国民同胞巻頭言

第579号

執筆者 題名
本会理事長
上村 和男
民主党よ、国益を如何に守るのか
- 国が一つにまとまる時ではないか -
平成21年11月12日 国立劇場 天皇陛下御在位二十年記念式典
天皇陛下のおことば
澤部 壽孫 政府主催記念式典 大みことばを拝して
- 混迷の世に「ひとすぢの光」を仰ぐ思ひ -
ポーランド共和国特命全権大使
ヤドヴィガ・マリア・ロドヴィッチ
御即位二十年をお祝いする国民祭典に参列して
3万5千人の「命」の灯火
小野 吉宣 学恩に何とか応へむ
- 梅鶯塾での輪読会 -
  稲田健二著
『「少国民」かく生きたり - 「高貴高齢」を迎えた昭和 一桁後半生れの感性と想い』
税込み千六百円 高木書房

 昨年は天皇陛下御即位20年を奉祝する諸行事が全国津々浦々で行れ、古くからの文化と伝統の裡に生きしめられてゐる幸せを実感した。中でも11月12日夕刻からの「国民祭典」では3万余人の一人とし一緒に提灯を掲げて聖寿の万歳を奉唱し、それに先立って挙行された政府による「記念式典」では陛下の「おことば」(本号二頁に謹載)を間近で有難く拝聴した。さらに翌日は「宮中茶会」に各界の方々とともにお招きに預り、光栄の極みであった。

  ことに政府式典での「おことば」の中で、「ベルリンの壁の崩壊」にお触れになった箇所がより強く胸に焼きついてゐる。陛下が内外の安寧を日夜御祈念なされてゐることは御製に仰いできたし、今回の「おことば」にも、その御心が溢れてゐて真に有難かったが、とくにベルリンの壁の崩壊を回顧された「それまで外部からうかがい知ることのできなかったこれらの地域の実情や歴史的事実が明らかになりました。より透明な世界が築かれていくことに深い喜びを持ったことが思い起こされます」との一節には、ハッとさせられた。と同時に、一党独裁の共産中国の支配下にあるチベットやウイグルのことが思ひ浮んだ。

  ベルリンの壁の崩壊は第二次大戦後の世界を重苦しく覆ってゐた「米ソ冷戦」の終結(ソビエト連邦を頂点とする社会主義体制の解体)を意味するものだったが、「より透明な世界が築かれていく…」といふやうな評言を耳にしたことはない。陛下の御眼差しにはどんな国際政治学者も及びがたいと改めて感じ入った次第であった。それだけに、米ソの冷戦が終結したとはいへ「その後の世界は人々が待ち望んだような平和なものとはならず、今も各地域で紛争が絶えず、多くの命が失われているのは誠に残念なことです」と、陛下が世界の人々が平和の裡に生活することを常に祈ってをられることを思ふと申し訳ない気持ちになった。

  ところで、奉祝式典から1ヶ月後の12月11日、陛下が来日する中国国家副主席に「特例」で会見をなさるといふことが発表された。それは「皇室への尊崇の念が政治家にいかに欠如してゐるか」、「対中外交が迎合的でいかに卑屈なものであるか」をクローズアップしてあり余る出来事であった。御即位20年といふ節目の慶賀すべき年が、内閣によって汚されたことに強い憤りを覚える。

 外国要人が陛下にお目通りを賜る際は「1ヶ月前までに文書で要請する」といふルールがある。今回はそれがなされずに鳩山民主党内閣は中国側の要望するままに動いて、結果として陛下の御日程をルール破りの副主席に合はせるといふあるまじき暴挙を犯したのである。政治主導を掲げる鳩山政権は必要以上に官僚を軽視してゐるやうに見えるが、外務省の儀典長(局長級)段階の判断であれば「今回は陛下の御会見はありません。それとも訪日の日時を少し延ばしますか」と駐日大使館側に返答して終ってゐたはずである。先方は国内事情からそれでは困るから動いてくれる政治家に頼ったのだらう。

 かうした経緯を憂慮した宮内庁長官が「二度とあって欲しくない」と述べたことから内閣の無理強いが明らかになったのだが、会見のなされた15日は「賢所御神楽の儀」の祭祀が行はれ「陛下がお心安らかに保たれなければならない日だった」(12月18日付産経、大原康男教授)となれば、猶のこと内閣の暴挙は看過できない。

 ところが、鳩山首相は「結果は良かったのではないか」などと語って、国の主体性を喪失してしまってゐる。小沢民主党幹事長が懸念を表明した宮内庁長官を「辞表を出してからものを言へ」と二度三度と公然と批判した姿勢には、官僚組織を「弱体化」せんとの意図が垣間見えた。不遜な物言ひもあった。民主党内閣の体質が一層はっきりしてきたが、かかる政党に300余議席を与へた国民の責任も重い。国益を置き去りする政党には不安が募るばかりである。

ページトップ  

  即位20年に当たり、政府並びに国の内外の多くの人々から寄せられた祝意に対し、深く感謝します。
今年は平成生まれの人が成人に達した年で、スポーツその他の分野でも、既に平成生まれの人々の活躍が見られるようになりました。20年という時の流れを思い、深い感慨を覚えます。ここに即位以来の日々を顧み、私どもを、支え続けてくれた国民に心から謝意を表します。

 この20年、様々なことがありました。とりわけ平成七年の阪神・淡路大震災を始めとし、地震やそれに伴う津波、噴火、豪雨等、自然災害が幾度にもわたり我が国を襲い、多くの人命が失われたことを忘れることはできません。改めて犠牲者を追悼し、被災した人々の苦労を思い、復興のために尽力してきた地域の人々、それを全国各地より支援した人々の労をねぎらいたく思います。

 即位以来、国内各地を訪問することに努め、15年ですべての都道府県を訪れることができました。国と国民の姿を知り、国民と気持ちを分かち合うことを、大切なことであると考えてきました。それぞれの地域で、高齢化を始めとして様々な課題に対応を迫られていることが察せられましたが、訪れた地域はいずれもそれぞれに美しく、容易でない状況の中でも、人々が助け合い、自分たちの住む地域を少しでも向上させようと努力している姿を頼もしく見てきました。これからも、皇后と共に、各地に住む人々の生活に心を寄せていくつもりです。

 先の戦争が終わって64年がたち、昨今は国民の四人に三人が戦後生まれの人となりました。この戦争においては、310万人の日本人の命が失われ、また外国人の命も多く失われました。その後の日本の復興は、戦後を支えた人々の計り知れぬ苦労により成し遂げられたものです。今日の日本がこのような大きな犠牲の上に築かれたことを忘れることなく、これを戦後生まれの人々に正しく伝えていくことが、これからの国の歩みにとり、大切なことではないかと考えます。

 この20年間に国外で起こったこととして忘れられないのはベルリンの壁の崩壊です。即位の年に起こったこの事件に連なる一連の動きにより、ソビエト連邦からロシアを含む15か国が独立し、それまでは外部からうかがい知ることのできなかったこれらの地域の実情や歴史的事実が明らかになりました。より透明な世界が築かれていくことに深い喜びを持ったことが思い起こされます。しかし、その後の世界は人々の待ち望んだような平和なものとはならず、今も各地域で紛争が絶えず、多くの人命が失われているのは誠に残念なことです。世界の人々が、共に平和と繁栄を享受できるようになることを目指して、すべての国が協力して努力を積み重ねることが大切であると思います。

 今日、我が国は様々な課題に直面しています。このような中で、人々が互いに絆を大切にし、叡智を結集し、相携えて努力することにより、忍耐強く困難を克服していけるよう切に願っています。

 平成2年の即位礼の日は、穏やかな天候に恵まれ、式後、赤坂御所に戻るころ、午後の日差しが、国会議事堂を美しく茜色に染めていた光景を思い出します。あの日沿道で受けた国民の祝福は、この長い年月、常に私どもの支えでした。即位20年に当たり、これまで多くの人々から寄せられた様々な善意を顧み、改めて自分の在り方と務めに思いを致します。

 ここに、今日の式典をこのように催されたことに対し、厚く感謝の意を表し、国の繁栄と国民の幸せを祈ります。

- 宮内庁ホームページから -

  

  天皇陛下御在位20年記念式典(平成21年11月12日、政府主催、於・国立劇場)における、天皇陛下のお言葉を翌朝の新聞で拝読し、国民の幸と国家の安寧を常に願はれ、国民と喜びも悲しみも共にしてをられるお心に深く心を打たれました。改めてお言葉をたどり、折々の御製と御歌にも触れつつ今一度、陛下のお言葉を心に味はってみたいと思ひます。

  20年といふ歳月を「 平成生まれの人が成人に達した年 」であると、具体的に表現され、成人した若者への期待のお気持ちが拝察されます。毎年のやうに天変地異に襲はれる日本ですが、この20年の間に、自然災害が起るたびに行幸啓遊ばされた天皇・皇后両陛下に国民はどれほど慰められ、癒されたことでありませうか。平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では六千を超える人々の命が失はれましたが、1月31日には、天皇・皇后両陛下お揃ひで神戸に行幸啓になさいました。交通もままならない中でヘリコプターを乗り継がれ、幾つかの避難所を廻られ、被災者に膝を屈して直接お声をかけられました。多くの人が亡くなり焼け野原となった長田地区では焼け跡に向かって深々と礼を捧げられ、皇后陛下はその朝まで御所のお庭に咲いてゐた水仙の花束をお供へになりました。新聞、テレビで拝見したお姿は今でも鮮やかに思ひ出されます。大惨事の中で整然と心を一つにして助け合った人々の力の源泉はここにあったと思はれてなりません。ご自分のことは何も仰らずに、被災者と支援した人々を労はれますお姿は菩薩のやうに感じられます。

   なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき(御製・平成7年)
   この年の春燈かなし被災地に雛なき節句めぐり来りて(御歌・平成7年)
   地震により谷間の棚田荒れにしを 痛みつつ見る山古志の里(御製・平成16年)

 この20年の陛下のご足跡を振り返るとき、忘れられないのは、平成15年11月に、鹿児島県行幸啓をもって、47都道府県のすべてを行幸啓になられたことです。「 国と国民の姿を知り、国民と気持ちを分かち合うことを、大切なことであると考えてきました 」といふお気持ちで各地を行幸啓になり、「 それぞれの地域で、高齢化を始めとして様々な課題に対応を迫られていることが察せられましたが、訪れた地域はいずれもそれぞれに美しく、容易でない状況の中でも、人々が助け合い、自分たちの住む地域を少しでも向上させようと努力している姿を頼もしく見てきました。これからも、皇后と共に、各地に住む人々の生活に心を寄せていくつもりです 」との御言葉に、それぞれの地域が抱へる問題を理解されると同時に、その対応に努力してゐる人たちに勇気を与へる温かい御眼差しを注がれてゐます。年が明けて平成16年1月の歌会始(お題「幸」)に披講された両陛下のお歌は忘れられません。

   人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ(御製・平成十五年)
   幸くませ真幸くませと人びとの声渡りゆく御幸の町に(御歌・平成十五年)

 戦後64年を回顧された陛下は、先の大戦において尊い命を国のために捧げた戦没者の数を310万人と具体的にお示しになり、戦中、戦後苦難の道を歩んだ国民の「 計り知れぬ苦労 」と「 大きな犠牲 」の上に「 今日の日本 」が「 築かれたことを忘れることなく、これを戦後生まれの人々に正しく伝えていくことが、これからの国の歩みにとり、大切なことではないかと考えます 」とお述べになってゐます。また、尊い命を国のために捧げられた戦没者や遺族に対して常に思ひをお寄せになり、沖縄、長崎、広島、東京、そして硫黄島およびサイパンヘと慰霊と鎮魂のために行幸啓なさいました。硫黄島と題する御製にも陛下の御心は表現されてゐます。

 陛下の靖国神社へのご親拝が一日も早く実現することを切望するものです。

   戦なき世を歩みきて思ひ出づか の難き日を生きし人々(平成16年・御製)

        硫黄島 二首(御製・平成6年)
   精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
   戦火に焼かれし島に五十年も主なき箆麻は生ひ茂りゐぬ

        ラトビア占領博物館(御製・平成19年)
   シベリアの凍てつく土地にとらはれし我が軍人もかく過しけむ

 ご即位の年に当る平成元年の11月にベルリンの壁が崩壊し、共産主義で世界制覇を目論んだソ連の壮大な夢は消滅しました。「より透明な世界」といふご表現に陛下の深いお喜びが表現されてゐます。10年を経て、平成12年1月の歌会始(お題「時」)の御製にこのときのことを回顧なさってゐます。しかし、共産主義は消滅したけれども、世界各地で絶えない紛争を直視され、深くお心を痛められ、世界の平和と繁栄を念願されてゐます。

   大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継ぎし時しも(御製・平成11年)

 天皇陛下と中国の習近平国家副主席との「特例」会見が12月15日、行はれたと伝へられました。これは陛下のご体調を考慮した一ヶ月ルールを無視した暴挙(一ヶ月前までに文書で正式に申請すべきを中国政府が要請したのは十一月下旬だったといふ)でありまして、天皇陛下を自分の訪中のために政治利用した、小沢一郎民主党幹事長の保身と強権の所業と言はれても仕方ありませんでした。これこそ正に憲法違反です。中国側がどうしても陛下との会見を望むのであれば、訪日を遅らせて要請してくるべきです。このやうに礼節を弁へない中国とのつきあひは今後朝野を挙げて厳に慎むべきであります。理不尽なことでも強く要求すれば日本は言ふままに動くといふこれまでの日中関係の歪みを今後は断固として払拭すべきでありませう。

 昭和天皇の御遺志をお継ぎになってゐる今上陛下もまた、憲法上の立憲君主のお立場をお守りになってゐて、今回、臣下の行った政治的保身のための暴挙、隣国への迎合といふ軽挙についても決して咎め立てをなさいません。それ故に臣下の務めは一層重いのです。まことに残念なことでした。

平成二年の即位の大典の日の国民の祝福を、穏やかな日差しと、国会議事堂を美しく茜色に染めていた美しい光景とともに思ひ出される陛下を仰ぐことの出来る国民は幸せです。

今日、我が国は様々な課題に直 面しています。このような中で、 人々が互いに絆を大切にし、叡智 を結集し、相携えて努力すること により、忍耐強く困難を克服して いけるよう切に願っています

 陛下のお言葉を拙いながらも今一度辿るうちに混迷を深めてゆく世の中にひとすぢの光を仰ぐ気持ちが致しました。この20年本当に私達は両陛下を支へたのであらうかと思ふとき、申し訳ない気持ちで一杯になりますが、陛下のお言葉を忘れずに生きたいと思ふものです。

(副理事長 元日商岩井 数へ69歳)

ページトップ  

 決して忘れることのできない夕べでした。

  皇居前広場へ向かう車中、まもなく発表させて頂く御祝いメッセージの原稿の最終確認に夢中だった私は、周囲の様子がまるで目に入っていませんでした。ようやく、会場に着き、その規模の大きさを目の当たりにして、いかに重要な祭典が行われようとしているのかを実感したのです。つい先程、国立劇場を舞台に政府要人および在日外交団等の出席のもと執り行われた記念式典に引き続き、これから、国民と奉祝委員会が一体となってお祝いする国民祭典が開かれようとしているのです。

 冷え込み、風があるにも関わらず、何故か穏やかな夕べでした。経団連会館での集合では、その周到に行き届いた準備に、まるでオリンピックの開会式前のような印象を受けました。また、こうした大規模な祝典を迎えられる日本国民の皆様のご様子にも興味が湧いてきました。

ステージ上、また広場に集まった方々一同に満ちた、圧倒されるような落ち着きと威厳。闇。冷たい空気。風。

そして、提灯の灯火と国旗小旗のはためく音。黒、紺の闇に浮かび上がる紅白の気高き色彩。

 ステージで発表される方々のお祝いメッセージに耳を傾けた後、森光子さんが天皇陛下の御生誕を祝して作曲された当時の歌を歌われるのをお聴きし、大きな喜びと感動に包まれました。天皇陛下の御生誕を覚えていらっしゃる、お年を召した中にも美しく、気品に満ちた小柄な大女優。

 国民祭典に際し、ポーランド人である私が、天皇陛下をはじめとする日本国民の皆様にお祝いを申し上げることができたこと、またポーランドの国名が大画面に映され、広く報道されることを心から誇らしく思いました。2002年に実現された天皇皇后両陛下によるポーランド公式御訪問は、両国にとって歴史的な意義を持つものでした。ご訪問中絶えることの無かった、両陛下を歓迎するポーランド国民の歓喜を思い起こし、一層喜びが増す思いでした。また、私の他にも、ポーランド人三名 -大使館職員、ドキュメンタリー映画監督、折りしも前日のポーランド独立記念日(11月11日)に著書の出版記念会を終えた日本・ポーランド関係史を専門とする日本学者-と共に出席させて頂きました事を幸せに思いました。

  陛下が公共の場で述べられるお言葉は、全て深い考察に満ちたものです。国民祭典で陛下が述べられるお言葉に耳を澄ましました。それは、我々外交団が、先程国立劇場での記念式典にてお聴きしたお言葉に内容的に近いものでした。この日、陛下は御即位されてからの20年間における苦難の時-国内の自然災害、また世界各地で絶えることの無い紛争に思いを馳せられ、日本が様々な問題に直面していること、また、陛下を支え続ける国民への心からの謝意を述べられました。また、陛下が御即位の年に起こったベルリンの壁崩壊について述べられた時に、歴史上の新たな時代が開かれた当時、平成、すなわち平和に成るという元号が、当時多くの民族に共有された潮流を象徴的に表していることに思い当たりました。中でも最も私の記憶に刻まれたのは、平和が何百万という尊い人命、先人の計り知れない苦労という犠牲の上に築かれたこと、決して歴史を忘れてはならないと訴える陛下のお言葉でした。無数の国旗小旗と紅白に彩られた提灯(ポーランドの国旗も赤と白です)が暗闇に揺らめく中、万歳の声が轟き渡ると、参列者の方々を見渡し、政治家は平和の中でこうした祭典を行うことのできる平和な世界を、二度と戦争に向かうことなく、一人一人が生きる喜びを感じることのできる世の中を目指し、全力を尽くさなければならないとの思いが涌いてきました。先の戦争における日本人犠牲者の数は、およそ310万人。提灯と国旗小旗を手に皇居前広場に集まった群衆の数は、およそ3万5千人。提灯の灯火の一つ一つが命だとすると、命の灯火の河。皇居前広場に集まった参列者の百倍の人々なんて、とても想像もつきません。先の戦争は、いかに多くの日

 本人の命の灯火を奪ったことでしょうか。ポーランド人として、他の考えは浮かびませんでした。戦地に散った白い灯火と紅い血のむなしさ。私たちが享受している平和の犠牲がいかに高いものであったか、そのことを私たちは絶えず意識しなければならないのではないでしょうか。その記憶が絶えることの無いように。紅白に揺れる提灯の灯火を眺めながら、そんな思いに耽っていました。

自らの国の歴史を理解し伝えていくことは、決して容易いことではありません。人間は本来、痛みを忘れていくものだからです。然しながら、自らと家族のために忘却と闘い、事実と向き合い、心で考察し、記憶と命を守り継いでいくことが必要なのです。陛下のお言葉の賢明さに心を打たれました。今日の世界では、地球温暖化、経済不況からの脱却、社会の高齢化等、現在または未来に関わる問題については、毎日のように取り上げられています。この度、陛下は過去の記憶を語られることで、平成の世が成熟期に入ったことを諭されたのだと理解致しました。成熟には、過去の記憶が欠かせないものであるからです。

国民祭典全体を振り返って、私の心に深く刻まれたことは、今必要とされる成熟への示唆です。20年という歳月は、赤ん坊が成人を迎え、自己に対し責任を負うようになる年月に相当します。責任とは、苦しい時に程求められるのです。冷ややかな秋の夜に響いたEXILEによる「太陽の国」の美しいメロディーとともに、この思いは今日も私の胸に蘇ってきます。

(『祖國と青年』12月号)- 仮名遣ひママ -

ページトップ  

    はじめに

 大学1年生の19歳の夏、阿蘇での第12回全国学生青年合宿教室に参加して、それまで心にかかってゐた暗雲が晴れ、鮮烈な感動を胸に刻んで家路に就いた。以後大学内でまた家で、周りの友に呼びかけては「合宿教室」の雰囲気を再現すべく輪読会を始めた。現在は、自宅の裏庭に建てた陋屋-梅鶯塾と呼ぶ-で輪読会をしてゐる。藤新成信学兄(日章工業(株)取締役社長)、桑木康宏学兄((株)ハウインターナショナル)の深大な協力を得て充実したものとなってゐる。

 そこで或る週の輪読会の模様の一端を記して、良き青年の育成が今日の急務であると痛感されてゐる全国各地の心ある方々へのメッセージとしたい。僭越ながら、先づは一人の学生・青年相手に輪読会を立ち上げようとされる方が出て来ることを願ふものである。幕末、吉田松陰先生が囚れて野山獄に身をおいてさへ学問研鑚に努めたことが長州藩の青年の心に火を点け、それが明治維新につながったのではなからうか。

     1 所感を述べ合ふ

 まづ1週間の出来事を内面の改心・大悟の観点から述べ合ふ。お互ひに発表者の話に耳を傾け心で受け止めるべく努める。新たに参加した学生にも先輩が率直に語りかけ、参加の動機や期待することを遠慮無く語ってもらふ。ここで全員が発言して、次に輪読に入る。

    2 テキストの最初は『孟子』

 テキストは『孟子』(岩波文庫)と『講孟箚記』(講談社学術文庫)である。それぞれ対応する一章を読むが、最初は『孟子』三十三章・尽心章句上である。

 

「王子塾問ひて曰く、士は何をか事とする(斉の國の王子である塾が尋ねた、「先生、学を修め道を行なふ人は何を心懸けたら良いのですか」)。孟子曰く、志を尚くす(孟子は「それは志を高尚にすることです」と答へられた)。曰く、何をか志を尚くすと謂ふ(「志を高尚にするとは、どういふことでせうか」と王子塾は尋ねかへした)曰く、仁義のみ。一にても罪なきものを殺すは仁にあらず(孟子は「いつも仁義に志しさへすればよい。例へば、ただの一人でも罪のない者を殺すのは仁ではない」)。其の有にあらずして之を取るは義にあらず(「自分の物でないのに奪ひ取るのは義ではない」)。居 悪くにか在る、仁是れなり(「常に身を置く所はどこかと云へば、それはただ仁である」)。路 悪くにか在る、義是れなり。(「常に踏み行く路はどれかと云へば、それはただ義である」)。仁に居り義に由れば、大人の事備はる(「このやうに常に仁に身を置き、義によって事をふみ行なふならば、それだけで大徳のある人物たる資格は充分に備はってゐる」と答へられた)。

    3 声を揃へて読み、意味を正確に取って、語り合ふ

 本文を声を揃へて全員で二度朗読した後、当られた者が、単に現代語訳を読むのではなく、自分の言葉で意味を取る。

 そして次の様な遣り取りとなる。

 司会の 鷲頭祥平 君(九工大大学院1年)が「『居 悪くにか在る、仁是れなり』とあるが、『仁是れなり』とはどういふ状態か。僕は自分が行って行く道は、義を下にして行動して行く、と捉へるが、権藤君はどうか」と口火を切る。 権藤直樹 君(九工大2年)「仁は内面的なものであり、義は外面的な行動として捉へる」。 伊藤健司 君(九工大4年)「仁と義は違ふものかな、といふ気がする。仁を理想とする根本的で高尚な価値観として、其れを下にして義を考へて行動せよ、といふのでせうか。もう少し読みを深めてはっきり掴みたい」。 桑木康宏 学兄(九工大OB)「仁のある人は私たちを包み込んで下さる人。義とは力強く、この方向に進んで行くのだ、といふ強い方向感を感ずる」…。

    自己の生き方と重ね合せて読む

 ここまででかなりの時間が経過した。皆の発言を黙って聞いてゐた 小西 圭 君(九工大1年)が「仁とは人としての在り方。義とは行動原理として解釈する」と発言。すると 大森淳史 君(九工大3年)が「仁には思ひやりのある暖かさを感ずる」、「誰の心の中にも仁は在るのだと気づかされる」と発言する。
かくして古典の言葉が読む者の心に深く融化され自己の生き方と関連付ける読み方を参加者は体験的に学ぶことになる。

 さらに 桑木康宏 学兄が「志を高くすると言へば、世間的には世界や人類に貢献するとかよく言はれるが、孟子は『仁義のみ』と言ひ切ってゐる。結局は自分の生き方の問題になる」と言ふと、 谷口耕平 君が(九工大4年)が「世間では良く『企業はお金を儲ければいい』と言ふが、ここには高い志がない。何が高い志かといへば、修身といふことが出発点であり最終点でもあるといふことに辿り着くのではないか」と発言する。

 昨年の合宿教室の運営委員長を務めた 池松伸典 学兄(若築建設(株)九州支店勤務)も参加してゐて、社会人経験を加味して「日頃、ビジネスの世界で生活に追はれてゐると、『仁』など関係ない、『何が仁であるか』と言ふ気持ちになる。余りにも高尚すぎると避けるのではなく、『仁義のみ』に近づいて行く気持を取り戻せた。大きな会社が何億何兆と稼ぐことができても『世のため人のため』に発する『仁義』を忘れてゐては其処に働く人の心は卑しくなり品がなくなると気付くべきだ」と語る。
輪読会は午後四時に始まって八時過ぎまで続く。毎度のことだが、この場に松陰先生が来られてゐるやうな感じさへして来る。

    5 『孟子』の次は『講孟箚記』

『孟子』を読んだ後、『講孟箚記』第32、3章に入る。
「この二章を熟読すれば平士の心得は知るべきのみ(第32、第33の2章を熟読するならば、平士の心得は会得できる)。-中略-頗る素餐に似たり(しかるに平士にあっては、まだこれといって定まった任務もなくまた農工商の仕事に当たるものでもなくまるで素餐-ただ食ひ-してゐるやうに見える)。然れども大いに然らず(それは全く違ふのである)。其の身は仁に居り(彼等の道は、仁を身の置き所とし)、其の行は義に由り(義を行動の基準とし)、其の君之を用ふれば、固よりその国をして安富尊栄ならしめ(君に用ひられるならば勿論その国を豊かにし)、又其の君用ひずと云へども、其の子弟是に従遊すれば、子は孝子となり、弟は悌弟と成り、人の交は忠信となるなり(用ひられなかったとしても、その国の青年が従学すれば、その青年、子としては孝行し、弟としては悌、人と交っては忠信となるといふところにある)。故に平士の職は一身の修治を本とし、一世の風俗を以て己が任となすべし(されば平士たるものは、自己の身を修めることを根本とし、一世の風俗を善導することをもって任務とせねばならない)。

    6 自分自身のこととして捉へる

 ここでもまづ2回全員で声を揃へて朗読して正確に意味を辿ってから、感じたことを語り合ふ。

 現代における「平士」とは一体誰のことかに皆の意識が向ふ。学生は親に学費を出してもらい「素餐」してゐるやうに見えるからである。そこでかつて、小林秀雄先生が合宿教室で言はれたこと-武士とは今の時代では社会に出る前の学生である-を思ひ出した、 藤新成信 学兄が次のやうに発言。「君達は今20歳代で勉強してゐるが、いつかは農工商いづれかの職業に就く。私達が世の中を『善導』しようとしてゐるがそれができ難い。平士として自らができないのでは世の中は『善導』できない。今は学生として勉強させてもらふことを何よりも大切にしてゐる。それに徹すれば自分自身も良くなって行けるやうな感じがいささかでもしてゐる。私にはかうして学生と勉強できることがこの上なく有難い」。

 いま我々は安穏に生活を送ってゐるが、これでは松陰先生に申し訳ないといふ気持ちが涌いて来る。「一世の風俗を善導することをもって任務とする」のは誰か他の人ではない。自分自身である。自らに厳しく突きつけるべき一節である。

    短歌を創作して終る

 右に記してきた参加者の発言はあくまで私が摘記したものであるが、いささかなりとも輪読会の様子をお伝へできただらうか。
感想を述べ合ふ中に自づと、政治や教育、社会情勢などが語られることもある。例へば、11月に来日したオバマ米大統領が実に鄭重に頭を下げ天皇陛下と握手する写真が新聞に載ってゐたが、陛下に慈悲深さが感じられて自然と頭が下がってと大統領は述べてゐる。なぜ陛下は一瞬の裡にそれを感じせしめたのか、また大統領はなぜさう感じ取ったのか。日本と米国の国柄の違ひについても語り合ふ。

 最後に今日の輪読箇所をもう一度一緒に声を出して読み、黙想をする。最初の朗読の時よりも声も揃って力強くなってゐる。輪読会が終ると、夕食の時間に移るが、それで終るのではない。それぞれが短歌を創作し、墨で記帳して感動を敷島の道に残すのである。ささやかな歩みではあるが一人一人が「国を支へる一本の柱となる」べく、友らと心を合はせ、今年も研鑚を続けて行く所存である。微力であるがそれが若き日からの学恩に応へる私の道であり使命であると自ら任じてゐる。

(福岡県立直方高校教諭 数へ63歳)

ページトップ  

 此の頃滅多に目にすることのない「少国民」とは、一体どんな日本人だったのか?この疑問に対する回答が本書の全篇に用意されてゐる。と言っても、著者が意識して解説した訳ではなく広範なテーマと切り結んだ著者の生き方・姿勢をたどれば、昭和一桁後半世代として未曾有の国難に必死で立ち向かった日本人像が自づと浮び上がって来る。

  「軍国少年」として神州不滅を信じて疑はなかった戦中の国民学校時代とは一変して、思春期を迎へた著者の戦後は大きな「戸惑い」から始った。価値観が百八十度転換し大人も子供も祖国への自信を喪失していく中、基地の町・佐世保の喧騒の巷で出会った若い二人連れの米兵に「戦後教育の成果で『戦争は良くない…死んだら犬死だ』と話し掛け」た著者は、「米国も私も、民主主義のため、正義のために戦っている」との反論に瞠目する。「自信と誇りに満ちた彼らの顔をみたとき、私達も五年前までは同じだった、と戦後の風潮と教育の『まやかし』を直感した」…この告白こそ、その後の著者の人生を決定づける瞬間だった。

 爾来、仕事に思索に「戦後の思想や教育の影響を受けることの少ない感性と物の見方・考え方」を「一匹狼で通しつつ」(ご本人の表現)、実際には幅広い経験を踏まへた「公と私」への考察が、本書を貫く基調をなしてゐる。ここでは特に、著者が非常勤講師を務めた短大での女子学生との対話に触れたい。

 「時事問題解説」講座を受け持った著者は、北朝鮮の拉致問題などと共にマスコミ報道のあり方、異文化理解の勘所、そして学生自身の躾の自覚等々、現代に生きる一人の日本人として世の中を他人事のやうに考へるなと迫って行く。ある日の授業で、出欠点呼中に教室に駆け込んで来た学生を著者が遅刻扱ひとし、それを巡って若き女子学生たちの本音の意見が交はされる。その宿題レポート集も本書に収録されてゐて大変興味深いが、「損得という価値基準は経済の原理をなすが、生活の原理ではない」と妥協を排し「人間関係の原理は各民族がそれぞれの歴史の中で育み受け継いできた伝統文化の中にこそ求めるべき」と毅然たる生き方のお手本を講師自らが身を以て示してゐるのである。

 ちょっと煙たい存在のこの硬骨講師が、学期の最後には学生たちから圧倒的な支持を受けたのは至極もっともなことであらう。著者もこれら「今時の若者」を評して「人間としての根ッ子は私達の若い頃とあまり変わらない」と暖かい眼差しを注ぎ続けてゐることに共感を覚える。

 圧巻は、兄と慕ひ続けた従兄稲田精秀さんの戦死の地・ニューギニアへの慰霊の旅で詠まれた22首の短歌。その一部をご紹介したい。

        ビスマーク海での洋上慰霊祭
    洋上に神酒注ぎつつ「お兄さん」と一声かくれば涙あふるる
    日の丸の小旗でくるみし花束を海に捧げつ御霊やすかれと

    「零戦」に憧れ生ひし我は今かつての根拠地ラバウルに立つ

 この旅行記の最後に「長年の夢であった南太平洋への慰霊の旅が実現できて、わたくしの『戦後』は終わった。今後は、日本から五千キロ離れたこの地まで兵力を展開し、米豪と対峙した民族のエネルギー、気概を取り戻すために何らかのお役に立てるやうに余生を送りたい」と記した著者の「高貴高齢」期の過ごし方から目が離せないのである。

(寺子屋モデル代表 山口秀範)

    編集後記

 一年余に渡り各都道府県で展開された御即位20年奉祝行事。その掉尾を飾る皇居前広場での国民祭典が盛会裡に挙行され国中に温風が漂ったと思ひきや、政府・与党の度外れた対中迎合によって列島は一気に暗雲に覆はれた。「教科書」「靖国」「閣僚発言」など、これまでも幾度となく内政干渉を受けてきたが、今回はこともあらうに訪日する副主席の陛下との会見を我が方の手順を無視して強要してきた。それだけなら不愉快極まるが彼の国らしいと最早驚かない。だが政府・与党はそれを受け容れたばかりか、その異例さに懸念を表明した宮内庁長官を与党幹事長は「一部局の一役人」とか「あいつ」呼ばはりし「内閣の決めたことに、どうかう言ふのなら辞表を出してから言へ」と嘯いたのである。謹みと節度を喪失した、「弱きを挫き、強きに阿る」低劣な漫言傲言であった。その直前、143人の与党議員を引き連れた幹事長訪中団を、北京のメディア関係者は「朝貢のように見えた」と強調した(日経紙)。いま一度言はう、「強きに阿り、弱きを挫く」。それは田夫野人でも恥べきこととされてゐる。

 さらに日替り弁当の如き首相の発言。常軌を逸した言葉の軽さ。麻生前首相の「揺れる」発言を揶揄嘲笑したはずのメディアは何故か鈍い。ここにも異様なダブル・スタンダードがある。

  良い年にしたいものだ。引続き本紙にお力を!

平成22年元旦 山内 健生

ページトップ