国民同胞巻頭言

第573号

執筆者 題名
寶邊 矢太郎 「小学唱歌の世界」
- よみがへる山田輝彦先生の御講義 -
澤部 壽孫 〈『平成の大みうたを仰ぐ二』出版記念会〉執筆者挨拶から
御製を知ることで、どれほど心が豊かになることか
- 「お歌を仰ぎつつ勤労奉仕をして参りました」 -
武田 有朋 若手会員として思ふこと
- 社会人生活4年目を迎へて -
山田 健一 夜久正雄先生の思ひ出
  さわらび抄(37)
福田 忠之 人智を超える世界情勢
- 木内信胤著『当来の経済学』から -

 昭和59年夏の第29回合宿教室は阿蘇での開催であったが、その4日目午後、講義の最後の一齣を担当されたのは、去る2月、89歳でお亡くなりになった山田輝彦先生であった。演題は「小学唱歌の世界」。何か心がぽかぽかしてくるやうな演題に皆は御登壇を心待ちにしてゐた。そして瞬く間に一時間のお話が終った後の、皆の晴れやかな表情が忘れられない。心が弾むやうな至福のひとときを共にしたのであった。

 日頃はおっかない先輩も「こげな話がよかね」とにっこり。『日本への回帰』第 20 集には、そのときの先生のこぼれんばかりの笑顔が載ってをり、拝してゐると20数年の隔りが消え失せ当時がよみがへる。

 合宿日程は、諸先生の御講義を聴講するほか、「班別研修」では互ひに他者の発言に耳を傾けその真意を受け止めながら言葉を交し、「短歌創作」では自分の思ひをどう表現するかで言葉を探すなど、日頃殆ど経験しない「言葉の修練」が続く。ために先生は参加者の緊張を聊かでも和めたいとのお気持があられたのか、このときの先生の御講義に私達参加者は己の心が一斉に解き放たれたやうな感じがしたのであった。

 先生は、日本には無い音階をもつ西洋音楽をわが国に溶かし込む偉業を成し遂げた伊沢修二の足跡や、私達が馴染んできた幾つかの小学唱歌を解説されたのであるが、その歌の背景、その歌にこもるいのちを伺って、優しくもことそぎて力ある大和言葉に驚くとともに、国語も歴史もその中で教へられてきたことに気付かされ、まさしく小学唱歌は明治の人々が生み出した第一級の文化遺産であることを胸があふれるやうな思ひでお聴きしたのであった。

 さて、その中の一つを紹介したい。『庭の千草』の二番は「露にたわむや菊の花霜におごるやきくの花 あゝあはれあはれ あゝ白菊 人のみさをも かくてこそ」。この有名な唱歌の原曲はアイルランド民謡の「 The Last Rose of Summer 」であるが、明治の日本人は薔薇を「菊」に編み直し、この原曲に新たないのちを吹き込んだのである。菊は古来、気高き花、仰ぐ御紋の象徴であった。霜にもめげず毅然として咲いてゐる白菊に人の操もかくあれかしと願ったこの歌は、命に替へてもと思ふほど好きだといふ人もゐたときく。

 竹山道雄氏の名作『ビルマの竪琴』の中で、日本兵が森の中でイギリス兵に包囲された際、隊長の機転で『庭の千草』を大声で合唱して難を逃れる場面がある。取り囲んでゐたイギリス兵達も同じ母国の歌を歌ひ始め、森の中で時ならぬハーモニーを奏でるところだ。イギリス兵は敵兵が母国の歌を歌ふことに異様な感動をうけたのである。歌ひながら想ふのは故郷であり故郷の父母であっただらう。音楽には人間の敵意をさへ超える力があることを作者は示唆したのだと思ふ。

 この作品は水島上等兵といふ竪琴の上手な兵士が敗戦後、ビルマに散らばってゐる同胞の屍を弔ふため、ビルマ僧に身をやつして山野を巡礼する物語であるが、戦友との最後の別れに竪琴を奏でる曲は『仰げば尊し』であった。鸚哥を肩に水島はこの歌の最後の「いまこそわかれめいざさらば」の箇所を三度掻き鳴らして去ってゆく。日本人の誰もが卒業式に涙とともに歌ってきた懐かしい思ひ出の曲である。

 また先生は、原曲はスコットランド民謡の『螢の光』には今は歌はれない三番、四番があり、明治の人々の悲願は実はそこにこめられてゐると語られ、特に四番「千島のおくも沖縄も八洲のうちの守りなり 至らんくにに勲しく つとめよわが兄つつがなく」に、現在の領土問題、防衛問題の全部が出尽くしてゐるではないですかと喝破されたのである。

 わが日本よ、わが国土よ、とこしへに!、と強く深く期して、迫り来る欧米列強の外圧に立ち向った明治の先人たちの痛々しいばかりの想ひに私達の胸は震へたのであった。

(山口県立熊毛南高校教諭 数へ57歳)

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 編注・去る6月6日東京千代田区のホテル「ルポール麹町」で、山本卓眞富士通(株)名誉会長、歌人山川京子先生、椛島有三日本会議事務総長ら63名のご参会を得て出版記念会が開かれ、筑波大学名誉教授竹本忠雄先生による記念講話が乾杯に先立って行はれるなど盛会であった。その際の「執筆者を代表してのご挨拶」を掲げる。

 執筆者を代表して一言ご挨拶を申し上げます。

 昭和31年に発足した本会(国民文化研究会)の前身は戦前の「精神科学研究所」及び「日本学生協会」でありますが、先輩たちは明治天皇の御製と聖徳太子のみ教へを心の支へとして、日本を守るためにたたかひ一生を捧げられました。

 明治天皇の御遺志は大正、昭和及び平成の御代の天皇様にも引き継がれ、私達国民は、御製に大み心を仰ぐことが出来ます。

 本会の御製研究の道統は三井甲之先生の『明治天皇御集研究』に遡ります。その道統を今は亡き小田村寅二郎先生(前理事長)、夜久正雄先生、廣瀬誠先生、加納祐五先生、山田輝彦先生、そして福岡にお住まひの小柳陽太郎先生など多くの先生・先輩方が継承され、現在に至ってゐます。

 ご承知のやうに毎年元旦の全国紙に年頭ご発表の天皇皇后両陛下のお歌が掲載されます。一国の元首が短歌で国民にメッセージを発信される国は世界広しと言へど他に例がありません。ところが、新聞やテレビは全くと言って良い程、御製・御歌に関連する情報を伝へません。お歌が詠まれた場所や日時等の背景を含めてお歌の内容を報道してくれれば、陛下のお心を国民が直に知ることになり、それによって、どれほど日本人の心が豊かになるか計り知れないと思ふと残念でなりません。

 ご即位20年をお祝ひして、本会は『平成の大みうたを仰ぐ 二』を昨年暮に上梓しました。本書は10年前にご即位10年を奉祝して、刊行された『平成の大みうたを仰ぐ』の続編でございます。平成11年から平成20年までの年頭にご発表の御製と御歌について、各年毎に本会の会員がその謹解を記したものが収められてをります。

 夜久正雄先生は『平成の大みうたを仰ぐ』の「はしがき」のなかで、「毎年の元日に天皇、皇后両陛下のお歌にふれることが出来ること、それがどんなに大きなよろこびであったか、そのお歌によって、私どもが敗戦でうちひしがれた日にあって、どんなに大きな力を得て国の復興に立ち上り努めてきたか、今そのことをしみじみと思ふ。

 日本の国がらの中心をなす天皇と国民の心の通ひあひ、それは国民が天皇のお心を知ることに尽きると思ふのだが、その天皇のお心を知ることのできる最も確実な道は、天皇のお歌をよむことであると私どもは信じてゐる。勿論それは知りつくすことのできない道である。しかし、知る努力を怠ってはならない。私どもが、御製、御歌の研究をつづけるのはこのやうな心持ちからである」とお述べになってゐます。

 本日お配りした資料の中に本会の機関紙である月刊『国民同胞』の2月号、4月号および最新号の6月号が同封されてをります。2月号には本年年頭ご発表の御製・御歌についての小柳左門さんの謹解が、4月号には本日ご出席の山川京子先生の本書についての珠玉の書評が載ってをります。ご一読頂きたく存じます。

           ○

さて、先日6月1日から4日まで、本会会員の日高廣人さんに連れられて、皇居の勤労奉仕に参加致しました。この機会にその模様を少し述べさせて頂きます。
昭和天皇が昭和21年にお詠みになった御製に

戰にやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる

 

があります。この御製に本会主催の夏の合宿教室でふれて以来、機会があれば一度ご奉仕したいと願ってゐました。

 4日間の勤労奉仕でしたが、3日目には皇居の蓮池参集所において、福岡、岐阜、秋田から来た人達約80人と一緒に、天皇皇后両陛下のご会釈を賜り、2日目には赤坂御苑に於いて皇太子殿下のご会釈を賜るといふ幸運にめぐまれました。

 初日の午前には、陛下お手植ゑの水田を通りました。案内してくれた宮内庁の人の説明によれば、うるち米は「日本まさり」、もち米は「満月餅」といふ銘柄で平成元年から20年までの各年のお米の苗を五株づつ、即ちうるち米を百株、もち米を百株合計二百株をお手植ゑになられたとのことです。お手植ゑの一週間後でしたが、早苗が風に揺れてゐるのを見て、瑞穂の国のいのちが息吹いてゐるやうに感じられました。その後、吹上大宮御所から吹上御所への道を通り、御所正門前の道路の清掃を行はせて頂きました。
この道を通る時に、皇太后陛下が崩御された夜に、陛下がお詠みになった御歌、

あまたたび通ひし道をこの宵は亡き母君をたづねむと行く

 

との痛感極まりない御製が思ひ出されました。

両陛下は皇太后陛下がご存命中、毎週末に御所のお隣にある吹上大宮御所に皇太后陛下をお訪ねになってをられたとのことですが、御所から吹上大宮御所への道をお悲しみに耐へて歩まれてゐる陛下のお姿が浮んでまゐりました。皇后陛下も平成九年に、この道について、

かなたより木の花なるか香り来る母宮の御所に続くこの道

 

とお詠みになってをります。

 初日の午後は、生物学御研究所の横にある桑畑で葉を取ったあとの枝の片付けをさせて頂きました。養蚕の時期は毎年5月初旬から6月下旬であり、桑の木の切株には新芽が出てゐました。そこで宮内庁の人から、「小石丸」といふ蚕の名前を懐かしく聞きました。貞明皇后が愛された「小石丸」といふ蚕は繭が小さく、取れる繭の量も少ないので皇居のみで飼育されてゐましたが、その皇居でも飼育をやめようといふ意見が出た昭和 60 年頃、皇后陛下が「日本の純粋種と聞いており、繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」と仰ったので、「小石丸」は絶滅をまぬがれました(『皇后様のご養蚕』)。

 ところが平成6年に、「正倉院宝物装飾品(絹織物)復元プロジェクトが出来て、古代の糸を忠実に復元するのに最もふさはしい糸を徹底調査した結果、「小石丸」にたどりついたのです。天平の御代の至宝が1200年を経て平成の御代によみがへったのです。昭和48年の御歌に

いく眠り過ごしし春蚕すでにして透る白さに糸吐き初めぬ

 

とあります。
これらのことは、『平成の大みうたを仰ぐ 二』に詳しく述べられてゐます。

 ご会釈の日も皇后陛下は養蚕所から直接お見えになり、ご養蚕の際の作業着・作務衣をお召しになってゐました。

 2日目は、皇太子殿下ご一家を初め宮様方がお住まひの赤坂御苑に出向き、園遊会の会場である庭園の中の竹林で植木の副へ木等に使ふ竹を切る作業をさせて頂きました。

 3日目は、一般の人に公開されてゐる、東御苑(江戸城跡)の果樹園の草取りを行ひました。今年の年頭ご発表の御製のなかに、

江戸の人味ひしならむ果物の苗木植ゑけり江戸城跡に

 

といふお歌がありました。江戸の人が味はったといふ果物は何であらうかと思ひつつも知り得ずにゐましたので、宮内庁の人に調べて頂いた結果、陛下がお手植ゑになったのは「紀州蜜柑、クネンボ、ファーポーカン」といふ3本の苗木であることを知りました。皇后陛下は梨の苗木3本(類産梨、六月梨、今村秋)をお手植ゑになったとのことです。江戸の人が味はったといふ果物は紀州蜜柑であったらうと想像されます。

 4日目の最終日には、宮殿内側の庭に入り、儀式・行事が行はれる正殿、豊明殿、長和殿および天皇陛下が御公務をお執りになる表御座所の横を通り林の中の道路の落葉を掃かせて頂きました。

 午後は、坂下門の清掃をした後、宮殿(長和殿)のお庭(東庭)の清掃を行ひました。ご公務を終へられた陛下がお帰りになる道を通りながら、平成19年の歌会始の御製が思ひ出されました。

務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

 

           ○

 ことし両陛下はご成婚50周年をお迎へになりましたが、ご成婚40周年をお迎へになったときの御製、

四十年をともに過ししわが妹と歩む朝にかいつぶり鳴く

 

 平成18年の夏、サマワに派遣された自衛隊員の一行が任務を終へ帰国した折の皇后陛下の御歌、

サマワより帰り来まさむふるさとはゆふべ雨間にカナカナの鳴く

 

 等々を折々に思ひ起しながら、初めてお会ひした人達と昔なじみのやうな気持ちで、充実した4日間を共に過させて頂きました。奉仕する団体および参加する人が減少して来てゐると聞きましたが、来年も是非参加させて頂きたいと思ってをります。

(元日商岩井、本会副理事長 数へ69歳)

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  早いもので、社会人生活も4年目に入った。これまでの3年間は、あっと言ふ間に過ぎていったやうに思ふ。これまでを振り返るとともに、若手会員としての率直な思ひを記してみたい。

 私は学生時代、過疎地の活性化に大きな関心を抱いてゐたのだが、そんな折、所属したゼミで「情報通信の法制度」について研究する機会を得た。研究を進めるうちに、国民生活のライフラインとしての情報通信の大切さを強く感じるとともに、情報通信の高度化によって国内のどこに住んでゐても、便利で豊かな生活が実現できるといふ思ひを強くした。そのため、情報通信業界を志望したのであった。

  勉強になった金沢での現場勤務

 私が現在身を置いてゐる通信業界は、変化の激しい世界である。情報通信の中核が音声通話からインターネットに移るにつれて、私の会社も在りやうを大きく変へてきた。そのため、1人前に仕事をこなせるやうになるためには覚えるべきことが山ほどある。特に文系の私にとって、通信技術の話はまさに新しい世界で、四苦八苦しながら何とか物にしてきた、といった感じである。

 就職して自分の仕事に迷ふこともなくはなかったが、自分なりに使命感に燃えて仕事をすることができた。初の配属先は、石川県金沢市であった。社の方針として、新入社員は現場の第1線へ配属されることになってをり、私はコールセンターで2年間勤務することとなった。初めの1年間は受付担当者として勤務し、実際にお客様からの問合せに応へたり、注文を承ったりしてゐた。厳しいお言葉を頂戴したことも少なくなかったが、お褒めの言葉を頂けば励みになったし、何より、自分の会社がお客様の目にどのやうに写ってゐるのかを直に感じることができて、大変勉強になった。

 金沢は歴史的情緒豊かな街で、この街で社会人生活をスタートできたことはとても幸せなことだった。

  就職活動の学生に接して

 入社4年目にもなると、徐々に後輩の数も増え、駆け出しの頃には感じられなかったことも感じるやうになってきた。そんな中で、最近特に強く感じるのは、昨今の若者(私もまだ若造で先輩風を吹かすわけではないが)の社会に対する責任感や使命感が、希薄化してきてゐるのではないかといふことである。

 例へば、会社の採用活動の一環で現役の学生と話をする機会があるのだが、そのやうな時に、「誠実な人柄で一所懸命なのに、何か物足りない」と思はれることだ。学生生活で打ち込んだことを問ふと、ゼミや部活動、サークルなどでの自分の頑張りを生き生きと語ってくれる。最近は就職活動にもマニュアル本があるので、さういったもので勉強してゐるのであらうが、多くの学生が話したがるのは「何ができるか、どのやうな能力があるか」といふ類である。ちなみに、特に多いのが自分には「リーダーシップがある」といふのと「協調性がある」といふ答へである。

 しかし、「就職してかういふことがしたい」といった夢なり使命感なりを、明確に持ってゐる学生は、私が会った限りでは非常に少なかった。「社会貢献をしたい」といふ言葉は多く聞いたが、実感に乏しく飾りの域を出ない感じの学生が多かった。社会に対してどのやうな問題意識を持ってゐるのか、その問題に自分自身としてどのやうに取り組みたいのか、きちんと描けてゐる学生は非常に稀であった。

 また、会社の後輩社員と話してゐても、問題意識の中心が日々の業務に留ってゐることが多い。会社の将来、日本の将来、といふ話になると、自分の手には負へない、自分の問題意識の埒外である、といふ具合になってしまふことが少なからずあるのである。

 さういふ姿の若者と話をするにつけて、我が国はこのままで大丈夫なのかと、ふと不安な気持ちが胸をよぎる。その問題意識が余りにも自分の身近な世界に留ってをり、日々起ってゐる問題は、自分からは縁遠いこととしか感じられてゐないのではないかと思はれる。

 こんなことでは、我が国がいざといふときに、我々の世代が能動的に動き、問題に対処できるのだらうかとつい考へてしまふ。もちろん、心ある若者もたくさんゐると思ふが、それが少数派になってしまっては国全体を支へきれなくなるのでないかと不安に思ふことがある。

  合宿参加学生に自分を重ねた

 振り返ってみれば、明治維新を成し遂げた先人達の中には、私達と同年代が数多くゐる。彼らと我々の差は何か。私は危機感の有無にあると思ふ。欧米列強の外圧を独立の存否に関る「目に見える危機」として受け止めた先人に比べて、現代では、若者からすると世界で起る問題が我が国の屋台骨を大きく揺るがすものとは感じられてゐないのではないか。リーマンショックに端を発する経済問題も、北朝鮮が先般行った核実験やミサイル発射も、何となく実感を抱けずにゐるのではないか。

多少の問題は起ってゐても、社会システムに身を任せておけば何となく暮していける、自分は己の日常の課題に取り組んでさへゐれば大丈夫、といふのが、多くの若者の偽らざる心境のやうに思はれる。
とはいふものの、それは若い世代の責任だけではないと思ふ。若者の多くは、自分のなすべきことやるべきことについて考へる機会に恵まれなかっただけで、その機会が与へられれば、きちんと考へることができるのだと思ふ。さう感じたのは、昨夏の合宿教室での経験であった。

 昨年7月に、図らずも郷里福岡へと転勤した私は、夏季休暇を利用して伊勢で開催された合宿教室に参加することができた。全日程に参加するのは社会人となって初めてであったため、久しぶりにじっくりと勉強できることを楽しみに参加したのだが、そこで出会った一人の学生の姿が実に印象的であった。

 彼は私が班長を務めた学生班の一員であったのだが、ご両親の強い意向で合宿に参加したさうで、合宿初日には非常に消極的な姿勢であった。班別討論でも「分らない」、「難しい」といふ返事ばかりであったが、特に3日目午前の、幕末の志士・吉田松陰の人物像に触れた占部賢志先生のご講義の辺りから少しずつ前向きになってきた。それまでは、歴史と自分との繋がりを感じる機会などなかったやうだったが、諸講義で先人の生き方を学び、班員達の言葉に触れることが刺激となったのであらう。これから自分が何をすべきかを考へ始める切っ掛けとなったやうだ。合宿の最後には、「参加してよかった」と言ってゐた。

 彼の姿を見ながら、自分自身の学生時代のことを思ひ出してゐた。私は大学1年生から国文研の先輩方にお世話になり、仲間達と多くのことを学んできた。この経験が今の私の大きな糧となってゐると思ふし、逆に若い世代にはさういふ体験が欠けてゐるのだと思ふ。合宿の大切さ、私達の学問の大切さを改めて強く感じた次第であった。

  気負はず地道に取り組みたい

 この合宿への参加を契機に、私の中で改めて学問に取り組みたいといふ気持ちが一層強くなった。日々の仕事に追はれてゐると、どうしても視野が狭くなりがちなので、学問に取り組むことで大局的な問題意識をきちんと持ち続けたいと考へてゐた時期でもあった。折り良く福岡に転勤して、三林浩行先輩((株)寺子屋モデル講師)からお誘ひを受けたため、「福岡国民文化懇話会」の世話人を引き受けることになった。

 この会は毎月1度、時宜に適ったテーマを定めて開催してゐるもので、毎回10名から10名ほどの社会人、学生が参加してゐる。最近では、チベット問題など時事に関する事柄や、歴史理解に関する事柄(例へば「元寇」の際、蒙古勢に敗退した鎌倉の御家人は神風によって救はれたとする定説は誤りである、といふ元寇研究会の活動について)等について学んできた。学生による所感発表もあって、2時間余はあっといふ間に経過する。その後の懇親会でゆったりと語りあふ時間はまた格別のもので、ふと学生時代に戻ったやうな気持ちになってゐる。まづは、この会をしっかりと盛り立てて、実りある学問の場としていきたい。

 現在の我が国は多くの課題を抱へてゐる。それに取り組んでいくのは、我々の世代であり、若者それぞれがもっと当事者意識を持たなければならない。そのためには、若者が日本の歴史と自分のつながりを感じ、「自分は如何に生きるか、何をすべきか」を真剣に考へる場を持つことが必要だし、私達の活動もその一翼を担ってゐると思ふ。私も若手会員として、気負はず地道に国文研の活動を支へていきたいと改めて感じてゐる。

(西日本電信電話(株) 数へ29歳)

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 “これが最敬礼といふものだ”

 夜久正雄先生(編注・本会顧問、亜細亜大学名誉教授。「歌人・今上(昭和)天皇」、“ The Kojiki in the Llife of Japan ”の原著『古事記のいのち』、「白村江の戦」、「『しきしまの道』研究」ほかの著者)が亡くなられてこの3月19日で一周忌を迎へました。年月の経つのは本当に早いものだと思ひます。
昨年11月23日、新嘗祭の日に、東京・神田の学士会館で、国文研主催による先生をお偲びする会が催され、私も参加させていただきました。会場の一角には、先生の御年譜や在りし日のお写真がパネルで展示されてをりました。またこれらを収めたDVDがスクリーンに映し出されました。その中で、昭和60年の歌会始(お題「旅」)において、預選の栄に浴された先生のお立ち振舞ひは実に印象的でありました。

   旅遠くルンビニの野に行き暮れて橋のたもとに蛍飛ぶ見き

 昭和天皇の御前で、右の先生の預選歌がご披講された折のお姿です。当時テレビの放送でも拝見してゐるのですが、陛下に対しまつりて深く深く腰を折りお辞儀される先生のお姿に、まさに“これが最敬礼といふものだ”と改めて感じ入った次第でした。

   ご講話「短歌のすすめ」

 夜久先生のご講話を何度もお聴きするといふ機会に恵まれました。それは、私が亜細亜大学に入学し「亜細亜寮」といふ附属寮で四年間を過し、卒業後も事務職員として大学に残り、さらに学生部に配属されて、そのまま10数年間、学生寮にかかはる業務を担当したことによります。

 かつて亜細亜大学には5つの男子学生寮と2つの女子学生寮がありました。毎年、春休みの3月下旬には、新年度の各寮の「学寮委員」になる学生百数十名が集ふ「学寮委員研修会」が行はれてゐました。3泊4日の日程で、時間割など研修の仕組みは国文研の合宿教室を真似たと言っていいものでした。私は大学4年の時に雲仙で開催された合宿教室に参加してゐたので良く分りました。

 当時(昭和40年代〜50年代)の亜細亜大学には夜久先生が教養部長、小田村寅二郎先生が学生部委員、そして事務方として学生部には関正臣先生、そして上司の千々和純一先輩(私が学生として過した亜細亜寮の寮監でもありました)など錚々たる方々がをられましたので、国文研合宿のやうな日程になるのは当然だったかも知れません。

 先生には、山田輝彦先生とご一緒に書かれたご本の題名からそのままの「短歌のすすめ」と題した短歌創作導入講義と、参加者が作った短歌の全体批評の両方をお願ひしてをりましたが、余程ご都合が悪いときを除いて毎年続けていただきました。またこの研修会には、小田村寅二郎先生からも毎年ご講義をいただいてをり、今にして思ひますと、この上もなく贅沢な研修会でした。私は学生時代だけでなく、学生部の事務担当の一員として、後輩の学生と一緒に毎年のやうに聴講できたことは本当に幸せなことでした。

  「山と一緒に自分というものを じっと見ている事になるんです」

 いま手元に昭和48年度の学寮委員研修会を記録した冊子(現代かな)があります。先生のご講話「短歌のすすめ」の1部をご紹介します。

「梅の花がきれいだという所でも、それじゃあ梅の花を五分位じっと見ている人がいるかというと、案外いない。ただ遠くからちょっと見て、ああきれいだなと思って、そしてすぐ忘れてしまうんですね。それで心はどんどんどんどん他の所に行ってしまう。その美しい自然というものを本当に心で味わってみるという事が、ゆっくり味わってみるという事がおろそかになりがちなんです。それでその自然というものをゆっくり味わうという心の持ち方、山を見て美しいと思ってじっといつまでも山を見ているという、その時、心で味わっているものは、他の事を考えちゃ別ですけれども、5分間位でもじっとその美しさを味わう事ができれば、その人はそこで何を見ていたかというと、山だけじゃないんです。山と一緒に自分というものをそこでじっと見ている事になるんです」

 

 

 

 

 

 

 録音テープから起したままをまとめてありますので、先生のそのときの話し方、その表情までもがよみがへってくるやうな気がします。
このときは亜大セミナーハウス(東京都西多摩郡日の出町)まで、1時間半ほどの行程を電車を乗り継いで来ていただきました。その途中でお作りになったといふ次のやうなお歌も講話の中でご披露されてをられます。

  街路樹の間に見ゆる桃の木の千々のつぼみも赤らみにけり

これに続けて、このやうに言はれてゐます。

「ここで諸君が歌を作るという事になっているから、従って僕も作らなきゃならないだろうと考えていたので、そういう歌もできたんだろうと思います」

 


  いつもこのやうなご口調で、初めて歌を作らうとする我々を導いて下さいました。

  「こぶしのつぼみはみんな上を向いてゐるんだよね」

 また別の年にはご自宅まで車でお迎へに伺ったことがあります。途中の五日市街道沿ひの辛夷の木々がつぼみをつけた時期でした。「山田さん、こぶしのつぼみはみんな上を向いてゐるんだよね」と、先生がおっしゃいました。しなやかな枝からふくらんだつぼみは、小さく華奢に見えますが強い。春とはいへまだまだ冷たい風にさらされる季節にあって、全てのつぼみが姿良くしっかりと天に向ってゐます。先生のご指摘に、以来辛夷が大好きな「春の花と木」になりました。

   お散歩ですか?

 お亡くなりになる1年以上は前になりますか、5月のおだやかで暖かな土曜のお昼過ぎだったと思ひます。大学を出て先生のお住ひのある桜堤公団を過ぎたところの理髪店の前で、先生にぱったりお会ひしました。「先生、お散歩ですか?」と申し上げたところ「散髪にね。久しぶりにそこの店に」とのことでした。バーバー・チェリーといふ私にも馴染みのお店の前でのことでした。

 立ち話で、無沙汰をお詫びしながら少しお話しすることができました。杖をお使ひで「足が弱くなってね」とおっしゃってをられましたが、顔色も良くお元気さうで安心しました。「大学にもさっぱり行ってゐないので」といはれましたので、問はれるままに大学の様子などをお話ししました。連休明けで、大学も新学期の慌ただしさが過ぎて落ち着いたころでした。「お陰さまで無事に過してをります」と申し上げて、お別れしたことを覚えてをります。
それがお元気な先生にお会ひした最後でありました。

(亜細亜大学生涯学習課参事 数へ62歳)

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社頭暁      大正天皇

神まつるわが白妙の袖の上にかつうすれ行くみあかしのかげ

 右の御製(大正10年)に初めて接したのは、40年程前、坂東一男先輩のご好意によりアサヒビールの保養所(神奈川県・葉山)で行はれた東京地区学生合宿の折でした。夜久正雄先生がご講義の中でお触れになったのです。この御歌を知ったことで、それまで漠然と抱いてゐた大正天皇についてのイメージが打ち砕かれたのでした。今回改めてこの御歌を味はってみました。
祈りを捧げられる天皇の白装束の袖の上にゆらゆらと揺れるみ燈の影、夜が明け初め周囲が明るくなるにつれて、次第にその影が薄れていく。薄れていくみ燈の影を凝視されてゐらっしゃるお姿が浮びます。同時に、祈りの切実さと緊張感が痛いほどに伝はって参ります。国の行く末を案じ国民の幸せを祈念されて、独り神前に額づかれる天皇のお姿が拝されます。前年(大正9年)には次のやうな御製があります。

       夕雨
かきくらし雨降り出でぬ人心くだち  行く世をなげくゆふべに

 


 この御歌を拝誦してゐるときに、冒頭に掲げた「うすれゆくみあかしのかげ」の御製が偲ばれてなりませんでした。「人心くだち行く世」の「くだちゆく」とは衰へていくといふ意味ですが、当時の人々の、慎みの心や人を思ひ遣る気持ちが失はれつつある世のことを指して仰ってゐるのでせうか。

 大正時代と言へば、本格的な政党内閣の誕生や参政権の拡大など、デモクラシーが進展した時代であると現在では肯定的に捉へられてゐます。ところが、御製からは当時の世相や人々の心の在り様についての憂慮のお心が伝はってくるのです。ロシア革命の影響による社会主義思想の流入などによって大衆運動や社会運動が起り、大正7年には米騒動が起きるなど、日本人として受け継いできた心の持ちやうが人々から失はれていくことに対して、それを敏感に感じ取られ憂慮の念を御歌といふ形で吐露されたのではないかと、私には思はれてなりません。

 「社頭暁」を最後に大正天皇の御歌は発表されてをりません。ご病気が重くなられ、大正15年に崩御されました。お心をあまりに労されたことが御寿命を縮められることにつながったと思はれてならないのです。恐懼の極みです。

(神奈川県立秦野曽屋高校教諭 原川猛雄)

○「さわらび抄」は、皆さんの愛誦してゐる短歌を、連載でご紹介いただく欄です。皆さんのご投稿をお待ちしてをります。

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 5月21日のテレビの時事解説を聞いてゐると「イタリア並であった日本の国債の価値が格上げされ、米国の国債が格下げになるかも知れない」といふ。案の定、円の値上がりが激しい。経済の解説者らは「今、どうして日本国債が格上げで、米国債格下げの噂が出るのか。貯蓄高は、日本が減り米国が増える傾向だといふのに」と揃って首を傾げてゐる。

 米国の新大統領が黒人になったことについて元外交官が「アメリカは底の深い国ですから」と、まるで 日本とは違ってと言ふやうな口振りだった。左様に御人好しで良いのかと思ひ、何か裏があると疑ふのは私の性格が悪い所為かも知れない。気になるから木内信胤先生の御著著『当来の経済学』(1979年12月発行)を思ひ起して再読してみると、やはり大変なことが書いてある。

 この著作の中で、先生は「経済現象は歴史的現象である」と述べられて、ここから論が展開されて行く。つまり「経済現象を理解するには、単に自然科学的にやるだけではなく、そこには歴史的洞察の深さが加味された上でなければならない」といふ。ところが、米国は病気に罹った現代の経済学の上にどっぷりと浸かってゐて多くの人々の物買ひの動きを刺激してゐるが、やがてはインフレの爆発か、端的に信用組織の破壊といふ事にならないでもないと続く。先生は「杞憂に終れば良いのだが」と書かれてゐたが、やはり心配が現実になってしまった。米国といふ軍事力がずば抜けて巨大な国家が、これから一体どう動くのか。

 米国債が格下げになるかも知れないといふだけで反応する市場だが、フル回転の印刷機で刷られ世界中にばら撒かれてゐるドル紙幣の為替相場が、例へば対中国政策か何かの為に、切り下げにでもなったら世界中は大騒ぎになる。多分、ドルの投売りになるだらう。米国債を買ってゐる国はどうしたら良いのか。以前のやうに金本位制ではなく、単に軍事力に支へられてゐるだけで国際通貨の役割を果たしてゐる米ドルである。

 かつて米国はモンロー主義を唱へ、煩はしい国際関係を避けてアメリカ大陸に閉ぢ籠もらうとした時期があったが、再び孤立指向で「もう厭になった。全てを御破算にして、新しくやり直さう。軍事力は、まだ充分にあるのだから」と考へないだらうか。このやうな事も先生が、その昔の合宿教室で言はれた記憶がある。

 さうかう考へてゐる間に、5月29日、英国の国債が格下げになったといふニュースが伝へられた。
この著書の中で「経済学は科学たり得ない」「経済学に法則はない」と言はれる先生は、世界の歴史を総体的に観て、極端に大きい見方も必要であるとし、「2500年きざみでみれば、世界歴史はまだ2日しか経ってゐない」とも述べられてゐる。一般には、奇異な論説のやうに受け取られるかも知れないが、良く読んでみれば納得する筈である。この本の出版記念会の折には、モンペルラン学派で御一緒だったといふノーベル経済学賞を受賞してゐたハイエク氏が出席してゐてお祝ひの言葉を述べたのを記憶してゐる。この本を持ってをられる国文研会員も多いと思ふが、今、是非一読されると良いと考へた次第である。

 急激な円高を恐れるのは輸出体質の企業ばかりではないが、それに対して「貨幣価値が高くて潰れた国はない」といふのも一面の真理であれば、「円高のリミット(極限値)はゼロである」といふのも数学的真理なのであるから、何か理由の解らぬ不安に怯へる国民がでるのも仕方がなからう。「人間、この恐ろしく頭の悪い生き物」と言ったイギリスの有名な文学者がゐたが、何でもかんでも自然科学で物事を決め付けやうとして奇妙な罠に嵌り込んでゆく姿を想像してゐたのだらうか。

 経済の問題も含めて、現在の国際関係のその他諸々の動きについては、我々人類の智恵を超えるものがある筈だ、と改めて覚悟をし直さねばならぬと思ふ。

(元神奈川県地方公務員 数へ 72 歳)

訂正とお詫び

6月号1頁3段20行目の「消費者ブームを論ず」は「消費ブームを論ず」に訂正。25行目以降の引用箇所につき次の太字の部分が誤植及び脱行でした。「昔はあつたのに今は無くなつたものは落着きであり、昔は無かつたが今はあるものは便利である。昔はあつたのに今は無くなつたものは幸福であり、昔は無かつたが今はあるものは快楽である。…」。また4段4行目の「落ち着き」は「落着き」に訂正。校正のミスをお詫びします。

編集後記

「国会議員の世襲」が云々されてゐるが、一面的に過ぎる。では他の議員はどうなのか。例へば永住の外国籍者に参政権付与を唱へる議員、北京の対日攻勢に踊って「国立追悼施設建設」議員連盟に名を連ねた超党派の130名…。「世襲」も「非世襲」も混在してゐる。国威国益への見識の有無こそ問はれるべきである。 (山内)

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