国民同胞巻頭言

第588号

執筆者 題名
本会理事長
上村和男
領土を守り抜く国家意志を示せ
- 速やかなる自衛隊の「尖閣」駐留を -
本田 格 野口米次郎の渡米事情について(上)
- 英語と格闘した日本人の典型 -
横畑 雄基 見直されるべき教育勅語の精神
- 元田永孚と「教育勅語」 -
  平成22年慰霊祭厳修さる
  〈書籍紹介〉学生青年達が現地取材でまとめた好著


 尖閣諸島周辺のわが領海を侵犯し、さらに哨戒中の海上保安庁の巡視船に衝突した中国漁船の船長を逮捕した(9月8日)。本来は領海侵犯の事案で逮捕すべきを公務執行妨害容疑としたところに腰の引けた政府の姿勢が読み取れたが、果せるかな、容疑否認で29日までの勾留延長を決めておきながら那覇地検は、その期限を待たずに容疑否認のまま24日突然釈放した。

 この間、尖閣諸島を自国領と主張する中国側は船長の即時釈放を要求し、丹羽中国大使を何度も呼び出したり、ハイテク機器製造に不可欠なレアアースの輸出手順を遅延させるなど対抗措置をエスカレートさせ、遂には河北省で邦人四人の身柄を拘束した。身柄拘束を日本側に伝へてきたのは23日夜といふが、それまで「粛々と国内法で処理する」としてゐたはずが、一転船長の釈放となったのである。それも那覇地検の次席検事が記者会見で、最高検・福岡高検と協議の結果、「わが国国民への配慮と今後の日中関係を考慮すると、これ以上の身柄拘束は…相当でない」と述べ、この検察の判断を政府が「了とする」といふ国家として有り得べからざる展開であった。日本は脅せば直ぐ屈服するといふ醜態を全世界に示し、国家の衿恃を失墜させた大失態でもあった。

 そもそも、尖閣諸島は明治18年(1885)日本政府が現地調査を繰り返して、当時の清国を含めどこの国の支配も及んでゐないことを確認した上で、明治28年に沖縄県に編入された。それから75年余り経った昭和46年(1971)になって台湾(中華民国)と大陸中国が尖閣列島の領有権を主張し出したのである(この2年前、国連アジア極東経済委員会の報告で、東シナ海の大陸棚に石油資源の大量埋蔵の可能性が触れられてゐた)。

 従って、船長逮捕の当初から、菅民主党内閣が「中国人船長の勾留は、日本の領海に侵入し、意図的に巡視船に体当たりして、わが船舶に被害を与へたことに対する当然の法的措置である。今後とも国家主権を侵犯する者は何人たりとも厳正に対処する」との態度を明確に打ち出す覚悟を持ってゐれば、検察にあり得ない政治判断をさせて、責任を押し付けて逃げるやうな不様のことにはならなかったはずである。

 従来から尖閣諸島海域では中国船が頻繁に領海侵犯事件を引き起してゐる。その背景には、チベット・ウイグルの奥地から近年は西沙諸島・南沙諸島を獲り、さらにわが沖ノ鳥島まで狙ふといふ中国の遠大な膨張主義的外洋戦略がある。その意味でベトナムやフィリピンなどのアジア諸国は日本の対応を注視してゐたはずだが、突然の船長釈放によってわが国が失ったものは測り知れない。

 尖閣諸島は、すでに1992年の中国領海法で中国領と明記されてゐる。いまのところわが海上保安庁の巡視船が追ひ返してゐるが、巡視船の手に余る事態が当然に予測される。今度のことで「与し易し」と見たはずだから、早急に対応策を練り直ちに実行に移さなければ取り返しのつかないことにならう。

 イェーリングは「隣邦から一平方マイルの土地を奪取されて平然たる民族は、やがて残りの土地を奪はれ(略)国家として存立することを止むであらう」「民族は一平方マイルのためでなく、民族自身のために、自分の名誉と自分の独立のゆゑに闘争する」(1872年、『権利のための闘争』)と書いてゐるが、対ロシアの南樺太・北方四島、対韓国の竹島にしても、領土を守る意志が自民党政権時代からあまりにも無さすぎた。

 先づ現在は、無人になってゐる尖閣諸島(一番大きな魚釣島は3.82平方キロ)に「人」を住まはせることだ。佐々淳行氏(初代内閣安全保障室長)は産経紙上で、魚釣島に埠頭、ヘリポート、灯台などの施設を建設し、「志願制で自衛隊、灯台守、気象観測士などに給与倍額の僻地手当、危険手当を支給し、3ヶ月交代などで駐留させ実効支配を行う」とまで具体的に提言(9月28日付け「正論」欄)し、さらに「中国人民解放軍兵士が漁民を装って上陸、五星紅旗を立てかねない情勢だ」、イージス艦を含む自衛艦を「近隣海域に定期的に派遣し、海上保安庁を後方支援する」とも述べてゐる。全く同感である。ことは緊急を要する国家の重大事である。

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     戦後忘れられた野口米次郎

 戦後になって急速に忘れ去られた日本人が何人かゐるが、野口米次郎(1875〜1947)もその一人だらう。息子の彫刻家イサム・ノグチは時折マスコミでも取り上げられるから、今では息子の方がはるかに名が知られてゐる。近年野口の再評価の機運があるといふ。たしかに著作集がいくつか出てゐるが、彼に関する論考で見るべきものは、一部を除いて今なほ数少ないのが実情だらう。

 野口米次郎を現在再評価するとしたら、どのやうな視点からなのだらうか。比較的新しい本(塩崎智『日露戦争 もう一つの戦い』2006年)の中で、アメリカ世論を動かした五人の日本人の一人として、岡倉天心などと共に、野口米次郎が取り上げられてゐた。英語圏に身を投じて、その中で英語を駆使して積極的な言論活動をした日本人が戦前に幾人もゐたのだった。

 明治以降の近代文学者は、夏目漱石にしろ、森鴎外にしろ、西洋文学を見すゑながら文学史に残る作品をあらはしてきた。しかし、それはあくまで日本の読者を目当てに、日本人のために日本語で表現する営為だった。20世紀を越えた現在、英語といふ言語はますます普遍語となりつつあるが、明治20年代においても、そのやうな傾向を先取りして見ることができるかもしれない。英語は世界の言語の中でも圧倒的に優勢な言語として、日本人の目の前に出現してゐたのである。

 米次郎は天心とは違って、まったく無名のまま渡米した人だった。時に明治26年(1893)、彼が18歳になる少し前のことである。それまでも幼少期から英語を勉強してきたが、かの地で米次郎は英語に習熟し、詩に目覚め、詩作を発表し、そして詩人として認められた人だった10年余りの在米期間を経て帰国したのは明治38年(1905)、彼が29歳の時であった。

     官立の外国語学校がすべて英語学校になった時代

 成長の過程にある未熟な若者にとって、はたして英語とは何だったのだらうか。英語を学ぶとは、英語であらはすとは、さらに詩とはどういふものだったのだらうか。野口米次郎は英語と格闘した日本人の、ほとんど典型として姿をあらはすともいへるのである。

 野口米次郎の生れた明治8年(1875)は、官立私立を合はせ、外国語学校の数が最盛期に達した年である。また官立の外国語学校がすべて英語学校になった。米次郎が英語を学び始めたといはれる8、9歳は、明治16、7年に当たるが、頃は鹿鳴館時代といはれる時期であり、英語熱に加へて洋行熱も上昇し、「猫も杓子も洋行々々と絶叫せずんば已まざるの勢なりき」(長澤別天の言葉)といふ状況だった。

 米次郎は愛知県の津島といふ地方の生れだが、彼もまた誰の影響からか、とにかく英語熱に浮された少年だった。米次郎の自伝『THE STORY OF YONE NOGUCHI』は、大正3年(1914)にロンドンで刊行されたものだが、その中で彼は、初めて英語の本(『Wilson's spelling book』)を手にとった感覚を、米国行きの蒸気船に乗って、初めて太平洋の広がりを目にした時のもの(the threatening vastness of the ocean)と同じだったと書いてゐた。

 少年は英語の指導者に恵まれず、14歳の時家出のやうに上京したが、それは向学心のなせることだった。その後、文学書にも親しみ始める。先の自伝によると、彼は慶應義塾に入学後も授業には出席せず、スペンサー、ロングフェロー、アーヴィング、グレー、ゴールドスミスを読んだといふ。特にグレー、ゴールドスミスについては、古本屋で彼らの著書を見つけて日本語訳を決心したと、その時の高揚した気分を語ってゐる。しかしこのことに関して、自伝に名前こそ出てこないが、米次郎にとって重要な人物がゐたことをここで指摘しなければならない。それは志賀重昂である。

     志賀重昂の家に寄寓

 亀井俊介氏の文章(「ヨネ・ノグチの日本主義」)によると、明治26年の春夏の頃、志賀重昂は突然、家に寄宿を請ふ少年の訪問を受けた。その少年が、17歳の米次郎である(米次郎の寄寓は明治25年からとする説もある)。「英爽ノ気眉宇ニ颯発スルヲ視」と、志賀はその時の好印象を回想した文章を残してゐた。

 志賀はまだ30歳足らず、相次ぐ発行停止の『日本人』の代りに出した雑誌『亜細亜』に意欲的に論文を発表してゐた思想家・地理学者だった。この年の3月には、進歩党の結成に参加し、政治活動にも乗り出してゐた(のち数回代議士に当選)。名高い『日本風景論』は翌年の刊行になる。

 米次郎は志賀と同郷だった。彼は志賀に、釈大俊和尚の実甥だとも自己紹介してゐた。幕末の志士雲井龍雄が盟友の釈大俊に贈った詩「送釈俊師」は人口に膾炙してゐたらしく、志賀も親しんでゐたことがわかってゐる。

 志賀重昂については、その札幌農学校時代の日記が翻刻されてゐて(亀井秀雄・松木博編『朝天虹ヲ吐ク 1998年』)、現在見ることができるが、それによると、志賀は学生時代にグレーやゴールドスミスの作品を愛唱し、さらにグレーの翻訳も試みてゐたことがわかる。卒業後の明治20年(1887)に刊行し、大きな反響をえた著書『南洋時事』の中でも、志賀はゴールドスミスの詩について一章をさき、さらに自跋にはグレーの墓碑銘から三行の原文を引用してゐるほどである。

 自分の家に寄宿し、英語に情熱を燃やす若者に、志賀が英語について、自分の好むところを語らなかったことはありえないだらう。なるほど米次郎は米国で詩人として認められたのだが、彼が詩を受け入れる素地は、かうして日本で作られたといへるだらう。

     「ポーに指導的霊示を受けた」

 グレーとゴールドスミスの日本語訳の決心は立ち消え、米次郎は渡米後まもなく、エドガー・アラン・ポーの詩集を入手して親しむことになる。なぜポーを読むことになったのだらうか。ポーは1849年に亡くなってゐたが、死後ヨーロッパで、ボードレールやマラルメ、ヴァレリーなどの一流の文学者によって理解され、高く評価されてゐた。さうしたことから米本国でも再評価の機運が高まってゐたのだが、米次郎がさうした詩の動きをくはしく知ってゐたとは思へない。彼はウォーキン・ミラー(JOAQUIN MILLER 米次郎自身はウオキン・ミラーと表記してゐる)との出会ひを通じて、ヘンリー・D・ソローとウォルト・ホイットマンを教へてもらふことになるが、それはまだ先の話である。

 ポーについて、米次郎は『ポオ評伝』(大正15年)の中で、「私はポオの指導的霊示を受け始めて英詩界に入った」と、その影響の大きさを語ってゐるが、ポーに関してここで、志賀の近辺にゐた、長澤別天といふ人物について紹介しなければならない。

     長澤別天と米次郎

 長澤別天は米次郎に先立つこと二年前の、明治24年(1891)11月に23歳で渡米し、アメリカのスタンフォード大学で文学、政治・経済を学んだ俊才である。明治26年1月のハワイのクーデターに、ピストル一挺とバイロン詩集一冊を携へてかけつけた。しかしクーデターは終はってゐたので、彼はなすことなく、そのまま五月に帰国したといはれてゐる。

 別天は在米中、雑誌『亜細亜』に「北米通信」などを次々と寄稿し、精力的な活動をしてゐた。「北米通信」は帰国後すぐまとめられ、その年の八月に『ヤンキー』といふ題で出版された。別天はもともと志賀と同じ政教社の一員だった。政教社は、とどまることのない欧化主義の風潮への憂慮から、明治21年に設立された団体だった。別天はもともと詩に関心が深く、渡米前から詩に関する論考・批評をいくつも発表してゐたが、帰国の前年、明治25年にはポーの詩集を購入してゐた。帰国後まもなく、ポーの詩を日本で初めて紹介することになる。

 ここで年表を整理してみたい。

○明治26年(1893)
1月 ハワイでクーデター 
5月 長澤別天帰国(後、ポーの詩を日本に紹介する)
8月 別天『ヤンキー』刊行
11月 野口米次郎渡米

○明治27年(1894)
米次郎、パロアルトに赴く そしてポーの詩集を読む

○明治28年(1895)
4月 米次郎、ウォーキン・ミラーを訪ねる

 米次郎は、ウォーキン・ミラーといふ名をパロアルトで、日本人学生から聞いて関心を持った。サンフランシスコに戻り、ウェブスターの辞典の人名部にもその名を見出し、敬愛の念を深くする。ミラーは、オークランドの山荘に住みついて、自然と共存するやうな一見風変りな生活を送る詩人だった。

 ここを訪ねた米次郎はソローとホイットマンを教へられ、詩心を深め本格的に詩作に取り組むことになるのである。

(札幌西陵高等学校教諭)

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     はじめに

 ことしの八月は例年にも増して新聞やテレビで「戦後60年余りの年月が経った」云々が強調されたやうに思ふ。私の印象では、それらは国の歴史の連続性を意図的に断ち切らうとした「被占領期の(GHQ製の)価値観」そのままの相も変らぬ論説であった。戦前戦中は「国家中心の忌むべき時代」であって、その過ちの対極にある「個人を尊重する」戦後の価値観こそ何より好ましいといった感じであった。

 例へば「教育二関スル勅語」(以下「教育勅語」)に関して考へてみても、今なほ「国家主義・軍国主義の象徴」で旧時代のものと決めつけられてゐる。果してそれで良いのだらうか。本稿では教育勅語の成立過程や内容について、限られた紙数であるが、その作成に大きく関った元田永孚に触れながら拙見を述べてみたい。

     世を覆ってゐた欧化主義の風潮

 教育勅語が発布されたのは明治23年10月30日である。明治元年の「五箇条の御誓文」には明治新政府の基本方針を示されてゐるが、その一節に「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」とあるやうに、新政府は植民地化の危機に対処するべく西洋の技術や制度を積極的に導入して近代的産業国家建設を急いだ。東京医学校の御雇ひ外人教師のドイツ人医師ベルツが「(日本の若者に)日本の歴史について質問したとき、『我々には歴史はありません、これから始まるのです』ときっぱり断言する者がいた」(『ベルツの日記』)と記してゐるやうにs教養ある日本人tほど過去を恥ぢるやうになってゐた。政府は教育の普及にも努めてはゐたが、明治十年前後には、極端な欧化主義の風潮が災ひし、教育界では伝統的価値観や倫理観が軽視されるやうになってゐた。

 明治12年、明治天皇は侍講(君主にお仕へして学問を進講する学者)元田永孚に幼童の勉学に関する道徳書の編纂を御下命になり、3年後『幼学綱要』(和漢の例話や絵を添へて、孝行・忠節・友愛・信義・勉学・立志など二十の徳目を説いた書物)7巻3冊が著され各学校に配布されたが、翌明治16年に鹿鳴館が完成し外形的な欧化政策が頂点を迎へたこともあって、「…文部省の中には、『米国には五倫などなく、朋友の信以外は道徳としての価値はない』など唱へる者がをり、地方の学校教員も是に雷同してゐる…」と明治23年2月の地方長官会議で岩手県知事が発言するやうな事態になってゐた。欧米文化を懸命に学ぶうち、自国の道徳を軽んじ日本人の魂を忘れる傾向が地方にも浸透してゐたのである。

 かうした状況を深く憂慮された明治天皇は「日本人の善き徳目」をまとめるやう永孚に御下命になった。教育勅語は、かうした教育の混乱を本来の姿に戻すべく起草されたのである。

     「実学」を説く横井小楠に学ぶ

 元田永孚は文政元年(1818)、代々肥後熊本の細川家に仕へた由緒ある家柄に生れた。任務で不在がちな父は武道を奨めたが、祖父は「人学問せざれば道理に暗し。文筆劣れば心志を達せず」として学問によって修養すべきことを求めた。かうした期待を受け、11歳から藩校時習館に入って頭角を現し、14四歳の時には「学問の進歩著しく、更に精勤」との理由で御褒美を貰ってゐる。

 時習館では、前途有望な者25名が「居寮生」として藩費で寄宿し勉学を続けることが許されたが、永孚はその一人として20歳の頃入寮を許可された。当時時習館の塾長だったのが横井小楠である。

 横井小楠は幕末随一の思想家で、吉田松陰・西郷隆盛など幕末の志士に強い影響を与へてゐる。日頃から「学問は古今治乱荒廃を洞見することが肝心。広く和漢の歴史を学ぶべし」と、若い入寮生に実学(空理空論ではなく、実践を伴ふ学問のこと)の重要性を説いた。永孚はそんな小楠の学問に対する態度に魅了され「およそ学問はかくの如くにならなければならぬ」と日々励んだ。3年後、小楠が江戸遊学のため熊本を去ると、後任塾長の教育方針が合はず、半年後に退寮して実家に帰り、小楠を慕ふ仲間達と「大学」「論語」などを学ぶやうになった。

 永孚の祖父は日々「…学問徳行を以て道理を明らかにする…」と諭してをり、これが小楠の実学と重なって、「世の中の役に立つ人になるために学ばう」と心に期して励んだのである。のちに、小楠が江戸から戻ると再び師事し、水戸藩・福井藩の有志らとも接点を持ちながら、幕末維新を迎へた。

     維新後、明治天皇の侍講に

 幕末期、熊本藩は藩論を統一できなかった。終始尊王論を展開してゐた永孚は、京都留守居、中小姓頭などを務めてゐたが明治2年藩を離れて人材育成に余生を捧げるべく「五楽園」といふ私塾を開いた。しかし、藩公の侍講として藩に呼び戻されると、藩内の諸事運営も任されるやうになった。

 熊本藩の一儒学者だった永孚が藩命で上京することになったのは明治4年で54歳の時だった。同年五月宮内省出仕となるや、大久保利通の推挙もあり、当時18歳の明治天皇の侍講に大抜擢された。薩長両藩出身者が仕切る新政府の中でこの抜擢は異例であった。この後、明治24年に74歳で永眠するまでの20年間、「人君の心とは聡明仁愛人を知り民を保つ」との姿勢で帝王教育にあたった。「経史を通じ、道徳を論じ、古今を談じて聖聞に供する」と述べてゐるところにも、永孚の並々ならぬ意気込みが感じられる。

 明治11年、明治天皇は新教育制度が整備されつつあった学校現場や師範学校を視察されるが、前述のやうに民衆の生活そのものから遊離して新知識偏重の教育に大変な憂慮を覚えられた。そこで永孚に「教学の本義は如何に存するか」を明らかにするやう下命された。是を受けてまとめた『教学大旨』には、「…(教学の要は)人の人たる道を完うすることであり、これが祖先からの訓であり国典である」、つまり道徳が「本」であり、知識学芸は「末」であるとして、「本と末を共に備へるよう教学を天下に広めるなら、我国独特のものとして、世界に恥ぢることはない」と記されてゐる。

 冒頭に紹介した『幼学綱要』はこのあと編纂されたものである。
井上毅とともに心血を注ぐ国の根幹を忘れた拝外的教育思潮がこのまま続けば、日本が日本でなくなるのではと心配された明治天皇の御懸念にお応へするべく、日本人が昔から大切にしてきた考へ方をまとめたのが教育勅語であった。

 永孚は、法制局長官井上毅(同じく熊本藩の出身)とともに教育勅語を起草した。勅語の冒頭部に「億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」とあるが、これからの教育は、一つの理念から導くのではなく、歴史を作り上げてきた先人の生き方を学び取ることが大切であるとの考へを示してゐる。

 また終末部に「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ」とあるやうに、わが国だけでなく、またどのやうな時代になったとしても、遍く通じる日本人の道を尋ねたことを示してゐる。そして政治・宗教・哲学などの特定の一つの立場に偏ることのないやうに細心の注意を払ってゐる(所謂儒教道徳をそのまま説いたものではない)。この部分は、発布10日前まで「悖ラザルベシ」となってゐたが、言葉が弛んでゐると感じた永孚の強い進言によって「悖ラズ」と言ひ切ることになった。最後まで言葉一つにも心血を注いだ永孚らの努力が窺へる。

 明治24年1月22日、教育勅語発布から僅か80余日後、永孚は74歳で亡くなった。「欧米の新知識導入の必要性」を説き、しばしば永孚と論争を繰り返した政府の重鎮伊藤博文(初代の総理大臣)は、「永孚の業、永孚にして初めて能くす」と、その人柄と見識を讃へてゐる。

     「古今ニ通シテ謬ラス中外ニ施シテ悖ラズ」

 永孚が亡くなってから120年が経たうとしてゐる現在、わが国の教育界では「個人の尊厳」「自己決定権」が声高に叫ばれるばかりで依然として「公」を見失ってゐる。

 教育勅語を拝読してゐて「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、朋友相信ジ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ知能ヲ啓発シ…」の箇所にくる度に、いかに時代が変らうとも人として基本的あり方は変るはずがないと痛感させられる。民主党政権は「新しき公共を…」と言ってゐるが、「新しい公共」などといふものが別にあらうはずもない。吉田松陰は「人の禽獣に異なる所以を知るべし」を「士規七則」の初めに掲げた。永孚は教育の根本は「人の人たる道を完うすることである」と説き、それが「祖先からの訓であり国典である」と説いてゐる。

 いま首相以下全閣僚が靖国神社参拝を忌避するといふ恥づべき国情にある。その一方で親子肉親間の悲しい事件が後を絶たない。かかる時代こそ「歴史を作り上げてきた先人の生き方」に習はうとして発布された教育勅語を拝誦精読して、その精神を見直すべきだと声を大にしたい。

(初出『寺子屋だより』第30号、一部改稿)(寺子屋モデル講師)

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 夏の暑さがやうやく遠退いた9月20日(祝・月)午後、東京・飯田橋の東京大神宮において、日本学生協会・精神科学研究所及び興風会・国民文化研究会の道統に連なる物故師友の御霊をお祀りする恒例の慰霊祭が執り行はれた。祭儀には御遺族を初め会員・今夏合宿参加の学生など56名が参列した。御神前に今夏の第55回合宿教室が終了したことが奉告され一同はさらなる前進を期したのであった。

 新御祭神として末次祐司命が合祀された今秋は、全国から170余首の献詠が寄せられた(左に一部を掲載)。

   【会友】

          東京都 伊澤甲子麿
   一すぢに忠義の道を學びつつ生きて来にけり我が人生は

   【遺族】

          松江市 青砥誠一
   秋の夜に虫の音聞え今年早やみ霊祭りの時近づきぬ

          山田輝彦先生を偲びて   府中市 青山直幸
   虫の音につと聞き入れば今は亡き師のおもかげの浮びくるかな

          青森市 長内俊平
   みまつりにつらなることはえざれども祈りをはるかに合せまつらむ

          東京都 小田村四郎
   いかにして友らの思ひ生かすべきくだちゆく世を見るも悲しき

          久留米市 鹿毛義之
   夏来れば吾子逝きし日の暑き日の思ひいだされ涙あふるる

          東京都 加納幸子
   すさみゆく国の行方をまもりませとみ祖のみ霊に祈るあさ朝

          佐賀市 高橋和彦
   大方の友も逝きたり吾はいま遺志受け継ぎて生きむと思ふ

          岩手県紫波町 橋本のぶ
   熱き陽の北上川原に小蟹拾ひ征きましし兄等ひたすらに恋ふ

               さいたま市 宮脇新太郎
   故郷の父の書斎にしばし来て国文研の叢書を読みぬ

          末次祐司先生   横浜市 山内健生
   穏やかなみ顔のうちに仰ぎ来し深きみ思ひ偲びやまずも

   【会員】

          鹿児島市 相徳和義
   年重ね思ひ出さるるみ教へは今を生き抜く糧にありけり

          足利市 青野英海
   国のためいのち捧げし先達をまつるみ祭り有難きかな

          奈良市 安納俊紘
   海に消え山に失せたるもののふの気高き心守り伝へむ

          さいたま市 飯島隆史
   百日紅の花風に揺れ亡き友の優しきゑまひ思ひ出でらる

          府中市 磯貝保博
   世の様は移り変れど国思ふ心深めつつ友と歩まむ

          末次祐司先生   神奈川県真鶴町 稲津利比古
   先人の遺文を集め若きらを導き給ふこれの御書は

          東京都 伊藤俊介
   今年また大神宮の祭壇に先生方の御姿仰ぐ

          東京都 伊藤哲朗
   今日の世の乱れし姿予言せし師の御言葉の思ひ出さる

          さいたま市 井原 稔
   幸ひに秋津島根に生れたるに共に歩まむ御祖のみ跡を

          清瀬市 今林賢郁
   逝き給ふ師友はいかにおぼすらむ乱れはてなきみ国の姿を

          小田原市 岩越豊雄
   特攻のほこり語れずひたかくす戦後の異常改めて思ふ

          東京都 打越孝明
   内に外に国傾くる僻事を為すやつばらを払ひてしがな

          合宿にて亡き師を偲ぶ   宇部市 内田巌彦
   懐かしきみ姿見えぬ寂しさを懐きつつゆく阿蘇草千里

          中国船 領海侵犯   千葉県酒々井町 内海勝彦
   領海を侵されたるも定まらぬ国のおとどの姿あさまし

          鹿児島市 江口正弘
   望み失せ虚しく過ぐる今の世にてひたすら祈る国の行方を

          三条市 江里口淳一郎
   逝きましし友のみ霊を慰むる敬老の日の大神宮は

          末次祐司先生を偲ぶ   守谷市 大岡 弘
   警蹕のみ声脳裏によみがへり導き給ひし大人偲ばるる

          東京都 大内保治
   昨年母を亡くし、昭和二十年五月 防空壕で生れし姉と八月十五日昇殿参拝す
   厳かに蝉の声する靖国神社に姉と参りて母を偲びぬ

          町田市 大島啓子
   くらげなす漂ふごとき政界にみ国を蘇らせる政治家は何処

          古賀秀男命・瀬上安正命   東京都 大津留温
   本郷の正大寮に若くして共に励みし日をなつかしむなり

          故島崎祐司兄、故皿田宏兄   札幌市 大町憲朗
   友らとの深き交はり偲びつつ励まされつつ生くる我はも

          故皿田宏君   川越市 奥冨修一
   若き日の君の歌文読みゆけばはにかむ姿のうつつに浮ぶ

          川内市 小田正三
   久米の子や防人たちの大君を護りし歌を我は忘れじ

          柏市 小野泰彦
   日の本のいのちを守る営みを続けし大人の勲偲ばむ

          御神前に   宮若市 小野吉宣
   有為なる一人の人物そだてよとふ意志受け継ぐと誓ひまつらむ

          末次祐司先生   熊本県益城町 折田豊生
   師の君を偲びまつればおのづから浄められゆく思ひするかな

          福岡市 鎹 信弘
   亡き友の留めし御魂を受け継ぎて力の限り世に尽してむ

          末次祐司先生   さいたま市 上村和男
   やさしさを面輪にたたへ語り給ふ大人のみ姿忘れかねつも

          故山根清先輩を偲びて   輪島市 神谷正一
   務むべき道省みる折々に先輩の努めし様思ひ出づ

          民主党代表選挙   横浜市 椛島有三
   かくのごと醜き選挙なかりけり総理を選ぶ戦後歴史に

          廣瀬誠先生   小矢部市 岸本 弘
   人麻呂の阿騎野の歌を説き給ふ言葉の調べ恋しかりけり

          横浜市 北浜 道
   この夏も新しき友ともろともにみ国の正道求め学びぬ

          山田輝彦先生   さいたま市 北崎伸一
   亡き大人のぬしなき庭に茂りたるふうせんかづらの夢を見にけり

          筑紫野市 楠田幹人
   先達の偉業を友らと偲びつつ残りの人生を生きてゆきなむ

          末次祐司先生の御霊に   藤沢市 工藤千代子
   清らなる一生を終へて師の君は母君のみもとに還りますらむ

          末次祐司先生   久留米市 合原俊光
   皇国に生きゆく民の鏡をば示したまひし一世なりけり

          川井修治先生   曽於市 小原芳久
   憂はしき世に我が心晴れずとも師のみ教へを守り生きなむ

          学生リーダー達と語る   福岡市 小早川明徳
   日の本の行く末創る若きらと今宵も夢を語り合ひけり

          末次祐司先生の御霊のみ前に   都城市 小柳左門
   逝きましし師の君友らうち集ふ高天原はにぎはしかるらむ

          夜久正雄先生   東京都 小柳志乃夫
   久々にみふみを読めばなつかしき師の君のみ声聞く心地すも

          北本市 最知浩一
   虫の音に耳をすませばふるさとの父母君の想ひ出さるる

          東京都 坂本匡史
   国政は如何にあるとも師の君の歩みの道に連なり生きむ

          町田市 坂本芳明
   国を思ひ友を思ひて生涯を生き貫きし大人ら偲ばゆ

          川崎市 佐野宜志
   逝きましし先生方を偲びつつ心静かに御霊まつらむ

          横浜市 澤部和道
   南国の地に戦ひし先人の苦闘偲ばるる今年の暑さに

          柏市 澤部壽孫
   新たなる友に出会ひしよろこびをみたまのまへに告げまつりたし

          小田原市 柴田悌輔
   みおやらのみ魂まつりにつらなりてはや五十年の歳を重ぬる

          宇部市 柴田義治
   先達の歩みこし道ひたすらに踏みはずすまじと日々に祈りぬ

          東京都 島津正數
   方針の定まらぬ国となり果てて戦略戦術打てる筈なし

          末次祐司先生をお偲びして   清瀬市 島村善子
   初めての吾をもやさしく導きし合宿教室我れ忘れめや

          今夏の阿蘇合宿にて   由利本庄市 須田清文
   もち月の影ながむれば今は亡き友の面輪のうかびくるかな

          下関市 寶邊正久
   天皇陛下萬歳祈る田所さんの声のわが耳にきえずありけり
   戦死せる友らと共に手をつなぎうたはんかなや進めこの道

          霧島市 七夕照正
   在りし日の大人らの雄姿夢に見つ彼岸の輝く光の中に

          佐世保市 朝永清之
   師友らのかなしき思ひに支へられ我もつとめむいのちの限り

          黒上正一郎先生   川崎市 富永晃行
   師の君の説かれし太子に縁ある飛鳥をおとなふこれ此の秋には

          藤沢市 中川裕司
   今し世は天岩戸の閉ぢられて闇夜を歩む心地するなり

          佐久市 中澤榮二
   国の為斃れし御霊慰めず何処に向ひてまつりごとする

          川井修治大兄   大月市 中村祐和
   今は亡き川井大兄のなつかしきみ姿み声うつつに浮ぶ

          山根清さんのみ霊に   宝塚市 庭本秀一郎
   先輩の究めをられしとふ硫黄島の戦ひの書この夏に読みき

          岡山市 波多洋治
   混迷の教への庭に光指すかすかに期するもののふの道

          東京都 番園雅子
   国守りいのち捧げしみ祖らの御たまを祭る日は近づきぬ

          同窓の集ひにて   東京都 坂東一男
   星野大人の喜び給ふかんばせを偲びつつ語る『古事記』を

          厚木市 福田忠之
   日の本の国の命を守らむと努め励みし吾等が先達

          埼玉県吉見町 藤井 貢
   国のいのち守りたまひし先達のみ霊祭りの秋ぞ来にける

          福岡市 藤新成信
   若きらと共に学ぶはいつの日も我が務めなりと思ひ定めむ

          小田村寅二郎先生   横須賀市 古川 修
   夜も更けてみ文み歌をよみゆけば御霊の声のせまりくるかな

          筑紫野市 松浦良雄
   海の外に呆然と聞きし終戦のおほみことのりのみ声忘れじ

          北九州市 松田 隆
   黄金色に稲穂輝く畦道につくつく法師の鳴き声聞ゆ

          英語幼稚園を開く   岐阜市 三林浩行
   外国の言葉と共に日の本の言葉を子らに伝へてゆきたし

          倉敷市 三宅将之
   ああかなし大臣ら空しき言挙げてみ国の歴史顧みぬとは

          東京都 宮田良将
   みだれたるこのうつし世に迎へまつりみたまらをいかに慰めまつらむ

          円覚寺伝宗庵の読書会   調布市 森田暁子
   庵にて廣瀬先生の御本を手に取りて想ひを馳せる遠き祖先に

          九月七日、日比谷公会堂での次世代リーダーの会議   福岡市 山口秀範
   今を去る七十年前この場所を熱く埋めし集ひ偲ばゆ

          川崎市 山本伸治
   年毎に御霊の心偲びては心のくもりを振り払ひ生く

   【学生】

          黒上正一郎先生   国学院大文三 相澤 守
   御本を読み憲法十七条に示さるる日本の民主主義を学びゆきたし

          東京大教養二年 高木 悠
   一人でも多くの友と一冊の本をひもとき輪読したし

          岩手の母の実家にて   埼玉大教養二年 山中利郎
   病む床にいませし祖父の家のうちを歩み給へば嬉しかりけり

(『祖國と青年』12月号)- 仮名遣ひママ -

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松井嘉和 監修 全日本学生文化会議 編  明成社刊
『天皇陛下がわが町に - 平成に生まれた物語 -』
               (定価1,500円 送料280円)

 この夏の阿蘇での合宿教室で同じ班になった御縁で、三荻祥さん(全日本学生文化会議 事務局長)から標記の御本をいただいた。

 本書は天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いだ現地へ直接足を運び、その地でお詠みになった御製や御歌の背景について、その土地の人達の声を聞いてまとめたものである。本書の末尾に取材・編集スタッフ四十六名の名前が記されてゐるが、その中に旧知の学生の名もあって嬉しかった。

 御製・御歌についての謹解であれば、他にもいくつかの書籍があげられるだらう。しかし、本書の特徴と意義は、あらためて現地に赴いて、関係者から直に話を聞き取ったところにある。それだけに、両陛下をお迎へした人々の歴史的ともいふべき喜びの思ひが綿密につづられてゐる。しかも本書が、昭和から平成への御代替はりの頃に生を享けた学生・青年達によってなされたことに大きな意味があると言はなければならない。

 「あとがき」の中でお若い三荻さんは、陛下のお言葉を調べてゆく中で、陛下がご巡幸になられる地域とそこで暮す人々について、〈(御公務で)大変お忙しい中で、…こんなにも細やかに御心を寄せられて丁寧にお調べになっている〉ことを知って驚いたと記し、さらに〈直接陛下にお言葉をかけていただいた方々は、どのように受け止めているのか聞いてみたい〉と思ったことから、全日本学生文化会議による今回の〈全国聖蹟調査〉が始まったと記してゐる。

 そして平成20、21年の2年間をかけて、日本国内およびサイパンの55ヶ所をスタッフが訪ね、その中から13ヶ所における取材の記録が本書に収載されてゐる。

 例へば栃木県・千振開拓地(戦後、満州から引き揚げてきた人々による開拓地)の項では、担当した和田浩幸君(首都大学東京卒)は左のやうに記す。

  〈私自身、戦争を直接知らない。それだけに過去の歴史をみるときにどうしても観念に流されてしまう時がある。当時を生きた人々の思いにどれだけ肉薄していけるかが、歴史を正しく継承できるかどうかを左右するように思う〉

 この言葉に、今に生きる青年と先人の心を結ぶ貴重な接点をみる思ひがする。
ジャーナリズムや政治家の言動に左右されることなく、自らの目で自国の歴史を見つめ直さうとする青年達の気持ちに、我々は一体どれだけ応へ得られるであらうか。あらためて自分自身の覚悟を問はれる思ひがした。

 陛下はこの地で左のやうに詠まれてゐる。

          千振開拓地を訪ねて(平成17年)
     たうもろこしの畑続ける那須山麓かの日を耐へし開拓者訪ふ

 この御製の中の「かの日」の一語についても、取材に当った青年達は「 陛下のかの日というお言葉には、満州での開拓、引揚げ、那須での再入植と開拓という自分たちの歴史が込められているように思う」と語る現地の男性の声を伝へてくれる。かくして記録した青年達の歴史をみる目は深く掘り下げられゆくのである。

 また陛下が皇太子時代から沖縄の琉歌を多くおつくりになってゐることはよく知られてゐる。

     だんじょかれよしの 歌声のダンジュカリユシヌ ウタグイヌ
     響見送る 笑顔目にど残る
     フィビチ ミウクル ワレガウミニド ウヌクル

 陛下の御訪問(昭和50年)を仰ぎ、さらにこの琉歌をいただいた愛楽園(沖縄県にあるハンセン病療養所)入所者の喜びは一入のものがあった。そして「殿下の琉歌のための節があれば、それで歌いたい」といふ気持のあることをお知りになった陛下は、皇后さま(当時の妃殿下)にご相談になり、皇后さまが作曲された経緯も、本書で詳しく知ることとなったのはまことに嬉しいことであった。愛楽園では「歌声の響き」といふ名が付けられ歌ひ続けられてゐるといふ。
各位にご一読をおすすめしたい好著である。

(岸本 弘)

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編集後記

 本号6〜7頁に慰霊祭献詠の一部を掲載した。心に染みる調べを一首でも多くをと思ひ、2頁を割いた。

 尖閣諸島(石垣市)海域を侵犯し巡視船に体当りして逮捕の中国船船長を那覇地検は「日中関係を考慮して」釈放。これまでも同じ理由で検定済歴史教科書の改筆、靖国神社参拝の見送り、尖閣を中国領海法明記の年の両陛下御訪中(宮沢内閣)…。既に幾度も倒してゐる。「普天間」迷走の民主党政権下でさらに拍車が掛かるのか! (山内)

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