国民同胞巻頭言

第586号

執筆者 題名
本会理事長
上村 和男
定見なき民主党政権の無責任
- 現実化する「国家の溶解」 -
國武 忠彦 吉田松陰の学問
- 松蔭が切に願ったものは何か -
名和 長泰 末次祐司先生をお偲びして
- 「求道すなはち道なり」を実践された -
三荻 祥 日本最西端の島・与那国レポート
後藤 元秀 伊佐 裕著 『和なるもの、家なるもの』を読んで

 昨年8月末の総選挙の結果、民主党が政権の座に着いたが、その政権運営は、身に染み込んだ野党的無責任さとそこから発する未熟さばかりが目立つ感じである。わが国をどの方向に導かうとするかの国家的なビジョンの提示もなく「政治主導」の言葉ばかりが一人歩きしてゐる。予算編成に絡んで公開で実施された事業仕分けも政治的パフォーマンスの域を出るものではなかった。
ために当初、「七割強」の支持を得てゐた鳩山内閣は僅か8ヶ月で崩壊。官僚を遠退けるかの如き「政治主導」に自ら足元を掬はれて、内政外交ともに行き詰まったからである(ことに普天間基地移設を巡る迷走振りは酷かった)。代って内閣ナンバー2の菅副総理が後を継いだが、前内閣同様に空疎な「政治主導」の語に縋らうとしてゐるやうだ。

 そもそも民主党には党の理念を大綱的に示す「党綱領」がない。小選挙区(定員1名)制の導入で様々な思想信条の人物が「当選が第1」で寄り合ってゐるから、一体とした国家政策は望むべくもない(それでゐながら党本部に旧社会党スタッフを抱えてゐるからか、後述のやうに左翼イデオロギー色は濃厚である)。
民主党が政権の座に着いて間もなく1年。その定見なき政治運営によって、「国の安全と独立」が危うくなり、国家の溶解が現実的に危惧される状況となってゐる。

 その一は「普天間基地移設問題」の混迷である。これは普天間基地周辺に戦後住宅が進出したことから、万一の事故を懸念した日本側が基地移転を米国側に働きかけたことが発端だった。紆余曲折を経て辺野古地区(名護市)への移設で合意し、沖縄県も名護市も移設受け容れで成案が図られてゐた。ところが昨夏の総選挙の際、民主党が「国外か、最低でも県外に」と声高に叫んだことで受け容れ反対派が息を吹き返して日米合意が宙に浮いてしまった。米軍基地への地元の感情に配慮すべきは当然ではあるが(それ故に成案まで13年を要した)、事は日米間の合意であり、さらにわが国の安全保障に直結する根本問題である。

 近年の中国の軍備増強、ことに海軍力増強による東シナ海から西太平洋での覇権確立の動きを見れば、沖縄の米軍基地の意味合ひは増すばかりだ。かうした厳しい現実に目を塞いで「最低でも県外に」と叫んだ民主党の無責任さには呆れてしまふ。

 その2は「定住外国人への地方参政権付与」「夫婦別姓の導入」「人権救済機関の設置」の動きである。民主党に巣喰ふ旧社会党左派の世界観からくるものだが、これらは国家(国籍)の存在意義を曖昧にし、家族親子の紐帯に楔を打ち込み、さらに国民相互間に疑心暗鬼の種を蒔く恐るべき企である。自由とか平等を掲げてはゐるが国家秩序の崩壊につながるもので結局は国民を苦しめる。

 しかしながら、かつて自民党内部にも似た動きがあったし、いま自民党以外の野党では賛成派の方が遙かに多い。小泉政権時代の市場原理主義によって地域的な伝統的な価値観が揺らいでゐることもあって、今後の動きは油断できない。

 その3は「憲法論議の封印」である。戦後日本は「国家の安全」を専ら米国に依存し、主体的に自国を護るとの意思が欠如してゐる。従って北朝鮮による「邦人拉致」も北方領土はいふに及ばず「竹島」も相手のなすがままとなってゐる(尖閣諸島も危ない)。これは占領憲法を「平和憲法」などと呼称してきた政治の怠慢にほかならないが、その結果多くの国民が日米安保体制に安住してしまってゐる。しかし、わが国が独立国として本来の姿を取り戻すには、どう考へても自主憲法の制定が不可欠だ。

 ところが「対等の日米関係を」と言ひながら国会最大会派の民主党は憲法調査会を死に体にして憲法論議から逃げてゐる。党綱領なき民主党は、国家の基本に係る憲法や安全保障をめぐる国会での論議に、党利党略から封印をしてゐるのである。無責任の極みと言ふほかはない。

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     松蔭を採り上げたNHKテレビ

 いま、「龍馬伝」(NHKテレビ、日曜夜の連続ドラマ)が人気があるといふ。書店でも図書館でも、明治維新に関する人物伝に関心が集まり、とくに若者が読んでゐるといふ。

 ドラマ「龍馬伝」では、土佐藩の武市半平太が登場する。大殿様・山内容堂公の尊皇攘夷を信じて真正面から忠義を尽くすが、老獪な大殿様には受け入れられず、つひには切腹となる。忠義といへば、長州藩に吉田松陰にまさる者はゐないと思ってゐたら、先ごろ『吉田松陰先生、そんなのムチャですよ』(NHKテレビ、水曜夜の「歴史秘話ヒストリア」)が放映された。

 命知らずにも東北の雪山を踏み越える、海外渡航を企てては友人と小舟で米艦に乗り付ける、罰をものともせず上役に上申書を提出する…等々、20歳代の松陰の青春は「ムチャ」の連続。この熱血漢は「二十一回猛士」と名のり、わざわざ「ムチャする」ことを目標にした。あまりにもやりすぎて罰を受け、5回も牢屋に入れられた、といふのが歴史秘話の筋書きであった。真に軽いタッチではあったが、松蔭を採り上げてくれたことは嬉しかった。

 私も、高校生のとき、「吉田松陰を読みなさい」と先生に薦められ、著者は誰だったか忘れたが、学校の図書室から借りてきて読んだことがある。その本は、ちょっと難しかったが、記憶に残ってゐるのは、密航に失敗し自首して野山獄に送られるとき、重病で下痢をする金子重輔の汚れた着物を取り替へてくれと激しく役人に頼み込む松陰の姿である。

     山岡荘八著『吉田松陰』

 私は、昭和37年高校の教師になり、「日本史」を教へたが、教材の多くは歴史小説であった。生徒は心の動く感動的な話を待ってゐるし、私自身もできれば感動しながら授業をしたかった。山岡荘八の『吉田松陰』は、まさにその感動の一冊であった。読みやすくて、おもしろい。松陰の人柄や生き方が手に取るやうに伝はってくる。純粋で正直で、そのひたむきな生き方に感動した。読んでゐて、松陰が私の身体のなかで生きてくる。そんな感じがしたのである。

 その後、仲間と松陰の『講孟余話』を輪読することになり、『孟子』も併せて読まなければならなくなった。松陰は、八歳のときには『孟子』を読んだといふのは驚きで、しかもそれは素読である。私が読む『孟子』には、やさしい現代語訳が付いてゐる。

 教職に就いた年の夏、小林秀雄先生(文芸評論家)から直にお話を伺ふ機会があった。その折、私がフランス語を勉強したいと申し上げたら、先生は大きな声で「そんなものはやめなさい」とおっしゃった。そして、「きみは漢文が読めるのか」と私に聞かれる。突然の質問に、「読めません」とお答へすると、先生は「ぼくは漢文が読めない」と悲しさうに言はれる。それから伊藤仁斎や荻生徂徠のお話を次々としてくださったのだが、先生の「漢文が読めない」といふ意味は無論簡単なことではない。言葉に熟達できない悲しさといふか、味読できない、我が物にできない苦しみを意味してゐるやうに思ふ。

     「方寸錯乱いかにぞや」

 つい先日、『講孟余話』の話を大学生にしたとき、ある女子学生が「なぜ松陰先生はあんなに沢山の本を読んだのですか」と聞いてきた。彼女は読書量の多さに驚いてゐたのだが、本当はNHKテレビのやうに「そんなのムチャですよ」と言ひたかったのかも知れない。たしかに、松陰21歳の九州遊学の折には、平戸滞在52日で80冊、長崎滞在20日で23冊を読み、野山獄では在獄1年2ヶ月で618冊を読了してゐる。寸陰を惜しんでは書を読み、大事な箇所を書き写してゐる。

 松陰の心を強く捉へてゐたのは、日本国の安危であった。日本国有用のための学問である。無礼な列強の開国要求に対して、いかに処すべきか。「これまで学問とても何一つ出来候ことこれなく、わづかに字を識り候までに御座候。それゆゑ方寸錯乱いかにぞや」と兄に書き送ってゐる。山鹿流兵学だけでは対処できない。学問は実践と結びつかねばならない。九州から江戸へ、東北へと遊学がはじまる。長崎では黒船を見た。いろんな先生を尋ね学んだ。同じ思ひの友と熱く語り合った。まっしぐらである。

     「忠臣義人の事を悦ぶ」

 

「好みて書を読み、最も古昔忠臣 孝子、義人烈婦の事を悦ぶ。朝起きてより夜寝ぬるまで、兀々孜々として、且読み且抄し、或ひは感じて泣き、或ひは喜びて躍り、自ら已むこと能はず。此の楽しみ、中々他に比較すべき者あるを覚えず。況や更に良友を得て奨励切磋し、肝胆を吐露し、互に天下の大計を論じ、身を以て大難至険に当らんとするに当りて、満心の愉快比すべき者なし。」(『講孟余話』)

 松陰の読書の喜びが伝はってくる文章である。松陰は忠臣義士孝子義人烈婦の話を好んだのである。これは、松陰だけではない。当時の青少年は、みんな大石内蔵助とか、楠木正成などが大好きなのである。松陰は、湊川を通るたびに、楠木正成の墓に参って泣いたといふ。

 語れば泣きたくなるやうな人物がゐる。逆に、許せない人物がゐる。正義とは何か、不義とは何か。そんなことは論じなくても、心のなかに忠臣義士がしっかりと生きてゐる。天下国家の大難至険に直面しても、たぢろがぬ力が、そこから湧き出てくるのである。

     「皇国の皇国たる所以を…」

 松陰の学問は、日本国の安危にあったが、それを支へたものは尊王思想である。『神国由来』を暗唱して育ち、『日本外史』も読んでゐたと思ふが、本格的に国史の勉強に取り組み出したのは、水戸での衝撃的な体験がきっかけであった。

 東北遊学の途次、水戸に約1ヶ月立ち寄り、会沢正志斎・豊田天民などの学者と接触するうちに、松陰は日本の上代史に暗いことに気づいた。来原良蔵への手紙に、「身皇国に生れて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」と書き送ってゐる。大いに恥ぢたのである。帰国すると『日本書紀』30巻、『続日本紀』四十巻を猛烈な勢ひで読破する。22歳のときである。

 天照大神が皇孫瓊々杵尊に、「葦原千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮りなかるべし」と仰せられたことを知った。松陰は、この天孫降臨の神話を信じた。日の神の直系の子孫が天皇であることを。歴史を読むことによって、「身皇国に生れて、皇国の皇国たる所以」を知った。自分は、この国の歴史のなかに生きてゐる。日本の国柄を再認識し、自分の価値を知ったのである。

 しかし、明倫館の学頭山県太華は、日本国を天日が開いたといふのか。天日とは太陽のことか。天照大神の徳を太陽になぞらへたのか。太陽は世界を照らしてゐる。わが国だけではないぞ。それを、わが国の祖宗といふのは大怪事ではないか、と批判する。

 松陰は怒って、「皇国の道悉く神代に原づく」「此の巻は臣子の宜しく信奉すべき所なり。其の疑はしきものに至りては闕如して論ぜざるこそ、慎みの至りなり。鴻荒の怪異は万国皆同じ。漢土・如徳亜に怪異なきは、吾れ未だ之を聞かざるなり」と反論した。神代のことで疑しきものがあっても、それをあれこれと論難しないのが慎み深い態度であると言ふのである。

 『日本書紀』を読んで、あと一つ覚醒したことは、神功皇后の三韓征伐以来の応神天皇・仁徳天皇などの積極的な大陸政策である。古代の日本には鎖国はなく、日本軍は勇ましい戦ひをしてゐたことを知ったのである。松陰の攘夷思想は、開国と表裏一体のものであった。

     人間の真の自由

 小林秀雄に『文学と自分』といふ文章がある。昭和15年11月に書かれたもので、支那事変がはじまり、「戦争に処する文学者の覚悟如何」といふ雑誌社の質問を、馬鹿馬鹿しい質問だと一喝して、つぎのやうに述べてゐる。

  「戦が始まった以上、何時銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国の為に銃を取るだらう、而も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃を取るとは無意味な事である。戦ふのは兵隊の身分として戦ふのだ。銃を取るときが来たらさっさと文学など廃業してしまへばよいではないか。」

 小林秀雄の覚悟は、簡単明瞭である。普段から、自分が直接経験する狭い世界だけを信じ、物を突き詰めて考へてをれば、自然に行き着く道理であった。自分を支へるものは、自然であり歴史であり伝統である。歴史の流れは必然の流れであらう。

 それなら人間の自由は何処にあるのか。人間の真の自由といふものを歌ったものとして、松陰の

   呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな

といふ辞世の歌を一つ載せてゐるのである。

(昭和音楽大学名誉教授)

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 5月31日、末次祐司先生が帰幽されました。享年88歳。先生は大正13年(1924)12月24日、台湾・台北市にお生れになり、昭和20年12月台北経済専門学校を御卒業。その後故郷の佐賀へお帰りになり、以来佐賀県内の県立高校で英語教師として昭和59年3月までお勤めになりました。その一方で本会の活動にも尽力され多くの若者の薫陶にも励まれました。

 先生が幼少期を過された当時の台湾では「六士先生」の「芝山巌精神」が広く尊崇されてをり、日本本土と同等以上と言ってもいい教育的な雰囲気の中で成長されました。学生時代には学内の研究サークルで日本の文化伝統を熱心に研究され、その精粋たる「神ながらの道」を学んでをられました。戦後は国文研の草創期から全国各地の諸先生方と御一緒に活動されたことは皆様よくご存知の通りです。昭和39年3月から昭和55年5月まで国文研の理事をお務めになり、昨年11月には社会教育功労者として栄えある文部科学大臣表彰を受けられました。

 先生に初めてお目にかかったのは、昭和56年8月熊本県阿蘇内牧で開催された第26回全国学生青年合宿教室においてでした。以来30年の長きにわたって、親しく御指導を頂いたことは誠にお礼の申し上げやうもありません。

     「清風会」と命名された先生

 佐賀県在住の若手国文研会員で輪読会を開くやうになったのは昭和58年頃でした。やがて県内のオールドの先生方も参加されるやうになり、末次先生を中心として、三世代が集ふ輪読会が誕生しました。先生がこの会を「清風会」と名づけられたのも、思想的昏迷きはまりない世の中に吹く、日本再興の清らかな風となることを願はれてのことでした。

 毎月の例会は、日曜日午後1時半から5時まで、主に「協和館」の一室をお借りしました。協和館は佐賀城址の高殿に建ってゐて、輪読会には最適の場所でした。例会の前半で輪読を行ひ後半で研究発表を行ひました。輪読は、黒上正一郎先生の『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』、三井甲之先生の『明治天皇御集研究』、国文研聖徳太子研究会編の『勝鬘経義疏の現代語譯と研究』(上巻・下巻)を毎回数ページづつ読み進みました。これらの書物を読み終へることができたのはまさに輪読の威力であり、二重の意味で貴重なことでした。

 研究発表の方は当番制で、様々のテーマが取り上げられ、発表のあと討議を行ひました。私たち若手が新聞・雑誌の記事を題材に「単一テーマ」を取り上げることが多かったのに対して、先生の御発表はいつもまとまりのある詳しいものでした。例へば、ある歴史上の人物を紹介される場合、必ず年譜まで調べてをられました。生れ故郷である台湾については、さらにお詳しく、台湾の発展の基礎を築いた日本人、とりわけ台湾人教育の先陣を切って落命した「六士先生」の故事などは臨場感あふれる御発表でした。

 先生は、不二歌道會はじめ、師友会、葉隠研究会など多くの勉強会・研究会にも参画され、幅広く御研究と御研鑚を積まれてをりました。まさに、「求道すなはち道なり」を実践されてをり、多彩な新しいテーマを取り上げられ、いつも感服させられました。御自身の研鑚を兼ねて、御旅行に出かけられた際には、その旅で得られたことを題材になさることもありました。旅といへば、先生とご一緒で、徳島の黒上正一郎先生の墓所をお参りさせて頂いたのも貴重な体験でした。

     「ひとすぢの信」を貫かれた

 御皇室に関ることが世間で話題になる時には、問題の本質、日本の国柄といふことをいつも念頭においてをられたことが分りました。あるとき「教育勅語」を輪読する場面があり、「國體ノ精華」といふ言葉について、先生は特に強い思ひを語られました。「国家と国民の安寧を祈られる御皇室と、御皇室を国の中心と仰ぐ国民とが麗しく伝へてきたのが国柄であって、何があっても日本人は幾久しく受け継ぎ守り伝へなければならない…」。戦前・戦中・戦後の激動の中、「ひとすぢの信」を貫いて来られた先生のお言葉にはっとさせられました。

 戦後世代の一人として、日本のすばらしさ、日本人として生きることの誇りを学ばせていただいたことは何よりも有難いことでした。

 先生は御生涯を通じて「神ながらの道」を研究研鑽され、自ら神道の実践者として修行され、神職の資格を取得されました。広く地域のために御活躍になったばかりでなく、地元の氏神である日枝神社の氏子総代、さらに責任役員をお務めになり、産土神に奉仕されました。

 昨年5月、御子息の住まはれる熊本に転居されましたが、前述の大臣表彰を受けられるため上京された帰路には、佐賀に廻られ御両親の墓前に、大臣表彰を親しく御奉告なされたさうです。

 先生は、教職を御退職された昭和59年に、所感を纏められて『葉末の露』を出版されました。その「あとがき」には「私が一貫して求めたのは、人の真心と、古き良き日本の伝統とその継承とであった」とあります。あらためて読み返してみると、輪読会の席での先生のお声が耳によみがへってくる思ひがいたします。

     よみがへってくるお声

 『葉末の露』の各編の「感想」をここに抄録して、先生の篤実なお人柄をお偲びしたいと思ひます。

「獅子吼」-友清歓真著『天行林』より-(感想)

  「私はこの比喩話を思ひ出すたびに、何度目をさまさせられ、そして勇気づけられたかしれない。やゝもすれば、自分は羊の子と思ひこみ、自分の枠の中に小さく閉ぢこみ、弱々しく生きようとした時、私を励ましてくれたのはこのたとへ話である。人間はいつのまにかこの小我のとりこになってゐる。人は誰でもが心の底に潜む大きな力-神性・佛性と云へるかもしれない-を持った獅子の子である事を忘れがちである。しかし一たんこの神性(佛性)に目ざめた時、人間は本来の人間(真我)にたちかへる。こゝが大切だと思ふ。虚心に自然の神秘にふれ、また、先人の書をひもとく時、心の中に神性(佛性)の声があたかも遠い獅子吼の如く響いてくる。大きな力の湧き出るを覚える。稲は夏に雷鳴にふれて生命を宿すと云はれる。人間も天啓の声に接して、人が真の人になると思ふ。あくまで謙虚に、日々反省しつゝ、しかも自分の中に宿る神性(佛性)に目ざめて生きるやうに努力することが極めて大切だと思ふ。(昭和58年10月23日)」

◆「高市黒人の歌」-犬養 孝著『万葉の人びと』より-(感想)

  「「国の栄えは、国津神の御霊と共にある」と感じた万葉人高市黒人の感覚はするどいと思ふ。表面の荒涼たる現象をみて、その背後に神霊の不在を覚る感覚は、万葉人にして始めてなし得る事で、現代人はすでにその能力を失ってゐるやうに思ふ。身近に神霊を祀り、神霊と共に生活してゐた万葉人には「目に見えない現象の背後、そこに自分の心をしみ通らせる」深みのある精神生活をなし得たものと思ふ。日本の現状を見る時、表面の物質的な栄えとは裏腹に、人の心はすさみ荒れてゐる。背後に神霊の不在をつくづく感じ神霊に見捨てられた思ひさへする。戦後の占領政策の呪縛より一日も早く脱却して、国民こぞりて御国を守る神霊を祀り、国民精神の復興をはからねば、真の日本の栄光は無いと思ふ。(昭和59年5月17日)」

「千里巡拝行脚の旅」-影山正治著『千里行脚の記』より-(感想)

 

「大東亜戦争の敗戦といふ厳粛な事実に直面し、真の日本人の生きていくべき道をお教へいただいたお言葉である。私の敬仰して止まぬ、今は亡き影山正治先生の萬感溢るゝ思ひが切々と伝はってくる。この言葉を拝する時、思はず粛然として身のしまるを覚える。日本人の心の中心はまさにこゝにある。即ち一切を神慮とかしこみ、天朝護持に心身を捧げ尽くす事である。これが日本人の心の原点であり、回帰点であると思ふ。これより他にまことの日本人の歩むべき道はない。一言一言に先生の面目躍如たるものが現れてゐる。このみ心を持って生涯を貫き、昭和54年5月25日、元号法制定を祈念して東京都青梅市に於いて自刃なされた。享年69歳であられた。み言葉をつゝしみ、後につづかむ事をお誓ひするのみである。(昭和58年11月30日)」

     ○

たまゆらのいのちにはあれど笹の葉の葉末にむすぶ露ぞ美し
                 (『葉末の露』あとがき所載のお歌)

 再び先生の温顔にまみえることは叶はず、悲しく寂しい限りです。三十年余りにわたって賜った御指導と御厚情に衷心より感謝申し上げます。どうか日本とわれらの行く末をお見守り下さいますやうお願ひ申し上げます。御霊の安らかならんことを心よりお祈り申し上げます。

(久留米大学附設高等学校教諭)

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 去る3月7日〜10日、全日本学生文化会議の仲間八名で与那国島へ赴いた。論議されてゐる外国人地方参政権付与法案について考へるに当って、国境の島が直面する危機を調査するためであったが、町政に携はる方々や百軒近くの家庭を訪問して多くの人達から生の声をお聞きできた。そこで限られた紙面ではあるが、国境の島・与那国島の実情を御報告して、地方参政権付与が内包する危険性を考へてみたい。

 与那国島は、日本最西端の島で、那覇から509キロほどのところにあって、周囲は約28キロ。農業を主とする祖納・比川と、カジキ漁を主とする久部良の三集落から成り立つ青い海で囲まれた美しい島である。台湾までは111キロで、年に2〜3回、クッキリと晴れ渡った日にはその島影が見えるといふ。

 人口は1625人で、コンビニも本屋もなかった。車で移動中、殆ど島民とすれ違ふこともなく、空き家や台風などで被害を受けたまま放置されたらしい家も目に付いた。

     島に人が住むことが最大の防衛

 与那国島の過疎化の現実は深刻であった。昭和25年には6200人弱ゐた島民が、60年後の現在は四分の一強の1600人台まで減少してゐる。ここ10年で400人も減ったといふ。その要因は大きく三つにある。一つ目は島に高校がないといふこと。今年は約20名の中学3年生がゐるとのことだが、卒業すると殆どが高校進学で島を出るのだ。「終戦直後約300人ゐた漁業従事者は現在では33人。後継者が育ってゐないことが大きな問題で、人材不足の背景には、高校がないことが大きく影響してゐる」(漁業協同組合組合長の上地常夫氏)。家と墓を守る習慣が残ってゐので、長男は島に戻るが、他の者は殆ど島外で就職して戻ってこないといふ。

 二つ目は輸送にコストがかかるため物価が高いといふこと。ペンを買はうとスーパーに立ち寄ると本土で150円前後のボールペンが290円もした。ガソリンは一リットル155円。高校生になった子供への仕送りと島での生活の両立は厳しく、生活基盤を島外に移す家族も少なくないのだ。

 三つ目は仕事がないといふこと。外に出た若者で島に戻りたいと願っても、島では職がなく結局は戻れない。「自衛隊が入ってくれば人口が増え、経済が活性化する」(町議会議長の原孫吉氏)。自衛隊誘致による経済効果を望む島民も少なくなかった。「島の防衛のために自衛隊の配置が必要だが、それができないならば島に人が住むことが一番大事だ。このままではさう遠くない将来、与那国が尖閣諸島のやうに無人化してしまふ」(町議で与那国防衛協会副会長の糸数健一氏)と危機感を募らせてゐた。

     台湾が中国に取られれば、与那国島も一緒に取られてしまふ

 もう一つ多くの島民が危惧してゐたのは防空識別圏の問題だった。現在、与那国上空のうち、西側3分の2が台湾の防空識別圏となってゐる。つまり日本の航空機が与那国島上空の台湾の防空識別圏内に進入する場合、その予定地点・時刻等を報告しなければ、国籍不明機としてスクランブルをかけられてしまふ。与那国空港も台湾の空の下にあって、航空機やヘリの離着陸の際には台湾側に必ず連絡を入れなければならない。

 「急患が出たとき、島内で診ることができないから、石垣島からのヘリを要請しなくてはならない。ヘリが到着するまでに2時間から長い時は四時間かかる。たぶん台湾に連絡をすることも、時間がかかる原因になってゐるのでは」と、ある島民は不安げに話してゐた。「有事の時、いちいち台湾に連絡をしてゐたら間に合はない。それに仮にもし台湾が中国に取られたならば、与那国も一緒に取られてしまふ。防空識別圏は屈辱的なことだ」(前記の糸数氏)。

 防衛識別圏問題は国家としてきちんと解決しなければならない緊急事ではないかと苛立ちを覚えた。

     与那国の軍神・大舛松市大尉

 国境の島を守るためには、人が住みやすい環境を整へることは当然だが、何よりも島への愛着や誇りを喚起することが一層大事である。家庭訪問では、島の誇りや守り継ぎたいものについても聞いてみた。「伝統的なおまつり」「島民皆が知り合ひなので、一人の死を皆で悼む」などが挙げられる中、与那国防衛協会会長の金城信浩氏は「島の偉人」についてお話し下さった。

 その偉人とは、大東亜戦争で軍神となった大舛松市大尉。「この島には、大舛中隊長といふものすごく偉い方がゐるんですよ。祖納に立派な御墓が建てられてゐるが、そこに

     うらぶの高きを思うなかれ
     大空の限りなきを知れ
     島の小さきを憂うるなかれ
     太平洋の広きを見よ

     ※うらぶ=島で一番高い山・宇良部岳

と刻まれてゐる。戦前は大舛中隊長のことを学校で教へてゐた。戦後は教へられることもなくなりました」と寂しさうに話されてゐた。

 大舛大尉は大正6年8月6日、与那国島の祖納に生れて、陸軍士官学校卒業後、歩兵第228連隊に配属され、その後、昭和18年1月13日、中隊長として上陸したガダルカナル島で部下らと共に敵陣に突入し、壮絶な最期を遂げられた。その武勇ぶりが上聞に達して沖縄県民として初めて個人感状を授けられ軍神となった。

 金城氏は与那国防衛協会会長のほかにも全国肉牛事業協同組合の総代等の要職も兼ねてをられるが、「大舛大尉のやうな立派な人になりたいと頑張ってるんですよ」と明るく語られる様子を拝見して、過疎化を克服するには、単に人口増を目指すだけでなく、島への愛着や島の誇りを育むことが何より大切ではないかと思った次第である。

     与那国町長選と名護市長選

 もし外国人地方参政権付与法案が成立したとしたら、与那国島ではどのやうなことになるのだらうか。

 昨年8月に実施された与那国町長選での当落差は103票だった。自衛隊誘致を呼びかける外間守吉氏に対して反対派の新人(元町職員)が挑んだ選挙で、当初は自衛隊誘致はそれほど争点ではなかった。ところが沖縄のメディアが自衛隊誘致を争点化することで外間氏の落選を狙ったといふのが真相だった。そもそも自衛隊誘致は、防衛面からも経済面からも与那国島を守るといふ願ひから提唱されたものだった。しかし、誘致の是非を際立たせることで、反戦の色濃い沖縄県民の世論をさらに煽って、自衛隊の誘致反対に導かうとしたのだ。前出の原氏や糸数氏は「結果としては僅差で外間町長が当選したが、外国人参政権が付与されれば、自衛隊誘致を阻止するために200人の中国人が送り込まれてくるといふことが考へられない話ではない」と危機感を露にしてをられた。

 島外の人の思惑によって、島の選挙が左右されかねない一例だが、実は沖縄本島の名護市長選では実際に行はれた可能性が高い。

 本年1月24日の名護市長選では、普天間飛行場の受け入れを容認してゐた島袋吉和氏が、受け入れ反対を叫ぶ新人の前市教育長・稲嶺進氏に1588票差で敗北してゐる。普天間飛行場の辺野古受け入れは、平成11年12月、当時の岸本建男市長の受け入れ表明を受けて、直ちに閣議決定され、その代償として10年間で地域振興予算775億円が既に名護市に支払はれてゐる。鳩山民主党政権の無責任な言動もあって、これまでの経緯が全く無視されて移転受け入れは「是か非か」が争点になって稲嶺氏の当選となった。

 この背景について、ジャーナリストの惠隆之介氏に伺ったところ「名護市の場合、有権者数が前回の選挙に比べ2337人増えてゐる。市長選を前に、本土の人が多く名護市に住民票を異動したためでせう。沖縄特有の名字ではない者が増えた。それから婿養子として名護市に移り住んでゐる人も増えたやうだ。友人が経営するアパートには知らない名前の郵便物が沢山送られてきてゐるといふ。これらは架空に住民票を異動させてゐることによるものだ」とのことだった。島外の人が選挙前に名護市に住民票を移し、受け入れ反対派として投票を行った可能性が高いのである。

 仮にも外国人地方参政権付与法案が通れば、わが国に何ら責任を持たないばかりか、反日感情を抱く者をも含む永住外国人の思惑で地方選挙が左右され、より深刻な事態を招くことは想像に難くない。

     「与那国を変へることで、日本を変へたい」

 今回の与那国島での調査活動で特にお世話下さった町議の糸数健一氏(前出)の言葉が印象に残ってゐる。
「与那国島を変へることで日本を変へたい」「島が抱へてゐる問題は、与那国だけの問題ではなく、国家としての問題だ」。

 島の現状を憂ひつつも、与那国島を必ず守らんとする気概を感ぜずにはをられなかった。与那国町議会では3月23日、外国人地方参政権付与法案の制定に反対する意見書を賛成多数で採択した。国境の島を守るためには、かうした島民側の努力と同時に、島民の思ひを受け止めた国家としての厳正な対応が求められてるゐると思はれてならない。
-『大学の使命』212号所載、一部改稿-

(全日本学生文化会議 事務局長)

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 自らの人生観と自分の仕事とが一体化するならば、これほど理想的なことはないであらう。このたび出版された伊佐裕君の『和なるもの、家なるもの」は著者自身が目指すところを体験的に分りやすく説き明かした好著である。しっかりと大地を踏みしめた所から発する思考の確かさと、説得力ある筆選びは読むものを魅了する。著者(編註・本会理事)は現在、住宅の設計・施工・販売を手掛ける伊佐ホームズ(株)の経営に当ってゐるが、その創業22年を記念して上梓されたのが本書である。

 私は福岡県立修猷館高校、さらに慶応義塾大学で著者とは同窓同学年。高校時代はともに小柳陽太郎先生のご自宅に押しかけて古典を学んだ所謂「小柳塾」の弟子仲間でもある。慶大在学時代は70年安保騒動最盛期。ヘルメットと鉄パイプで武装した左翼ゲバ学生らが作った立て看板とバリケードに囲まれた集会で、「彼らの演説は心にちっとも響かない。それどころか『弱者』『痛みをもって』という本来なら人の情に訴える言葉を、あたかも修飾語の類いとして用いているように思われたのが不愉快だった」と感じた著者は異議申し立ての演説を行った。それを機に著者のアパートにはいつも「学生運動とは一線を画したい学生たちが次々集まり」「安上がりな水炊きを肴に酒盛りを繰り返した」…、私もその仲間の一人だったが、本書の第2章(「信じたことは、ひとつだけで」)は過ぎし日の様々な場面を回顧したもので、今日の著者の「原像」ともいふべき姿が淡々と語られてゐてまことに興味深い。

 「子供の頃から油絵を描いているが、モチーフは専ら自然の風景である。とくに雄大で起伏ある山の景色や海岸の風景が好き」であったと記す著者と、白いリンゴの花が咲くころ信州・浅間山の麓に旅したことがあった。初めて油絵に挑戦する私に「好きなように描けばいい」と絵の具の使ひ方を教へてくれたが、キャンバスに向かったときの穏やかだが真剣な眼差しは今も忘れられない。今にして思へば「住宅とは環境も含めた全てが根付いた総合芸術だ」と語る著者の現在を髣髴とさせるものだった。

 福岡市で建材の問屋を営んでゐた筆者の父上は、空襲で市内の三分の一が焼失した住宅事情に対処すべく「家を求める人たちに新建材を提供した」といふ。しかし今の筆者は「本物」の「大黒柱と漆喰壁の伝統的な家づくり」「和の心をベースに本物の日本の家づくりを目指す」匠の道を歩いてゐる。「実際、伊佐ホームズの建てる家に新建材の出る幕はない。しかし、それでも、私は父とその仕事を心から尊敬している」と記す筆者こそ本物だと改めて40余年来の友人を誇らしく思った次第であった。そして思はず我が父のことが脳裡をよぎったのであった。

 私の父は地方議員として、河川の護岸を、安価で、高い技術を必要としないコンクリートブロック化する先頭を切った男であった。今の私はその逆で「自然石を組む石工の技をつかった護岸の再現」に取り組んでゐる。ともに戦後復興のため走らざるを得なかった父親の路線と訣別して、伝統的な日本の技と心に回帰する道を歩んでゐる。私には著者の「和なるもの」へのこだはりがよく理解できるのである。

 本書は3章で構成されてゐて、第一章「伝統の美、日本の家」ではこれまで手掛けた「作品」の数々がカラー写真とともに紹介されてゐる。その一方で第3章「融通無碍なる家づくり」では伝統と先進性の間を自在に行き来する「作品」が同じくカラーの写真を伴って紹介されてゐる。本書の帯に「日本の伝統文化に根ざしながら自由な発想に溢れた注文住宅をつくり続ける伊佐ホームズの『作品』、伊佐裕の『人生』」と書かれてあったが、まさに畏友・伊佐裕の気持ちを固めて前進する人生姿勢が本書の行間から滲み出てゐる。「家づくりの本」ではあるが同時に「人づくりの本」でもある。次代を担ふ若い世代に是非とも読ませたい一冊である。 講談社刊、税別1500円

(福岡県議会議員)

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編集後記 

民主党は10議席減らした参院選のあとでも、「夫婦別姓」への動きを止めない。今回も昨夏の衆院選でも〈政権公約〉に明記しなかったのは大問題だが、7月23日の首相出席の男女共同参画会議は社会制度の「世帯単位から個人単位への移行」、そのための具体的な取り組みとして「夫婦別姓を含む民法改正が必要」とした「基本的な考え方」をまとめてゐる。これに基づいて年内の閣議決定をめざすといふ。「世帯単位から個人単位への移行」とは、人間が生れて成長する過程で最も基礎的な「家族」(=戸籍)の解体を目論む恐ろしい文化破壊の政治イデオロギーである。夫婦別姓は親子別姓でもあるが、「外交と安保の無策」で国を危うくする民主党政権は、家族の精神的紐帯を無化して内からも国を蝕まうといふのか。民主党支持の宗教組織は何も言はないのだらうか。(山内)

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