国民同胞巻頭言

第582号

執筆者 題名
平槇 明人 「勧善懲悪」のテキストを少年達に
- 若者は「良きお手本」を求めてゐるはずだ -
今林 賢郁 鳩山内閣に欠けてゐるもの
- 伊藤と陸奥は「三国干渉」にどう対処したか -
占部 賢志 日本の捕鯨文化
- 紛糾する最近の国際問題から -
吉村 浩之 沖縄の戦に散った若者に思ひを新たにする
- 神坂次郎著『今日われ生きてあり』を読みて -
磯貝 保博 「三位一体事業」5周年
事業報告会に出席して

  江戸後期の読本作家、滝沢馬琴が著した大長編小説『南総里見八犬伝』の書名は歴史教科書に必ず登場する。しかし、「歴史や伝説を題材にした勧善懲悪を説い読本」(『現代の日本史』山川出版社)といった一行で済まされ、勧善懲悪であるが故に評価が低いかのやうに記されてゐる。確かに馬琴の描く物語は、『椿説弓張月』もさうだが、勧善懲悪の精神で貫かれてゐる。だが、かういった物語こそ、教育の場でもっと見直されるべきではないかと強く感じてゐる。

 誰しも人間は100パーセント完全ではない。しかし、だからこそ、人間は自分を高めようと努めるのであり、その心持ちこそが大切なのである。

 『八犬伝』を読めば、誰もが八犬士、特に犬江親兵衛仁のやうになりたい、生きたいと強く憧れるであらう。そして、清く正しく美しく生きようと心掛けることの大切さや、神仏祖先を敬ひ親を大事にすることの意味合ひを体感して、自分もさうありたい、さう生きなければならないと強く思ふであらう。

 大人でさへもさうである。況や年少者に於いてをや。

 しかし、今日の教育現場に於いては、滝沢馬琴が描くやうな明快な勧善懲悪の物語は残念ながら見当たらない。今日われわれの身の回りに氾濫してゐる書籍やメディアに登場する人物も、必ずと言っていいほど小悪党である。また学校では観念的に平和を語るのみで戦争に触れることをタブー視してゐながら、子供達が日々手にしてゐるゲームソフトの世界では、戦争物や殺人物が氾濫し、平気で人殺しをする悪党役を子供達は自ら演じて大量殺戮をシミュレーションしてゐるのである。国史の一場面を取り上げるゲームソフトに於いても、これでもかこれでもかとありもしない絵空事が語られ、祖先を貶め卑しめるものとなってゐる。

 小賢しくも「人間社会は、清く正しく美しく等々の綺麗事では生きては行けない」などと若者に向ってしたり顔で繰り返す大人がゐるが、そのやうなことを繰り返すだけでは、成長した暁には賄賂を要求して恥ぢない支那やロシアの警察官のやうになってしまふだらう。清く正しい生きたお手本が是非とも必要なのである。むしろ少年達は清く正しく生きる為のお手本を求めてゐると思ふのである。自分の生まれ育った祖国、そこに生きてきた祖先・御祖達が清く正しく生きてきたと感ずれば、さう生きて行かうと固く決意をするのが人間本来の姿であるはずである。

 しかし、真っ当なお手本を何ら示さずに、ただ「他人様に迷惑を掛けなければ良い」といふことだけを教へられれば自分勝手、自己本位の行動を取るやうになって、例へば風俗嬢まがひの高校生・大学生が出現し「誰にも迷惑を掛けてゐない」などと開き直って親達を泣かせることになるのである。自分を高めようと志す習性が身についてゐなければ、この程度の事はやっても他人様に見つからなければ良いのだと思ふであらうし、誰だって多少の悪事を働いて生きてきたのだから自分だって少しぐらゐは良いだらうなどと不善を為す小悪党として生きて行く様にもなるであらう。

 『八犬伝』の勇士達は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌としるされた玉と牡丹の痣を持ち、その何れもが勝るとも劣らぬ武人であり、神仏に帰依し祖先と家名を大事にする天下無双の武士達である。血湧き心躍る『八犬伝』は最終的には仁義が勝利することを語ってゐる。

 馬琴は『水滸伝』『三国志』に肩を並べる作品にしたいと構想して、『八犬伝』を本来は漢文で書きたかったといふが、婦人子供の為に漢字仮名混り文で記したとしてゐる。しかしその漢字仮名混り文は、当世では大学生にさへ難しく容易には読んでは貰へさうもない。当時、この作品は広く読まれ人気を博し直ちに歌舞伎等でも上演されたといふ。このひと事を以てしても江戸時代の教育水準の高さが偲ばれるではないか。

(亜細亜大学情報システム課長)

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 陸奧宗光の『蹇蹇録』は日清戦争についての回想録と云っていいが、その最終部の「三国干渉」の件を読むと、時の総理伊藤博文と外相陸奧宗光ら当時の政府がいかにしてこの難事に処したかが、達意の文章とともに臨場感さながらに伝はってくる。清国との講和条約と三国干渉、そして国内世論、この内外からの難題を、僅々二週間余で処理し切った力源は奈辺にあったのか。その経緯を辿れば、自づと現在の鳩山内閣に欠けてゐるものが浮び上がってくるやうに思はれるのである。

       突如飛来した大変事

 ロシア、ドイツ、フランス三国の公使が外務省を訪問して日清講和条約中の「遼東半島割地」について異議を提出したのは明治28年4月23日のことであった。6日前に講和条約が調印され、戦勝の歓喜に浸ってゐたわが国にとって突如飛来した大変事であった。結末は周知の通り「遼東還附」となったが、三国干渉があった日、伊藤は広島に滞在、陸奥は病を得て兵庫県の舞子に静養中であった。東京から緊急の報を受けて、伊藤は広島において直ちに御前会議を開催した。閣僚は伊藤の他に陸相山縣有朋、海相西郷従道のみで、これに若干の軍部幕僚が加はった。

 伊藤が提議したのは、(第1)新たに敵国を作るとも勧告を断然拒否、(第2)列国会議を招集して問題を処理、(第3)勧告を受諾、といふ3案であったが、(第1)案については、今は第三国と和親を破るべきではなく、新たに敵国を作ることは得策ではない、(第3)案は余りに不甲斐なく内に動乱を惹起する恐れがありとして採らず、ほぼ(第2)案に決定した。伊藤はこの結論を手中にその夜広島を発って舞子へ向ひ、翌日払暁到着、京都に滞在中であった蔵相松方正義、内相野村靖も駆けつけた。三人は病床の陸奥を囲んで鼎座、早速協議を再開した。

 この報が飛込んで以来、陸奥が最も懸念してゐたのは世論の動きであったと云っていいだらう。何しろ当時の世相は「清国の譲与は唯々其大ならむことを之れ欲し…戦勝の狂熱は社会に充満し浮望空想殆ど其絶巓に達し」(『蹇蹇録』、以下「……」の部分は同書より引用。ルビは引用者)てゐたのである。そのやうな中にこの変事が公になれば、陸海軍人が如何に激動するか、また国民一般の失望も計り難い。熟慮した上で陸奧は「一応は彼等の勧告を拒否し一面には其底意の深浅を探り他の一面には我軍民が如何に趨傾するやを察するは今日の急務なるべし」と考へてゐた。この日の協議でも陸奥はその考へを述べた。干渉を拒否、しばらく三国の底意を探った上で「外交上一転の策」を講ずべしといふのである。

       伊藤と陸奥の間で行き交ふ刃を切り結ぶやうな言葉

 伊藤がこれに反駁した。結果の如何を考慮しない拒絶は無謀ではないか、ロシアの底意は今から探るまでもなく昨年来の挙動を見れば明々白々であり、こちらから挑発して彼らに干渉の口実を与へるのはいかにも危険が多すぎる。況や問題は極めて機微なるもので危機がいつ暴発するかも知れないやうな時に「外交上一転の策」の余地などあらうとも思へないがどうか。

 いかにも伊藤らしい現実感覚ではないか。陸奥もこれを聞いて自説を撤回するのだが、列国会議案には強硬に反対した。理由はかうである。列国会議となれば、三国の他に更に二、三の大国を参加させなければならず、各国が出席を承諾したとしても開催までには相当の時間を要するだらう。一方、条約批准の期日は目前なのにそれがズルズルと遷延することになれば時局の困難さは更に増すことになるし、そもそもこの種の会議は各国が互ひの注文を持ち出して講和条約全体が破棄になる恐れさへある。そのやうに考へれば、この案は「我より好むで更に欧州各国の新干渉を導くに同じき非計」で同意できないと云ふのである。将来と現下の問題とを併せ掴み取って逡巡することなく答へを導き出す、見事な見識である。この陸奥の意見を聞いて今度は伊藤が同意、御前会議の決定を変更するのである。

 このやうな両者のやり取りを見てゐると、成熟した伊藤と鋭利な陸奧との間に刃を切り結ぶやうな緊迫した言葉が行き交ふ様を思ふ。言葉の遊びなど入り込む余地もない、己の政治経験と知見を賭けた互ひの確信のぶつけ合ひである。しかし最後はピタリとひとつに纏っていくのを見れば、総理と外相との間には、謂はば強い信頼の回路とでもいふべきものが流れてゐたのであらう。

       外相陸奥の判断にブレなし

 それではこの緊急問題を如何に処理するか。列国会議の提議は取り止めたが、さりとて先の御前会議で断然拒否も否定した以上、三国が勧告を強要してくればその全部または一部は承諾しなければならないし、三国との交渉が長引けば清国は条約の批准を放棄し遂に講和条約自体を反故にするやも知れない。問題は錯綜し名案とてなかった。

 この時も陸奥の判断にブレはなく、彼の意見が結論となった。即ち三国と清国との問題は「確然分割して彼此相牽連する所なからしむべき様努力せざるべからず之を約言すれば三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも清国に対しては一歩も譲らざるべし」との方針が定った。野村はその日の夜舞子を発って広島に趣き、この決議を上奏、裁可を得た。伊藤はこの後直ちに山縣を旅順に派遣し、征清大総督として当地にあった小松宮初め重臣たちにこの勅命を伝達させてゐる。うならせるに足る用意の周到さである。

 しかしこの結論はあらゆる施策を試みた上での最後の覚悟であって、十余日を残す批准交換の期日までの間に、政府は米、英などと接触してその援助を引き出し、三国干渉の労力を牽制しようとしたが時局の打開には至らず、他方ロシアの態度は一切軟化の様相も見せず、加へて清国は三国干渉の事を口実にして批准交換の期日の延引を提議してきた。最早逡巡は許されない。覚悟なきままにこの事態を継続すれば「虻も蜂も捕捉し得ざるの愚」を犯すことになる。断を下さなければならない時期が迫ってゐた。

 一方、世論はどうであったか。この三国干渉の報が伝はるや、当初の「戦勝の狂熱」は一変、「社会は恰も一種の政治的恐怖に襲はれたるが如く驚愕極りて沈鬱に陥り」「物情恟々只管速に時難の去るを黙祷するのみ」といふ仕儀となった。内外の形勢を見て決断する時期がきたのである。ここにおいて「露、独、佛三国に対しては全然譲歩するも清国に対しては一歩も譲らずとの趣意を実行するの時機なりと断定」し、政府は即座にその措置をとったのであった。

       時を過たずに下す決断の力

 ところが、世論といふものはいつの世にも身勝手なもので、講和条約の批准も完了し遼東還附の決定も公になると、最早危難は去ったとの安堵感から、国民の不平不満は一挙に爆発し、反政府派はこの国民感情を利用しようとして「総ての屈辱総ての失錯を以て一に政府の措置に基くものと大に政府の外交を非難」する挙に出て、「戦争に於ける勝利は外交に於て失敗せりと云へる攻撃の喊聲は四方に起り其反響は今尚囂然たり」といふ有様となった。だが、今回の政府の措置は、「時局の緩急軽重を較量し」、「三国及び清国に対する問題を一時に処理せむ為め百方計画を尽くしたる後遂に乱麻を両断し彼此各々錯乱せしめざるの方策」なのであって、「畢竟我に在ては其進むを得べき地に進み其止らざるを得ざる所に止ま」ったのだと陸奧は書いてゐる。一国を担ふ者の、責任に裏打ちされた覚悟のことばである。

 そして陸奧はこの『蹇蹇録』の最後を、「余は当時何人を以て此局に当らしむるも亦 決して他策なかりしを信ぜんと欲す」と結んでゐる。外交の最高責任者として感懐、正しくさうであったらう、との思ひを禁じ得ないが、これはまた己に向けて吐かれた独言でもあったらうか。

 さて、以上のやうな経緯を追ひながらしきりに胸をよぎるのは、彼等の大局を見る眼力の確かさと、難事を前にして時を過たずに下す決断の力である。問題の困難さを云ひ募って右顧左眄するのは児戯に等しい。伊藤も陸奧も非常の変に際会して、「時局の緩急軽重を較量」して、再三再四考へ抜き、しかし時至れば断固として「乱麻を両断」して真っ向から変事に臨んだのだ。ゆるぎなく屹立した政治家の姿がここにある。

       ○

 鳩山総理は、米軍普天間飛行場移設問題について、「5月末までに決めなければ政治家として決断できないということだ。その覚悟を読み取ってほしい」(3月4日、参院決算委員会)と述べた。その言や良しと言ひたいところだが、昨年9月の政権発足以来、発言の迷走ぶりは正視に耐へないものがあった。「5月末まで」云々自体が迷走の産物ではなかったか。明治の先人に倣ふだけの見識と国政を担ふ政治家としての気概を合はせ持ってゐたら、先送りの愚は避けられた筈である。残された時間は少ない。「乱麻を両断」するほどの覚悟のほどをぜひ見せて欲しいものである。事は国の安全保障に関ることなのだ。

((株)伊勢利 代表取締役社長)

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 最近、反捕鯨を標榜する国や団体の跳梁には目に余るものがある。先般も海上保安庁が調査捕鯨船に侵入のシーシェパードの一人を検挙する事件が発生したばかりである。
一方では、和歌山県太地町のイルカ漁を隠し撮りした映画「ザ・コーヴ」が米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞するといふ、呆れたニュースも伝へられ、看過出来ない事態が続発してゐる。

 そこで本稿では、彼らが目の敵とする我が国の捕鯨文化とは如何なるものなのか、紙面の許す限り明らかにしてみたい。

       海の生態系を崩した反捕鯨国

 近年、我が国の沿岸にたびたび鯨が打ち上げられ、地元民の懸命な救出作業にも拘はらず、死んでしまふケースが多い。なぜかういふ事態が起きるのか。

 そもそも鯨の種類は83種にのぼり、イルカとて鯨と同類に属する。たしかに、セミ鯨やシロナガス鯨はかつての乱獲によって激減した。しかし、適度な捕鯨すら禁止したため、ミンク鯨やザトウ鯨、ニタリ鯨などは凄まじい勢ひで増殖、シロナガス鯨の餌まで横取りする始末だといふ。

 結果、餌にありつけない鯨は活動エリアを逸脱、見知らぬ海岸に迷ひ込んで無残な餓死に至る。つまり、反捕鯨サイドによる行き過ぎた「保護」が、皮肉にも海洋生態系のバランスを崩し、鯨座礁の一因となってゐるのだ。

 我が国は、かうした現状を科学的に調査して事の真相を訴へてゐるが、反捕鯨国は頑として聞く耳を持たない。相も変はらず、鯨を殺して食べるとは残酷であるといふ根強い感情論とイデオロギーを振り回して、調査捕鯨ですら抹殺しようと攻勢を強めてゐる。

 時代を遡れば、反捕鯨の急先鋒たる英米などは、かつては世界に名だたる捕鯨国だった。しかも彼らの捕鯨は、我が国のそれとは決定的に異なってゐた。その目的は「鯨油」を得ることにあり、世界の海で乱獲の限りを尽くした過去を持つ。

 米国などは、大型帆船に数隻の捕鯨ボートを積んで海に出る。捕獲すれば、母船に持ち帰って解体し脂皮を剥ぎ取ってボイルし油だけを採取する。鯨肉や内臓、骨の類はすべて海中に投棄して平然たるものだった。

 しかし、1859年にペンシルバニアで石油が採掘されて以来、鯨油の需要は急速に冷え込み、捕鯨には見向きもしなくなった。要するに鯨は彼らにとって一種の「鉱物資源」と同様の扱ひだったと言ってよい。

       鯨の恵みを一切無駄にせず

 これに対し、我が国の鯨に対する接し方は、まるで様相を異にする。『古事記』に見える久米歌の冒頭には「いすくはし久治良さやる」なる一節が出てくる。「久治良」は鯨のこと、「勇ましくでっかい鯨がとれたぞ」といふ意味である。このやうに遙か古代から日本人は鯨に親しんできた。

 慶長11年(1606)には捕鯨専門の「鯨組」が成立、江戸時代になると捕鯨は飛躍的に発展する。江戸後期には、鯨のあらゆる部位を一切無駄にせず完璧に役立てるのが慣はしとなった。すなはち欧米に見られる鯨油目的の捕鯨ではなく、鯨体を完全利用する捕鯨文化の誕生である。鯨がもたらす恵みを余すところなく受容することこそ、鯨に対する礼儀と見る文化にほかならない。

 その証左を示す史料に、平戸藩の鯨組「益富家」が天保3年(1832)に作成した『鯨肉調味方』がある。これによれば、鯨には70箇所に及ぶ部位があり、68箇所を食すことが可能とされ、刺身や湯引き、揚げ物等の調理法が解説されてゐる。かうして、鯨に関する高度の食文化が開花し、他国の追随を許さない鯨先進国となったのである。

 昭和の敗戦直後、戦時中に中断されてゐた捕鯨を再開し、折からの食糧危機を打開しようとした時、イギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどが反対したことがある。
この時、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、「捕鯨船と熟練した乗組員を擁してゐる日本は、自らの生命を維持するため食糧を確保し、かつ世界的な鯨油の不足を補ふ手段を持ってゐる」と述べて、捕鯨再開を許可した。

 この結果、鯨肉は食糧難克服の一助となり、鯨肉の供給は昭和20年代から40年代にかけての戦後復興に多大の貢献をなした。

 筆者の世代は少年期にこの有難い鯨肉によって育てられた。鯨の竜田揚げは学校給食の定番ともなった。

       供養の心−各地に残る鯨墓

 ところで、我が国の鯨文化の象徴として特筆したいのは、鯨への深甚なる感謝と弔意を示す鯨墓の存在である。墓だけではなく、過去帳に鯨の戒名を記し、位牌まで作ってゐる。供養塔や絵馬もあれば、梵鐘や記念碑、燈籠さへ存在する。その分布は北海道から九州にまで及び、120余箇所を数へる。

 北海道の函館には「鯨族供養塔」があるが、これは昭和32年に遠洋捕鯨会社船長兼砲手だった天野太輔が83歳の時に建てた。銘文によれば、明治40年以来2千余頭の鯨を捕獲して来たが、「其ノ罪誠ニ慙愧ニ耐ヘズ、此等諸霊ノ菩提ヲ弔ハン」として建立したのだといふ。
生業とはいへ、生きとし生けるものに手をかけてきた来し方を回顧し、鯨に対する懺悔と哀悼の誠を捧げたのである。

 宮城県気仙沼の唐桑半島に纏はる伝承にこんなエピソードがある。
寛政12年(1800)、大須賀屋安四郎の持ち船豊吉丸が江戸へ向かふ海上で暴風雨に遭遇するが、白鯨が出現し船を安全に導き助けてくれたといふ。この顛末を記録した「御崎明神冥助の記」が地元の日高見神社に保存されてゐる。その一節に、

  「風いよいよ烈しく、波いよいよあらかりければ、命いくべくともおぼえず。しかるに、たちまち声あり。…我は唐桑御明神の使なりと。すなはち白鯨艇前にうかび、また無数の大魚つらなり出たり。…白鯨、荒波をわけて先導し、無数の大魚は小艇をさしはさみてあいうち、浪をしのぎ、東の方にすすみゆく。…鯨魚にしたがひて流れけるに、…我ら十六人は祓川の浜につき、広前に登り、悲喜の感涙出でてやまず」

とある。

 この日高見神社には鯨塚が二基建立されてゐて、以前から頌徳碑として仰がれてゐた。大須賀屋安四郎たちが助けられたのも、その功徳と信じられ顕彰されてゐる。

       「惻隠の真情あり」

 千葉県安房郡白浜町には石像の祠が二基並んで建ってゐる。大正5年頃の設置で、鯨の頭骨と親鯨の胎内から出た子鯨を哀れに思った捕鯨関係者が埋葬して供養したものである。このたぐひの親子鯨の墓や祠は全国至るところに設けられてゐる。

 かうした供養は地元で代々受け継がれた。例へば高知県室戸市の中道寺には鯨供養の梵鐘が奉納されてゐるが、この鐘の銘文にその証左を見ることが出来る。

  「余が家、捕鯨を為すこと長く久し。寛政庚申より今茲に天保丁酉に至る。獲る所の魚、殆ど将に千頭ならんとす。今春、中道寺の住僧日祥に託して妙経数千部を読経し、以て供養を設く。然りと雖も、心なほ未だ安からず。因つて思ふに余が曾祖父元貞、嘗て鑄鐘施寺の志あり。未だ果たさずして歿す。 余その志を嗣がんと欲す」

 かう記したのち、「家業世々に栄ゆ。即ち殺生なりと雖も、惻隠の真情あり」と結んでゐる。鯨のお陰で代々家業は繁盛してゐるものの、「惻隠の真情」は常に念頭に持ち続けてゐたいとの願ひにほかならない。

 大分県臼杵市の大泊には、明治4年建立の「大鯨魚宝塔」と呼ばれる鯨塚があるが、毎年2月朔日には地域を挙げて法要を催し、昭和44年には百回忌が営まれてゐる。

 このやうに、鯨を殺生して人間が恵みを受けることに、日本人は実に真摯に向き合った。欧米のごとき鯨油だけを採ってあとは残骸と見て抛り捨てるなど、鯨に対して申し訳なしと思ふ感覚を育てた民族なのである。

 佐賀県東松浦郡小川島の捕鯨に関する資料「小川島鯨鯢合戦」(天保11年)に見える次のやうな記述に日本人独特の惻隠の情が偲ばれる。

 

「人に生死あり。万物皆然り。鯨の大なるも白魚の小なるも命にかはることなし。死生命あり。…大 魚皮肉一寸捨る所なく数百人の世わたりを助け…其潤となれるは功徳広大なり。このゆゑに、…鯨鯢の供養を営ミ…両手を合せ殊勝に念仏を唱ふれバ、死したる鯨も成仏すべし」

 これが捕鯨に携はる漁師達、その恵みを蒙った津々浦々の人々の偽らざる心境だった。「大魚皮肉一寸捨る所なく数百人の世わたりを助け」といふ一句に、日本人の捕鯨哲学が見事に表現されてゐるではないか。

 反捕鯨国やシーシェパードなどによる反日キャンペーンは、かつて彼らが繰り広げた残忍非情の鯨狩りに対するカムフラージュの面もあらう。海洋生態系の再生のためにも適切な捕鯨の再開を訴へる我が国の主張に、やうやく賛同する国々が漸増しつつある。毅然たる姿勢を望みたい。

(福岡県立太宰府高等学校教諭)

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 10年程前から沖縄の戦ひの記録や資料を集めては少しづつ読み重ねてゐる。神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』(新潮文庫)を一読、その厳粛な執筆姿勢と精密な構成に感じ入ったので、ご紹介したいと思ふ。

 氏は、東京陸軍航空学校出身の飛行兵であった。ト号(特攻)要員ではなかったが、鹿児島の知覧で勤務した経験を持ってゐた。復員後、戦ひで散ったひたむきな若者や一途な少年たちの行動と魂のありかを、何時か書き残したいと抱き続けてはゐたが、書ける自信がなかったと述べてゐる。その心情を「心をこめて書けば書くほどその作品が、戦争を知らない若い世代から更に乖離していくような思いがしてならなかったからである」と記してゐる。

 執筆の決断がついたのは、昭和57年の夏である。氏はその後約3年余に渡って取材を続けた。その時の取材メモの一部が、「あとがきにかえて」の箇所で紹介されてゐる。

       ○

 開門岳の麓で訪ねた老農の涙も忘れがたい。当時すでに40すぎで、三角兵舎の当番兵を勤めていたというその老人は、まだ星の出ている特攻出撃の早朝、熟睡している隊員たちを起こしに行き、

 「起床の時間であります。ただいま4時であります」

 そう告げるのが任務であった。ところが、話がそのくだりにくると老人はにわかに顔を歪めて絶句し、大粒の涙を膝にしたたらせた。老人の話は、そこから先に進まなかった。涙をこぼしながら老人は、それでも私のために幾度か話をすすめようとしたが、「起床の時間であります…」そう云うとまた咳をあげ、唇をふるわせるのである。

 この日の取材ノートは、空白のままで終わっている。が、なによりも素晴らしい取材であった。

       大石清伍長の日記と遺書

 この書は、全19話から構成されてゐる。紙面の関係上、第14話『背中の静ちゃん』のみを紹介する。

 大石清伍長は、中学3年から陸軍飛行学校へ志願、ト号要員として訓練に明け暮れてゐた。郷里の大阪には、父、母と11歳になる妹が一人ゐた。

 昭和20年3月13日夜半、大阪は、B29、90機による大空襲を受ける。投下された約6万5千発の焼夷弾により、大阪市民の21.4%が被災した。

 大阪空襲を知った大石伍長が一昼夜がかりで大阪駅にたどりついたのは、16日であった。幸ひ病床の母と妹は、前夜和歌山の新宮にゐる伯父の家に疎開してゐて難を逃れた。しかし、残った父は、奉職先の国民学校宿直室にて殉職した。

 昭和20年4月1日、米軍沖縄上陸の日、伯父より母重態の電報が届ゐた。上官である鎌本軍曹の配慮により、急ぎ和歌山へ向かったが、到着の前日、既に母は死去してゐた。

       大石清日記 - (昭和20年4月8日曇後晴)

   「妹のことを伯父上にたのみ、新宮駅にて決別。妹泣く。伯父上夫婦も泣く。
   せめてあと数日、妹の傍に居りてやりたし」

鎌本軍曹は、秘かに第六航空軍本部に次の書状を提出してゐた。
「一、ト号隊員ノ遺族に関スル相談。
(相談)隊員大石清伍長ノ父ハ国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(44歳)、家ニハ重病ノ母(44歳)、妹(11歳)一人ナリ。家産ナク父ノ収入ニテ生活シアリタリ。家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ」

       大石清日記 - (昭和20年4月22日晴)

「わが命、ながくともあと一ヶ月 ならむか。妹へ写真、伯父上夫婦に鎌本軍曹はじめ隊員みんなが集めてくれた志の航空糧食、煙草その他を小包にして送る。なかに隊員一同からの妹への激励文、みんなの集合写真を入れる」

       大石伍長の遺書

 なつかしい静ちゃん!
おわかれの時がきました。兄ちゃんはいよいよ出げき(撃)します。この手紙がとどくころは、沖なは (縄)の海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

 兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であづけてゐたいうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のをぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のほうが大じなのです。
もうプロペラがまわつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちゃんは往きます。泣くなよ静ちゃん。がんばれ!

       遺書に添へられた手紙

妹へ送られて来た大石伍長の遺書には一通の手紙が添へられてゐた。

       大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)

 大石静恵ちゃん、突然、見知らぬ者からの手紙におどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長 どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。
伍長どのは、静恵ちゃんのつく つたにんぎやう(特攻人形=マスコット)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つて、おんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。
伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしょに居るつもりだつたのでせう。同行二人…仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、きびしいときも、ひとりぼつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちゃんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちゃんの”仏さま“になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。
伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちゃんも、りつぱな兄さんにまけないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら

       ○

 この章に著者の言葉は一言も添へられてゐない。手紙、日記、大本営の公文のみで構成されてゐる。みづからの言葉を記すことを意図的に控へてゐる。その事がこの章をより厳粛なものとしてゐる。

       65年経てなほ痛恨の思ひが…

 先の大戦は、航空決戦と称された。国民の飛行機に対する思ひは、執念となつて国民生活に現れた。全国各地に相次ぐ飛行場の建設、金属供出による航空機の増産、少年や学徒は、飛行学校、予科練へ雪崩を打つて志願した。制空権を制した方に勝利の女神は微笑む。それは当時、国民共通の認識であり信仰でもあつた。

 そして沖縄は、日米の飛行場争奪の舞台となった。否、沖縄だけではない。サイパンもペリリューも硫黄島も皆飛行場を巡る戦ひであった。昭和18年発行の少年雑誌を古本屋で見たことがある。そこには、未だ当時日本人が、見たことのないはずのB29の絵が掲載されてゐた。小学生でさへ、敵の新型爆撃機の航続距離の長さを知ってゐたのである。敵の侵攻を食ひ止めるとは、敵に飛行場を作らせない事であった。その為に我が陸軍の兵士は最後の岬の岩の果てまで戦ひを続けた。我が海軍の水兵は沈み行く軍艦からなほ対空射撃を続けた。そして空では特攻機が沖合ひに停泊する敵の輸送船団を果敢に襲った。沖縄の兵士や県民は、夜間でも懐かしい友軍機の爆音を直ぐに聞き分ける事ができたさうである。暗闇の陣地の丘で、サーチライトに照らされた収用所の砂浜で、特攻機の来航を歓喜をもって迎へた。ある少年兵士は拳を握り締めじっと空を睨んだ。ある老婆は砂の上にしゃがみこみ両手を合はせて祈りを捧げた。そして皆、消え行く特攻機の炎に向って涙したのである。

 今、米国は沖縄で嘉手納と普天間の二つの飛行場を専有してゐる。東アジアの安全保障上の問題、米国との同盟関係の重要性は十分認識してゐるが、心情として、悲願として、一日も早い普天間飛行場の返還を祈らずにはをられないのである。
昭和は受難の時代であった。幕末のペリー来航から明治、大正を経て米国との戦ひは避けることのできぬ宿命であった。米国の戦争意思の確立は日本より遙かに早かった。戦後65年を経てもなほ我等の胸中には、その痛恨の思ひが静かに湧きくるのである。神坂次郎氏の著書を読み、悲しき思ひをまた新たにした。

(熊本製粉(株))

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 「社団法人国民文化研究会」福岡事務所を機軸として「NPО法人教育オンブズマン」並びに「株式会社寺子屋モデル」を併せた三位一体の事業活動が今年で丸5年目を迎へたが、その事業報告会が2月23日に福岡市博多区の「八仙閣」で、この事業を支へて頂いてゐる企業や個人支援者の方々、およそ100名の出席者を得て開催された。

 初めに、三者を代表して(株)寺子屋モデル代表世話役社長山口秀範氏(国文研常務理事)から「日本人の誇りを取り戻し、生命溢れる言葉を次代に伝へて行かう」との思ひで実践してゐる諸活動が、心ある人々の賛同を得て共感の輪が確実に拡がってゐるとの力強い挨拶があった。

 (株)寺子屋モデル発行の『寺子屋だより』によると発足当初の支援状況は法人17社・個人38名であったが、最新の2月号によれば法人53社・個人301名となってゐる。

 続く来賓から頂戴した祝辞では一様に「年々活動が広がってきてゐるのを実感します。憂慮される日本の教育状況の中で山口さんの活動が益々大事になってきてゐます」といふ旨が語られた。

 「寺子屋の先生」養成講座が第3期目を迎へたことや、子供のみならず会社の社員研修としての寺子屋活動の様子なども報告され、さらに今夏の阿蘇で開催される第55回「合宿教室」への参加要請もなされて盛況の裡に報告会は終了した。

 報告会の翌日、朝7時から福岡県中小企業経営者協会の会議室で行はれた「早朝勉強会」には約20名の経営者が集り 小柳陽太郎先生の御著書『教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」』の中の「文武論」の輪読が山口秀範氏の指導で行はれた。多くの参加者から真剣な感想が活発に述べられ、眠い目で参加した私の目を醒させてくれた。

 午後は国文研福岡事務所の会議室で行はれてゐる不登校児に対する自立支援活動の「うりはみクラブ」を見学させて貰ひ、子供らの明るい表情に心打たれるなど、活動の一端にも触れて帰京した。

(本会副理事長)

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第55回全国学生青年合宿教室
招聘講師に 中西輝政先生
阿蘇で、8月20日から3泊4日

新刊! 昨夏の厚木合宿の報告集『日本への回帰』第45集
一人一人が国を支へる柱とならう   今林賢郁
源氏物語 もののあはれを知る   國武忠彦
アジアに於ける日本の役割   ペマ・ギャルポ
体験と思想 吉田松陰に学ぶ  占部賢志
学問と友情   岸本 弘
定価900円  送料220円

待望の増刷 刊行さる!
廣瀬誠著 (国文研叢書30)
『萬葉集 その漲るいのち』
定価900円  送料290円


編集後記

 問―首相は「日本列島は日本人だけの所有物ではない」と言ったがだれの所有物か。答−そこに住んでいるあらゆる人々、生き物、無生物であっても構わない。そういった方々が共生する場だ(3月3日の参院予算委での質疑応答、産経紙から)。昨年8月の総選挙前遊説で述べた発言が国会で取り上げられたのだが、その答弁はさらに輪を掛けて浮世離れしたものだった。高校生の弁論ならともかく首相の国会答弁だ。共産中国が尖閣諸島から沖ノ鳥島を狙ひ、東シナ海のガス田開発を既成事実化し、軍拡で外洋戦略を進めてゐる中での答弁である。普天間飛行場移設問題の迷走どころの騒ぎではない。1月末の施政方針演説では開口一番、「いのちを、守りたい。/いのちを守りたいと、願うのです。/生まれてくるいのち、そして育ちゆくいのちを守りたい」などと述べてゐた。開いた口が塞がらないとは、かうした一連の首相発言を評する場合にこそ相応しいのではないか。心凍る思ひだ。

 その民主党政権が選択的夫婦別姓導入の民法改正を目論んでゐる。二人の女性閣僚、少子化担当相(社民党党首)と法相(元社民党副党首)は名うての別姓推進派だ。首相自身も賛成だなどと言ってゐる。自由を尊重するが如き「選択的」がミソであって、「事実婚」「法律婚」の差違が曖昧となり婚姻制度を無意味化する。そこでは夫婦だけではなく両親のどちらかと子供の姓も別になる。子供の姓を夫婦のどちらの姓にするかの軋轢もあらう。子供が思春期を迎へた時、同姓夫婦の下で育った者と別姓夫婦の下で成長した者とでは親を見る眼に違ひが出てくるのではないか。別姓両親を子供はどう見るのか。別姓派には子供からの視点が全くと言っていいほど欠けてゐる。本号附録裏面の【マンガー夫婦別姓について考える】をご覧になれば一目瞭然、「父母と子」から、さらに「孫」までくるとまさに姓はバラバラとなる。家庭の温き団欒を敵視する偏頗なイデオロギーから出てきた別姓論が「多様な生き方」「選択的」を隠れ蓑に現実となったら家族崩壊は一気に加速し深化するだらう。公明党だけでなく自民党にも別姓派議員がゐる。民主党政権で公序良俗は未曾有の危機を迎へてゐる。

 附録で御案内のやうに5月22日の国民文化講座は遠藤浩一先生の「生存本能としての保守」です。多数の御来聴をお待ちしてゐます。
 (山内)  

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