国民同胞巻頭言

第580号

執筆者 題名
奥冨 修一 憂ふべき学園の荒廃
- しかし、若者のみを責められない -
  平成21年にお詠みになったお歌から
小田村 四郎 「日本が危い!」
- 暴走する民主党政権、一刻も早い退陣を! -
  新春詠草抄 - 賀状から -

 ここ数年、阪神淡路大震災級の大型地震が発生した場合でも被害を受けなくて済む木造住宅の開発を続けてゐる。そのパートナーとして産学共同研究をお願ひしてゐる某私大の教授から実験が一段落した懇親の席で思ひがけなく「このままわが国が亡国の渕に沈むのを見てゐられない。どうしたら良いのか解らない」と語りかけられた。そこで「先生は授業で学生と接してゐるのですから、講義に遅刻したら叱りとばせばいいじゃないですか。人としての礼儀の基本を教へるところから国を救ふことが始まるのではないですか」と申し上げたら「そんなことをしたら授業料を払って雇ってやってゐるのだから遅刻しようがしまいが言はれる筋合ひはないtと返事が返って来ますよ」と切なさうに語られた。
この教授が告白する学園の荒廃には我が耳を疑ったが、40余年前の大学もまたさうであった。

 私は4年生の夏までボートの部活動に熱中してゐて年間8ヶ月は戸田の合宿所(埼玉県)から都内の大学に通ふ生活を続けてゐた。秋になって卒論の準備を始めた頃から回りが騒々しくなり、学内では連日活動家の拡声器が鳴り響き、アジビラが宙に舞ふやうになった。私の在籍する理工系単科大学では企業との技術連携を大切にしてゐたので産学連携体制が批判の槍玉にあがった。きっかけはどうあれ、新左翼による政治闘争の手段に利用されたのである。大衆団交と称して講堂の壇上に学長はじめ大学の幹部を釘付けにして要求を呑むまで何10時間も交渉を続け、先生方が体力の限界を超えて倒れてもなほやめようとしなかった。

 年明けて昭和44年1月が東大安田講堂事件。テレビに写った機動隊の放水映像は衝撃的であった。暴力的な闘争は全国の大学に及んでゐたが、この事件を契機に私の大学でも活動が一挙にエスカレートした。遅ればせながら、同憂の学友と相計って対抗するグループを結成した。同期の菅直人君(現副総理・財務相)らも一緒だった。しかし、何らの影響力を行使するまでもなく校舎はバリケードで封鎖されてしまった。

 かうして人生に対する確信を持てぬまま卒業となり就職したが、未消化の内心の渇きを充たすべくその年の国文研合宿教室に初めて参加したのである。岡潔先生や小林秀雄先生のお話を直接お聴きすることに主眼をおいた参加動機であったが、合宿教室の真のテーマが「自分の生まれた国(祖国)をしっかりと見つめ直すこと」にあるのに次第に気づき始めた。特に昭和47年の合宿での山田輝彦先生のご講義“内なる国家を見つめよう”に大きく心が動いた。ああ、この“内なる国家”そが自分が求めて来たものではないか、自分が生れた国、母国日本、祖国日本、そこにこそ生命の原点がある、と気づかされた。以来、今日まで合宿参加の友らと共に内なる国家を自らに問ひ続ける旅を重ねて来た。

 今、青森在住の長内俊平先生(数へ89歳)が、かつて月刊『春秋東奥』誌に22回にわたって連載された随筆「文化と文明」が富山の岸本弘先輩の手によって自費出版として世にでようとしてゐる。先生は最後のところで、人智(知解)の産物たる文明をして所あらしむる道は、体解、信解を中核とするまごころの修練-その最も近い道が敷島の道としての和歌創作と観賞にある-それはまた明治天皇の大み教へである-と述べられてゐる。

 冒頭の私大教授の深刻な問ひかけに十分なお応へをする力がなかったが、近く刊行される『文化と文明』を読んでいただかう。ひとすぢの道標を得て戴けるものと思ふ。40年前の学園も荒廃してゐたが、それでもなほ議論をたたかはすだけの熱気があった。今はそれすらもなく、渇き切った荒廃が充満してゐる。しかし 若者にのみ責任を求めることはできまい。彼らの姿は私益追求にひた奔る大人の鏡であってみれば、我らこそまづ猛省しなければならないと強く感じる。

(東急建設(株)前技師長)

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          御製(天皇陛下のお歌)

       結婚五十年に当たり皇宮警察音楽隊の演奏を聞く
    我が妹と過ごせし日々を顧みてうれしくも聞く祝典の曲

       カナダ訪問
    若き日に旅せしカナダ此度来て新しき国の姿感じぬ

       即位二十年の国民祭典にて
    日の暮れし広場に集ふ人と聞く心に染むる「太陽の国」

       御所の庭にて
    取り木して土に植ゑたるやまざくら生くる冬芽の姿うれしき

       即位の頃をしのびて
    父在さば如何におぼさむベルリンの壁崩されし後の世界を

       第六十回全国植樹祭(福井県)
    生徒らの心を込めて作りたる鍬を手に持ち苗植ゑにけり

       第六十四回国民体育大会(新潟県)
    地震による禍重なりしこれの地に人ら集ひて国体開けり

          皇后陛下御歌

       カナダ訪問
    始まらむ旅思ひつつ地を踏めばハリントン・レイクに大き虹立つ

       宇宙飛行士帰還
    夏草の茂れる星に還り来てまづその草の香を云ひし人

       御即位の日 回想
    人びとに見守られつつ御列の君は光の中にいましき

◇ 平成22年歌会始お題「光」

       御製
    木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く小道の真中草青みたり

       皇后陛下御歌
    君とゆく道の果たての遠白く夕暮れてなほ光あるらし

(御製・御歌は宮内庁のホームページによる)


平成22年年頭及び最近ご発表の御製、御歌を拝誦して
                                 
小柳 左門

          御製

       結婚五十年に当たり皇宮警察音楽隊の演奏を聞く
    我が妹と過ごせし日々を顧みてうれしくも聞く祝典の曲

 天皇皇后両陛下は、昨年、昭和34年の御成婚の儀から50年の記念すべき年をお迎へになった。4月10日のその日、両陛下は宮内庁庁舎前にお出ましになり、奉祝の記帳に訪れた人々とともに皇宮警察音楽隊の演奏する團伊久磨作曲の御成婚奉祝曲「祝典行進曲」をお聞きになった。その際の陛下のお喜びが、「うれしくも」のお言葉にあふれてゐる。

 御成婚当時、私は小学生であったが、テレビのある近所のお宅にお邪魔して、都内の大通りを進む車馬御列を拝見した。馬車の上で手を振られる両陛下の若き日のお姿を一緒に歓声を上げながら見入ったことを思ひ出す。それは戦後の復興期をやうやく過ぎた頃の、国全体がはじけるやうな喜びに包まれた慶事であったが、その折の祝典行進曲を陛下は懐かしく思ひ出されたことであらう。

 「我が妹」と詠まれたお言葉には、皇后様に対する陛下のなみなみならぬ愛情を感じる。陛下は皇后様とともに歩まれたこの50年を顧みて、「妹と過ごせし」と詠んでをられる。昭和から平成へ、その中でいかなる時も両陛下は寄り添ふやうにしつつ、国内外の人々との交流を深められ、ひたすら祈りを捧げ国民を励ましてこられた。

 御成婚50年にちなむ記者会見で、天皇陛下は横にいらっしゃる皇后様を振り返りながら、「結婚50年に当たって贈るとすれば感謝状です。…本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間にはたくさんの悲しいことや辛いことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います」と声を詰まらせながらお答へになったその御姿に、多くの人達は深く胸を打たれたことと思ふ。

 天皇陛下には一昨年体調を崩され、現在も御身体をいとひながらお過ごしのことと拝察する。皇后陛下も膝を痛められたとのことであるが、階段を歩まれる折などに天皇陛下がそっとお手を添へられるご様子を拝するとほのぼのとしたものを感じるのである。両陛下のご健康を心よりお祈りして、この大御歌を拝誦したい。

       カナダ訪問
    若き日に旅せしカナダ此度来て新しき国の姿感じぬ

 天皇皇后両陛下は、昨年七月、修好80周年を迎へたカナダをご訪問になった。天皇陛下は皇太子の折(御歳19歳)、平和条約が発効した翌年の昭和28年、昭和天皇の御名代として英国エリザベス女王の戴冠式に参列されたが、その途次、カナダをご訪問になった。海外の地で初めての夜を過ごされたのがビクトリアで、当地の人々の厚いもてなしをお受けになった。またバンクーバーからトロントに至る大陸横断の鉄道車中に4晩3日をお過ごしになり、厳しい寒さの中で各駅で温かく迎へてくれた日系の人々との出会ひがあったことなどを、陛下はなつかしく語ってをられる。その「若き日」から56年、此度は皇后様とともにお訪ねになったのである。

 陛下は公式歓迎行事において、「古くからこの国に住んできた人々と、様々な国々から移り住んできた人々が、それぞれの文化を受け入れ、穏やかに今日の国の姿を創り上げようと、努力を重ねてきた貴国への在り方への理解を深めることに努めたいと考えています」と述べられた。「新しき国の姿」とお詠みになったのは、この50余年の間にもカナダの人々がともに築かうとしてきた努力への敬意のご表現であったと思はれる。このやうなお言葉のうちにも、そこに住む人々への共感を抱きつつ国際的な親交を大切になされようとする大きな包容力を感じるのである。

       即位二十年の国民祭典にて
    日の暮れし広場に集ふ人と聞く心に染むる「太陽の国」

 昭和天皇が御隠れになって平成の御代となって昨年は20年。御即位20年をお祝ひする集ひは全国各地で時と所をかへて開催されたが、即位礼の日に当たる11月12日には、皇居前広場を中心に3万余の人々が集まって奉祝の国民祭典が開かれた。音楽隊や御神輿などがパレードした第一部の「奉祝まつり」に続く第2部の「祝賀式典」は夕刻から始まり、各界の代表からのお祝ひの辞や奉祝演奏が行はれるなか、両陛下は午後6時半過ぎに二重橋の上に提灯を捧げてお出ましになった。広場を埋め尽くした人々が打ち振る提灯の光の波と日の丸の小旗の向うに、両陛下のお姿が浮かび上がる。

 この祝賀式典で演奏されたのが、この日のために作られた秋元康作詞・岩代太郎作曲の「太陽の国」である。曲は三部構成になってをり、第三部「太陽の花」は男性グループEXILEによって唱はれた。作詞者によれば、陛下への思ひを「太陽」といふ言葉に集約させ、「太陽は変わることなく輝いて、そよ風に微笑みながら、一人一人を、おだやかに見守っている」と繰り返してゐる。当日の夜はかなり冷え込んだが、両陛下は二重橋の上にお立ちになって、人々とともにじっと聴き入ってをられた。「心に染みる」とお詠みなったその曲は、よほど御心に響いたのであらう。

 このあと陛下から、「…きょうの天候を心配していましたが、幸いに天気になり、安堵しました。しかし少し冷え込み、皆さんには寒くはなかったでしょうか。本当に楽しいひとときでした。ありがとう」とのお言葉がかけられると、参会者に大きな感動が広がって、聖寿万歳の声がいく度も繰り返され、さながら「聖なる夜景」のやうであったといふ。

       御所の庭にて
    取り木して土に植ゑたるやまざくら生くる冬芽の姿うれしき

 陛下は、宮内庁庭園課の職員の指導を受けられて、一昨年初めてヤマザクラの取り木をなさったが、成功しなかった。しかし昨年は10本の取り木を試みられ、そのうち2本が土に植ゑられてしっかりした冬芽を宿した。

 取り木とは、枝の途中の皮を幅1センチほどひと周り剥ぎ取って、その周囲に水苔を巻いて発根を促し、土に植ゑかへて育てるやり方のことである。それは根気のゐる繁殖法なのであらう。それを陛下は2年がかりで、やうやく成功されたのだが、取り木したヤマザクラの先に冬芽を見出されたお喜びが、「うれしき」のお言葉に素直に表はされてゐて胸をうつ。陛下が御目を細くして見つめてをられるお姿が、そして皇后様もお側でともに喜んでをられるお姿が目に浮かぶやうである。イ行の引き締まる音と、ア行のおほらかな音とが織りなす、美しくも力強い調べの御製である。

       即位の頃をしのびて
    父在さば如何におぼさむベルリンの壁崩されし後の世界を

 昭和天皇崩御の年、今上天皇御即位の平成元年(1989年)にベルリンの壁が崩壊し、翌年に統一ドイツが誕生した。陛下は、御在位20年記念式典のお言葉の中で、「この20年間に国内外で起こったこととして忘れられないのはベルリンの壁の崩壊です。即位の年に起こったこの事件に連なる一連の動きにより、ソビエト連邦からロシアをふくむ15ヶ国が独立し、それまでは外部からうかがい知ることのできなかったこれらの地域の実情や歴史的事実が明らかになりました。より透明な世界が築かれていくことに深い喜びを持ったことが思い起こされます」と仰ってゐる。式典のお言葉はさらに「しかし、その後の世界は人々の待ち望んだような平和なものとはならず、今も各地域で紛争が絶えず、多くの人命が失われているのは誠に残念なことです」と続く。

 平成の20年間は、我が国にとってもまた世界においても新たに多くの問題が発生し、苦難に満ちた20年でもあった。この時代にあって、陛下は常に我が国と世界の人々の平安を祈り希求してこられた。その御心はまた、御父君昭和天皇の御心に繋がるものであった。この御製を拝誦すると、陛下は父君ならばどのやうに思されるであらうかと、折々に御心の内に問ひかけてこられたのではないか、と畏れ多くも拝察しまつるのである。平成12年には、「大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継ぎし時しも」との御製があるが、そのみ思ひをさらに深め、幽遠なる調べを詠まれたのであった。

       第六十回全国植樹祭(福井県)
    生徒らの心を込めて作りたる鍬を手に持ち苗植ゑにけり

 第60回全国植樹祭は、福井県一乗谷朝倉遺跡において全国から約2万4千人の人々が集ひ、両陛下のご臨席のもと、「未来へつなごう、元気な森、元気なふるさと」をテーマに6月7日に開催された。

 天皇陛下は、ウスズミ桜、アカマツ、ケヤキの三本の苗を、また皇后陛下は、ウワミズ桜、トチノキ、スダジイの三本の苗をお手植ゑになり、さらに天皇陛下はヤブツバキ、キタコブシの種子、皇后陛下はユキバタツバキ、ヤマボウシの種子を御手播きになった。両陛下がお手植ゑなさるときにお使ひになった鍬は、福井高校の生徒達がこの日ために家具協会のボランティアの指導を受けながら、精魂こめて作り上げたものであった。陛下は「生徒らの心を込めて作りたる」とお詠みになった。生徒達の心をくみとられその鍬を御手に取り、木と森の成長を祈りつつ植樹をなさったことと拝察するが、この御製に生徒たちはいかほどか感激したことであらう。その鍬はまた生徒達の心を耕し育んでいくことであらう。陛下と生徒たちとがひとつに融け合ふ、心暖まる御製である。

       第六十四回国民体育大会(新潟県)
    地震による禍重なりしこれの地に人ら集ひて国体開けり

 第64回国民体育大会は新潟市の東北電力ビッグスワンスタジアムにおいて、9月26日より11日間開催された。一時は絶滅したものの佐渡で甦った朱鷺にちなんで、「トキめき新潟国体」と名付けられた本大会の開会式に、両陛下はお健やかにご臨席された。

 平成16年10月、新潟県中越地方は最大震度七の激しい地震に襲はれ、死者68名、家屋の全半壊1万6千余棟におよぶ甚大な被害を蒙った。さらに平成19年7月には、最大震度六強の地震がまたも新潟県で発生し、死者15名を数へた(新潟県中越沖地震)。両陛下は、被災地に直接赴かれ被災者を励まされたのであったが、県内外の人々の努力と協力によって、被災地は少しづつ復興をとげつつある。その新潟県で国体が開かれることに天皇陛下には深い感慨を思し召しになったことであらう。

 「地震による禍重なりしこれの地に」といふお言葉の中に被災者への限りない慈しみがあふれ、「人ら集ひて国体開けり」と、国体開催のために努力を重ねた人々へのねぎらひと、今かうして開催されたことへのお喜びを簡潔に表現されてゐる。

    皇后陛下御歌

       カナダ訪問
    始まらむ旅思ひつつ地を踏めばハリントン・レイクに大き虹立つ

 一読、目の覚めるやうな美しい御歌である。7月にカナダ国を訪問された天皇皇后両陛下は、オタワに到着されると、時差調整を兼ねて週末をケベック州にある首相の夏期別荘地、ハリントン・レイクで過ごされた。初めてカナダをご訪問されるにあたって、皇后様には今から始まらうとする旅路にご期待とともに一抹のご心配もおありだったかもしれない。その皇后様がハリントン・レイクの地におみ足を踏まれたその時、夕暮れの空に大きな虹が立つのをご覧になった。行く手を幸きはふやうな、思ひがけない虹の出現に、喜びと安堵を感じられたお心がそのままに伝はってくるやうな一首である。

       宇宙飛行士帰還
    夏草の茂れる星に還りきてまづその草の香を云ひし人

 若田光一宇宙飛行士は、日本人として初めて国際宇宙ステーションに長期滞在し、日本実験棟「きぼう」の完成など4ヶ月半に及ぶ活動ののち、7月中旬無事に帰還した。帰還後の記者会見で若田さんは、「ハッチが開いて草の香りがシャトルに入ってきたとき、地球に迎へ入れられた気がした」と笑顔で語った。季節は夏の盛り、宇宙からは青さが目に染みるであらうこの地球に、元気に帰還した若田さんがまづ感じた最初の印象を、皇后様ご自身も受け止められてともに草の香をなつかしんでをられるやうな御歌である。「香を云ひし人」といふ体言止めの表現には、大きな勤めを無事に終へ、さはやかに語る若田さんに寄せられるみ心の温かい余韻を感じるのである。

       御即位の日 回想
    人びとに見守られつつ御列の君は光の中にいましき

 平成2年11月、天皇陛下の御即位の礼が執り行はれ、正殿の儀に続いて祝賀御列の儀に臨まれた両陛下は、柔らかい秋の日差しの中、10万人を越す人々の奉祝歓呼の声をお受けになりながら、赤坂御所までオープンカーでお帰りになった。その時の陛下を、「君は光の中にいましき」と皇后さまは詠はれたのである。「光」とは、秋の陽ざしであるばかりでなく、この日を嘉する人々の喜びの眼差しであり、またご即位されたばかりの天皇様をまばゆく仰がれた皇后様の御心でもあらう。あるいはまた、天照大神を初めとした神々のみ光かもしれないと感じる。
天皇陛下を敬愛してやまぬ皇后様のみ心は、様々の御歌に拝することができるのであるが、この御歌もまた忘れがたい一首として国民のこころに永く残ることであらう。

    歌会始 お題「光」

       御製
    木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く小道の真中草青みたり

 皇居吹上御苑のお庭を散策されてお詠みになった御製とのことである。木立の間から漏れる日の光が、落ち葉の敷きつめた小道に射しこみ、その小道の真ん中に、草が青々と生ひ出てゐる。何と静かで、奥行きの深い御製であることか。時は早春であらうか。長い時を経て散り敷いた落ち葉と、木漏れ日の光を受けて息づく新緑の草。落ち葉の滋養が新たなる生命を育み、静謐なるハーモニーを奏でるごとくである。ゆっくりと林の中を歩まれる陛下のお足もとでは、かさかさと落ち葉を踏む音がし、遠くから時をり鳥の声も聞こえるかのやうだ。陛下の安らぎにみちたお姿を拝する思ひで、胸はあふれるのである。

       皇后陛下御歌
    君とゆく道の果たての遠白く夕暮れてなほ光あるらし

 今年もまた、皇后様のかくも品格の高い御歌を拝することができたのは、なんと有難いことだらう。「君」とはいふまでもなく天皇様である。お二人で歩んで行かれる道の果たて、その遠いはるかな空は白く明るみを帯び、日が落ちて夕暮れの迫る空には、まだなほ光があるやうだ、とお詠みになるお言葉一つ一つの美しさ。この御歌もまた、早春の皇居を散策された時の情景とのことで、「道」と「光」とが御製と一対をなしてゐて心惹かれる。「君とゆく道」といふお言葉には、ただの道を超えて、この50年ともに歩んでこられた天皇様への深い信頼と敬愛の情が感じられる。御歌の情景を偲んでゐると、ミレーの晩鐘の絵が思ひ出され、道の果たての空の光を眺められつつ、ともに祈られる両陛下の御姿を偲びまつるのである。
(本稿の記述にあたっては、宮内庁のホームページ、『祖国と青年』誌を参照させて頂きました)

(独立行政法人国立病院機構・都城病院長)

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 「日本が危い!」、この一語は昨年10月4日急逝された故中川昭一氏が、総選挙運動中繰返し絶叫された訴へだったといふ。総選挙による民主党の記録的大勝の結果生れた鳩山政権は当時憂慮された以上に左翼全体主義路線を歩み国家解体政策を実行し始めた。もしこの政権が今後とも持続すれば、国家の存立自体が危殆に瀕する。彼等の基本思想は、一言で言へば、第1に総選挙で支持を受けた政党の内閣は無制限の権力を持つといふ一党専制主義であり、第2は国家意識のかけらもない無国籍政治である。

       皇室に対する不敬行為

 前号で上村理事長が指摘されたが、国民として断じて許し難いのは政府与党幹部の皇室に対する不敬発言である。外国要人の天皇陛下への謁見は一ヶ月前に宮内庁に要請しなければならないといふ慣例が厳存するにも拘らず、これを蹂躙して、中国習近平副主席との御会見(12月15日)を強要し奉ったのである(このルールは平成七年制定され、さらに同16年、その厳守が確認されてゐる。今回中国側の正式要請と外務省の宮内庁に対する要請はこれに大幅に遅れる11月26日であり、同30日政府は中国側に正式に「不可能」と伝達した。にも拘らず中国から度重なる要請があり、12月7日平野官房長官が羽毛田宮内庁長官に直接要請したが再度拒否され、遂に10日、「首相の指示」として平野氏が三度び羽毛田氏に要請、已むなく宮内庁は受入れを決定したもので、同氏は「二度とかういふことはあって欲しくない」と記者会見で述べてゐる。マスコミ報道によれば、この間、小澤幹事長から平野氏へ会見実現の「恫喝」があったといふ)。同月10日、小澤幹事長が143人の民主党議員を含む600人余の大訪問団を率ゐて訪中し、国辱と云ふべき朝貢外交を行ったことは、事件と無縁ではなからう。

 抑々、習近平氏は副主席ではあるが党内序列は第六位であり、次期主席の最有力候補ではあってもそれが内定してゐるわけではない。逆に次期主席をめぐっての胡錦涛派と江沢民派の水面下の暗闘さへ伝へられてゐる。にも拘らず中国側は異例の御謁見を要請し、熟知してゐる1ヶ月ルールまで無視して強力に対日圧力を掛けたのは何故か。日本はどんな理不尽な要求でも中国に屈するといふ属国化を中外に例証したのではないか。そのために日本全国民が尊崇する天皇陛下を利用したのではないか。このやうな不当要求に易々と屈服した民主党政権は正しく売国政権であり、その罪は永久に消えないであらう。況して小澤氏が自己の権勢を誇示する国辱訪中に利用したのであれば、その罪万死に値しよう。

 さらに許し難いのは、皇室に対する尊崇の念のかけらもない小澤氏、鳩山氏の不敬発言である。鳩山首相「1ヶ月を数日間切れば、もう杓子定規でダメだといふやうなことで…諸外国との親善の意味で正しいことなのか」「諸外国と日本の関係をより好転させるための話」(12/14)。小澤幹事長「体調がすぐれないといふならばそれよりも優位性の低い行事はお休みになればいい」「宮内庁の役人が作ったから金科玉条で絶対だなんてバカな話」「天皇陛下は…『会ひませう』と必ずおっしゃると思ふ」(12/14)「憲法の理念は、天皇陛下の行動は内閣の助言と承認によって行はれる」(12/21)等々。

 「助言と承認」(advice and approval。幣原内閣の改正要綱では「輔弼賛同」となってゐたが、司令部の強要により修正されたもので、本来不適切な用語)とは天皇の国事行為について定められたもので、外国要人の御謁見のやうな公的行為の対象ではない。況して指示や命令でないことは勿論である。畏れ多くも天皇陛下に内閣が指示できるかの如き言辞は言語同断である。

 小澤氏に代表される民主党政権は、選挙で国民が選んだ内閣は絶対的権力を持つと考へてゐるのではないか。そこには歴史や伝統、皇室でさへも自己の自由になるといふ謙虚心の微塵もない傲慢さが見える。これこそまさに独裁専制政治である。今回の不敬発言や数々の政策迷走に対し、党内から殆ど異論が出ないことも不可解である。党内体制自体が共産党の民主集中制と変らない。恐るべき独裁全体主義政治である。

       国益無視の無国籍政治

 第2にこれに劣らず危険な問題は国家存立の根幹に関はる外交・防衛問題である。鳩山首相は臨時国会の所信表明演説において、無内容の長口舌を揮ったが、一言も国防問題に触れなかった。北朝鮮が核武装を急ぎ中国が飽くなき軍拡を続けてゐるに拘らず、である。「宇宙人」と呼ばれる通り、首相には国家意識そのものがないのではないか。「日米同盟は外交の基軸」と一応は述べるが、同盟の本質が軍事同盟であることすら理解できないらしい。彼の非常識な迷発言の結果、日米関係は戦後最悪の事態に陥ってしまった。

 国際的に高い評価を得てゐた海上自衛隊の印度洋給油活動を何の理由もなく撤収を決定した。それがどれだけ国益を損ふかについて全く理解できないらしい。共産独裁国家に対し意味不明の東アジア共同体構想を提唱した。小澤、山岡氏等は「日米中正三角形」論を中国で述べてゐる。普天間基地問題の迷走については多言を要しないであらう。一言すべきは問題はもともと我が国の強い要請により平成八年の橋本・クリントン共同声明に盛られたといふことである。ゲーツ国防長官が言明した通り、現状のままで米軍は何らの痛痒も感じない。そして幾多の曲折を経て平成18年地元沖縄の同意を得て辺野古沖移設の合意が成立したものである。にも拘らず鳩山政府は国際間の約束を蹂躙し、事態を一方的に悪化させた。軍事知識のない首相には無理かも知れないが、基地が海兵隊駐屯地に近接してゐなければならないことは昨年の「防衛白書」にも明記してあり、太田文雄氏の『同盟国としての米国』(芙蓉書房)を一読すれば県外・国外への移設など幻想に過ぎず、国益に反すること位は分る筈である。問題は首相の迷走によって米国のみならず全世界に対し国家の威信を失墜させたことである。とりわけオバマ大統領に対する背信行為は、「信義誠実」といふ日本人の伝統的資質に対してさへ疑念を抱かせる結果となった。これは将来恐るべき禍根とならう。

 地球温暖化ガス25%削減論も同様である。首相は何らの具体的検討も行ふことなく就任早々に国際公約としてしまったが、その責任をどうして果す積もりか。我が国は京都議定書の六%削減すら果すことができず、国内産業は四苦八苦し、既に排出権取引として二千億円の血税を外国に貢いでゐる(1月8日付、日経)のが現状である。国民生活、国内産業の被る被害は絶大であらう。

       最も懸念される外国人参政権

 民主党政権の暴走はこれに止まらない。最も懸念されるのは外国人参政権法案である。およそ国家を支へる者は国民であり、国民は国家に対する忠誠義務を持つ(これは「自衛権」の当然の帰結である)。忠誠義務なき外国人が国政に容喙するのは国家主権に対する侵害である。それ故に憲法は公務員の選定、罷免は国民固有の(inalienable)権利である(第15条)と明記し、第93条に規定する「住民」とは当該地方共同体の区域に住居を有する「国民」を指す(平成7年濡2月28日、最高裁判決。なほこの判決の「傍論」は立法措置により外国人永住者に地方参政権を与へることは憲法上許される、と論じたが、これは「本論」と矛盾する上、「傍論」には法的拘束力がない)。地方政治と雖も国政の重要な一部であり得ることは基地問題、教科書問題を考へれば明白であらう。これを推進しようとする小澤・鳩山政権は正に無国籍政権であり(高校学習指導要領解説書に竹島が日本固有の領土であることを明記しなかったこともその一例)、国民は絶対にこの法案を阻止しなければならない。二点付言すると、首相が主唱する地域主権(この用語自体、神聖な国家主権に対する冒涜である)、地方分権推進の姿勢と密接に関連すること、第二に特別永住者たる在日韓国・朝鮮人が毎年減少してゐる(42万人)のに対し、中国籍の一般永住者は逐年増加を続けてゐる(14万人)こと(北京オリンピック聖火リレーにおける長野市の惨状を想起せよ)に留意しなけならない。

       数々の国家解体施策

 経済問題を論ずる紙数が尽きたが、デフレ脱却が焦眉の急であるに拘らず景気に即効性のある公共事業を問答無用で削減し、来年度予算では子供手当、高校授業料無償化、高速道路無料化、農家戸別所得補償等々、貴重な血税のバラマキ浪費を行ってゐる。これらは自由経済の自己責任原則を否定する社会主義思想と無縁ではない。例へば子供手当は、少子化対策でもなく、子育て支援でもない(その目的ならば他に幾多の施策が考へられる)。その目的は育児の社会化(それ故に所得制限がない)で、扶養控除廃止と並んで親の育児義務(権利でもある)の剥奪、つまり家族制度の破壊を目指すものである。提出が予定されてゐる夫婦別姓等の民法改正法案も同根である。

 その他人権擁護法案(実は言論弾圧法案)、国立追悼施設推進(靖國神社の形骸化)等々、国家解体政策が進められてゐる。現政権の一刻も早い退陣を喝望して已まない。

(本会会長、前拓殖大学総長)

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    お題「光」に寄せて

       さいたま市 上村和男
    朝あけの光に映ゆる刈田にて小鳥群がり落穂ついばむ

       遠望六十四年 佐世保市 朝永清之
    暗闇にほのかな光求むごと待ちに待ちにき引き揚げの日を
    うす闇に島影かすかに見え初めて朝日の光待ちわびたりき

       厚木市 福田忠之
    大山の辺の雲移り変り行き灰色の端光輝く

       今上天皇大嘗祭  横浜市 亀井孝之
    みあかしの脂燭の光に大君の御影をろがみき二十年前に

       塩山への車窓から 柏市 澤部壽孫
    山間にま白く光りひとすぢの川音もなく流るるを見つ

       御即位二十年を祝ひて  八千代市 山本博資
    大君と皇后宮は(二重橋へ)出でまして提灯振られてこたへたまひき
    ともしびの光はあまねくくにばらに照りかがやくをこひねがふなり

       御即位二十年奉祝国民祭典  府中市 磯貝保博
    橋のうへに光を受けて浮びくる御姿仰ぎ万歳唱す

       小田原市 岩越豊雄
    朝まだき産屋の窓に光満ち母成りし幸あふるるごとく

       鎌ヶ谷市 向後廣道
    御園生に光は満ちて皇子坐しぬ若き衛士我が遠き春の日

       宮若市 小野吉宣
    夕月にかかるむら雲動きそめ光静かに悠久照らす

       都城市 小柳左門
    ほのぼのと空にひかりのさしそめて遠山並みに朝は明けゆく

       小学生向け寺子屋 福岡市 山口秀範
    偉人伝学ぶは楽しと集ふ子はみ国の明日の光とぞ思ふ

       福岡市 鎹 信弘
    照らされて光の中に浮かび立つ阿修羅の像の神さびにけり

       『山根清君を偲ぶ』を読みて  由利本庄市 須田清文
    胸内によみがへりくるありし日のひかりかがやく友の姿よ

       丈一郎(長男)誕生宝塚市 庭本秀一郎
    初めてのこの世の光に驚きしややをら左の眼を開きたり

       和香子
    うすぐらき産屋なれども生れし子のはなつ光の満つる心地す

         頌

       下関市 寶邊正久
    石蕗の花かがやきて亡き友を思ふばかりの秋は過ぎゆく
    褒めてやればいよよおいしく柔らかく大根子芋煮込むかわぎも

       東京都 梶村 昇
    いくさ止み六十五年国連の勝ち組の枠憤ろしも
    むら雲を吹きかへさして今朝の富士空を限りてあざやかに映ゆ

       御即位二十年をお祝ひする国民祭典  浦安市 小林 功
    国民のあつきおもひにすめろぎは二重橋よりお手ふり給ふ
    おん笑みは提灯にあはく浮びくる今宵のみ空われは忘れじ

       熊本県 北島照明
    桜草庭一面に植ゑたれば縁側に座し母笑ひたまふ
    柔らかき土に大根白菜葱みづな春菊のあまた育つを妻の喜ぶ
    使はざる鍬は錆びると亡き父の教へのままに土掘り返す

       小矢部市 岸本 弘
    老いの日を堪へつつ生きる父とともに生かされてあり妻と吾はも

       東京都 小柳志乃夫
    坂の上の雲を目指せし大御代の力いきづく御誓文(五箇条の御誓文)のしらべに

       生徒 交野市 絹田洋一
    親子集ひ共にもちつく生徒らの歓声校庭にひびきわたりぬ

       深川市 服部朋秋
    見薺かす野山しづかに眠りをり命はぐくむ繭のごとくに
    ひさびさの帰宅の度に吾子たちの育ちし姿みるぞ楽しき

       学生との輪読会  福岡市  藤新成信
    くさぐさの思ひは晴れてみ友らと声に出して書をよみゆく
    先祖への国への思ひ礎に我が生業に励まんとぞ思ふ(12月12日)

       昨秋、転居 加古川市 北村公一
    住み心地こよなき家に母呼びて共に暮らさむ日を祈りつつ

       小学六年の櫻子、マラソン優勝 くみ子
    折り返し先頭に立ち駆け来るは思ひがけずに吾が娘なり


編集後記

政治家が外国籍者から献金を受けることは法律違反である。同様に外国籍者から得票することもあり得ない。ところが政府与党に、野党の中にも、外国籍者に選挙権を付与せよとの面妖なる動き。“国防”を忌避してきた戦後政治はいよいよ内から国を崩すといふのか。
「御製御歌の謹解」に例年にも増して清澄なる思ひにさせられた。編集者はその役得でいち早く「日の本の民」の幸せに浸った。ご精読ください。 (山内)

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