国民同胞巻頭言

第577号

執筆者 題名
磯貝 保博 歴史的な統治理念に基づく政治を
- 「憲法拾七條」を正面から見据ゑよ -
井尻 千男 季刊『新日本学』秋号から
「国民政党」という理想を再構築せよ
布瀬 雅義 国柄に根ざした人権思想を!
人民といふ「大御宝」が平和に安寧に暮せる国を作る、それが建国の理想だった
本田 格 美化語は本当に敬語なのか(下)
新刊紹介
小野吉宣著 『英訳 明治天皇御集』を読み解く 第三巻
- 大学生たちとの研鑽の記録 -

 鳩山由紀夫民主党内閣が発足して1ヶ月余りが過ぎた。マニフェスト(政権公約)の実現に向けて民主党の唱へる政治主導のもとで予算編成がなされつつある。国民の暮しに直接関はる事柄だけに「マニフェスト違反だ、変更だ、前進だ」などとマスコミ報道は喧しいが、予算規模は膨張し赤字国債の増発が予想される。

 問題はむしろ別にある。今はかうした経済政策論議の陰に隠れてゐるが、インド洋における給油活動からの「撤収」といった外交問題や教員免許更新制の「見直し」といった教育制度の問題だけでなく、人権擁護法・夫婦別姓・外国人参政権・靖国神社代替の追悼施設・憲法改正・皇位継承といふ国のあり方の基本に関はる事柄である。これらは国民心理の帰趨にも影響するところ大であるが、そもそも民主党は日本をどのやうな国にしようとしてゐるのか、マニフェストを見る限りでは曖昧だったし、政権がスタートした今も不明である。

  これからの日本のあり方を描くには、当然のことながら日本の歴史や文化・国柄等について、しっかりとした認識を持たなければならないが、はたして民主党には、取り分け鳩山首相にはさうした認識があるのだらうか。“友愛”などといふ言葉を内外に振りまいてゐるやうではさうした認識があるやうには見えない。

 国民の生命財産を守るのは政治の要諦であるが、その根底に何があるのか。日本の政治は歴史的にどの様な考へ方で、どの様なことを大切にしてきたのかを、政権交代の今、あらためて振り返ってみる必要があると思ふのである。

 先日、「聖徳太子になぜ魅かれるのか」とのテーマで、法隆寺の大野玄妙管長をはじめ聖徳太子研究者達によるシンポジュームが斑鳩文化協議会主催のもとに開催された。その中で基調講演をされた上田正昭氏(京都大学名誉教授・アジア史学会会長)が「政治家たる人は聖徳太子の業績を学び、勉強しなければならない。さうすれば日本の政治はしっかりしたものになる」と言はれたことが強く印象に残った。

 あらためて黒上正一郎先生の御著書『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を拝読してみると、その中で「憲法拾七條」に込められた太子の政治指導理念を黒上先生は次のやうに記されてゐる。

 太子が憲法第一條に「和を以て貴しと爲し、忤ふことなきを宗と爲す」と示させたまひたるは、国家統治の根本精神は上下の融合、国民の協力にあることを宣ひしものである。(中略)太子が憲法第拾條に「共に是これ凡夫」と示されし如き深刻の人生観を以て其の心理を洞察し給ひ、之を同胞協力に導くべき精神原理を開示されたるものは正しく憲法の「和」の思想であつた。太子に於いてはこの上下和睦の思想は常に 皇室の下、萬民一體の国家精神に基かれたものである。

 さらに「即ち政治の根本は人の心を治めることであるとは常に太子の御精神の存するところである」とも述べてをられる。

 氏族の専横、仏教の受容、任那日本府の再興など内治外交にまたがる難問をかかへる中、摂政の大任を担はれた聖徳太子は、自らの御体験を基に「憲法拾七條」を以て政治の要諦を示された。その後、律令政治から所謂貴族政治、武家政権へと変遷しつつも「憲法拾七條」に見られる太子の御精神は常に日本の政治原理の中核をなし、明治の帝国憲法で再び蘇ったのである。しかしながら、昭和の敗戦と占領政策による戦後体制下にあっては聖徳太子の御事蹟や「憲法拾七條」が示す政治理念が正面から見据ゑられることはなく、目先の党利党略が優先して「人の心の有り様」は蔑ろにされてきた。

 今こそ与野党とも、先人が奉じてきた「政治の根本精神」を真摯に振り返って、今後の国政に生かして行ってほしいものである。

(本会副理事長 元講談社 数へ 66 歳)

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  今回の総選挙における自民党の大敗北は、小選挙区制の恐ろしさをまざまざと見せつけるものだった。自民党の公示前議席 300 が 190 席に激減し、民主党のそれが 115 から 308 議席に激増した。かつて小選挙区制は憲法改正に必要な 3 分の 2 議席を獲得するための手段として、保守合同になった初期のころから議論されたものだった。それがいつのまにか政権交代可能な二大政党論のための小選挙区制に変質してしまった。英国のように、米国のように、わが国もというわけである。

 この二大政党論は明らかにアングロアメリカンの模倣である。いうまでもなく英国は伝統的な階級社会であり、米国は荒々しいまでの優勝劣敗の競争社会である。そのような社会構造があって二大政党論が誕生し二つの政党が政権獲得を目ざして競い合ってきた。そしてたまたま 1980 年代にレーガン米大統領とサッチャー英首相という優れたリーダーが登場して大胆なる構造改革をそれぞれの国で実践し、かつ冷戦という戦いに果敢に挑んで旧ソ連邦を窮地に追い込んだ。そのあざやかな指導者ぶりに、わが国の保守系の政治家と知識人が魅入られたことは間違いなく、彼らはアングロアメリカン流の政治学と経済学をわが国に導入すべしと考えるようになった。政治における二大政党論と小選挙区制、経済における市場原理主義と構造改革がそれだった。

 このときから急速に無自覚的に自民党の変質が始まったのである。自民党は昭和 30 年( 1955 年)の立党時に、党の性格について次のように宣言していた。

 「わが党は国民政党である。我が党は、特定の階級、階層のみの利益を代表し、国内分裂を招く階級政党ではなく、信義と同胞愛に立って、国民全般の利益と幸福のために奉仕し、国民大衆とともに民族の繁栄をもたらそうとする政党である」と謳っている。この「国民政党」という理念には明らかに近代日本の苦悩のあとにたどりついた理想が宿っている。アングロアメリカンに倣って失敗した大正時代の教訓もたっぷり含まれている。昭和維新運動期から始まる国体論と皇国経済学の名残を読み取ることもできる。つまり「国民政党」という一語には、わが国固有の歴史がたっぷり込められているのであって、断じて他国の模倣ではないということが肝要なのである。このことを世代論でいえば、戦前に青春時代を過ごし、大東亜戦争を戦い、幸運にも生き残った世代が、敗戦直後の左翼勢力と戦いつつ「国民政党」という一語に、わが国の理想を託したということになる。

  この「国民政党」という旗を高く掲げた自民党が、何故あって米国や英国の「二大政党論」に屈してしまったのか、何故あって「市場原理主義」などという野蛮に屈してしまったのか。自民党大敗の起因はそこにある。レーガン米大統領とサッチャー英首相を構造改革の英雄の如くに評価した保守系知識人の罪も大きいといわねばならない。権力の腐敗と政権交代をいい募ったジャーナリズムも軽率だったが、それ以上に自民党自身が「国民政党」たる理念と、そこに込められているわが国固有の国柄と理想というものを忘却してしまったことが決定的なことだったといわねばならない。

 自民党もまた次世代の教育に失敗したのである。その結果として「国民政党」としての自民党の支持基盤をほとんどすべて棄損してしまったのである。文明論のレベルでいえば、再びアングロアメリカンに屈したといわねばならない。したがって「国民政党」の再建のためには政治学はもとより歴史観の再構築など、経済学を超える高い次元の諸学問の総動員が不可欠である。日暮れて道遠しといえども、その一歩をいま踏み出さねばならない。(仮名遣ひママ)

季刊『新日本学』平成21年秋号(拓殖大学日本文化研究所)巻頭言
(拓殖大学日本文化研究所顧問) - 本会顧問 -

井尻千男責任編集

季刊『新日本学』 拓殖大学日本文化研究所発売 展転社
平成21年秋号(通巻第38号)

- 目次から -
○対談『古寺巡礼』を巡って(皇国少年、左翼的詩人、経営者、そして日本への回帰)辻井喬 井尻千男
○日本の道統(5) 小堀桂一郎
○日本神話の世界性 田中英道
○「保守政治」再定義の胎動(中) 〈幻像の戦後政治史10〉 遠藤浩一
○明智光秀(13) - 「本能寺」以後 井尻千男

購読料 税・送料込み年間 4,000円

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 「人権を讃へる人たちに主人の人権は奪はれました」

 やや旧聞に属するが、平成13年6月8日朝、大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に刃物を持った男が乱入して、8人の児童が刺し殺されるといふ痛ましい事件が発生した。逮捕された宅間守容疑者は、その後、弁護団との間で一風、変ったひと悶着を起した。

 事件を後悔した宅間容疑者は、「何の関係もない子供たちを殺したことを本当に心から反省している。事件のすべてを認め、責任を取るつもりで死刑を覚悟している」旨を述べた。そして弁護士を通じて遺族に気持ちを伝へようとしたのだが、それを弁護士に遮られことで、弁護士の解任届けを出したのだった。その供述の要旨は次のやうに報道されてゐる(平成13年6月24日付、産経)。

  私は一時、精神障害を装って責任を逃れようとか、警察の追及を逃れようとかしましたが、その後は考えを改め、事件のことを正直に話し精神障害を装った理由などを説明してきました。事件のすべてを認め、自分の責任をとる腹づもりで死刑を受ける覚悟です。
    その覚悟は弁護士に何度も伝えていたのですが、まったく通じませんでした。一昨日(21日)、中西哲也弁護士が面会に来たときに「亡くなった子供たちに対する謝罪の気持ちを取調官に話しました」と伝えました。きのう(22日)の午前中、岡本栄市弁護士が「謝罪文を書いたのか」と聞いてきたので自分の気持ちを素直に伝えました。
   しかし弁護士は「違うだろう。警察に無理やり書かされたんだろう。君の意思じゃないだろう」と自分の気持ちを否定するのです。私は弁護士を通じて遺族に気持ちを伝えてもらいたかったのに「警察に無理やり書かされたのだろう」と私の感情を逆なでにしたのです。
 

 私は何の関係もない小学生を殺したことを本当に心から反省して死刑台に上がるつもりです。命ごいをする気はないのに、その意向に反して弁護するのなら、弁護士を解任するしかなかったのです。

現代人権思想の暴走・迷走

  これらの弁護士は、容疑者が反省するのはすべて警察の無理強いによるものであり、それを糾弾して何がなんでも容疑者を無罪にすることが、自分の仕事だと思ってゐるやうだ。我々の良識から考へると、かうした姿勢にはどうにも納得できない。もちろん「容疑者の人権」を守ることは弁護士の職務ではあらうが、容疑者の反省の念までも「逆撫で」して、黒を白と言ひくるめて犯罪者を無罪に持ち込もうとするのは、弁護士として以前に、人間としての良識を疑はざるを得ない。殺された子供たちのことをどう思ってゐるのか。その親たちの果しない悲しみと苦しみをどう思ってゐるのか。「容疑者の人権」にばかり目を向けたがる弁護士の言動には、自分自身の感情を「逆撫で」にされたやうな不快感を覚える国民も多いのではなからうか。

  国民の多くはかうした人々の叫ぶ「人権」といふ言葉に、いかがはしさを感じてゐる筈だ。「人権」とは、一人一人の人間を大切にすることであるといふ素朴な気持ちに則して考へれば、人権の尊重は国家の理想ともなるべき重要な事柄である。ところが一部の人々に占有され恣意的に使はれるため、どこかいかがはしいものとなってゐる。

 弁護士だけでなく、教育の場やマスコミでも、独善的な主張が人権の名の下で罷り通ってゐる。かうした一部の人々から「人権」といふ言葉を取り戻し、我々自身の良識の上に据ゑ直す必要がある。ところが政界でも民主党政権の登場で「人権救済」の名の下で逆に国民の自由闊達なる言動を縛りかねない人権擁護法案成立の可能性が高まってゐる。

  これまでは、衆院多数派の自民党執行部は法案を通さうとしたが、党内の良識派議員の強力なブレーキで党議決定が阻まれ国会提出が見送られてきた。しかし総選挙の結果、旧社会党議員を多く抱へる民主党が衆院を制してゐる。既に参院は二年前から民主党が第一党であり、自民党にも同調者が少なからずゐる。

フランス革命と「人権宣言」

 現代の「人権」論者たちが理想としてゐるのは、人権宣言を発したフランス革命にあるやうだが、実はこの革命は200万人の犠牲者を出してゐる。特に革命政府はカトリック教会を弾圧しルイ16 世幽閉に反対して立ち上がったフランス西部ヴェンデ地方では農民が徹底的に掃討されて、40万人もの虐殺が行はれた。都市部ではギロチンによる斬首刑が毎日執行され、犠牲となったのは貴族よりも職人や小商店主の方が多く、狂信といふより惰性から処刑が行はれたと言はれる。

  フランスはその後、80年もの間、振り子のやうに共和制と王政・帝政を繰り返す迷走を続けた。対外的にもナポレオンがヨーロッパ中を巻き込んだ大規模な戦争を引き起し、フランス国民は徴兵制で駆り出されてゐる。その結果から見れば、「人権宣言」が当時のフランスの人権尊重につながったとは、とても言へない。

イギリスの「臣民の権利」

  フランス革命と好対照をなすのが、そのほぼ百年前の1688年にイギリスで起った名誉革命である。当時の国王ジェームズ2世は旧教復活政策に反対する7人の主教を投獄し、裁判にかけた。この専制支配を覆さうと議会が立ち上り、王の長女で、かつ新教徒であるメアリーの夫、オレンジ公ウィリアムにオランダから兵を率ゐて来英するやう招請した。13,000の兵を率ゐてイギリスに上陸したオレンジ公に国内の貴族も次々と呼応し、結局ジェームス二世はフランスに亡命。オレンジ公は議会の出した「権利宣言」を認めた上で、ウイリアム三世として、妻メアリーと共同で王位についた。これを「名誉革命」と呼ぶのは流血を見ない革命であったからである。

  この権利宣言が「権利章典」として立法化されたわけだが、その正式名は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」と言ふ。この歴史と国柄に根ざした「臣民の権利」を基盤に、英国は安定的な民主主義を築き上げ、大英帝国として繁栄を続けて行くことになる。

「根っこ」型アプローチと「造花」型アプローチ

 共同体の歴史と文化に根ざして、衆知を集めながら「国民の権利」としての人権を育てていくイギリスの「根っこ」型アプローチは社会の安定と繁栄につながり、根っこを断絶して抽象的理想としての人権を無理に植ゑ付けようとするフランスの「造花」型アプローチは、反対者の大規模粛清へと暴走して人権弾圧に終るといふ政治的仮説が成り立つと思ふ。

 例へば、広島の高校で、国旗国歌を卒業式に導入しようとした校長が、教員組合や解放同盟による連日のつるし上げでつひには自殺に追ひ込まれた事件があった。校長夫人は「人権を讃へる人たちに主人の人権は奪はれました。」と語ってゐたが、これはまさしくフランス革命と同様の「造花」型アプローチの徴候である。

 冒頭で紹介した「人権」派弁護士の頭には、犠牲となった子供たちの人権への配慮はこれっぽっちもないやうだし、罪を悔い改めようとする容疑者の心をも無視してゐる。かういふ姿勢にも、社会の伝統的な良識と断絶した「造花」型アプローチが見てとれる。現代日本の人権思想のいかがはしさは、自国の歴史伝統を否定し、外国製の造花を無理やり植ゑ付けようとする所から来てゐる。

人民の安寧を願った神武建国

 それではわが国の歴史伝統には人権思想の「根っこ」になるやうなものが見つかるだらうか。

 まづ初代・神武天皇が発せられた建国の詔には、人民を「大御宝」と呼び、「八紘一宇」(あめのしたのすべての人々が家族として一つ屋根の下に住む)が理想として掲げられてゐる。即ち、わが国は、この国土に住む人民が平和に安寧に暮すことを目的として建国されたといふことである。わが国の建国宣言には人権を尊ぶ考へが前提となってゐる。

 神武建国を伝へる『日本書紀』の記述だけではなく、最近の考古学の発見からも日本列島の先史時代が平和で豊かな平等社会であった事が実証されつつある。

  約5,500年前から1,500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡では高さ10メートル以上、長さ最大32メートルもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培された栗が生ひ茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せた翡翠に穴をあけて、首飾りを作るなど、高度な文明があった事が明らかになってゐる。その集落のそばに成人の墓約百基、小児用の墓約880基が平然と配列されてゐるが、それらは全く大小の区別なく、副葬品もみな同様だった。ここから階級階層差のあまりない、基本的には平等を重んじた共同体社会であったと見なされてゐる。巨大な建物も、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫などであったと推定されてゐる。

西洋を凌ぐ江戸時代の教育水準

 このやうに平和で平等な社会が日本列島に生れ、その上に神武天皇の時代に民を「大御宝」とし、すべての人々が一つの家族として仲良く暮すことを目的として、国家が作られたのである。わが国はかうして出発したのだが、この理想は皇室を中心に脈々と受け継がれてきた。

  この理想が最も見事に結実したのが200以上も平和が続いた江戸時代であらう。例へば、この時代の教育水準は西洋をはるかに凌いでゐた。幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は、70〜80%と推定されてゐるが、同じ頃の西洋は次のやうな状態だった。

  ・イギリス(1837年での大工業都市)20〜25%
  ・フランス(1973年、フランス革命で初等教育を義務化・無料化したが)14%

 労働者農民の理想社会のはずのソ連の首都モスクワでは20%だった(1920年)。
 幕末には全国で 15,000ほどの寺子屋があった。それらは僧侶や神官、町人のご隠居、武士や裕福な農民などがボランティアとして運営してゐた。江戸時代に作られた教科書は、現在、実物が残ってゐるものだけでも7,000種類以上にのぼる。我々の先人は、一人ひとりの子どもを大御宝として、立派な教育を授けることに大変な情熱を傾けてゐたのである。

海の外の大御宝

 明治以降、わが国は開国して、急速な近代化を成し遂げ、朝鮮を併合し、台湾を領有するに至ったが、これが西洋諸国の「植民地化」とはまったく異り、これらの土地の人々を新たに迎へ入れた「大御宝」として扱ってゐる様が見てとれる。

 例へば、台湾総督府の土木技師であった八田與一は、10年の歳月をかけて、当時最大級のダムと給排水路を台南の地に作り、百万人ほどの農民を豊かにした。水稲作は工事前の収穫高10万7千石が65万7千石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に伸びた。この建設に総督府は 2,674万円に上る資金を出してゐる。これは総督府の年間予算4,200万円の六割以上の規模であった。

 また地元農民も事業費2,739円を出してゐるが、増収金額は年間2,000万円以上に達したので、返済も容易であったと思はれる。

  朝鮮半島では日本統治時代に人口は1906年(明治39年)の980人から、1933年の2,400万人と、約30年間で2.45倍に急増した。その原因は医療制度の確立と米の大増産であった。

 後者については併合当初の生産量約1,000万石が、20年後には2,000万石へと倍増してをり、その原動力となったのが、日本政府の設立した朝鮮殖産銀行であった。ここでは日本人と朝鮮人とが一体となって、朝鮮経済の発展に大きな貢献をなした。

  かうした台湾・朝鮮の統治は、わが国の歴史的な「大御宝」思想とのつながりで捉へるべきものと思ふ。

陛下の御姿勢を仰ぎつつ…

  皇室はこのやうな「大御宝」の理想を常に掲げてこられた。
14年前の平成7年1月、阪神・淡路大震災の際に、両陛下はヘリコプターで被災地を慰問され、多くの犠牲者が出た長田地区では深々と頭を垂れられ、皇后陛下は御所のお庭で摘まれた水仙の花を供へられた。
御慰問の際につぎの御製を詠まれてゐる。

 なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき

 大震災の翌日は、無情にも氷雨が降り注ぎ、被災地に比較的近い宝塚市に住む身の私は「家を失った被災者の人々はどうなるのか」と思ったものだが、このお歌を拝承(拝誦)すると、その時のことがまざまざと蘇ってくる。一年中で最も冷え込む時期であったから、なほさらであった。

 現実の政党政派を越えたお立場で国民の労苦に心をお寄せになる陛下の御姿勢は、歴代天皇に一貫するものと拝するが、憲法第一条が記す「日本国の象徴」「国民統合の象徴」といふ言葉が最もふさはしいのではないか。かつて作家・林房雄が「現憲法は占領軍押し付けの欠陥憲法だが、「象徴」といふ言ひ方は「怪我の功名」だった旨を述べてゐた。

 この御製のやうに、国民一人ひとりを「大御宝」として大切にされる皇室の伝統的精神を仰ぎつつ、国民がお互ひに共同体を支へて行く。かうした国柄に根ざしてこそ、利他的な「人権思想」が花開くのではないかと思ふ。

-国際派  日本人講座 287 、一部改稿-
( 会社役員 数へ 57 歳)

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 「敬意表現」も提唱してゐた

  戦後すぐの「国語改革」はさまざまな批判を受けて、それなりの検討がなされ不十分ながらも一部見直しがなされてきたが、「敬語」だけは手つかずに取り残されてゐる。ここで、第22期国語審議会が平成12年に出した「現代社会における敬意表現」といふ答申を見る必要がある。先月号で触れた昭和27年(1952)の「これからの敬語」から、ほぼ50年後のものだが、その答申の中で、「これからの敬語」を画期的な提案だったと高く評価し、その考へを受け継いでゐることを明らかにしてゐるのである。

  国語審議会は、この答申を最後に翌年廃止され文化審議会国語分科会となるが、冒頭で、重要な概念として「敬意表現」といふことをことさらに提唱してゐた。この「敬意表現」といふ概念は、滝浦真人氏(麗澤大学助教授)によると(『日本の敬語論』 2005年)、ブラウン&レヴィンソンの「ポライトネス」の概念とほとんどそのままのもので、その訳語として「敬意表現」を採用したと言ふべきだったといふ。ブラウン&レヴィンソンの著作(1987年)はわが国でも画期的なものとして高く評価されてゐるが、その理論の基準はあくまで西欧の言語なのである。

 ともあれ、答申でいふ「敬意表現」とは何かといふと、「コミュニケーションにおいて、相互尊重の精神に基づき、相手や場面に配慮して使い分けている言葉遣いを意味する。それらは話し手が相手の人格や立場を尊重し、敬語や敬語以外の様々な表現から適切なものを自己表現として選択するものである」といふことである。たとへば「その本、貸してくれない」(傍点部の音を上げる)、「この本、貸してほしいんだけど」のやうな、敬語を使はないけれども、語尾や言ひ方で配慮を表すとみなされる表現も、敬意表現に加へるといふことである。

敬意表現から「美化語」へ

 そして敬意表現の実際として、さまざまな配慮が必要だとしながら、その中に「自分らしさを表すための配慮」が一項目あげられてゐた。

  それは話し手が「コミュニケーションの場で、自分の置かれた立場やとるべき態度を自覚して、多様な表現の中から自分にふさわしいものを選択している」ことだといふ。たとへば、自分を表すのに「わたし」か、「ぼく」か、「おれ」か等を決めることを指すやうだ。取り立ててどうといふことのないことが、「自分らしさを表す配慮」とあへて名づけられてゐた。他ではまず見ない、「自分らしさを表す配慮」といふ言ひ方は、つまりは「自己表現」といふことに結びつけるためのものだらう。「一人一人が自分で納得できる言葉遣いを主体的に選び、自己表現として」言葉を使ふといふことで、そのことが強調され、根拠となって、次に美化語といふ新しい敬語の登場を促すのである。かくして自己表現-自分らしさを表す配慮-敬意表現-美化語とつながるのである。

 文化審議会国語分科会がなぜ「自己表現」を強調しなければならなかったのか。そこには、日本人の伝統的な「自己表現」を問題視する観念的な思考が働いた結果だと思はれるのである。そして「自己表現」と「敬語」を結びつけ、主体性の確立をめざすといふ結論を最初に置いて、それから古い約束事にとらはれない、新しい言葉遣ひを示す提言としたのではなからうか。この答申を取りまとめたとされる井出祥子氏(日本女子大教授)は「敬意表現は、日本語話者が多かれ少なかれもっている敬語といふことば遣いに対する一種の呪縛から解き放すものである」として、「共生とグローバル社会」に結びつけてゐた(『わきまえの語用論』(2006年)。あへて「敬語」といはず「敬意表現」と置き換へて強調したねらひは、簡単にいふと「共生とグローバル化」にあるやうである。

本末転倒の敬語軽視論

 井出氏はまた、「なぜ日本社会には敬語がなくてはならないかについては、だれも納得のいく説明ができないのが実情ではないだろうか」、それを「外国人に論理的に説明できない」と書いてゐる。敬語自体を疑問視するやうな人が、先づかうした審議に参加し、しかも中心になってゐたことに驚きを禁じえない。論理的な説明も何も、もし日本語に疑問を抱く外国人がゐたとしたら、「敬語を意味する敬意的表現はどこの国にもあるものであり、当然わが国にも独自の敬語があります」とでも答へればすむ話である(敬語を疑問・問題視する国語学者、言語学者は決して珍しくはない。敗戦後に現れた種種雑多な論調の一つに、敬語廃止論もあった。近い例では、大石初太郎氏(当時文教大学教授)も、将来「敬語はなくなることが望ましい」(『現代敬語研究』昭和58年)とはっきり書いてゐた)。

 「美化語」は平成19年2月の答申で敬語に加へられたが、なぜ敬語でなければならないのか、残念ながら、多くの人が納得できる説明には至ってゐない。それは相手に気を使ふ言葉ではなく、あくまで自分のためのものとして持ち出されてゐた。聞き手がゐなくても(たとへば日記や、独り言などで)使はれることが留意されてゐた。ものごとを美化するのは「自分らしさ」を示し、自身の品性を高め、自己表現するためのものであった。聞き手を想定しない、そんな品格保持の語がどうして敬語なのだらうか。

正統派国語学者の敬語論

  美化語に対して、鋭い筆鋒で疑問を投げかけた一人に、昨年2月に亡くなった萩野貞樹氏(元産能大学教授)がゐた。萩野説(『ほんとうの敬語』)によると、答申に出てきた「お酒」「お料理」の二語は、尊敬語に数へられる。丁寧語でもない。美化語などと新しく呼称する必要はない。尊いものとして扱ふべき対象だから「お」をつけるのである。酒にしろ、料理にしろ、私たちの口に入るまで、さまざまな人びと、事柄が関与してゐる。両親を含め、農家の人々、流通・販売に関はる人、さらには天然自然の恵み、ひいては神仏のご加護にまでいくだらう。それらに対する感謝の気持ちが「お」に表れてゐると見るのである。きはめて明快でわかりやすい指摘であった。

 国語学者として知られた時枝誠記が、敬語を「上下尊卑の識別に基く事物の特殊なあり方の表現」(『国語学原論』)と断定したのは、今から70年近く前の昭和16年のことである。年齢も、日本人は上下でとらへてきた。「年上」「年下」といふ言葉があるやうに、それを気にするのが日本人であり、日本の文化である。「兄」と「弟」は言葉が違ふやうに、日本語では年齢が上か下かを区別して表すが、英語の brother にはその区別はない。兄は elder brother といひ、弟は younger brother といはねばならない。そのやうに上下の区別をはっきりさせる・させないは、文化そのものの違ひのあらはれといってよいだらう。どちらがすぐれてゐるかといふこととは関係ないのである。

敬語の根底を破壊する美化語

 敬語の「敬」は「敬ふ」といふことで敬意のことである。「敬語」は、人の「敬ふ」行為をふまへた言葉である。「敬」を抜いてしまふと「敬語」といふ語は成立しない。「敬ふ」と名づけられる心の動きが、この語の核心にある。日本人はもともと何を敬ってきたのだらうか。日本人の敬意の根底にあるものは何だらうか。八百万の神といふ言葉があるが、太陽にしろ、山岳にしろ、神々が宿るところとして、日本人は拝してきた。自然の中に、人の力の及ばない崇高なもの神聖なものを感じてゐたからに違ひない。畏れ多いと感じられる自然を、人より上にあるものとして位置づけたと想像される。そこには現代人が抱きがちな、人が高みに立って他のものを見下すやうな人間中心の発想はなかった。朝陽を仰いで柏手を打ったり神社参拝の作法として頭を下げたりするのは、敬語の根底にあるものと繋がってゐるやうに思はれる。

 かうした上下の感覚は、お辞儀などの礼儀作法に結びついて日本人の身体表現ともなってゐる。これらと相容れないのが美化語である。美化語を認めることは、たとへばお辞儀などの習俗をやめよといふに等しい。今のところ「美化語」は敬語の序列のいちばん下位だが、そこに居座ることを認めたことの意味は大きい。敬語そのものに対して楔が打ち込まれたことを意味する。実際今回の答申では「敬語を使うときの基本的な考え方」といふ項目があって、五点が示されてゐるが、その内の二点は美化語に関するものだった。

  「美化語」といふ言葉自体はあってもよい。しかし敬語の種類に加へることには異議を唱へたい。敬語を使ふ中で自然に「自分らしさ」は表れるものである。「美化語」は敬語を混乱させるだけである。驚いたことに、今回の答申の中に、「将来にわたって敬語が相互尊重の気持ちを基盤として使用されるべきものであることを明示しておく」といふ一節(「基本的な認識」)がある。将来のこともすでに決めてあるのなら、何も審議はいらないのではないか。言葉はだれのものでもない、文化そのものではないかと、私の心中は穏やかではないのである。

(北海道札幌西陵高校教諭 数へ年 60 歳)

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  先頃、畏友小野吉宣さんによる斎藤秀三郎謹訳『英訳明治天皇御集』解説の第三巻が上梓された。

  小野さんは質実剛健なる英語教師として30余年、高等学校で教鞭をとってこられた。平生は田園の主人のごとくであるが、小野さんが何かを語る時、魂をゆさぶるやうな胸底からの言葉がほとばしる。若いころから『国民同胞』などに寄せられた文章には、しばしば英米の書物や新聞などに関してその真髄にふれるものがあったが、私ども凡人には分らない深い意味を英文に掴み取る素晴らしい洞察と英知を示され、多くのことを教へていただいた。それを思へば、教師として学生たちに話しかける彼の授業もまた、英語の言葉の持つ魂に触れようとする真情に満ちてゐたであらうと想像する。そのやうな師に教へられた学生は幸ひである。

 小野さんの解説を読むとき、まづ感じるのは筆者自身の皇室に寄せる思ひ、そして明治天皇の大御歌によせる敬仰の心である。英訳御製詩の素晴らしさを味読するほどに、斎藤氏が外国の人々に知らしめんとした努力のあとを知ってほしい、そして明治天皇の大御歌の真髄にふれてほしい、との願ひをこめられたと思ふ。

 本書は、英訳御製詩の一つ一つの言葉とその調べに対して、これでもか、これでもかといふほどに深く掘り下げられたもので、圧倒されるやうな解説に満ちてゐる。斎藤氏の英訳が明治天皇の大御心の深さに響き合ってをり、英詩の伝統を受け継ぎながら荘重な調べをもって作られてゐることを、小野さんの読解は教へてくれる。さらにそれぞれの御製にふれて、泉のやうにあふれでてくる小野さん自身の感慨が、闊達な文章で記されてゐて胸を打つのである。
今、第一巻第二巻に続いて第三巻を読ませて頂いたが、読むほどに、さらに明治天皇御製英訳の大きな意味が感じられてくる。例へば、日露の戦ひのさなかに詠まれた御製。

     よもの海みなはらからと思ふ世  になど波風のたちさわぐらむ

  かつて、これほど悲痛かつ慈愛に満ちた言葉を発した国家元首があったであらうか。この御製の英訳にふれた外国の人々の感動の言葉も紹介されてゐるが、おそらく世界中のあらゆる時代の人々がこの御製に感銘を受けるだらう。しかも明治天皇の大御心は、はるか古代の神武天皇から代代に受け継がれ、その皇統は今日に至ってゐる。昭和天皇、そして今上天皇の御製にも、その大御心を具さに拝することができる。それこそは我が国の精神文化の底を流れる清らかな地下水である。

 また、本書を読みながら、所々にあらはれてくる小野家の家族の人々の言葉に、なんとも言へない懐かしさを感じるのは私だけではあるまい。そのやうな家庭の中に育まれた生来の種子から、この本もまた生み出されたと思ふ。枝ぶりのいい梅の木が何本も植わってゐる小野家のお庭の裏山には、春になると鶯が美しい声を奏る。小野さんは、学生との勉強会にあてるべくご自宅の庭に塾を建て、梅鶯塾と名付けられた。この『英訳明治天皇御集』の解説も、「大学生たちとの研鑽の記録」との副題が付けられてゐるやうに、まさに小野さんに身近な若者たちとの心の交流から生れたものである。

 これからも小野さんにしかできさうもない仕事が待ち受けてゐるであらう。私の勝手な願ひは、英訳「昭和天皇御製」であるが、果たして如何。

   - 本書に寄せた拙文を一部改稿 - (独立行政法人都城病院長 小柳左門)
     頒価 1,500円 送料 340円 国文研事務局まで

謹しんで訂正いたします
前月号 1 頁 4 段目、「皇道」→「公道」

待望の増刷 刊行!
廣瀬 誠著 (国文研叢書 30 『萬葉集 その漲るいのち』
   
頒価  900円  送料 290円

「読む者に深い感動を覚えさせるのは萬葉集の持つすばらしさと共に、廣瀬さんの終始一貫した真摯な人生姿勢及び人柄の然らしめるところに拠るであらうかと思ふ」-小田村寅二郎先生「上梓にあたつて」から-


編集後記

 「友愛外交」を唱へる鳩山首相は10月中旬、中韓を相次いで訪問。各紙によれば北京では中国が従来からの経緯を無視して独自に東シナ海でガス田開発を続けてゐることに触れ「共同開発し東シナ海を友愛の海にしていかう」と温首相に懸念を表明した。だが、もし「友愛」を言ふのであれば「東シナ海は友愛の海とすべきだから開発を中止し合意に向けて協議を急がう」と釘を刺すべきではなかったか。また胡主席には「友愛」の政治理念について説明したといふ。これを軍拡推進国の指導者は「皮肉」と受け取った筈だが、首相の真意は奈辺に。いくら何でも辞義通りといふことはあるまい。

 新政権の外交を見てゐると、憲法前文を鵜呑みにした初な高校生の作文のやうで、対米関係を含め政治的なリアリティーがまるで感じられない。今回の中韓訪問について首相は「充実した外交デビューだった」と述べ帰途についたといふ。首相が口にする言葉だらうか。 (山内)

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