑをきくこそのとかなりけり

と詠じて上りたまふ、天皇乃ち宸筆を以て

     春の日の空あけほのにかりかへるこゑそきこゆるのとかにそなく

と、雌黄を加へたまふ、斯くの如く和歌は幼児より天皇の教導を受けさせられ、又時に典侍廣橋静子(帥典侍と称す)等の女官を和歌 學修に侍せしめたまへり」(同362頁)

 「雌黄」とはここでは朱墨(詩歌の推敲添削)のことである。後に歌聖と称へられた明治天皇の「敷島の道」についての御修養は御父孝明天皇御自らの御指導の下でなされてゐたのである。国と民のために御一身を捧げられて、お心を息ませられる暇なき日々にも拘らず、親王のために雌黄を加へ懇篤なる御教導をなされてをられた。世に父子相承といふが、明治天皇は御幼少時から父帝の御姿勢・御思想をこのやうにして御体得遊ばされたのである。

     二、国風
       イ、御手習

 皇室では伝統的手順を踏んでお手習ひを開始される。「安政6年3月30日二品中務卿幟仁親王を以て御手習師範と為す」とあるが、幟仁親王(有栖川宮)は平安初期の三筆のお一人、嵯峨天皇の書の流れを受け継ぐお方である(今日では秋篠宮殿下が受け継がれてゐて昭和天皇武蔵野御陵の碑文を書かれてゐる)。実際には安政五年から始められてゐたが、正式には「今年御齢八歳、将に正課として習字あらせられんとす、乃ち昨29日、典侍中山積子・掌典侍高野房子連著して書を幟仁親王に致し、師範とされるべき叡旨を傳ふ、是の日、親王、召されて参内す、乃ち引見して此の命あり、親王、次いで、御三間に於て皇子に謁し、来月3日を以て手本を呈すべき旨を言上して退下す」とある。

 長年教壇に立ってきた私は、日頃から生徒を本気にさせる動機付けの大切さを痛感してきた。この日、幼き皇子に直ぐに手本が手渡されなかったことに関心が向く。翌4月の3日になって左記のやうな手順で手本が渡される。

 「鳥の子泥引砂子の懐紙に書して之を奉書に包み、封絨す」、まだ分らないのである。「親王、賀儀として鮮鯛一折を進ず、皇子亦鮮鯛一折を親王に贈りたまふ、…」とある。おめでたい儀式があり、その後に封緘された文箱を開けて手本を取り出されるのである。私は勝手に論語の素読を頭に描きながら、その一節ではならうかと想像したのだが違ってゐた。
手本は和歌一首であった。

     難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

 これは『古今和歌集』の仮名序にある和歌である。今もう春が来て冬の間籠もってゐた梅の花が咲いたの意であるが、詠者は王仁(第15代応神天皇の御代、百済から帰化したと伝へられる人物)で、「大鷦鷯の帝」(16代仁徳天皇)に春が来て花が咲てゐるやうに皇位にお即きなることを勧め献った歌とされる。古くから手習ひの手本とされてゐた歌でもある。御幼少ではあられたが、皇位を践まれる御立場の皇子はこのお手本をどう受け止められたのであらうか。われわれ一般国民とは違った受け止め方をされてお稽古に励まれたに相異ないと拝察するのである。

 わが国は支那から様々な文物を取り入れてきたが、日本古来の精神を失ふことはなかった。それを示すのが菅原道真の遺訓とされる『菅家遺誡』に出てくる「和魂漢才」の語である。明治天皇の若き日の御学問は「和魂」が中核に据ゑられて行なはれてゐたと言へば、概括的で不遜だと批判されさうだが、今日のわが国の教育環境を思ふ際、どうしても日本古来の精神とか、和魂とかについて考へが行ってしまふのである。

       ロ、神武天皇御陵への奉幣

  孝明天皇から和歌の御添削を受けてをられた元治元年の3月のことである。
「8日 天皇、権中納言野宮定功を奉幣使と為し、神武天皇畝傍山
東北陵に参向せしめ、特に国家平安・攘夷貫徹の事を祷らしめたまふ、乃ち是の日、勅使發遣の儀を行はせらる、爾後之を例となし奉幣の期を同天皇崩御の日に丁れる3月11日と定められる」(同372-373頁)

 私達からは遙か遠い神話の時代に続く初代の神武天皇であるが、皇室にあっては皇祖であり、皇統乃ち血脈のご先祖様である。外国応接を巡って国論が紛糾し、独立の危機が懸念される中、孝明天皇は神武天皇御陵に奉幣使を差遣されて国と民の安泰を祈念された。この父帝の祈りの御姿を間近で感じつつ明治天皇は御成長なされた。

 神武天皇崩御の3月11日に、その御陵へ奉幣の使を遣はすことは、右の記述のやうに明治天皇の御代にも承け継がれ、さらに今日に至ってゐる(明治六年の太陽暦の採用で、神武天皇祭は以後4月3日に行はれてゐる)。
俗世間に「子供は親の背を見て育つ」との格言がある。日本の家庭には神棚やお仏壇があるが、親たちがお灯明をつけ、香華をたき御供物を上げ、柏手を打ち合掌する。その姿を子供達が日常目にすることで宗教的情操が育まれてきた。
奉幣使差遣の記事を拝読しながら、現下の社会状況を思ふと反省すべき点が多々あると、またしても考へさせられる。

 学生時代、「キリスト教学」を受講した折、キリストが死後3日目に復活したとの箇所が理解し難かった。キリスト教会ではキリスト復活を記念する復活祭がある。日本では天皇崩御のその日に日嗣の御子(皇太子)が践祚し皇位を継がれる(御即位式は日を隔てて行ふ)。崩御から践祚へと直ちに連なり、皇位が続いてきた。民俗学の折口信夫博士は天皇霊といふ言葉で皇祖から一貫するものを説いたが、復活ではなく一貫してゐるのだ。歴代の天皇方は初代の神武天皇でもあられるのである。

 「諸事神武創業ノ始ニ原キ」とは明治維新の出発点となった「王政復古の大号令」の一節である。国を開き新奇なものを次々に受容したかに見える明治の国造りは、精神的には神武天皇を回想するところから出発してゐるのである。明治天皇が父帝の神武天皇御陵奉幣の例に習はれたのは蓋し当然のことであったと拝する次第である。

(福岡県立直方高等学校講師)

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 昭和52年の集計によると、ユダヤ人は約1200万人である。全人類の約0・3パーセントにあたる。このユダヤ人と呼ばれる人間群が人類史に与えた影響は強大で、まさに想像を絶するものがある。

 かの実存哲学といふ言葉をはじめて用ゐたドイツの哲学者カール・ヤスパースが『歴史の起源と目標』の中で使ったユニークな用語をここで用ゐると次のやうに言へよう。人類の物の考へ方を徹底的に深め、その後の人類の思考を決定的なものにして、人類の普遍的にして根本的な範疇となった「回転基軸の思想」- それを生んだのは正にユダヤ人であったと。

 主な人物をあげると、この指摘が決して誇張でないことが歴然とする。
哲学者では、スピノザ、ベルグソン、フッサール、ヴィトゲンシュタイン、カッシーラー。人類学者ではレヴィ・ストロース。精神病理学ないし心理学者ではフロイド、V・E・フランクル、エリック・エリクソン、政治学者ではデヴィッド・リースマン、キッシンジャー。神学者ではティリッヒ。そして宗教者としてのイエス、社会思想家としてのカール・マルクスである。勿論、科学者アインシュタインの名も落とせない。ざっと挙げてもこれ程の人物が登場する。

          ◇

 人類思想を大きく、かつ深く転回せしめるやうな枢軸の役割をなした知的革新者が揃ひも揃ってユダヤ人であることについて、I・ドイッチャーの言をひいて解かうとした大島一元氏(評論家)の一文が今も私の記録にある。

 これを一言にしてまとめれば、ユダヤ民族が受けてきた迫害の歴史と彼らの知的革新とは無関係ではないといふことだ。

 他とちがった文明、宗教、民族、文化等の境界線上に立ってゐて、そのちがった文化とユダヤ人固有の文化とが互ひに影響しあふ地域において成熟をみたからである。

 ユダヤ人は或る社会の中に生きてゐながら、その社会には本当には受け入れられず、何時も「よそ者」であった。そのことが、逆に民族の個的な土着性や時代、世代などの相違を超えて、永遠に生きる普遍性を獲得することが出来た原因の一つとみることが出来る。それに加へて、彼らの思想の独創性は、既にあるもの(思想・理論・制度)に対し、はっきりと確信をもって「否、非なり」と言へたことだが、それは、彼らが実践的な思考に長じてゐたといふだけではないと私は思ってゐる。それは、天が、悲運の彼らに与へた代償の賜物、つまり「今迄の誰もが気が付かなかった真相をあばいてみせる独創的智力」のなしたことではないのかと。御承知のやうにアメリカのワルドー・エマーソンは人生における「報償」の鉄則を強調した。全くその通りで一種のアメリカ的運命感と言ってよからう。それによれば、苦しみ悩む者を天は決して見放されない。それになり代はって、この上なく「よきもの」を与へられる。かくて天はユダヤ人に「叡智と美貌」を与へられたのではなからうか。エマーソンの言ふ「報償の鉄則」は見事にユダヤ人に当てはまってゐると私には思へてならない。日本では、仏語に「怨親平等」といふ素晴らしい言葉がある。

 先月の拙稿(編註・『中外日報』昭和56年5月号所載「栄光の冠と破滅の冠ー民族の怨念についてー」)の終はりで一寸ふれたが、スペインでは1492年以来、1970年代のはじめまで、実に480年の長きにわたってユダヤ人追放令が生きてゐたのである。さうなった事のいきさつについては不明な点が多いが、確かなことは、強制的にキリスト教に改宗させられたユダヤ人が、ひそかに再改宗(ユダヤ教に戻る)の機をうかがってゐた企てが発覚して、カトリックの大審問官トーマス・デ・トルケマーダの悪魔的な非道の処置に発したことだといふことである(中野好夫『世界史の12の出来事』の「聖書と悪魔」を参照されたい)。

 1978年にレオ・ジーフォースがドイツ語でユダヤ迫害の跡を視覚に訴へる新著『ドイツ人のユダヤ人』を刊行した。をさめられた120枚の図版の最初のものは、中世のユダヤ人の胸には、赤い心臓の形をした「ユダヤ人の斑点」(Juden-fleck)がある、そんな図版が載せられてゐる。この図版一つをとりあげただけでも、ユダヤ人の苦難がいかばかりであったか 天はその見返りとして、叡智と美貌を与へられたし、それを甘受するといふだけでは、断じて癒されることのない「怨念」が生き続けてゐなければ、それはうそだと思へる程の切ない想ひがそこにある。さう思はれてならない図版である。

          ◇

 それは共産主義者を生んだカール・マルクスを考へれば必ず突き当たる私の思ひである。考へても見よ!「この世の絶対的などんでん返しをはかるうらみの心情」を冷徹な論理で包んでこそ、革命理論は飛躍的な行動を生み、宗教者が敢へて殉教者となって献身したと同じ道をとらしめるやうな使命感をかきたてたのではなかったか。

 松田道雄氏の『革命家の肖像』(筑摩書房)の最終章「革命と殉教」をみると「少年の私たちがマルクス主義にひきこまれたのは、この世のなかにある悪に対して怒っていたからである」「この世にさかえる一切が、おろかで、悪であると感じられた。その一切を否定するものが革命であった。革命は夢ではなく、この世で実現されることを、ロシアがしめした。」とある。

 松田少年が、それ程深い現実の分析をしないで、単純に「この世の悪」「この世にさかえる一切」を悪だと感じたが、その感じには「怒りの情」がともなってゐたことを見逃してはなるまい。この怒りの感情の捌け口として、松田少年にはマルクスの教へる共産革命の理論があったのである。それは、マルクスの理論が、その冷徹な理論装備の内側にたたへてゐる激情 この世をどんでん返しにせずにはおかないといふ怨念が、自然に共鳴しあったよい例証だと言へよう。

 はしなくもトインビーは断言してゐる。「ロシアが1917年にとりあげ、ロシア革命に持ち込んだ共産主義なるものは、西欧に生まれ、西欧では異端児に属する一つの『宗教』なのだ」と。

 マルクスとエンゲルスといふドイツのライン地方に育ち、片やロンドン、片やマンチェスターでその働き盛りをすごした二人の人間によって発明された共産主義は、元来ロシアの伝統とは無縁のものである。

 ところが、「共産主義は西欧人の良心的な悩みの産物である」から、「ロシアの宣伝によって逆に西欧に持ち込まれれば、良心的に悩んでいる西欧人を動かさずにはいない訳だ」とトインビーははっきり言ってゐる(『世界と西欧』)。

 西欧人の良心的な悩みとは何か。不寛容なキリスト教を生んだユダヤ人迫害や、宗教間の宗教戦争が生んだ数々のものがそれなのである。トインビーが息子のフィリップとの対話で、インド教、仏教、儒教(それに伊勢神宮での体験から神道を加へることができよう)といった東洋の寛容で、闘争的でない平和そのものの宗教に心からひかれてゐることを告白してゐる。この告白をトインビー一人のもので終はらせてはならないのではないか。日本の新宗教の海外布教の活発さは、経済進出の蔭に隠れて世上のうはさにのぼらないが、知る人ぞ知るであらう。例へば、立正佼成会や世界救世教のブラジル伝播など、かつてのスペインが植民政策のかくれ蓑として利用したキリスト教伝道と比較して、現地人への貢献度を冷静に検討されてしかるべきだと思ふ。

 今や人類は心から、怨念の宗教でない、寛容な宗教を求めてゐるのである。東洋、就中、日本の諸宗教の回転基軸的使命は倍加されてきてゐることを改めて再思すべきだと思ふ。

(元国学院大学教授・元本会理事、故人)

戸田義雄著 国文研叢書33
『祖国と人類の悲願 - 諸民族の聖魂 - 』
定価800円  送料290円

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小堀桂一郎著 文藝春秋刊
『日本人の「自由」の歴史』
定価 2,700円

 著者はさきに『日本に於ける理性の伝統』(中央公論新社、平成19年刊)の大著を刊行され、欧米文明流入以前の日本思想の核心に理性が在つたことを論証されたが、本書はそれに続く第二弾で、日本思想史上に現れる「自由」概念の意義を文献的に考証されたものである〈なほ、著者は引続き季刊『新日本学』(展転社)に「日本の道統」を連載中である〉。

 =『日本人の「自由」の歴史』〈目次〉=
第1章 「六国史」の時代- 紫式部は自由」を知ってゐたか
第2章  国語の古典としての『白氏文集』- 「閑適の自由」の伝来
第3章 「近代」は鎌倉時代に始まる- 武士の「自由」と「道理」
第4章  仏教論議の中の「自由」- 密教及び禅家に於いて
第5章  乱世の「自由」と法意識- 庶民層に浸透してゆく「自由由」概念
第6章  キリシタン文献に見る「自由」- 異文化の完全な翻訳は可能か
第7章  江戸の知識人と「自由」- 禅家・儒者・石門・国学の大人・文人墨客・蘭学者達
第8章  維新期の啓蒙思想家達- 忽ち到来する濫用の時代

 本書副題に「大宝律令から明六雑誌まで」とあるやうに、日本書紀から明治初年までの我が国の文献で、「自由」の語がいかなる場合に、いかなる意味で用ゐられてゐたか、それが西欧思想の「リバティ」と「フリーダム」といかに類似し、いかに異るかを仔細に検討されてゐる(その文献考証の博捜ぶりには驚歎の他はない)。本書執筆の動機は、昭和50年代の初め頃、或る学際的シンポジウムで或る高名な国際政治学者が「自由といふ観念も言葉も元来日本の精神風土には存在しなかつた」と発言し、著者が激しく論争した経験に発するといふ(「緒言」)。

 浩瀚な本書の内容をこの短評で紹介することは到底不可能だから、直接本書を繙いて学んで欲しい。しかし本書の結論と思はれるものが「後記」に述べられてゐる。それは「我々がリバティやフリーダムといふ欧語に当たるものとして『自由』を選んだのは所詮誤訳だったのではないか、との疑念である」。我々が明治以前にも日常的に用ゐ、「長い精神史的閲歴の中で重厚な含蓄を積重ねて来た」「時に深遠で高邁な、時に無頼で軽燥な、又時に閑雅で悠揚たる」理念語である「自由」が、「せいぜい『解放』『釈放』とか『放任」といつたほどの功利的な価値を意味するにすぎない西洋語」に誤解されてしまつたのではないか(鈴木大拙師も同意見)、といふことである。日本思想史に残る名著と言へよう。

(評・小田村四郎)
(國民新聞10月25日付「読書欄」所載)

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『ますます危ない民主党』
『明日への選択』編集部 企画・構成

“民主党は鳩山辞任、参院選大敗、尖閣事件と、失政と混乱を繰り返しながら政権の座にとどまり続けているが、「地域主権」や「こども手当」など掲げる政策の裏側には「国家・社会・家庭」解体の論理がひそんでいる。その危険性を徹底検証。”

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 加筆訂正いたします

11月号1頁3段13行目以降から16行目
《軍事裁判で処刑された者を法務死として戦死者と同じく遇する旨の法律改正が満場一致で可決されてゐる》を
 ⇒《「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択されてゐる。さらに戦病者戦没者遺族等援護法、恩給法の改正もあって、軍事裁判で処刑された者を法務死として戦死者と同じく遇することになった》に。
同1頁4段24行目から25行目
《重ねてきた労苦に…》(脱字です)

 

 編集後記

昨年の暮の本欄で「鳩山内閣誕生から3ヶ月。不確かな政権運営が続く…」と認めたが、その鳩山民主党政権は六月初めに退陣して、菅副総理がその後を継いだ。そして鳩山内閣にも勝る不確かな政権運営が続く。7月の参院選で議席を大きく減らしはしたが昨年8月の「政権交代ブーム」のもたらした衆院300余議席の数に支へられて民主党政権は続いてゐる。否、さうではない。菅内閣を密かに支へてゐるのは「国を思ふ」数多国民の隠れた良識である。いくら何でも1年に3人目の首相の登場では世界に対してみっともないといふ良識である。だが、それも限界に近づきつつある。無策に見えながら「世帯単位の戸籍から個人単位の戸籍への移行」、そのためには「夫婦別姓を含む民法改正が必要」などと家庭家族解体を目論み、内から国を蝕まうとする政権でもある。
(山内)

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