国民同胞巻頭言

第589号

執筆者 題名
坂東 一男 近頃、痛切に思ふこと
- わがノート【古稀の徒然】から -
布瀬 雅義 横井小楠<明治維新の「設計者」>
- 幕末期、「私心なき公論」で要路を動かす -
  横井小楠の建言 「国是七条」に関連して
徳富蘇峰が記す小楠先生
- 山崎正董著『横井小楠伝』序から -
本田 格 野口米次郎の渡米事情について(下)
- 明治期青年の覇気と矜持 -
山内 健生 日中“戦略的互恵関係”の怪

 ことしの夏、日本列島は未曽有の猛暑が続いたが、そんな中、8月15日、靖国神社に参拝した。この日、靖国の社頭を訪れ英霊に頭を垂れた人は16万6千人を数へたといふ。多くの国民は8月15日の意義をきちんと理解し行動してゐる証左であるが、日本国を代表する政府首脳、菅内閣の全閣僚は参拝しなかった。

     おもひいづることぞ多かるさまざまにかはりゆく世を經にし身なれば
                            (明治41年 往時)

 毎朝、明治天皇の御製を拝誦して力をいただいてゐるが、右の御歌を仰ぎつつ、日々の思ひを書き止めてゐるわがノート【古稀の徒然】から三点をここでは抄出してみたい。

     ○ (某月某日)先の大戦の呼称について。

 現在、「太平洋戦争」の呼称が一般化してゐるが、年毎に違和感を強くしてゐる。米英に宣戦布告をした自存自衛のための戦争で、当時の政府が「大東亜戦争」と命名したにも拘らず、戦後GHQ(米国)がこの呼称を禁止したことから「太平洋戦争」が今も広く用ひられてゐる。占領政策の後遺症そのものである。

 「太平洋戦争」では、昭和16年12月12日の閣議で、「今次の対米英戦は、シナ事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とするなることを意味するものにして…」云々と定義したその意義が見えてこない。なぜ日本が連合国を敵に回して立ち上がらざるを得なかったのかを後世に伝へるためにも、当時の呼称を使ふべきである。

     ○ (某月某日)総理の靖国神社参拝について。

 菅総理は、財務相当時の4月、訪米の際、アーリントン国立墓地を訪れ花束を捧げて、戦歿米軍将兵に敬意を表した。ところが前述のやうにわが英霊が祀られてゐる靖国神社には足を運ばない。「戦犯」が合祀されてゐるから参拝しない旨を語ってゐたが、その理由には何の根拠もなく、不見識の極みである。
この問題は、昭和28年8月3日の衆議院本会議で、4千万人もの請願を受けて、軍事裁判で処刑された者を法務死として戦死者と同じく遇する旨の法律改正が満場一致で可決されてゐる。即ち被占領期の軍事裁判は連合国による軍事行動と同質のものと判断してゐるのだ-この判断は国際法的にも筋が通ってゐる-。従って戦死者と同様に遺族年金も支給されてきた。国会議事録を見れば経緯は明白で、政治家だけでなく朝日を初めとするマスコミの不勉強(偏向)には腹立たしい限りだ。

     ○ (某月某日)領海侵犯の中国人船長の「釈放」について。

 中国は共産党独裁の国で、「法治国家ではない」ことをまづ念頭に置くべきだ。尖閣諸島海域で発生した問題を「中国船衝突事件」と称してゐるが、明確な「領海侵犯事件」である。政府は「外国漁船のわが領海侵犯は許さない」と、なぜ広く世界に向って発信しなかったのか。当初「中国漁船が明らかに巡視船に体当たりしてゐる」として船長を逮捕したのだから、百聞は一見に如かずで早い段階でビデオを国内外に公表すべきであり、丹羽大使を深夜に呼びつけた外交上の非礼には、即刻大使を東京に召還する等の厳正な対応をとるべきだった。

 ここで共産中国の特異な政治体質を批判しても始まらない。まづは日本人の意志と力でわが国土を守り抜く決意を固め、それを内外に示すことである。島嶼の守りを海上保安庁任せの現状を改め、自衛隊の装備をどう活かすか早急に検討し即刻、具体的な手を打つべきだ。中国の理不尽な圧力に屈した形で船長を釈放した菅民主党政権には全く失望したが、領土守護への念が国民の間に高まったのはせめてものことである。同時に先人達が国土を守るために重ねてき労苦に思ひを致すべきであると強く感じた。

 三井甲之の「ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を」の絶唱を噛みしめてゐる。

(元アサヒ飲料(株)役員)

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     「小楠が設計し、西郷が具現化した明治維新」

 勝海舟は、維新後にこんなことを言ってゐたといふ。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ」
「横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配してゐたに、果たして西郷は出て来たワイ」

 勝の見方によれば、明治維新は横井が設計し、西郷隆盛(南洲)が実現したといふことである。

 横井小楠は幕末に幕府方の中心人物であった越前福井藩主・松平慶永(号は春嶽)のブレーンであり、最後の将軍・徳川慶喜もその説に感服してゐた。勝海舟自身も「自分は小楠の弟子である」とまで称してゐた。

 一方、吉田松陰も小楠に敬服し、長州藩まで指導に来て欲しいと招請してゐる。坂本龍馬も何度も横井を訪れて、その意見を聞いてゐる。西郷は、横井の説を勝から聞いて、「それをやり通さなければ相済まない」と、大久保利通に書き送ってゐる。

 要するに、幕末から明治維新にかけて活躍した中心人物たちが、幕府方と薩長方とを問はず、一目も二目も置いた人物が小楠なのである。

 年号が明治に改まってからも、小楠は明治天皇に国政の理想を説いた。維新当時、天皇は17歳であった。しかしながら、明治2年1月、キリスト教を広める洋風化の中心人物との風聞に惑はされた攘夷派の武士に襲はれ落命した。

 幕末期、独立喪失の危機の時代に、小楠が最も強く念じたものは何かについて少し述べてみたい。

     藩のエリートコースからの転落

 小楠とは後につけた号で、通称は平四郎といった。平四郎は文化6年(1809)に熊本・肥後藩士の次男として生れ、10歳で藩校・時習館に入学すると、めきめきと頭角を現した。29歳には寮長として塾生を指導する立場に立った。31歳にして江戸遊学を認められた。幕府における学問の総元締め林大学頭に入門するとともに、尊皇攘夷思想のリーダーである水戸藩士・藤田東湖にも親しく教へを請ふてゐる。

 その藤田東湖が開いた忘年会の帰りに、泥酔した平四郎は一人の幕臣と口論になり殴ってしまふ。この事件を聞きつけた藩の江戸留守居役は、平四郎を帰国させた。国許からは「つまらない事件で有為の人物を処分するな」と言ってきたが、藩内では二つの派閥が争ってをり、一方の家老から後押しされてゐた平四郎はそれに巻き込まれたのである。

 帰国した平四郎は自宅謹慎を命ぜられ、兄の家の六畳間に閉ぢ籠って、ひたすら学問に打ち込んだ。やがて志ある郷士や豪農の子弟が出入りするやうになった。

 門下生が増えると六畳では手狭であり、弟子たちは力を合はせて、新しい塾を建ててくれた。この塾は「小楠堂」と名づけられた。平四郎は尊皇に生涯を捧げた楠木正成を尊敬してゐて、それにあやかったのである。小楠の号もここに由来する。

     越前藩へ招聘される

 嘉永四年(1851)2月、すでに43歳となってゐたが諸国遊歴の旅に出発した。巡訪の許可を藩政府に願ひ出ると、二つ返事で許可が下りた。藩政に対しても何かと批判的な言辞を述べる要注意人物が、しばらくでも旅に出ることは藩にとっても歓迎すべきことであった。

 小楠は、北九州、山陽道、大坂、大和、伊勢、さらには北陸まで足を伸ばし、各地で名高い人物と会った。
特に越前福井には25日も滞在して歓待を受けた。小楠堂には越前藩から来た武士も学んでゐて、小楠の評判を国許に伝へてゐたからである。滞在中は連日のやうに講義を求められ、それはさらに小楠の名声を高めた。

 福井からの帰路、琵琶湖西岸の小川村を訪ねてゐる。小楠はかつて陽明学者・熊沢蕃山の書から多くを学んだが、その蕃山の師が近江聖人と仰がれた中江藤樹であり、この小川村には藤樹が書院を開いた跡があった。藤樹は「国を治め天下を平らかにする」のが政治の根本であり、まづ人間一人ひとりの心の中にある「まごころ」を磨くところから始めなければならないと説いた。その藤樹の教へは村全体に染みこんでゐた。国全体をそのやうな道ある国にしたいといふのが小楠の志だった。

 越前藩として小楠を招聘しようといふ話に藩主・松平慶永も乗り気になり、肥後藩主・細川斉護に小楠借用を願ひ出た。慶永の妻は斉護の娘で、婿-舅の関係である。しかし、肥後藩の重役たちは「藩の恥を晒すやうなものだ」と聞き入れない。結局、慶永は斉護に宛て二度も直接手紙を書くに及んだ。斉護は「ここまで婿殿が思ひ込んでゐるのだ」と、小楠の越前行きを重役たちに承諾させた。

 安政五年(1858)年4月、小楠は福井に着き、50人扶持の待遇を受けて、越前藩の藩校での講義、および藩政改革の指導に当ることになった。

     まづ藩財政を立て直す

 越前藩の藩政改革で、小楠がまづ取り組んだのは、殖産興業によって藩を富ますことだった。従来の藩政改革は倹約一辺倒でやってきたが、倹約して得た資金を貿易や商品開発に注ぎ込んで富を増やすことを説いた。

 藩士・三岡八郎(後の由利公正、五箇条の御誓文の起草に参画)を使って、名望のある商人を集めて物産商会所を作らせ、 生糸、茶、麻などを扱はせた。そして農村での養蚕を奨励し、 長崎のオランダ商館を通じて生糸を輸出した。3年後には、貿易高が300万両にも達し、藩の金蔵には今まで見たこともないほどの富が蓄へられた。
「横井先生は、口舌の徒ではない。その説かれる教へは高邁だが、さすが実学を旨とされるだけあって、藩を富ます術にも長けておいでだ」と、小楠の越前藩における声望はさらに高まった。

 小楠が旨としてゐた「実学」とは、学者が世間知らずのままに論語などの字句の研究に沈潜したり、学を修めたはずの為政者が自身の修養を怠るといった傾向を批判するものだった。これは中江藤樹の「学問とは人の生き方を正すものだ」といふ教へを継承するものでもあった。

     『国是三論』 -「富国」「強兵」「士道」-

 安政7年(万延元年・1860)春、松平慶永の後を継いだ新藩主・松平茂昭が江戸からお国入りし、すぐに小楠に会ひたいと言ってきた。藩が豊かになったことへの礼を伝へ、その使途に関しての大綱を定めるについての意見を聞きたいと言ふのだ。小楠は感激して、すぐに筆を執って『国是三論』と題した意見書をとりまとめた。

 『国是三論』は「富国」「強兵」「士道」の三つの柱から成り立ってゐた。

 「富国」-生産を奨励して、藩の財政を豊かにして税率を下げる。人民の暮らしを豊かにして、人の道を教へる-。

 「強兵」-極東に押し寄せてきた西洋列強に対抗できる海軍を作る。日本海に面した越前藩も青少年を鍛へ、船で他国と往来させて、外国の事情を見聞させる-。

 「士道」-人君は慈愛の心を持ち、家臣はその心を体して人民を治める。その環境の中から、人材が次々と出てくる-。

 西洋列強の侵略に備へる策として、「富国強兵」はすでに多くの先達が唱へてゐたが、小楠はこれに「士道」を加へて、この三つとも人材の育成輩出をその中心に置いた。この点でも、中江藤樹の教へが受け継がれてゐる。

 小楠の思想は、三岡八郎、(後の由利公正)が「五箇条の御誓文」を起草する際にも生かされた。「上下心を一にして盛に経綸(国家を治めととのへること)を行ふべし」「智識を世界に求め大に皇基(国家統治の基礎)を振起すべし」などの御誓文の一節に窺ふことができる。

     『国是七条』 -将軍上洛して無礼を謝すべし-

 文久2年(1662)、松平慶永は幕府から政事総裁職への就任を要請された。その前々年、大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてゐた。井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印し、また世に言ふ「安政の大獄」で幕政批判の公家・大名・志士らを次々と弾圧し処罰・処刑した張本人であった。幕政は混迷を極めてゐた。

 慶永は小楠を江戸に呼び寄せ、意見を求めた。小楠は政事総裁職を引き受けるべきを進言し、実行すべき政策を『国是七条』として献策した。

 その初めは「将軍は上洛して列世(歴代)の無礼を天皇に謝すること」であった。公武とも私の心を捨てて、公の心を持って議論を尽くし、日本の進路を決定しなければならないが、そのためには、まづ天皇から大政を委任された将軍が上洛して、歴代の無礼をお詫びし、私心なきことを天下に明らかにしようといふのである。

 次は「大名の参勤交代を大幅に縮小し、人質として江戸に置かせてゐた妻子を国許に帰らせること」であった。これも大名たちに幕府の私心なきことを示すためである。さらに「人材登用」「公論の尊重」「海軍増強」「貿易振興」など、『国是三論』と通ふものであった。

 欧米列強がひたひたと押し寄せてくる国難に際して、尊王だ、佐幕だ、開国だ、攘夷だ、と意見を異にして、幕府・諸大名などが互ひに争ってゐては、国家の独立は覚束ない。まづは幕府が私心なきことを示して、朝廷を中心に諸大名の力を統合結集していかうといふのである。

 この献言に、慶永は「なるほど、これは天下の人心を一新するためにも相当に効果のある政策かもしれない」と望みを抱き、政事総裁職就任を決意した。そして、慶永は就任に先立ってこの『国是七条』の内容が幕府に受け容れられるやうに、小楠に将軍側近の大久保忠寛ら要人の間を根回しをさせた。

     「横井先生のご意見に感服す」

 慶永は政事総裁職に就任してから、早速、参勤交代制の緩和、大名の妻子帰国、洋式軍制の採用などを実現した。しかし「将軍上洛して列世の無礼を謝すること」には、幕閣の中で反対意見が強かった。「将軍は天皇から政治の大権を委任されてをり、その中には外交問題も入ってゐる。勅許の前に外国と条約を結んだからといって、無礼には当らない」といふ論もあった。幕府の面子をなんとか保たうといふ「私心」である。

 さうした中で将軍後見職・一橋慶喜(後に第十五代将軍として大政奉還を建白す)が「小楠の意見を聞きたい」と言ふことになって、幕府首脳が居並ぶ中で、小楠は語った。

  「幕府が公武一和を標榜する以上、武家の頂点に立つ将軍が自ら 勤皇の実をあげることが、徳川家 が私心を去り、公の心を持ったといふことの証になります。将軍にとってもお辛いこととは存じますが、この一事によって 天下の人心が鎮まり、大乱を未然に防ぐことができます」

 朝幕間の意思疎通が滞り、そこに諸大名がくちばしを挟めば、国内は内乱状態になる。干渉しようと機を窺ふ西洋列強は当然、一方に肩入れして介入してくる。さうなれば他のアジア諸国のやうに国論が分裂して独立を保てなくなることは目に見えてゐる。「大乱」とはかうした事態を指す…。

 慶喜が真っ先に「横井先生のご意見に感服した」と同感である旨を明らかにした。すると他の首脳たちの上洛反対の声は萎んでしまった。

     「私心」を捨て国全体のために

 しかし、慶永にはもう一つ心配があった。将軍が上洛して今までの無礼を謝しても、少壮の公家達が発言力が増してゐる朝廷があくまで「攘夷を実行せよ」と命じた時は、どうすべきかといふ問題である。「その時は、政権を朝廷にお返しすればよろしゅうございませう」と小楠はこともなげに答へた。慶永は驚いた。

  「(攘夷のやうな)できもしないことをできるかのように天下を偽ることは、私の心に通じます。できないことはあくまでもできないと申し上げ、できないことをどうしてもやれと仰せられるのなら、政治の大権を朝廷にお返しして、朝廷の方で攘夷を実行していただければよろしいではございませんか」

 攘夷をできるかのやうに偽ってゐるのも、政治の大権にしがみついてゐたいといふ幕府の私心である。かうして公論を欺き時間を浪費してゐる間にも、列強は迫ってくる。小楠の説は、国家の独立を保つためには、国内が公論のもとで一致団結しなければならず、そのためにはそれぞれが「私心」を捨てて、ひたすら国全体のためにどうすべきかと智慧を絞り、力を結集しなければならないといふ一点にあった。

 かくして小楠は清冽な伝統に光を当てたが、その後、紆余曲折を経て慶喜が将軍職を継ぎ、さらに大政奉還をなして恭順の意を示すことで、内乱を最小限の規模に収めて明治新政府が誕生した。大筋として、何よりも公論に基づく国政を念じた小楠が描いた筋書きに従ふかのやうに、一挙に新体制へと一新を図り、その後は富国強兵に邁進して、列強に伍して独立維持に成功するのである。

 これは、小楠の説くところに、松平慶永、一橋慶喜、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛など、当時の有力な人物が共感したからであらう。なぜ小楠の言説がこれほどの説得力を持ち得たのか。それは「国を思ふ無私の心」を根底に置いたからだとしか思はれない。小楠が敬愛する楠木正成も中江藤樹も、無私の心でひたすらに世のため国のために尽した。その清冽な地下水のごとき伝統を掘り当て、幕末の国難の時期に噴き出させたのが小楠の功績であった。

参照・ 徳永洋『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(新潮新書、平成17年)、童門冬二『慶喜を動かした男-小説 知の巨人・横井小楠』(祥伝社ノン・ポシェット、平成10年)

- 国際派日本人講座612号、一部改稿 - (会社役員、在イタリア)

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 布瀬雅義兄の「横井小楠<明治維新の『設計者』>」に出てくる「国是七条」に関連して、少しく記す。

一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
(将軍は京に上り、これまでの幕政の無礼を朝廷に謝すこと)

一、諸侯参勤を止め、述職と為せ。
(参勤交代の制を止めて、各大名が藩の情況を将軍に報告する制度とすること)

一、諸侯室家を帰せ。
(江戸屋敷に留めてゐる各大名の妻女を国許に帰すこと)

一、外様・譜代に限らず、賢を撰びて政官と為せ。
(将軍家との親疎で大名を分け隔ててきた仕来りを改めて、優秀な人材を登用すること)

一、大いに言路を開き、天下とともに公共の政を為せ。
(広く意見見解を求めて、公論に基づく政治を行ふこと)

一、海軍を興し、兵威を強くせよ。
(欧米諸国の侵攻に備へ、海軍力を養ひ国防体制を固めること)

一、相対の交易を止め、官の交易と為せ。
(各藩が外国と貿易するのを止めて、国家間の貿易とすること)

 文久2年(1862)、薩摩の島津久光が奉じた勅使大原重徳が江戸に下り、幕政を刷新すべき旨の勅意が伝へられた。所謂「安政の大獄」(大老井伊直弼が主導した尊王攘夷運動への弾圧で、公卿・大名・志士ら百余名が連座し、8名が死罪)、その反動ともいふべき「桜田門外の変」(水戸・薩摩の浪士による井伊大老暗殺)、さらに失墜した幕権を公武合体によって回復せんとして皇女和宮の将軍家茂への降嫁奏請、降嫁を強く請ふて実現させた老中安藤信正が水戸の浪士らに要撃された「坂下門外の変」…と展開した後の、勅使下向であった。

 この勅旨を承けて、かつて井伊大老によって隠居謹慎を命じられてゐた一橋慶喜と松平慶永がそれぞれ将軍後見職、政事総裁職として復権する。この折、越前福井藩の招聘に応じて江戸の同藩邸に在った小楠が、慶永の政事総裁職就任に当り、建言したものが「国是七条」である。

 将軍の上洛、諸侯参勤の中止、賢者の登庸、言路の開発…と、その説く所を見ると、将軍との親疎の関係で諸侯の間に見えない壁を巡らしてゐた私的封建体制に代る、皇室(=公)を中心とする明治の国民国家像が浮んでくる。それはわが国古来の歴史的精神の確認でもあったが、文久2年の渾沌とした状況にあって、小楠が「将軍上洛」を確言し得たのは、私心なき政治によって国論をまとめることが独立保持に不可欠と確信したからに違ひない(井伊大老登場前の10余年間、幕閣の中枢にあった老中阿部正弘は、外交事情を朝廷に奏聞し諸大名・有司に意見を求めるなど国論の統一を志したが急逝してゐる)。

 因みに政事総裁職とは「大老」格であるが、大老は老中(405名)の上に臨時に置かれる要職で10万石以上の譜代大名が任ぜられた。越前松平家は徳川家康の二男・秀康に始まる「家門筆頭」の家柄であったから、新たに政事総裁職として幕政に参画することになった(翌文久3年、慶永はその職を退くが、以後明治初年まで所謂「幕末の四賢候」の一人として政治に関与する)。慶永は田安家の生れで越前藩16代目の藩主に当り、小楠を招いたほか橋本左内・由利公正らの優れた人材を重用してゐる。由利は五箇条の御誓文の草案作成に関るが、この「国是7条」に、「広く会議を興し万機公論に決すべし」から始まる御誓文の兆しを読み取ることができるだらう。(山内健生)

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 勝海舟先生が最も横井小楠先生に敬服したる事は、何事も時務に関する意見を語る毎に、必らず「今日迄のところでは」といふ条件を附けて置くことである、と言った。即ち横井先生は「達人明了。渾テ順フ二天地ノ勢ニ一」と言ふた通り、世局が時々刻々変化し去る時に於いて、決して執一の見を以て之を律する能はざる事を百も承知してゐた。活眼を以て活機を見、活機を見て活務に応ずることが、先生の最も得意とする所であった。
従って其の論策・建白の如きも、必らず其時と場所とに該当するものを以ってした。茲に先生遺稿の特色がある。言ひ換ゆれば先生は最も善き意味に於いて臨機応変者である。即ち君子は時に中すとは夫れ先生の謂歟。然も其の千変万化の中に自ら一貫したる先生の主義精神は存在してゐる。それは即ち政治の倫理化である。若くは政治の極致は道義であるといふ、一個の信念である。
先生の上書・建白の類は、何れも意到り、筆従ひ、明朗暢達である。(中略)曽て木戸孝允が先生を評して「舌剱」と言ったのは、彼自らこれを実験したるの言であらうと思はるゝ。

国文研叢書6『日本思想の系譜 文献資料集 』中巻の2、1390140頁)

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     ミラーは米次郎の恩人

 野口米次郎がウォーキン・ミラーと出会った当時、ミラーは50歳代半ばであり、それなりに知られた詩人だった。彼が米次郎に、ソローとホイットマンを教へたことは前に記した。

 ソローとホイットマンはエマソンの流れをくむ人として位置づけられる。超絶主義と訳されるトランセンデンタリズム(transcendentalism)の中心人物として、ラルフ・ワルド・エマソンは明治4年(1871)、岩倉具視らの米欧回覧使節がボストンを訪れた際、講演を頼まれた著名人だった。

 トランセンデンタリズムを簡単に要約することはむづかしいが、「個人主義と平等主義を推し進め、アメリカ・デモクラシーの基底につながる思想」(亀井俊介氏の言葉)だといふことである。その思想を受け継ぎ、実践した人物として、ソローとホイットマンの名があげられるだらう。

 2年にわたる自身の独居自炊の自然生活を、ソローが記録して出版した『ウォールデン 森の生活』は1854年に刊行され、前作より好評を得てゐたが、1862年に彼は44歳の若さで亡くなってゐた。ソローが世界的に知られるのは20世紀になってからといはれるが、少しづつその名は広まってゐた。一方ホイットマンが、アメリカと自己自身を大胆に讃へた詩集『草の葉』を出版したのは1855年のことだった。その型破りな内容は一部を除いて最初は理解されることはなかったが、1892年に彼が72歳で亡くなるまでに、9版まで版を重ねて、しだいに共感者を増やしてゐた。

 ウォーキン・ミラーはいはばソロー流の生き方を地でいった人であり、ソローとホイットマンのいち早い理解者だった。そのミラーと米次郎の交渉は4年に及ぶ。米次郎は後年「詩人としては私と彼とは没交渉であった」と回想し、自分がミラー山荘を訪れたとき、ポー詩集一冊のみを携へてゐたと記して、ポーとの結びつきの方を強調した言ひ方をしてゐるが、そこで詩心を深化させ、詩作を本格的に始めることになるのだから、ミラーは恩人だった。

     渡米を決心したきっかけは?

 ここで野口米次郎の渡米前に話が戻るが、彼が米国行きを決心するきっかけになったこととして、次のやうな記述が年譜の明治26年の項に見られる。

  当時寄寓していた志賀重昂の家で、来客菅原伝が北米事情について語るのを隣室に聞き、渡米の決心を起す。

 これは『現代日本文學全集45』(筑摩書房 昭和42年)所収の編集部作製のもので、自筆年譜などをふまへたものだ。似たやうな記述は、古くはヴァインズの『詩人野口米次郎』(大正14年)の中にも見られるが、そこでは菅原伝が「北米」ではなくて「ハワイ」の事情について語ってゐたことになってゐた。

 

また米次郎の女婿に当たる、外山卯三郎氏作製の年譜(昭和38年)では、一日志賀先生に来客あり、菅原伝の北米事情を語ってゐるのを、偶然隣室できき、渡米の決心をし、外務省にパスポート下附の申請をする。

とあって、来客が誰かはっきりしない言ひ回しになってゐた。実際のところはもとより確認できないが、志賀邸の来客の中に、いつの日か長澤別天がゐたと考へるのが自然であらう。

 別天は滞米中の明治26年一月、ハワイでのクーデターの報に一挺のピストルとバイロン詩集一冊を携へてかけつけた人物である(しかしクーデターは終ってゐたため、彼はなすことなくそのまま帰国した)。ハワイでの興奮が冷めやらない別天が帰国後、『亜細亜』編集人の志賀重昂を訪問し、自分の体験を熱く彼に語るのはむしろ当然ともいへる。その席では、ポーの話ももちろん出ただらう。

 来客者が菅原伝だとするとむしろ不自然さが残る。なぜなら米次郎はこの後、同じ年の11月の渡米後すぐ、紹介状を手に菅原伝に会ひに行ってゐるからである。先の来客が菅原伝であるならば、米次郎は書生の身である以上、客を接待したはずであり、顔は知ってゐるので紹介状は要らないのではなからうか。

     『ヨネ・ノグチ物語』から(拙訳)

 私は菅原伝氏への紹介状を持ってゐた。氏は愛国同盟に所属してゐたが、それは本国の官僚制度の改革を、もっとはっきりいへば薩長閥の政府を、自由な言論の出版をとほして終らせることを目的とする政治組織だった。次の日の夕方、オファレル街の裏手に私は彼を訪ねた。愛国同盟の家は木造で汚かった。サンフランシスコでの日本様式の、その住ひに不思議な思ひがした。

 私は自分が訪れた家の最初の印象を忘れることができない。前に読んだことのあるロシアのアナキストを思ひ出させるものがあると思った。気分が暗かったことを認める。狭い小道が二階建ての家に通じてゐた。中から洩れるランプの光で外観がいっさう汚く見えた。いささかあやしげな階段を上り、中に入ると、魚に加へて日本酒の匂ひがした。手をたたく音や、騒がしい声が別室から聞こえ、私はすっかり好奇心を強くした。前述の菅原氏に私は手紙を差し出したが、今は著名な代議士も、その頃はある医師の使ひ走りにすぎなかった。まもなく議論白熱の部屋に入ることが許された。

 そこにはほとんどが若く、ものを恐れない人ばかりが集まり、ハワイ王朝を救ふ方法を議論してゐることがわかった時、自分の中に若者らしい冒険とロマンスに対する激情がわき起ってきた。その部屋の一人一人の顔を観察したが、他と違った一人の顔に引きつけられた。浅黒く大柄な、疑ひなくカナカ(ハワイ先住民-訳注)であり、ハワイの愛国主義者ロバート・ウィルコックスに他ならないとすぐわかった。彼についてすでに読んで多くを知ってゐたが、目の前に彼の姿を見るとは夢にも思はなかった。

 話が終りに近づき、愛国同盟の三人がサンドイッチ諸島の独立運動のために帰郷することが決められた。日本版ラファイエット(フランスの軍人・政治家で米国独立戦争に加はりフランス革命では国民軍司令官となった人物-訳注)として歴史に名を残すことはたいへんなことである。私はハワイ独立運動とリリオカウアニ女王のために、有り金を選んで一銭残らず、その場で寄付した。それはどうといふことのない若者としてではなく、考慮に値する者として見られたいといふうちよっとした見栄からでもあった。見栄は常に高くつくものだ。

     長澤別天の跡を追ふやうに

 文中の「カナカ」「ウィルコックス」「サンドイッチ諸島」といった語は、在米中の長澤別天が『亜細亜』に寄稿した「北米日記」をまとめた『ヤンキー』(の中のハワイに関する章)にも見られるから、渡米前の米次郎の目に触れられてゐた可能性が高い。
それにしても右に訳出した箇所からだけでも、明治の青年の覇気と胸中深く蔵してゐた矜持が偲ばれる。

 米次郎はサンフランシスコに着いた翌年の明治27年(1894)、パロアルトまで徒歩で赴き、しばらく滞在するのだが、そこはかつて別天が学んだスタンフォード大学のあるところである。そしてポーの詩集を初めて繙くことになる。米次郎の行動は、別天の跡を追ってゐるやうにも見えるのである。

     「二重国籍者」といふ自己批評

 野口米次郎の英文は必ずしも読みやすいものではない。日本語の発想とはよほど違ふ感がある。日本語とは離れたところで、英語そのものでものが考へられてゐるのだらう。彼は自作の英詩を日本語訳することから、日本の詩人となった。だが、その訳文の評価は決して高いとはいへない。

 野口米次郎が自分を、「二重国籍者」と呼んだことはよく知られてゐる。これは日本語と英語の、二つの言語を使ひ分けてゐることをさしてのことだが、『二重国籍者の詩』(大正10年)の自序には、「日本人にも西洋人にもなりきれない悲しみ」「不徹底の悲劇」「笑ってのけろ」といった語句が並べられてゐる。一見自嘲的な言ひ回しだが、この詩集の刊行後、米次郎の活動はむしろ活発になるといっていい。

 「二重国籍者」の認識によって、ある強さを手に入れたのではなからうか。「二重国籍」とは、優秀な日本人が日本語同様、英語もよくできるといったことではない。一人の人格でありながら、日本語を使ひこなす自分と、英語を使ひこなす自分がゐる。全く別個な二つの言語を内なるものとしてゐるといふ、いはば自己批評の言葉なのである。この自己批評を内に抱へた強靱な姿勢で、野口米次郎は以後、詩作の他、主に日本芸術の精神を紹介・解説する仕事を国内外に向けて精力的に行ったことは知られる通りである。その活動や生き方について、私たちはもっと関心を持って評価しなければならない時期にゐるのではなからうか。

 *『翻訳詩とエッセイAuror-オーロラ』15号掲載の拙文に加筆訂正したものである。

(札幌西陵高等学校教諭)

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 「これからは(日中の)戦略的互恵関係を深めていくという本来のあるべき方向に努力していきたい」「いろんなことが元通りに戻っていくのかなと思う」

     ○

 右は10月9日、中国熱河省の軍事管理区域に入ったとして身柄を拘束されゐた4人の邦人のうち、最後の一人が解放されたことを承けての菅直人首相の発言である(10月10日付産経、4人は9月20日に拘束され、三人は9月30日に解放されてゐた)。右は10月9日、中国熱河省の軍事管理区域に入ったとして身柄を拘束されゐた4人の邦人のうち、最後の一人が解放されたことを承けての菅直人首相の発言である(10月10日付産経、4人は9月20日に拘束され、三人は9月30日に解放されてゐた)。

 尖閣諸島が紛れもなく日本の領土であることは1960年代発行の中国側の地図でも明かであるから、ここではその帰属について喋々しない。ただし、1971年(昭和46年)から尖閣諸島の領有を主張し出した台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国であるが、その後遡って地図を改竄するといふ日本人には考へられない厚顔ぶりであり、既に1992年(平成4年)、共産中国が定めた領海法にはわが尖閣諸島が中国領として明記されてゐるのだから、日本としては歴史的根拠の上に胡座をかくだけではなく、尖閣諸島防衛のため海上保安庁の警備に加へ自衛隊の駐留を含むあらゆる手立てを練り速やかに実行に移す必要がある。

 ここでは首相発言にもある「戦略的互恵関係」について拙見を述べてみたい。首相発言によれば、それが日中の「本来のあるべき方向」であり、邦人が解放されたことで、「いろんなことが元通りに戻っていくのかな」などと語ってゐる。「元通り」とは「中国人船長逮捕前のやうに」といふことだが、果して日中は戦略的互恵の関係だったのだらうか。

 その共同声明には冒頭で「戦略的互恵関係の包括的推進に関し、多くの共通認識に達し」たことが謳はれ、次いで「日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり」とか「互いに協力のパートナーであり、互いに脅威とならないことを確認した」とか記されてゐる。しかし日本の領土を国内法に自国領と書き込み、恒常的に漁船や海洋調査船を日本領海に送り込んでゐる国と、どう互恵の関係を築けるのだらうかとかねてから疑問だった。今般の侵犯事件の経緯を見れば「戦略的互恵関係」など悪い冗談でしかないことはいよいよ明らかである。

 仮に(可能性は限りなくゼロに近いが)中国領海法から尖閣諸島が削除されたとしても、その核ミサイルが日本列島全域を射程に収める軍事的非対称の現実は変らない。さらにその外洋戦略から東シナ海・南シナ海ばかりか近年はわが沖ノ鳥島から西太平洋まで影響下に置かうとしてゐる。政治体制から見ても自由な言論を抑圧する共産党独裁国であって、三権分立のシステムさへ存在しない。

 少なくとも中国領海法から尖閣諸島が削られるまでは「戦略的互恵関係」など有り得べくもない。従って実際的な経済関係は有無相通ずるが如く重ねるが、大局的には、即ち長期的全体的な展望に立った戦略的見地からは、要警戒国であって、その前提で互恵の実務関係を続けるといふことである。まづは島嶼防衛の備へを一層固め、米国との双務的な安保協力体制作りが急務と思ふ。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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編集後記

10月9日、4人の与野党議員がチャーター機で尖閣諸島を視察。国土交通相は海上保安庁の航空機供与を「対応は難しい」と断り、与党民主党幹事長からは視察の中止が要請されてゐたといふ。こんなことで尖閣を守れるのか。この期に及んでまだ腰が定まらない。(山内)