国民同胞巻頭言

第584号

執筆者 題名
内海 勝彦 天皇のおことば「みことのり」に思ふ
- 「国のいのち」を貫くもの -
九州大学名誉教授
山口宗之
永遠に生きる人 - 吉田松陰
藤 寛明 英語教育に思ふ(上)
- 高校では「外国語としての英語教育」が適切だ -
岩越 豊雄 「子供の心の安定」を蝕む“夫婦別姓”
大切な「親祖先の縁と恩に感謝する心」
澤部 壽孫(元日商岩井) 歌だより
  増刷刊行 成る!

 

 当会の先輩会員が主宰する「日本の国柄と皇室に関する研究会」に参加するやうになって2年近くなる。この会では、明治神宮編『明治天皇のみことのり』を主要テキストに、明治以降の歴代天皇の「みことのり」の勉強(一語一語の意味を辿って、さらに全体の文意を尋ねる)と会員の研究発表(参加者が交代で準備して来る)の2部構成となってをり、日頃忙しく働いてゐる自分にとって、2ヶ月に1回のこの勉強会は歴史的文書でもある御詔勅をじっくり読み味はふ有難い時間となってゐる。

 「みことのり(詔勅)」とは、天皇のおことばである。内容により「御誓文」「詔」「詔書」「勅語」「勅諭」等と区別されるが、今上天皇のそれは「おことば」と称されてゐて、宮内庁ホームページでも閲覧できる。

 みことのりは、原則として、内容に応じてその事を主管する官庁が起草し、内閣の法制審査部門で検討・修正され、閣議を通って、初めて天皇が御覧になる。もしご不審の点や御心に沿はない部分があればさらに修正されて公にされるのである。昭和21年1月1日の「年頭、国運振興の詔書」において、冒頭に「五箇條の御誓文」をおかれたのは昭和天皇の深い御叡慮であったことは有名な話である。つまり、みことのりの内容は内政外交全般に亘り、国家運営の指針となるものであり、その時代の国内外社会の情勢を直接・間接に反映するものであって、天皇の御心のあらはれと言へる。この意味で、御製と共に、大御心を直接偲ぶことができる大切な導きとなるものである。

 ところで、昨年10月23日、岡田外相が閣議後の閣僚懇談会で国会開会式での天皇陛下のおことばについて「陛下の思ひが少しは入った言葉がいただけるやうな工夫を考へてほしい」旨の要望を宮内庁向けにしたとの報道があった。実際は開会式でのおことばは閣議を経てゐるのであり、筋違ひの話であったことは間もなく露呈したが、加へて鳩山首相の「岡田大臣がそのように考へたんだと思ひますが、やはりこれは天皇陛下のお心がどうであるかといふことはなかなか推し量れませんので、申し上げることはない」旨のコメントには失望したといふより驚いた。

 この直後の国会開会式(10月26日)でのおことばは左記のやうに通常の通りであった。

 

「本日、第173回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一同に会することは、私の深く喜びとするところであります。
ここに国会が、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関として、その使命を十分果たし、国民の信託にこたえることを切に希望します」

 陛下はお立場から、政治的、党派的な発言をなさらぬように心がけてをられるから国会開会式のおことばに一定の制約があるのは当然であらう。しかし、たとへ文面は同じやうであったとしても、陛下は国民の代表たる議員を前にして、国の行く末に御心を馳せられながら、国民の幸福のため負託に応へてほしいと祈りをこめてお読みになられてゐると拝すべきではなからうか。因みに、内閣総理大臣は国会の指名に基づいて、天皇から任命されるし、閣僚も天皇の認証をへて大臣となる。さればこそ、人一倍、御心を拝察して、果して「国民の信託」に十分応へ得てゐるかと自らに問ひ自省するのが閣僚たる者の務めのはずである。

 顧れば平成元年1月の即位後朝見の御儀で今上天皇は「皇位を継承するに当たり、大行天皇(昭和天皇)の御遺徳に深く思ひをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心をこころとしつつ」と述べられた。皇祖皇宗の遺訓を継承しつつ、喜びも悲しみも国民と共にありたいと念願される御心は皇室の伝統である。「みことのり」は日本のいのちを貫くものであり、それを味識することは国のいのちにつながる道であると信ずるのである。

(IHIエアロスペース)

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   「志士」とはいかなる人をいふか。『広辞苑』によれば
   高い志をもつ人。国家・社会のために自分の身を犠牲にして尽そうとする志を有する人

とある。わが国史上志士と目される先賢偉人少くないが、そのなかにあって多くの人がまづ思ひ浮かべるもの、すなはち松陰・吉田寅次郎であると断言することにほゞ異存はなからうと思ふ。

 松陰とはいかなる人であったか。かつて7年に及ぶマッカーサー占領時代幕末維新史の人物研究は逼塞させられたが、沈滞をやぶり昭和26年の春浅いころ岩波新書の一冊として『吉田松陰』を公刊したのは当時立命館大学の教授であった奈良本辰也氏であった。氏によれば「学問や思想と、その人間の真価が、あまりにもかけ離れた」人びとの充満するなかにあって松陰はその学問・思想・人格の高さがほとんど一致しためづらしい人物であり、志士の典型として仰ぐにふさはしい稀有の例であった。

 さればこそ松陰に接触しその息吹きや言動にふれた多くの人びとが魂をゆさぶられるごとき感動を覚え、その人格の高さにひき込まれ、忘れ難い思ひを伴ってその後の人生に長く残ったのである。
安政元(1854)年 3月27日伊豆下田来泊中のペリー軍艦ポーハタン号に夜間ひそかに潜入、海外新知識吸収のため国禁を犯して亡命せんとした松陰の志気にうたれたペリーが、その請ひをしりぞけたものの松陰の自主入牢後幕府当局者に対し死罪に処せず寛大にとりあつかふことを希望する旨口添へし、それが容れられることを知って心から安堵したといふこと、『ペリー提督遠征記』のエピソードの一節である。

 また自首後半月近く入れられてゐた下田の仮牢の番人平滑の金太郎に対して「皇国の皇国たる所以、夷狄の悪むべき所以を日夜高声で称説」「涙を揮って吾が輩の志を悲しまざるはなし」といふ状況となり、江戸送りの途中三島宿の不寝番の若者もごく低い身分であったが同じように志のほどを説ききかせたところ「大いに憤励の色」をみせたといふ(「回顧録」)。

 その後国許蟄居といふ予想外の軽い処分がきまり江戸伝馬町獄より故郷萩の野山獄へ送られ1年有餘の謹慎生活を送るのであるが、下田踏海に随行した門人金子重之助が獄中病死するやその慰霊のため墓前に石灯籠を建てるべく乏しい牢内の給食費の一部を辞退、費用をつみ立てたことを知る同囚々人たちが感動、それまでの頽廃きはまる生活から目覚め松陰の指導のもと孟子輪読の会がひらかれ、松陰出獄のときに至ったといふ有名な佳話(「講孟餘話」)。そしてきはめつけといふべきは安政の大獄で江戸送りとなり命旦夕に迫った獄中知己門人に宛てた絶命書「留魂録」を托された牢名主沼崎吉五郎がひそかにかくし持って流罪先三宅島に渡り、15年後許され東京に戻ってさらに2年、村塾門下生であった、ときの神奈川県令野村靖のもとにこれを届けるといふ凡ならぬ佳話に改めて松陰の人物像が永久不滅であることを痛感するのである。

       ○

 かくのごとく松陰30年(満29歳2ヶ月)の長からぬ生涯は以上のべたやうに学問・思想・高貴な人間性の見事な一致に貫かれ、時代を越えて現代人の胸につよくひびくものがあること、論をまたない。

 しかしてその松陰の存在の根底にあってその生命を躍動せしめたものは何であったか、一言にしていふならば漢土になく日本にのみ存在せられた万世一系の天皇への一途なる感激・恋闕の至情にあったと思はれる。

 松陰の天皇観がもっとも熾烈なかたちで噴出・結晶したもの、安政3(1856)年村塾時代になつた「斎藤生の文を評す」であらう。斎藤栄蔵は長州藩校明倫館の学生であつたが松陰にも従学してゐた。あるとき明倫館の課題に兵書六韜の一節-「天下ハ一人(天子)ノ天下ニ非ズ天下ノ天下也」についての感想論文を求められた。いふまでもなく明倫館の学風としてこれを肯定的にうけとめた立論を期待、おそらく斎藤もその線に沿った原案を書き松陰の添削を求めたのである。

 しかるに松陰は斎藤をはげしく叱責、漢土においては天下は天子ひとりのものでないであらうが、日本では天皇御一人の天下、天皇なくしてはもはや日本なしとする所以を痛烈に指摘した。しかしてもしかりに天皇が漢土の桀王・紂王のごとく暴虐の行為に走られることがあっても、日本の民は放伐すること決して許されない。ただ皇居の門前に至り頭を並べ地にひれふし号泣しつつ天皇の感悟あらんことを祈るのみ、しかしなほ天皇の怒りをさまらず万民ことごとく誅すと仰せられるならば万民ことごとく死するのみ、これこそ日本の道であると痛論したのである(「斎藤生の文を評す」)。

 もともと倒幕・王政復古のストレートな主張者でなかった松陰は安政2(1855)年4月兄の杉梅太郎宛書状に「幕府への御忠節は即天朝への御忠節にて二つ之れなく(中略)何分二百年来の大恩も之れある事」とのべるやうに必ずしも現体制を否定しなかつたが、その胸中では長い徳川治政下「天子益々威福を失ひ給ひ拘因に均き御暮し」(「時義略論」)と痛憤する恋闕の至情が燃えてゐたのである。

       ○

 しかるに長い鎖国の祖法を捨て開国への道を辿りはじめた幕府は初代駐日総領事ハリスの説得におされ、首座老中自から上京して修好通商条約の勅許を求めたが朝廷の容れるところとならなかった。しかしアロー号戦争終結による海外情勢の急迫情報を説いてせまるハリスに押切られ、安政5(1858)年六月大老井伊直弼は勅許ないまま条約調印ををへてしまつたのである。憤激する松陰は7月10日「大義を議す」をあらはしてはげしく幕府の責任を追及した。すなはち

 

墨夷(アメリカ)に諂事して天下の至計と為し国患を思はず国辱を顧みず而して天勅を奏ぜず。是れ征夷の罪にして天地も容れず神人皆憤る。これを大義に準じて討滅誅戮して而る後可なり。少しも宥すべからざるなり(中略)征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば天下万世其れ吾れを何とか謂はん

 前言したごとく松陰は幕府・将軍の存在を直ちに否定するものではなかつたが「神州」の尊厳が天皇に顕現されてゐるとの立場から叡慮・勅旨は絶対、将軍といへどもひたすら遵奉せねばならず、そこに日本の道義の根幹ありと思惟されてゐた。

 この当時朝廷を尊び天皇を敬ふことについて世上一般異論はなかつた。しかしそれは水戸九代藩主徳川斉昭の「修陵の再建議」に明言されてゐるやうに庶民ならびに一般藩士層にあってはその直接統治者たる藩主領主に忠節を捧げることが第一、つぎに300有餘の大名は参勤交代の対象たる将軍家に忠節を励むべく、最後に天下の統率者たる将軍が大名以下を代表して直接の尊王に励むのが正しいあり方であり、藩主・大名がこの段階秩序をのり越え、直接京都に赴いて天機をうかがふのは尊王に非ずして反乱の行為に外ならぬとされてゐた(天保5<1834>)年11月『水戸藩史料』別記上)。そしてこれが当時正統の尊王思想であった。しかし違勅将軍が今や崇敬の対象たる資格を失ったとする松陰は

  普天率土の民、皆天下を以て己が任と為し、死を尽して以て天子に仕へ貴賎尊卑を以てこれが隔限を為さず、是れ則ち神州の道なり

と喝破した(「斎藤生の文を評す」)。松陰にとって至高絶対の尊王は将軍から一般庶民に至る階層秩序にさまたげられることなく横一線に並びひとしく崇敬の誠を捧げ、忠勤を励むことが求められてゐたのである。

 前言したごとく松陰は決してストレートな倒幕・王政復古論者ではなかったが身内に燃える恋闕の情のはげしさは封建的身分秩序を焼きつくし、明治国家の基礎理念となった一君万民の世界への突破口がすでに用意されてゐたといふことができる。

       ○

 ことし(編註・平成21年)10月27日松陰の刑死から150年、東京世田谷の松陰神社裏手には高杉晋作らが造成した松陰の奥津城が厳然として屹立する。「松陰二十一回猛士墓」と刻まれた墓石は意外に小さい。社殿に詣で改めて墓前にぬかづくときわれわれは長い時間を越え松陰の息吹が今なほ生きつづけてゐることをみとめるに吝かでないあらう。マッカーサー時代に抑圧されてゐた松陰研究は今あたらしい炎をあげ、若手研究者の意欲的論文が続々学界誌上を飾る昨今である。その風潮まことに喜ぶべきであるが、願ふところ松陰を歴史学的関心にもとづく分析対象とするにとどまらず、そのたぐひまれなる人物像の全人間的把握を忘れぬやうあって欲しいと思ふのはすでに80の峠を越えた老書生の心からなる念願とするところである。

(平成21年8月7日)

【『眞情』第76号(吉田松陰先生 殉節150年特集)から】
〈編註・山口宗之先生は昭和48年8月、長崎県雲仙で開催された第18回全国学生青年合宿教室に御出講、“吉田松陰「対策一道」「大義を議す」”と題する御講義を賜ってゐる〉

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 日本の英語教育が大きく変らうとしてゐる。新学習指導要領により平成23年から小学校5・6年生に週1時間「外国語活動」の授業が始まり、高校では平成25年から、「英語の授業は英語で行うことが基本」となることが決まった。これは、今から7年前、当時の小泉内閣の遠山敦子文部科学大臣が発表した「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」及びそれを実行に移す「アクションプラン」の具現化である。当時これを読んだとき、驚きとともに危惧の念を抱いた事は今も記憶に新しい。驚いたのは、小学校の段階から始まって、大学、就職の採用時、さらに社会全体にまで英語学習の必要性に言及してゐたからであり、危惧の念を抱いたのは、実用に傾きすぎる英語教育はむしろ弊害をもたらすのではないか思ったからである。

 昨年の夏、福岡県立修猷館高校で行はれた高等学校新教育課程説明会で新学習指導要領について趣旨説明を聞いた時、やはりやって来るのかといふ困惑とその実施において予測される混乱の様が頭から離れなかった。もうこの動きは止めやうがないけれども、現場の教員として、近年の英語教育について思ふことを書き留めて置きたい。

   外国語としての英語教育だった

 昭和48年春、私は大学の文学部英語専攻科に入学した。3年次に教職課程を取った時、そこで学んだ英語教授法は「外国語としての英語教育」であった。それは文法を基本とし、訳読を中心に据ゑて、英米の歴史や文化を背景知識として教へるやうな英語教育であった。その頃から「口語を中心とする実用英語教育」についての議論がなくはなかったが、「英語で英語を教へる」授業は高校ではごく1部でしか行はれてゐなかったと思ふ。

 昭和50年前後の英語英文学の世界では、多彩な人々が活躍してゐた。松本道弘、渡部昇一、鈴木孝夫、福原麟太郎、吉田健一氏らの論考から多くを学んだ。毎月、月刊誌で、名前を目にすると、その文章をむさぼり読んだものだった。松本氏からは「英語の心はロジックである」といふ英語の持つ特質や「ディベート」の大切さを、渡部氏からは英文法の魅力や自国の歴史伝統を自覚し主張する気概を、鈴木氏からは日本語が世界で六番目の大言語であることや英語と比較した日本語の素晴らしい特質を、福原氏からは教養を根本に据ゑた英語教育論を、吉田氏からは英文学の魅力を教はった。

   英語教育大論争で渡部氏に共感

 この時期に英語教育に関心を持つ者の間で話題になったのは、参議院議員の平泉渉氏と上智大学で英語学を講じてゐた渡部昇一氏が『諸君!』誌上で展開した「英語教育大論争」であった。

 語学に堪能な平泉議員は中学から大学まで長年英語を学んでゐるにも拘はらず、大多数の人々は英語をろくに読めず書けず話せもしないと現状を批判し、改革案として、必要とする者に英語の時間数を増やしたカリキュラムで教育し、英語運用能力の高い人材を全国民の5パーセント育成すべきであるとする「英語教育改革試案」を提示した。

 それに対して、渡部氏は文法力を基本にして文章を正確に訳読する漢学以来の伝統的外国語学習法の意義を力説し、正確に読むことによって日本人は知的訓練を受け、その結果、幕末から明治にかけて日本は近代化をも成し遂げることができた、とその効用を述べた。そして、およそ「高校レベルの英文法及び語彙を理解してゐれば、外国に留学したときに短期間で会話はできるやうになる、だから学校で会話能力を顕在化させるまで訓練する必要はない。英語教師は英文和訳、和文英訳、英文法を自信を持って教へるべきである」と、当時行はれてゐた英語教授法を肯定する主張をし、私はそれに納得した。

   実際に教壇に立ってみて

 高校に英語教師として赴任した初めの頃は、世間で論じられる英語教育論はどうであれ、自分は「英語の読み書き」と「口語英語」がともにできなくてはならないと思ってゐたし、やがて「英語で英語を教へる」授業ができるやうになりたいとも思ってゐたので、英語の総合的な力を付けるべく勉強を続けた。しかし、実際の授業では英語を使って英語を教へることは難しく、文法を基本とする訳読中心の授業を行ってゐた。

 その頃、知り合ひの英語教師が授業をすべて英語で行なってゐると知って感心した覚えがある。しかし、その教師も1年生の授業は英語で出来ても、2年3年と学年が上がり大学受験が近づいてくると、生徒からも保護者からも彼の授業で入試に対応できるだらうかと不安の声が寄せられといふ。その結果、従来通りの日本語による英語の授業に戻したといふのである。

 この経験談を聞いて、英語運用能力(会話力)だけでなく、大学入試に合格するための「受験英語」の習得、そこからくる生徒や保護者の不安感など、乗り越えなくてはならない大きな壁があることを痛感し、「英語で英語を教へる」ことはないとの結論に落ち着いた。大学入試の状況が変らない限り、受験英語への対処の仕方にしても基本的には渡部氏の主張する英語教育が良いと思ったものである。といふより、入試に関係なく、高校では今もなほ「外国語としての英語教育」が現状に即した一番よい方法である思ふ。

   外国文明摂取のための英学

 ここで、文科省の「戦略構想」がどのやうな流れの中から出てきたか、日本人が外国語を学んできた来歴を大まかに振り返っておきたい。

 およそ1400年前のことになるが、聖徳太子は高句麗の僧慧慈を師として仏典を学び、その注釈書である三経義疏を著したやうに、昔から日本人は大陸に目を向け熱心にその思想文化を摂取してきた。それは漢字漢文を通してであった。当時の人々にとって漢文を学ぶ目的は、大陸の宗教や思想制度等を総合的に摂取するためであった。そして漢文を学んだのは庶民ではなく、その時代の国を担ふ官吏や僧侶であった。

 時代は下って、江戸時代になり儒教が国の制度、思想道徳の中心に据ゑられると、藩校や私塾で漢学は盛んになった。四書五経や中国の歴史の習得は武士階級の教養であった。そして私たちが身近に感じる幕末の志士達の教養も多くこの漢学に支へられてゐた。18世紀から19世紀にかけて一部でオランダ語による蘭学が盛んになった時期もあったが、その後、福沢諭吉をはじめ当時の日本の知識層が、英国や米国の圧倒的な力を知るに及んで英語英学が主流となって行った。明治33年、文部省は英国留学生として夏目漱石をロンドンに派遣してゐる。諭吉も漱石も英語が抜群に出来た語学の達人だったが、英語を言語として学ぶといふよりは、西欧文明を摂取するめの手段として学んだのであった。このやうに明治以降、日本が知識や技術を取り入れて西洋近代に追ひつくために英語を、さらにはドイツ語やフランス語を学んだ。

 近代国家としての学校制度が整へられてくると、当然のやうに広く全国の中学校・高校で英語を中心にドイツ語やフランス語が教授された。けれども、昭和20年代前半までは上級学校への進学率は低く、これらの外国語を学ぶ人々は漢学時代と同様に、やがては社会の中枢で指導的立場に立つ人達であった。

 大略、聖徳太子の時代から敗戦まで、漢学→蘭学→英学といふ流れのなかで、日本人は、外国語そのものを学ぶといふよりは、外国語を通してその国の思想、文化、技術等を総合的に学んできた。従って外国語の学習はその文章を正確に読解することが基本であり、若干の儒学者や英学者を除いて、音声はあまり重視されなかった。なぜなら、歴史的に日本人が直接外国人と接して話す機会はほとんどなかったし、また海外に行くことは明治以前は命がけであり、明治以降も多額の費用がかかったりして、今日の如く誰でも気軽に行ける時代ではなったからである。

   経済のグローバル化と英語

 英会話の必要性は敗戦とともに始まる。戦後、米国の占領下で様々な改革がなされ、教育の面では6・3・3・4制の新学制が敷かれると、義務教育の年限が延び男女全員が新制中学校で英語を習ふやうになった。そして英語教育は「英語」に代はって「米語」が主流となり、次第に音声が重視されるやうになってくる。世間では英会話が流行した。一方、朝鮮戦争を機に復興し始めた経済活動が軌道に乗り出すと、高校、大学への進学率が大幅に伸びて行く。そして、米国に依存し乍ら日本経済は発展し、その発展とともに外国との貿易や交流が盛んになっていった。

 第二次大戦後は、米国の世界的影響力の拡大もあって、経済面に限らずあらゆる面で英語が有力な国際共通語の役割を果たすやうになり、必然的に英語のできる人材が求められるやうになった。ことに産業界からは英語の高度な運用能力(会話力)の育成を求める声が強まった。冒頭で触れた「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」には、グローバル化を意識した産業界積年の要請が具体化したものと言へる。

 このやうに見てくると、今後日本が世界とどう向き合ふかといふことと外国語教育が深く関ってゐることが分る。

(福岡県立玄洋高等学校教諭)

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 私事で恐縮ですが、先日、父の33回忌と母の23回忌の法要を合はせて執り行ひました。孫やひ孫まで大勢が集まりました。
読経の後、寺の住職からの法話を聞き、改めて親祖先の縁と父母の慈愛と労苦によって、この世に生を頂き、育てられ生かされてきたことをしみじみ有り難く感じました。その後の、お斎では私たち兄弟や孫達がめいめいに父母・祖父母の思ひ出を語り合ひました。

 ところで、『論語』学而1-9に
 曾子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
とあります。

「終りを慎む」とは、親の葬儀は丁重にし、まごころから喪に服することです。親の老後をよく看取るといふ解釈もあります。「遠きを追ふ」とは、遠く親祖先に感謝し、その供養にまことを尽すといふことです。
さうすることによって、人々の情も厚く豊かになるといふことです。まさに、年忌とはさういふ場であることを実感しました。

 ところで、寺や仏壇にある位牌は、もともとは儒教から来てゐるといはれます。確かに、祖先を祀るといふ事は輪廻転生を説く佛教よりも、儒教の要素が強いのではないかと思ひます。

 『論語』陽貨17―21に父母の喪を大切にする孔子の言葉があります。
弟子の宰我(予)が、父母のためにする3年の喪は長すぎる、1年でいいのではないかといふ質問に対しての孔子の答へにかうあります。
子曰く、予(宰我)の不仁なるや、子生まれて3年、しかる後に父母の懐を免る。夫れ3年の喪は天下の通喪なり、予や3年の愛、其の父母に有るか。
通喪とは、あらゆる階層の人々に通ずる喪の制度のことです。3年の喪は、子供が生まれ、父母の懐から離れるには3年かかることに因んで決められたのだといいます。宰我は生後3年間の愛情をその親から受けたことがなかったかといふのです。

       自己矛盾も甚だしい別姓論者

 よく考へますと、祖先の姓を継承する家の制度は、親祖先の祀り継承するごく当りまへで、かつ重要な伝統文化であるといふ一面をもつといふことです。家に嫁や婿が入り、その家を継ぎ、親祖先の祀りも継承していく。それは、互の家が譲り合ひ守り合ひ助け合って生きてきた、長い伝統によって育まれてきた自然な人間としての社会の制度習慣であるといふ事です。

 よく考へますと、祖先の姓を継承する家の制度は、親祖先の祀り継承するごく当りまへで、かつ重要な伝統文化であるといふ一面をもつといふことです。家に嫁や婿が入り、その家を継ぎ、親祖先の祀りも継承していく。それは、互の家が譲り合ひ守り合ひ助け合って生きてきた、長い伝統によって育まれてきた自然な人間としての社会の制度習慣であるといふ事です。

 私の娘も他家に嫁ぎ、姓も変りました。その家を立派に継いでほしいと思ひます。それはまた親戚縁者が増えた喜ばしい事でもあります。後は息子に嫁が入ってくれることを待つばかりです。

 夫婦別姓を主張する理由が、自分が子供時代から使ってきた姓が変へられるのは理不尽なのだといふ。なんと自己のみに固執する狭い利己的個人主義でせうか。「家」を否定し、これからは「個人」だといふ輩が、「家」の姓に固執する。自己矛盾も甚だしいというべきではないでせうか。

 もう一つ、大きな問題点は、子供の心の安定や育ちに悪影響を及ぼすといふ事です。子供はどちらの姓を名乗るのか、家庭内がばらばらでは、子供の深層に自己のアイデンティティーに関しての不安と障害をもたらすことは目に見えてゐます。

 選択的だからいい、個人の自由だといふ主張もあります。しかし、家は社会や国の安定の基盤でもあり、ただ自分達さえよければいいといふものではありません。

 四書の一つ『大学』に

       修身、斉家、治国、平天下

とあります。各々が身を修め、家を斉へることが、国の安定と世界平和につながるといふ事です。

 今日の、子供の非行、社会の犯罪や混乱の元は家庭の不安定や崩壊にあります。

 確かに家に仏壇がある家庭の子は落ち着きのある子が多いやうに思ひます。さういふ事を三好京三の教育論でも読みました。

 確かに家に仏壇がある家庭の子は落ち着きのある子が多いやうに思ひます。さういふ事を三好京三の教育論でも読みました。

 心の豊かさの源泉である、親祖先の縁と恩に感謝する心を絶やさぬためにも、心豊かな子供を育てる家庭の安定のためにも、夫婦別姓の法制化を断固、廃案にしなければなりません。

(『寺子屋だより』第30号所載 - 『論語』通解E - 1部改稿)
(元神奈川県公立小学校長、石塾主宰)

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  皇居勤労奉仕  平成22年4月5日〜8日

 4月5日、国武忠彦先生、佐藤徹さん、日高廣人さん、大内保治さんおよび山内裕子さん、以上五名の国文研会員と共に、朝七時半に皇居桔梗門に集合。総勢50余名。奉仕作業の前に、長和殿の中庭(南庭)を経由して正殿、豊明殿、吹上御苑等の説明を宮内庁職員から聞く。午後も雨止まず作業中止となる。

   親族らの如き心地し懐かしき春めぐり来て会ひし人らに
   濃き薄き緑彩なす築山の大苅込みに目を奪はるる(南庭)
   大刈り込みの真中に白とくれなゐの太き花びら美しく咲く
   歩み行く道のをちこち白雪のごとく散り敷く山桜花
   雨止まず作業中止と聞き我ら心残りの帰り路につく

 4月6日、皇居内庭の吹上御苑の神域内にある「賢所」(天照大神を祀る)、「皇霊殿」(歴代の天皇様のみ霊を祀る)、「神殿」(天の神・地の神を祀る)の三殿などの説明を聞きし後、桑畑横の水田に行き、今上陛下御手植ゑ稲の苗代をつくるなどの作業を行ふ。

   雨雲はいつしか消えて温かき春陽射し来る宮居の庭に
   活き活きと木々の緑葉萌え出でて花咲き匂ふ春になりけり
   大君の御手蒔きになる餅米とうるち米との苗代つくる(「満月餅」と「日本まさり」)
   つつましく咲くひと群れのま白なる花の名は著莪と友に教はる(山内祐子さん)
   大君と先の帝のをりをりの御歌浮びく御庭めぐれば

 4月7日、東御苑

   大君と皇后宮のお手植ゑの果物の木々すくすく育つ
   大君の御歌うつつにかいつぶり愛らしく鳴く声の聞ゆる
   午前中の日程を終へ、今夏阿蘇で行はれる全国学生青年合宿教室のパンフレットを配りし折
   思ひきや五十年前の合宿に参加せしとふ友らに会ふとは(雲仙合宿・昭和35年)
   生涯の友得し縁に恵まれし雲仙合宿我れ忘れめや(昭和35年・小生は初参加)
   合宿の記録は今も大切に手許にありと友は語りぬ(横浜市の古賀信孝さん、昭和3 5年・6年
   の合宿に参加)
   なつかしき小林秀雄先生のみ名を友呼べば彼の日うつつに(香川県の西岡正尭さん、昭和3
   6年の合宿に参加)
   今は亡き師の君、友らに告げやらばいかばかりかは喜びまさむ

 4月8日、赤坂御所

   眼の前に日嗣ぎの皇子の笑みたまふ凛々しきみ姿仰ぐ嬉しさ(東宮御所にての御会釈を賜る)
   園遊会間近にひかへをちこちに準備にいそしむ人ら目に入る
   五十余人力を協せ山中の草取り落葉を掃き清めゆく
   仕事終へ三笠山とふ丘の上に坐し美しき春を愛づるも
   うらうらと照れる春日に山桜今はさかりと咲き匂ふかな
   高層ビルの並み立つまなかに静もれる御園の春は夢のごとしも

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廣瀬 誠著(国文研叢書30)『萬葉集 その漲るいのち』価900円 送料250円

「広瀬さんは、『萬葉集』の一首一首の和歌に相対するとき、いつも細心の考証を重ねられながら、その詠者の、人柄、その折の心組み、当時の環境、 詠草の対象課題などを次々に推し測り、 その作品に溢れ出てゐる“歌のしらべ”の律動までを、心して感得しようとされた如くである。…記述された内容が、きはめて独創に満ちてをり、読む者に深い 感動を覚えしめずには措かないのも、『萬葉集』の持つすばらしさと共に、廣瀬さんの終始一貫した真摯な人生姿勢及び…人柄の然らしめるところに拠るのであらうかと思ふ」

小田村寅二郎前理事長「本書の上梓にあたつて」から

 

新刊紹介

占部賢志著 致知出版社刊『語り継ぎたい美しい日本人の物語』税別1,400

【著者〈本会理事、福岡県立高校教員、NPO法人「師範塾」塾長〉の言葉】-(「はしがき」から)

 ある日のことでした。日本史の授業を終えて教室を出ると、後ろから女子生徒が追っかけてきて、だしぬけに「先生、これを読んでいただけませんか」というのです。
目の前に差し出されたのは、彼女が手ずから作成した小冊子で、表紙には「島根、山口の旅〜史跡を訪ねて〜」と大書されているではありませんか。「へぇー、山陰旅行に行ってきたのかい」と聞くと、明治維新の授業で印象に焼きついた吉田松陰の史跡をぜひ見たかったのだと、殊勝なこたえが返ってきました。

 バスケットボール部の中核選手でもある生徒は自分の感動を確かめたくて、両親のみならず祖父母と妹も口説き、連休を利用して家族三世代で松陰が生きた地を訪ね、ついで津和野まで足を延ばして森外の史跡も訪問したというのです。

 手渡された小冊子には史跡ごとのコメントとともに地図や写真が多数貼付されていて、さながら史跡探訪レポートといった体裁でした。

 長年教師をしていますと、こうした生徒の反応にしばしば出くわすことがあります。そのたびに思うのです。今の若い世代にも、あの人のように生きてみたいと願う青年本来の欲求は息づいているのだ、と。本書には、このような高校生たちが心を動かされた人物や史実を多く取り上げました。

 そもそも「美しさ」というものは、 咲き乱れる花々や天にかかる七色の虹、彩り豊かな山川草木だけではありません。人間の心ばえや振る舞いの一つ一つにも「美しさ」はあります。しかもこれらの「美しさ」は、私たちの心に感動をもたらし、よこしまな欲望さえも浄化させる、そうした大変強い力をもっているのです。

 そういう意味で、じつは道徳教育の根幹は、私たちの心に感動の種をまき、育てていく情操教育として捉える必要があります。人の献身的な行為に接して、そのたとえようもない美しさがみずからの心を染め上げる。そうした経験がいずれ勇気や正義、畏敬の念を育てていく。それが道徳教育の究極の姿であると考えます。

 そこで、本書ではわが国の歴史を生きた人々を取り上げ、皆さんがどんなふうに感じられるか、読んでいただきたいのです。読んでいくうちに、もし心惹かれる場面があれば、そこに表れている「生き方」に共感する何かがあなたの中にあるということになります。そして、今まで気づかなかった新たな自分に対面していただけるとしたら、著者として望外の幸せです。平成22年弥生佳日

【本書の内容】-(「目次」から)
@「愛国」の由来-「白村江の戦」と勇者大伴部博麻
A「稲むらの火」の主人公-大津波から人々を救った濱口梧陵の生涯
B海上に繋がった命のロープ-500人のロシア人を助けた村人たちの献身
Cドイツ科学界を救った日本人-「内なる規律」に生きた快男児・星 一
D遭難トルコ使節団の救出物語-明治から現代へと続く日本とトルコとの友情
E台湾の「松下村塾」-教育に人生を捧げた日本人教師の情熱
F富士山頂82日間のドラマ-厳冬期気象観測に挑んだ若き夫婦の勇姿
Gシベリアの凍土にさまよう孤児を救え-ポーランドの子供を救出した心優しき日本人
H硫黄島決戦に散った武人の歌と心-何のために貴い命を捧げるか
I樹齢450年の「荘川桜」移植秘話-戦後復興の歴史に刻まれた奇跡の偉業

- かな遣ひママ -

 

第55回全国学生青年合宿教室

日時8月20日(金)〜23日(月)
場所 国立阿蘇青少年交流の家(熊本県阿蘇市)定員 250名

時代の転機の中で日本はどうあるべきか、先人はどう生きてきたか、私たちはどう生きるべきか?

●世界における日本のあり方を考へる
●我が国の歴史と文化をより深く理解する
●古典や短歌を通じて豊かな感性を育む

参加資格 : 大学・専門学校学生、教職員、社会人(年齢・職業制限なし)
参加費用 : 学生2万円・社会人3万5千円

○招聘講師 : 「この国はどこへ行くのか」京都大学大学院教授 中西輝政氏
○講義 : 國武忠彦氏(昭和音楽大学名誉教授)・志賀建一郎氏(元公立高校長)・小柳左門氏(都城病院長)・藤新成信氏(本会理事、日章工業社長)ほか、班別による研修(討論及び輪読)、短歌創作及び相互批評、レクリエーション(阿蘇草千里散策)など。


編集後記

昨秋来、鳩山首相は「東シナ海を友愛の海に」「今まで米国に依存しすぎてゐた」と累次の対中会談で言明。その一方で普天間基地移設問題での超迷走。安全保障に定見なき鳩山政権を奇貨として、中国艦船は沖ノ鳥島周辺やわが経済水域を遊弋、ために海上保安庁の測量船は作業を中止…。先月沖縄を訪問した首相が「学べば学ぶほど米海兵隊の抑止力が分った」などと心ある沖縄県民を愚弄して、世界の物笑ひになったのは無念この上ない。何より国防意志の確立が先決だ。

 「小学校英語」の次は「高校英語」が「英語で」行はれるといふ。会話偏重から来る勘違ひと思ふが時間の浪費にならないか。(山内)

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