国民同胞巻頭言

第578号

執筆者 題名
坂本 太郎 なぜ「規範意識」「自律心」は稀薄化したのか
- “改正”教育基本法の方向を歪めてはならない -
寶邊 正久 吉田松陰先生殉節百五十年
松陰先生を憶ひ今を思ふ
岸本 弘 竹本忠雄著『皇后宮美智子さま 祈りの御歌』を読む
皇后さまの祈りと御歌
小柳 雄平 厚木合宿での体験発表と寶邊正久先生からお便り
  奉祝 天皇陛下御即位二十年
  奉祝 御即位二十年

 近年、青少年が加害者であったり被害者であったりするIT(情報技術)絡みの事件がしばしば報じられてゐる。例へば、携帯サイトのプロフで公園に呼び出された少年が集団暴行を受けて死亡した事件、半裸の画像を自分のプロフに掲載して女生徒が補導された事件とかである。また警察沙汰にはなってゐないものの、「学校裏サイト」なる掲示板に、名指しで悪口雑言を書き込むケースが後を絶たないとも言はれてゐる。

 かうした事件は、現代の所謂高度情報社会の影の部分であって、インターネットや携帯電話などの情報技術の発達なしにはあり得ないことだが、勿論それが原因の全てではない。要は、その技術を駆使する人間の側に問題があるといふことである。

 安倍内閣が取り組んだ教育関連三法の改正は、右のやうな社会情勢も念頭に置きながら、時代の変化に対応する新たな教育の基本を定めるといふものだった。改正教育基本法には、教育の「目標」として、「豊かな情操と道徳心を培ふこと」や「創造性を培ひ、自主及び自律の精神を養ふこと」などが記された。改正学校教育法では義務教育の目標が、「学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」云々と改められた。

 これらの法改正は「規範意識」と「自律心」の涵養を目指したものだが、最近の生徒の傾向として、例へば注意を受けた際、素直に自分の非を認める者は少なく、「どうして私だけ?どうして○○さんは叱らないんですか」といった言葉がすぐ返ってくることが多い。そこには規則やルールを守らなかった自分の行動を反省して「済みません」と恐縮するやうな態度は見られない。

  かうした「規範意識」と「自律心」の稀薄化はどこに起因してゐるのだらうか。教師の力量低下が原因であるとの報道もあって私には耳が痛いが、多くの教師は時間の許す限り、日夜目の前の児童生徒と向き合ってゐる。問題の多くは、児童生徒を見守ってゐるはずの親にあるのではないかと思ふことが度々である。私も二人の子供の親であるが、モンスターペアレンツとまではいかなくとも、個性尊重の名の下に我が子を甘やかし、義務や責任を忌避して権利だけを主張したがる保護者、我が子と教師は対等であると公言して憚らない保護者…。このやうな家庭で育った子供に「規範意識」や「自律心」が育つはずもなからう。その意味で、改正教育基本法に「家庭教育」の一項(第10条)が設けられたことは画期的なことだった。そこには「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」と記されてゐる。また、第13条には学校、家庭及び地域住民等の連携協力についても記されてゐる(教育基本法の改正の際、日教組が猛反対したことは周知のことだが、その日教組はこの度誕生した民主党政権のいはば「与党」であって、一連の教育改革の方向が歪められるとしたら問題である)。

 学校の本来的機能をより充実させるためにも、これまでは家庭で当り前のこととしてなされてきた「しつけ」を学校組織が担はなければならない現状はやはり改めるべきであらう。学校の役割は将来を担ふ子供達に知識を授け社会性を身につけさせてしっかりとした「国民」に育てるところにあるが、健全な家庭とそれらによって構成される地域と表裏することで稔りあるものとなるはずである。ただ教育の成果は一朝一夕で得られるものではなく、「学問は倦まず怠らず努めることが肝要」と本居宣長が「うひやまぶみ」の中に言ってゐるやうに、「倦まず怠らず」ねばり強く地道に取り組むことが何より大切だと改めて自戒してゐる。

(八代市立第八中学校教諭 数へ44歳)

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 安政6年(1859)松陰先生は老中間部詮勝要撃の策を藩政府に示した事に依り、既に野山獄に投ぜられてゐて、5月24日には身柄を江戸に移す(東送)の命が下る。その前日「家大人(父、杉百合之助)に別れ奉る」として詠まれた詩がある。

    平素趨庭、訓誨に違ふ、
    斯の行、獨り識る厳君を慰むるを。
    耳に存す、文政十年の詔、
    口に熟す、秋洲一首の文。
    小少より尊攘の志早く決す、
    蒼皇たる輿馬、情安んぞ紛せんや、
    温清剰し得て兄弟に留む、
    直ちに東天に向つて怪雲を掃はん。

 私が学生の頃(昭和16年前後)この詩を好んで書き誦してゐた友人がゐた。彼の傾倒ぶりに感じて私も以来この詩を忘れない。死を必至とする東行を控へて松陰先生が父君に別れを陳べる詩である

 30年といふわが生涯と今日のこと、すべて幼少以来、家大人の薫陶に由らざるはない。「小少より尊攘の志早く決す」。就中「文政10年の詔」と「秋洲一首の文(神国由来の一章)」。時の仁孝天皇は徳川11代将軍家斉に対し、内裏造営復興を嘉しまして太政大臣に任じ給ふ。その優渥な詔書を下されたのに、家斉は江戸に坐ながらにしてこれを受け、近臣をして御礼言上したのみであつた。松陰の父はその無道を嘆き、農事の傍ら幼い兄弟にこの詔書を誦読させたのであつた。慌しい拘引の門出に当つて、この御薫陶に養はれた初心を決して忘れませぬ、「情、安んぞ紛せんや」。父を思ひ兄を思ひつつ「東天に向ふ」と誦はれるのである。

 松陰先生は東送せられて七月伝馬町の獄に下る。10月20日、父・叔父・兄宛に永訣の書を認める。

  「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格する事出来申さず、非常の変に立到り申候。嘸々御愁傷も遊 ばさるべく拝察仕り候。
親思ふこゝろにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらむ
(中略)幕府は、正議は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を、跋扈致し候へども、神国未だ地に墜ち申さず、上に聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へ ば、天下の事も余り御力落し之れ なく候様、願ひ奉り候。
(後略)

 つづいて10月25日、26日(処刑前の2日間)にかけて「留魂録」と題する長文の遺書を書き残される。幕府の詐りの権謀によつて刑死に服する事情を叙し、続いて同志の士に対し切々と細々と心の裡を書き綴つたのである。中でも大道を天下に明白にし、天下の人心を一定させるため「京師に於て大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示す」べしと、その糸口だけでも開いてくれと同志の士に託すのである。

        かきつけ終りて後
    心なることの種々かき置きぬ思ひ残せることなかりけり
    七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
                               (五首のうち)

 10月27日(陽暦11月21日)10時から正午までの間に伝馬町獄で処刑せらる。
 (以下松陰年譜をなぞつて摘記する)尾寺新之丞、飯田正伯、桂小五郎、伊藤利輔等奔走して29日、小塚原回向院常行庵に葬る。四年後の文久3年(1863)高杉晋作、伊藤利輔、品川弥二郎、山尾庸三、白井小助、赤根武人等、墓を荏原郡若林村に移す。元治元年(1864)5月25日、山口明倫館に於て楠公祭を行ひ、村田清風・吉田松陰・来原良蔵等を従祀す。当日藩主及五卿御参拝。慶応元年(1865)10月25日馬関桜山招魂場に於て、高杉・山縣・伊藤等主となり松陰慰霊祭を行ふ。明治15年(1882)10月1日若林墓畔に松陰神社を建つ。事天聴に達し思召を以て金壱封を賜る。12月30日松陰の自賛肖像・留魂録・遺書2巻・鳳闕を拝し奉るの詩幅、天覧に達す。明治21年(1888)5月5日別格官幣社靖国神社に合祀せらる。翌22年2月11日、特旨を以て正四位を贈らる。明治40年(1907)10月30日松下村塾域内に松陰神社を創建す、県社に列せらる。

 松陰国難に殉ぜられて7年の後王政復古、明治維新成り、大日本帝国憲法制定、わが国は新時代の国家形成に向ふのであるが、やがて日清・日露戦争を戦つて勝利し、支那大陸の動乱に立ち向ひ、大東亜戦争を戦つて敗れ、今なほ戦後にある。そして今年平成21年(2009)松陰歿後150年を迎へた。ここに最近思つたこと一事を記したい。

        ◇

 昭和27年(1952)4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、わが国は独立を回復した。その時の昭和天皇のおほみうた。

        平和条約発効の日を迎へて  五首(うち二首)
    風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり
    国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに

 「風さゆる」のおことばに、独立喪失7年間の御実感が籠められてゐるかと拝せられる。「さゆる」のさ音に沁みる痛みの語感を拝する。「まちにまちし」と字余りに詠み進まれて「八重桜咲く春となりけり」、晴々とお慶びをお歌ひ遊ばされてゐる。私共は終戦御決断の折の御製を知つてゐる(昭和43年木下道雄元侍従次長によつて初めて公表された)。

    爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
                                    (ほか三首)

 ただただ「民の上をおもひ」「身はいかならむとも」と重大な御覚悟を以て戦争終結の御決断を示し給うたことを思ふ。

 昭和20年8月14日の御前会議で、国体問題(ポツダム宣言が意味する日本国の最終的形態)について阿南陸相等の疑義を聞こしめされた天皇陛下が申されたこと、(藤田尚徳侍従長の回想記に拠る)

- 「要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、この際先方の申し入れを受諾してよいと考へる」

 戦火が終り占領が始つた。陸海軍を解体し、帝国憲法を廃止し、神道指令を発し、国史教育を禁ずるなど、我が国歴史伝統の破壊が7年の長期にわたつて進められた。

 占領早々に占領権力によつて押し付け制定された新憲法について、陛下の御製がある(昭和22年)。

        新憲法施行
    うれしくも国の掟のさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな

 畏敬する今は亡き先輩加納祐五さんが述べられた文章を、少し長いが記す。

  「新憲法制定のことに当つて、その御心のうちに何一つかげりがおありにならなかつたとは、私には想像し難いが、昭和22年の、この御歌の晴朗のお調べには、そのやうなかげりのあと一つさへ、これをうかがふことができない。この御製については、かにかくに思ひめぐらすこと久しいものがあつたが、大和をおうたひになつたさきの二首の御歌-甘糟丘にて・丘にたち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ(昭和54年) 旅・遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく(昭和60年)-によつて、心が晴れるやうに思はれた。陛下の御心は、遠い祖法を思うての、それへのはるかに深い御信頼であり、御憧憬であり、またそれあつての御自恃の御精神であり、堪忍の御心だつたのではないだらうか」
                           (国文研叢書 『 Belief that と Belief in 』)

 昭和天皇がお護りなされたものは、皇家の伝統と言へるものであらう。大日本帝国憲法発布の勅語にある、天皇の御祖先と臣民の祖先が協力して、その御威徳と忠実勇武を以て遺された国家を、永く護つていかうといふ願ひであられたと思ふ。天皇陛下が身を捨ててお護り下さつた昭和・平成の日本である。それを思ふとき、ひそかに吉田松陰生涯の祈りを連れて思ふ。安政6年10月11日松陰江戸獄に在り、同じ獄に在る水戸の郷士堀江克之助宛書簡に言ふ。

 

天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。

        ◇

 戦ひ利あらずの予想と、必死の戦意を持ちながら多くの学徒が戦陣に加はつたのは昭和18年12月であつた。戦死の最後の模様がだんだん伝へられてきた知友だけでも十指に余る。後の人が、可哀想だ、不憫だとだけ思ふならそれは暗い。日本は立ち直ると信じたい。死んで国を守つてゐる多くの人が、靖国に祀られてゐるから。

(本会副会長 数へ88歳)

- 『真情』第67号(吉田松陰先生殉節百五十年特集)、平成21年9月27日発行 所載、仮名遣ひママ -

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 1、かぎりない抑制をこめて

 昨年の6、7月頃にこのご著書(編注・竹本先生による仏語訳の皇后陛下御歌についての反響を主に記したもの)を拝読して、「竹本忠雄先生へのお便り」と題する一文を草したことがあるが、その折、著者から鄭重なご返事をいただいた。そこには
 《向こうでの評価に、「セレニテ=静謐」という言葉が、皇后様のお人となりについても、いちばん多く聞かれるところでしたが、このことは根本的重要性をふくむものであるように感じております。マルローから聞かされたことでしたが、人類にとって二つの大事なものがある、一つは「救霊」で、これは彼岸における「静謐」、もう一つは「静謐」で、これは此岸における「救霊」である-というのでしたが、…いま、皇后様の御歌に導かれて、このような日本の至高価値をこよなく体現されたものが「セレニテ=静謐」である、これに世界がこれほど共感したのだと、明らかになってまいりました》と書き添へられてゐたのが今も心に残ってゐる。

 正しくこの『祈りの御歌』は、アンドレ・マルローとの親交を持った著者にして書き得た皇后御歌論に他ならないと思はれる。

 著者の書簡から思ひ当たるものの一つに、〈響く木霊-フランスから、ふたたび〉に紹介されてゐるドミニック・ヴェネール氏の言葉がある。ヴェネール氏は「かぎりない抑制をこめて」とも、また「つつましき情感をもって」とも言葉を添へて、

    被爆五十年広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして
    慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ
    海陸のいづへを知らず姿なきあまたの御霊国護るらむ

これらの皇后様の慰霊の御歌に、《嘆きなく、憾みなく、涙なし。 いや、涙は、われら読者の眼に溢れざるをえないのだ。一語一語の重み、わけても〈あまたの御霊 国護るらむ〉の喚起する感動に-》と、心からの共感を寄せてゐる。

 2、霊性(スピリテュアリテ)に今も生きるアフリカと日本

 また〈響く木霊-アフリカから〉では、皇后御歌撰集『セオト』を絶讃する、オディマーク・デュクロ氏のアンゴラでの講演録が引用されてゐるが、デュクロ氏が『セオト』の巻頭の一首

    てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて

に、《私は、その余りの純潔の輝きに涙が流れて、なかなか先へと読み進められませんでした》といふ書き出しが実に印象的であった。また

    窓開けつつ聞きゐるニュース南アなるアパルトヘイト法廃されしとぞ

の一首の御歌には《皇后陛下美智子様は、こんなにも苦しんだアフリカの人々のためによりよい未来を希望してくださる、自由と平和がいつまでも続くようにと祈っていてくださる、何というお心の寛さ、魂の偉大さかと、感激させられるほかはありませんでした》と語り、次の御歌

    時折に糸吐かずをり薄き繭の中なる蚕疲れしならむ

に、《ときどき糸を吐かなくなった蚕を、じっと視つめていらっしゃいます。そして、この蚕は疲れたのではないかしらと心配していらっしゃるのです。本当に、このように小さな生き物に対してまで、こんにち、いったい誰がこれほどの注意をはらったりするでしょうか》と語ったあとで、
 《ここ、アンゴラにおいても、口伝は、記述聖典と同格の厳しさをたもち、言葉は神聖とされてきました。…日本の和歌も、それが文字によって書き留められる以前、上古の昔に、すでに音によって歌われ…宮中で天皇の主催によって年頭に開かれる歌会始は、その生ける伝統の素晴らしい継承をあらわしているのです》と語り、いくつかのアフリカの歌や諺が紹介されてゐる。

 さらにデュクロ氏は、《…アフリカの賢者たちによれば、言葉は天与の賜物とされ、神そのものと同じく永遠であり、…私は、古来日本人が信じてきた「コトダマ」に、それが通じうるように思います。神々がそれを与えたがゆえに言葉には霊が宿り、霊が宿るがゆえにその言葉は成就されるという信仰が、日本の言霊です。一方、アフリカもまた、何よりも霊に重きを置く文明なのです》と語ってゐる。

 著者はこのことについて、《フランスからの反響も、たしかに奥深いものがありました。そこでも御歌のスピリテュアルな背景に対して畏敬が払われていました。ただ、ヨーロッパにおいては…そのような背景がもはや失われ、…それにひきかえ、アフリカではルーツがずっと生身で生きられてきた》と、両大陸の違ひを指摘をしてをられる。

 3、オトタチバナヒメと皇后さま

 著者が《本書の中心テキストとも言うべきもの》と位置づけてをられる第3部の〈ポエジーと祈り〉は、皇后様の国際児童図書評議会の世界大会における基調講演(平成10年・ニューデリー)から書き始められてゐる。周知のやうにこのビデオによるご講演では、幼い日に読まれた、ヤマトタケルノミコトのために自ら海中に身を投じたオトタチバナヒメの物語と、〈美しい別れの歌〉「さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」に触れて、皇后様は左のやうに述べてをられる。
 《「いけにえ」という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました》、《…しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは(…)愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います》。

 著者は、この皇后様のお言葉の彼方に見えてくるものを、《高貴にして、悲しい、そして美しい、本来の何物かが皇后様の御歌をとおして甦ったと、誰もが感じさせられたことでした。かくまでも、祈りに近いポエジーを筆先に染めて-》と書いてをられる。

 4、坂のぼりゆく

 〈坂のぼりゆく〉の小見出しのもとに引かれた四首の御歌(前掲「てのひらに君のせましし…」の御歌を含む)もまた、先に掲げた皇后様のお言葉を深く醸成してゆくかのやうな感を受ける。

    かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ

 それは著者も《「片への道」とは、いずこに向かう道だったのでしょうか》と書いてをられるやうに、何人も知るよしもないが、現に我々は、皇后美智子様を仰いでゐるといふ幸ひを思ふばかりである。そして次の一首は、皇后陛下御歌集『瀬音』の書名の引かれた御歌でもある。

    わが君のみ車にそふ秋川の瀬音を清みともなはれゆく

 このお歌が詠まれたのは昭和56年であるが、そのお気持ちは、御即位10年に当たってお述べになられた《人々の意思がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下のおそばで、私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たして行きたいと考えています》のお言葉に尽きてゐるやうに思はれる。

 そして次の一首は、昭和50年に、当時の皇太子殿下(今上陛下)の強いご意志によって、両殿下が沖縄をご訪問になられたときに詠まれた御歌である。

    いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく

 《妃殿下が皇太子殿下とともにハンセン病患者の島にお立ち寄りになり、病み崩れた手指を握られて、予定よりずっと長時間そこに留まられたとの報せが…》と、著者は書いてをられるが、ここでも皇后様の祈りが、一つの形となって見えてくる。

 5、年ごとに月の在りどを

 著者は、エピログ〈天上の時間〉で次の二首の御歌をかかげ、

    去年の星宿せる空に年明けて歳旦祭に君いでたまふ(昭和54年)
    年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて(平成19年)

二首の御歌の間にある30年といふ現象界の時間は、同時に〈天上の時間〉が詠みこまれてゐるとされて、あとの御歌を《お立ちになる皇后、その御目の届かない方へと歩みゆかれる天皇、そのかなたにそびえる古神殿…と直列をなし、またそのはるかかなたの空に、一点、耿として月は輝き、…別の時系列のなかをゆっくりと通りすぎてゆくのです》と描写してゆかれる。

 この御歌とともに、〈ポエジーと祈り〉の中に《…今上天皇が、非常なる厳正をもって…神事を遂行されることは、知る人ぞ知るとおりです。その御姿を崇めて皇后様は、こうお詠いになっておられます》として掲げられた次の一首も、併せて拝誦したい御歌である。

    神まつる昔の手ぶり守らむと旬祭に発たす君をかしこむ

 来る11月12日は天皇陛下御即位20周年の記念すべき日に当たるが、〈大御歌の返照〉としての皇后様の御歌を仰ぎつつ、両陛下と共にある幸ひを思ふのである。

(皇后陛下お誕生日・10月20日記)
(元富山県立高校教員 数へ65歳)

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 今年の夏、神奈川県厚木市で開催された「第54回全国学生青年合宿教室」では、「体験発表」をせよとのことでしたので、建築業といふ「かたち」をつくりだす仕事に携はって四年目を迎へてゐる現在ですが、その生活の中で、心の支へとなってゐるいくつかの言葉を紹介しながら、拙い発表をさせていただきました。

    体験発表の内容
  石ばしる垂水の上のさわらびのもえ出づる春になりにけるかも

 志貴皇子のこのお歌のやうに清々しく誰が見ても美しいと感じて頂ける設計をしたいものだと日頃から思ってゐますので、先づそのことをお話しました。その際、皇子のお歌を朗詠いたしました。次にインドの詩人タゴールが岡倉天心に語った「全ての民族はその民族自身を世界に現す義務を持ってゐます。…民族は彼等の中の最上のものを提出しなければなりません」といふ言葉に、住宅の設計・施工もこのやうな覚悟のうへで行ふものものなんだと気づかされたことを語りました。

 また正岡子規の「…たとひ漢語の詩を作るとも、洋語の詩を作るとも、将たサンスクリットの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候」といふ言葉からは、外国産の石を使用しようが鉄筋コンクリートの住宅だらうが、われわれ日本人の民族のいのちともいふべき日本文化、日本の精神を大事にして、真心を込めて取り組むならば「日本の家」となるのだと思ったことをお話しました。

 仕事をするといふことは日本人として日本民族の精神を表現することにほかならないと思ってゐますので、その義務に真心をもって素直におほらかに取り組んで行きたいといふ思ひを語りました。

 日々、上司から教はってゐることも多々あります。心の表現でもある仕事に取り組むには、事前に頭と心の中を整へておくこと、「心が整理されてゐないと、物事に気付かない」と教へられたことなどについてもお話しましたし、仕事をして行く中で、時には気分が乗らなかったりすることがありますが、それを察したのか父から届いたメールに涙がこみ上げてきたこともお話しました。

 父からのメールに記されてゐたのは明治天皇の御製でした。

    いかならむことあるときもうつせみの人の心よゆたかならなむ

 このお歌のみ調べに、父のあたたかい気持ちが感じられ心配をかけたことを恥ぢ入りましたが、このときほどこの御製が厳しくも有難いと思ったことはありませんでした。あっといふ間に気持ちが晴れて行ったのです。その得難い体験をお話しました。天皇の深遠なる大御心に統べられる国民としての喜びを痛感したことをお話しました。

 さらに
    はしけやし吾家の方よ雲居起ち来も

といふ倭建命の「国思歌」のお歌に、家族、故郷、友人、さらに悠久の日本の歴史の大きな一筋の線の中に生かされてゐる自分自身を実感したことも語りました。

 寶邊正久先生からのお葉書

 後日、下関市にお住ひの寶邊正久先生から大変有難いお葉書を頂きました。先生は私の拙い発表をテープでお聞きになったといふことでした。

 

「一筆申し上げます。岸本兄から、同兄と貴兄の七沢テープを送って もらって聞きました。
若き子が言ひしことばに聞きほれてをぢが泣くとぞ歌にとどめむ
なつかしき声と思ひぬその父と祖父のいのちを継ぎしいのちか
口早に歌ひし志貴の皇子の歌みおやの神のうつくしきうた
密林の戦死者思ひぬ「はしけやし」と夢に仰ぎて失せしをのこら
「はしけやしわぎへのかたよ」と君いへばしみて思ほゆ亡き友亡きひと
『いのちささげて』のうたびと、近藤正人、吉田昇、吉田房雄、加藤信克、手塚、一條、米重ら陸軍はみんな密林で戦死してゐる。よく読んでごらん。ありがたうございました。
伊佐さんにもよろしく」

といふ内容でした。

 寶邊先生にとっての「はしけやし吾家の方よ雲居起ち来も」のお歌は、まさしく戦争で亡くなったご友人の方々と直結してをり、先生から葉書を頂くまでの私には想像だにしなかったことでした。

 勇ましく祖国の為に戦陣に向ふ心情を表した言葉、ふるさとにいます家族の身の上を偲ぶ和歌、友との貴い交流を喜びその友に呼びかける手紙、美しい海や山などの景色を愛でる歌、などが『いのちささげて』『続 いのちささげて』(国文研叢書)に収録されてゐますが、英霊の残されたみ言葉は、惜しむことなく心を表現したものの数々であり、それらに一貫してゐるのは、まごころをありのままに表現された国語の芸術表現の真髄である「敷島の道」にほかならないと思ひます。

  悠久の祖国につながる体験

 一条浩通命の残された書翰の中に記されてある「最後まで、此の世に一語にても多き生ある言葉を遺し給へ」といふ言葉は、まさに倭建命の最期を偲ばされるものであり、先輩方が生きるしるしにと遺された言葉や和歌の数々は、倭建命の精神に結ばれてゐると感じられてなりませんでした。

 『いのちささげて』を改めて読み返して、「はしけやし」のお歌を拝誦し、我が祖国日本のために散華された御霊を偲びますと、胸に迫り来るものを禁じ得ません。遥かなる歴史の中に、家族、故郷、祖国を守ってきた祖先たちの精神、英霊を祀る慰霊の心がまさに「起ち来」る雲のやうに集積して、我が祖国を守ってくださってゐるといふことを確信いたします。そして、遥かなる昔から受け継がれてきた日本の文化、精神の絶対防護の責務が我々にあるとの念が沸き起って参ります。

  『続 いのちささげて』に収録されてゐる近藤正人命の論文の中に「人間生活が本質的に精神生活といはれる点は、不断にコトバの新しき体験をかさねると共に自ら新しきコトバを生んでいく点にある」とあります。寶邊先生からのお便りによって、これまで私の中にあった「はしけやし吾家の方よ雲居起ち来も」のお歌は、「新しき体験をかさね」、それまでは私個人の所産であり価値であったものが、諸先輩方がこのお歌に見出してゐた価値に共感することになったのです。そして悠久の祖国につながる精神的な体験をすることができたのです。

 古典から日本民族の精神、日本人の言葉の経験を学び、その言葉と実体験を照らし合はせて同信活動の中でその言葉を練磨する。そして日本人としてのそれぞれの生を精一杯、言葉によって表現することが、悠久の歴史の裡にある今の日本に生きてゐる我々の国家生活を送る上での義務であると思はれます。

(伊佐ホームズ(株) 数へ29歳)

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御即位奉祝歌-平成の御代をたたえん

作詞 清水 利
作曲 黛 敏郎

一、 ふり仰ぐ
国めぐる
新しき
ああ 平成の
よろこびは
われら いま
空すみわたり
八重の潮路は
望みを はこぶ
御代を ことほぐ
ちまたに みちて
ともに たたえん

二、 いざ若き
うるわしの
こぞりたつ
ああ 平成の
はらからと
われら いま
声こだまして
山河さやかに
命は 萌ぬ
宮居かがやき
ひとしくあゆむ
きみを たたえん

三、 ほの薫る
とつくにと
君が代は
ああ平成の
しあわせを
われら いま
花ひらくごと
よしみ深まり
栄えにさかゆ
世紀あまねく
わかちて うたう
とわに たたえん


平成2年、当時の奉祝記念事業として歌詞が公募され、集った作品の中から黛敏郎氏が曲をつけ御即位奉祝式典にて発表された。昨平成20年12月19日、東京ドームシティ・JCBホールで挙行された「天皇陛下御即位20年奉祝中央式典」(主催・天皇陛下御即位20年奉祝委員会 天皇陛下御即位20年奉祝国会議員連盟)でもテノール歌手秋川雅史氏によって歌唱された。

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「国民祭典」での天皇陛下のお言葉

 即位20年にあたり、ここに集まられた皆さんの祝意に深く感謝します。即位以来、20年の月日がたったことに深い感慨を覚えます。 この間には、日本で、また世界で、さまざまなことが起こりました。日本は高齢化の進展と厳しい経済状況の中にあり、皆さんもさまざまな心配や苦労もあることと察しています。

 日本人が戦後の荒廃から非常に努力をして、今日を築いてきたことに思いを致し、今後、皆が協力して力を尽くし、良い社会を築いていくことを願っています。

 きのうの激しい雨に、きょうの天候を心配していましたが、幸いに天気になり、安堵しました。しかし、少し冷え込み、皆さんには寒くはなかったでしょうか。本当に楽しいひとときでした。どうもありがとう。

(産経新聞 10 月 13 日付)

 11月12日午後、政府主催の「天皇陛下御在位20年記念式典」は、両陛下のご臨席のもと、立法・行政・司法関係者など約千人が参列して国立劇場で挙行された。同日夕刻には御即位20年奉祝委員会・御即位20年奉祝国会議員連盟主催の「天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典」が、皇居前広場で開催され、世代を超えた約3万人が参会した。各界代表の挨拶や奉祝演奏が行はれ、午後6時半過ぎに、両陛下が二重橋にお出ましになり提灯を振られると参会者も一斉に日の丸の小旗、提灯を振ってお応へ申し上げた。

     御即位二十年奉祝の「国民祭典」にて
             
千葉県柏市 澤部 壽孫

 11月12日、皇居前広場にて開催された「天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典」のお世話の一端を国文研より左記の20名が、朝10時から午後8時半までつとむる。(順不同、敬称略)

  磯貝保博、稲津利比古、今村宏明、奥冨修一、加藤千恵、
  亀澤矢汐、国武忠彦、北浜 道、小柳辰介、最知浩一、
  坂本芳明、濱口和久、原川猛雄、平槙明人、高橋俊太郎、
  北条瑞穂、広島秀明、山内裕子、澤部壽孫、(夕刻から)飯島隆史

        参会者に座席表を手渡す

  激しかりし雨去りし今日大君の御即位二十年を言祝ぎまつる
  北風の強き日なれど集ひ来る人等の笑顔に心も温む

        国民祭典

  風寒き霜月の夜にかしこくもすめらみことの出でましにけり
  夜の闇を照らすライトの彼方なる二重橋の上かすかに見ゆる
  大君と皇后宮の御姿を仰ぎまつりぬ大型スクリーンに
  両陛下御目を合せつ笑みたまふみ顔美しく仰ぎまつりぬ
  欄干にみ手を添つつ奉祝歌「太陽の国」に聴き入り給ふ
  ローソクを灯し打ち振る提灯と日の丸うねる大波のごと
  天地を揺るがすごとくとよもせりみ民こぞりて歌ふ「君が代」
  真清水の砂に沁むがにみ言葉の心に響き胸熱くなる
  麻のごと乱れゆく世にただ一人み国を守りつとめ給ひぬ
  幾たびも立ち止まりつつみ手振らすみ姿くもる熱き涙に
  み姿は既に見えずも果つるなく続くみ民の聖壽万歳
  清らなる気高きみ姿仰ぎ得し今宵の幸を何に例へむ
  終了後、東京駅近くのレストランにて酌む
  美しく得がたき今日の経験をこもごも語る秋の一夜に
  行く道に何起るとも大君のみ心偲び友らと生きむ

    澤部壽孫先輩のお歌に和しつつ
          富山県小矢部市 岸本 弘

  先輩の歌読みゆくほどに宮城に集ひしひと日よみがへりくる
  一人だに会はざる友らいかほどに寒さにたへてつとめましけむ
  思はざるところを得たり二重橋真直ぐに仰ぐ席に侍りて
  雨降らぬは何よりと思へど暮れゆくに都べの風は身を切るごとし
  心して風も吹けよとお出ましの刻近づけば心たかぶる
  万余の小旗うちふる音につつまれて提灯を振る我を忘れて
  寒きゆゑ出でざる声を押し出し声のかぎりに「君が代」唱ふ
  「萬歳」を唱ふるうれし大君と皇后宮を今仰ぎつつ

        ○

  あたたかき居酒屋に囲み県人互みに今日の幸を語れり

天皇皇后両陛下は御即位20年に当り、11月13日宮中茶会を催され、本会の小田村四郎会長、上村和男理事長もお招きに預かった。


編集後記

鳩山内閣誕生から3ヶ月。不確かな政権運営が続く中での御即位20年式典。所謂政党政治なるものが歴史的な国柄に依拠してゐる実相が浮上する。奉祝は奉謝であらう。 (山内)

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