国民同胞巻頭言

第572号

>>PDFファイルはこちら

執筆者 題名
合宿教室運営委員長
池松 伸典
今夏、厚木(神奈川県)開催の合宿教室にご参加を
-「国のあり方」をじっくりと考へよう -
布瀬 雅義 細やかな自然観察から生れた国語表現
-「日本語は日本人の精神的血液なり」-
秋田 崇文 教員一年目を振り返って
- 試行錯誤の繰り返しだった -
高橋 俊太郎 裏方から見た合宿教室
-「指揮班」「事務局」の日々を振り返って -
  新刊紹介 : 山川弘至 著 3000円(税別)
『日本創世叙事詩 新訳古事記』 蜜書房 刊

 昨年9月、米国のリーマン・ブラザーズ証券の経営破綻を切っ掛けに広がった世界的な金融危機は、世界経済を冷え込ませ、わが国にも景気後退の荒波が及んでゐることは周知の通りである。

 この度の金融危機は米国のサブプライムローン問題を発端にしてゐるが、根本には1980年代から顕著になった「市場原理主義」がある。グローバリズムの波に乗った米国発のマネー・ゲームは金融工学から生み出された様々な金融派生商品を世界的規模に広げた。金融市場の活性化のためには「規制緩和」が不可欠との言説がまことしやかに叫ばれた。ところが、ひとたびマネー・ゲームが行き詰まり大々的な金融危機が到来するや米欧各国は投資会社への規制を強化し巨額の公的資金を投入した。グローバリズムからくる世界的な金融の「破局」を避けるためには、結局は各国政府が責任をもつナショナル・エコノミー(国民経済)に頼らざるを得なかったのである。

 「市場原理主義」の本家本元の米国では、クライスラーやGMの経営破綻は大量の失業者発生につながると見て就任早々のオバマ大統領は公的支援を打ち出した。ことは経済に限らない。そこには、現在のわが国でもっとも欠けてゐる、右顧左眄することなく、先づは国家国民のことを考へるといふ確乎とした姿勢があった。実はグローバリズムが持て囃された時であっても、先進各国は自国の利益につながるべくそれに和してゐたのである。この間、わが国で実施された「大規模小売店舗法廃止」「金融ビッグ・バン」「郵政三事業民営化」…等々は市場原理主義によるものだったが、どれだけの確信に裏付けられたものだったのだらうか。

 一方では、憲法改正論議は深まらず、歴史教科書の記述は(昭和57年の教科書検定誤報事件の際に自ら定めた「近隣諸国条項」に縛られ)、国外から非難されない範囲内に抑へられてゐる。こんな独立国があるだらうか。国全体が眼前の課題解決に汲々として長期的視点を見失ってゐるやうに思はれてならない。政治も教育も「国のあり方」に思ひを凝らすことを忘れてゐるのではないか。

 今から50年近く前、世間に電気釜・電気洗濯機などが出回り始めた昭和36年に、文芸評論家福田恆存氏は「消費者ブームを論ず」といふ文章を書いてゐる。便利になってきた生活の中で昔のものを否定して「いい気」になってゐる世間の風潮を鋭く批評してゐる。

「昔はあつたのに今はなくなつたたが今はあるものは便利である。昔はあつたのに今はなくなつたものは幸福であり、昔はなかつたが今はあるものは快楽である。幸福といふのは落着きのことであり、快楽とは便利のことであつて、快楽が増大すればするほど幸福は失はれ、便利が増大すればするほど落ち着きが失はれる」

 

  


  真実を衝いた重要な指摘である。「功利」を追求する中で失はれたものは何かを振り返ることは、今後の「国のあり方」を考へる際の前提である。時折、高校生の頃や大学生時代を思ひ起すことがあるが、この間の変化のあまりの大きさに我ながら驚かされる。国際情勢が一段と厳しくなる今日、今後の日本はどうあるべきかを身を入れて考へるべきだらう。

 54回目となる今夏の全国青年合宿教室は神奈川県厚木市で開催される。「先人はどう生きてきたか、私たちはどう生きるべきか?」を自らに問ひながら、「明日の日本」、「世界の中の日本」をじっくりと考へたいものである。全国各地からのご参加を心からお待ちしてゐる。

(若築建設(株)九州支店 数へ54歳)

厚木・合宿教室  8月20日〜 23日

○講義 「民主主義と国体」  埼玉大学教授 長谷川三千子先生

○講義「『チベット問題』から日本が学ぶべきこと アジアにおける日本の役割」
  桐蔭横浜大教授 ペマ・ギャルポ先生

ページトップ  

 武田鉄矢作詞のヒット曲「贈る言葉」は、次の一節で始まる。

くれなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉

 


  「暮れなずむ」の「なずむ」は歴史的仮名遣ひでは「なづむ」(泥む・滞む)となるが、「すんなりと進まない」「滞る」といふ意味であり、「暮れなづむ」は「暮れさうで暮れない」といふ意味になる。「去りゆくあなた」も夕暮れの様に、去り難い気持ちを抱いてゐるのだらう…。

 わが先人は「日が暮れる」といふ自然現象を濃やかに観察して、初めは「暮れそめる」が「暮れなづむ」となって、徐々に「暮れ行き」、やがて「暮れ果てる」と表現した。
  「国語を護る」といっても、大仰に考へる必要はない。我々が「暮れなづむ」といふ言葉に感ずる所があれば、その生命は我々の心の中で継承され、護られてゐるといへる。

  あけぼの、あかつき、しののめ

 清少納言の『枕草子』の冒頭の一節は教はった人も多いだらう。
 春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 (春はあけぼのがよい。だんだんあたりがしらんでゆき、山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいてゐるのがよい風情である)

 「あけぼの」の語源は不明だが、「あけ」は「開け」または「朱」、「ぼの」は「ほのか」と同根だらう。太陽はまだ地平線に姿を現さないが、東の空がほのかに明るくなって、明け行く時をいふ。「あけぼの」の前の薄暗い時を「あかつき」、東の空が少し明るくなる時刻を「東雲」といふ。

 「あかつき」は、奈良時代の「明時」が平安時代に「あかつき」と転じたもの。かつては「宵」「夜中」に続いて、まだ暗い「未明」の頃を指した。男が女の家を訪れる通ひ婚の時代には、この頃に男が去っていくので、「あかつきの別れ」といふ表現もある。今は空が白み始める「明け方」を指すやうになった。転じて、物事が成就した時期を指すやうにもなり、「試験に合格したあかつきには」などと使はれる。

 「東雲」の語源は諸説あるが、山の端が細く白むのを「篠(小竹)の芽」の細さに喩へて言ったとする説は 視覚的で美しい。「あかつき」と同様に「しののめの別れ」ともいふ。

ひむがしの野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

 

(東の野にあかつきの陽炎が射すのが見えて、振り返って見れば月が傾いてゐた)

 『万葉集』中の柿本人麻呂の絶唱である。地平線上に現れた「あかつきの陽炎」を「炎」と呼び、西側に沈んでいく月とを対比してゐる。

  月明かり、雪明かり、星明かり…

 昔は電灯などはなかったので、月、星、雪、花、川などの、かすかな明かりに敏感だった。月の光を「月明かり」、または「月影」ともいふ。

をとめらは夏の祭りのゆかた着て月あかりする山の路ゆく

 

 平成19年歌会始のお題「月」に寄せて、常陸宮華子妃殿下が詠まれたお歌である。同様に「雪明かり」「星明かり」「花明かり」「川明かり」などともいふ。特に「花明かり」は、桜が咲き乱れて、日が暮れても、なほそのあたりが明るく感じられる様を指す美しい言葉である。  

  五月雨、時雨

 わが国土は雨が多いので、先人たちは、雨を細かく観察し、描写した。まづは芭蕉名句を掲げよう。

五月雨を集めて早し最上川

 

(長く山野に降り続いた五月雨を集めて、速い勢ひで流れて行く最上川であることよ)

 五月雨は文字通り五月に降る雨のことだが、旧暦の五月は新暦の六月から七月にかけてで、梅雨時に降る
 長雨を指した。一説に、早苗を植ゑる「早苗月」が「五月」となり、その「早苗が乱れる雨」が「さみだれ」となったといふ。水田に植ゑられた早苗が、梅雨時の長雨によって右に左に傾いてゐる光景が思ひ浮ぶ。

 「時雨」は秋の終りから、冬の初めにかけて降ったり、止んだりする雨の事をいふ。「しぐれ」は「過ぎる」に通じ、「通り過ぎていく雨」の意といはれる。

九月のしぐれの雨に濡れとほり春日の山は色づきにけり

 

 『万葉集』中の作者不詳の歌。紅葉で色づいた山が、時雨に「濡れとほり」、しっとりとした情景が思ひ浮ぶ。
 旧暦の九月は新暦の10月から11月にかけての時期であり、「夜が長くなる月」なので「長月」と呼ばれた、といふのが通説である。 季節に結びつけられた雨として、春雨、夕立 、秋雨などもある。

  霧雨、小糠雨、篠つく雨

 他にも雨の降りざまによって、様々な表現がある。夏目漱石は『草枕』の冒頭で雨の降り出す情景を次のやうに精密に描写してゐる。

「四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かでほとんど霧を欺くくらゐだから、隔たりはどれほどかわからぬ…」

  

 霧雨は「雨の糸が濃やかでほとんど霧を欺くくらゐ」の雨。霧雨よりもやや雨粒が大きくなると「小糠雨」と呼ぶ。「小糠」は米を精白する時に出る細かい粉のこと。さらに雨足が太くなると「篠つく雨」といふ。「篠」は「しののめ」でも言及したが、群がって生える細い竹のこと。篠を付き降ろしたやうに、激しく降る雨を描写した表現である。その他、俄雨、驟雨、豪雨などがある。

  山笑ふ、山滴る、山装ふ

 山の景色も四季折々に表現された。「山笑ふ」は、山に花が咲き乱れ、新緑が芽吹き、明るく華やいでゐる様子の表現である。俳句では春の季語である。この場合の「笑ふ」とは、高笑ひといふよりは、朗らかな明るい笑顔を想像すべきだらう。
 もともとは、11世紀の北宋の山水画家、郭熙の『郭熙画譜』にある

春山淡治にして笑ふが如く、夏山蒼翠として滴るが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し

  


から、俳句の季語として広まった表現とのこと。
 故郷やどちらを見ても山笑ふ
は、正岡子規の句。故郷・松山を囲む山々が、春の陽光のもと、賑やかで活き活きとした緑で子規を迎へた様が偲ばれる。
 夏の山は「山滴る」、「緑滴る」の意である。
 山滴るそのしづかさにひとりゐるは、現代の俳人・大橋敦子氏の作。深い滴るやうな山中の緑の視覚的な賑ひと聴覚的な静寂とが、対照の妙をなす。
 秋の山は「山装ふ」で紅葉で美しく装った様をいふ。冬の山は「山眠る」で白い雪に覆はれて静まってゐる。山を擬人化して捉へる表現は、古来、山も「生きとし生けるもの」の一つとして考へた日本人の感性には当然のものであったらう。

  いざよふ、たゆたふ、たなびく  

 自然を細やかに観察し、和歌や俳句で表現してきた日本人は、その過程で美しい形容語を生み出してきた。その一つが「いざよふ」。

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも

 

(宇治川に仕掛けられた網代木に寄せる流れは一時行く手を遮られて行方は分らないことだ)

 柿本人麻呂の歌である。「もののふ」は「物部氏」で、多くの氏があったことから「宇治、八十、八十宇治川」にかかる枕詞となった。「網代木」は「網代(川魚をとるしかけ)」を支へる杭のこと。「いさよふ」は「ためらふ、ぐづぐづしてはやく進まない」の意味。

 十六夜も「いざよふ」が語根で、月が十五夜の満月よりも、少し遅れてためらいがちに出てくることから、こう呼ばれた。
 「たゆたふ」は、ゆらゆらと水や空中をさまよふ様子を表現する。

天の原吹きすさみける秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり

 

 江戸中期の国学者・歌人、楫取魚彦の歌である。「たなびく」は、雲や霞などが横に薄く長く引くやうな形で空にただよふ様を表す。

秋風にたなびく雲の絶えまよりもれ出づる月の影のさやけさ

 

 『新古今集』に収められ、百人一首にも選ばれてゐる藤原顕輔の清涼感あふれる一首である。

  日本語は日本人の精神的DNA

 明治期の近代化の過程で、標準語や仮名遣ひの統一に尽力した東京帝国大学教授・上田萬年は「言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、…日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし」と言ってゐる。現代なら「日本語は日本人の精神的DNA」と言ふ所だらう。本稿で紹介した歌や俳句が、読者の心の中に響いてくるならば、日本人の精神的DNAを継承してゐる同胞の一人といふことにならう。そして「暮れなづむ」といふやうな言葉に共感できる人は、夕暮れの一時をそれだけ豊かな気持ちで過すことができるはずである。

 この精神的DNAは代々の日本人を通して継承されてきたもので、現代に生きる我々は1300前の人麻呂の歌をほとんどそのままで理解できる。こうした豊かな精神文化を受け継いだ幸福を、子孫に受け渡していく義務が我々にもあるのである。

参照・ 倉島長正『日本人が忘れてはいけない美しい日本の言葉』(青春出版社、平成十七年)国際派日本人講座553、一部改稿

(会社役員 数へ五十七歳)

ページトップ  

  一番元気の良い挨拶をしよう!

 四月当初は教員になれたことに嬉しさ一杯の気持ちだった。そして、新前の私でも生徒から見れば「立派な先生」の一人であるはずだから、若さや経験不足は言ひ訳にならないと自分に言ひ聞かせてゐた。

 まづは学校内で、一番元気の良い挨拶をする教員でありたいと思った。ところが、私の思ひとは裏腹にある日指導教官に呼び出され、挨拶がきちんと出来てゐないと指摘されてしまった。私には寝耳に水の話だったが、挨拶をしたつもりでも聞こえてゐない、誰に挨拶をしてゐるのか分らない等々と言はれ、何の為の挨拶かと自分に問ひ直した時、形だけの礼をしてゐることに気付いた。いろいろと教へて下さる先輩教員へは敬意を込め、生徒に対しては私が持ってゐる元気を分け与へる思ひで挨拶をしようと改めて思ふやうになった時、初めて私の挨拶が認められたやうに感じた。同僚の教員も私を一人の教員として見るやうになったと感じた。礼に対する姿勢を考へさせられ、自信を持つて挨拶が出来るやうになったのは良い体験だった。

  「甘い教師」が「怒鳴る教師」に

 授業の方は、生徒が私の存在を認知し出した五月、壁にぶち当った。私の勤める高校は実業高校で、ほとんどの生徒は卒業後に就職する。実業高校と聞くと血気盛んな生徒ばかりを想像するかも知れないが、いろんな生徒がゐて、心に何らかの不安や傷を抱へてゐる者も少なくない。大人社会(家庭や地域)の影が生徒の心に及んでゐるのではないかと思ふことが多い。

 生徒が抱へる不安や痛みを知る度に、私は彼らに同情の気持ちを募らせた。思ひやりのある優しい先生でありたいと思った。赴任から暫くの間、生徒達は私がどのやうな先生であるのか様子を見てゐたと思ふが、叱らず、うるさく注意をしない私を「甘い教師」と見抜いたやうだ。さうなると忽ち教室は乱れ始める。授業中の私語、立ち歩き、女子生徒に到ってはお化粧まで。 あまりのことに、私はとうとう大きな声で怒鳴ってしまった。つひに「怒鳴る教師」になってしまった私はその度に心がすり減って行く感覚だった。

 怒鳴るだけで何もしないことが分れば生徒も怒鳴られることに慣れてしまふ。授業は一向に改善されない。それでも学校に通ふことは憂鬱ではなかった。不思議なことに授業以外では生徒は人懐こく素直な態度で接して来て、それが私にはとても心地よく感じられたからである。生徒の本質は素直であり、やはり私の授業に問題があると思って授業技術に関する本を読み漁った。私の担当教科・数学は嫌ひだとする生徒が多かったので、数学に関する偉人のエピソードや数論にまつはる話を授業に取り入れた。これらの方策はある程度の効果は発揮したが問題の根本的な解決には到らなかった。

  試験監督での失敗

 授業に関する悩みを抱へたまま迎へた一学期の期末試験の時、生徒と揉め事を起してしまった。試験開始のチャイムが鳴っても、教室の後ろの荷物置き場で立ったままなかなか着席しない生徒がゐた。理由も聞かずに大きな声で注意して座らせた。あとで分ったのだが、その生徒はシャープペンシルの芯が無かったのだ。試験時間の残りがあと十分といふ所で、その生徒が挙手して「トイレに行きたい」と告げたので、解答用紙を回収しようとしたところ、名前も何も書かれてゐない白紙だった。そこで「名前ぐらゐは書きなさい」と言ふと、「シャー芯(シャープペンの芯)が無い」と答へる。「それなら早く言へばいいじゃないか」、「でも早く座れって言ったのは先生じゃないか」といふことになったのである。

 その後、「授業担当の先生のところへ行つて事情を話さう」と連れて行かうとした時、「今更どうにもならない」と言ふ生徒との間で一触即発の事態となってしまったのだ。結局、その生徒は停学処分になってしまった。理由も聞かずに生徒を座らせて、生徒が発してゐたサインも見逃した自分が情けなかった。何よりも許せなかったのは、生徒を怒鳴りつけてその場を鎮めたことで安心してしまった自分に対してだった。

  夏合宿参加で初心を思ひ起した

 やりきれぬ思ひのまま夏休みに入り、国文研の夏合宿(合宿教室)に参加した。今にして思へば何かの切っ掛けにしたかったのだと思ふ。伊勢では、学生時代にお世話になった国文研の先生方、九工大の先輩や後輩に会へて、私の気持ちは和んだ。最も大きかったのは九工大の先輩で、会社勤務の傍ら毎年夏合宿に参加されてゐる橋俊太郎先輩(ラックホールディングス(株)勤務)の存在だった。合宿での私の役割は、主に橋先輩に張りついてマイクの音量調整と録音といふ裏方の仕事を手伝ふといふもので、神経を使ふ作業だった。息もつけない中でも仕事を平然とこなす橋先輩は頼もしく、暇を見つけては講義に聞き入り熱心にメモを取られる姿に感心させられた。そこに継続といふ意思の強さを私は感じた。

 夏合宿の帰途、教員になりたての頃を思ひ起してゐた。四月当初の、「国の将来を背負って立つ若者の育成」にこの上もないやりがひを感じてゐた、あの瑞々しい気持ちが蘇ってきた。まづ始めたのが毎朝、神棚に向って教育勅語を奉読し明治天皇の御製を拝誦することだった。四月から毎日続けてゐたのだがいつしか心に余裕がなくなり、時間の無さを言ひ訳にして途絶えてゐた。

 二学期に入っても相変らず授業は大変な面があったが、毎朝を穏やかな心で迎へ教員としての意志を貫く覚悟を持ち続けるやうに努めた。授業に関しては怒鳴ることをやめ、粘り強く生徒に接することを心掛けた。そして授業が荒れる原因を考察し先輩教員の授業を見に行ったり、アドバイスをもらふやうにした。

  気付いた私の授業の問題点

 さうしてゐるうちに、私の授業に問題点が二つあることに気付いた。

 @個々の生徒を見てゐなかった

 授業では生徒全体を見回すことを心掛けてゐたが、ただ見回してゐただけで、個々の生徒の表情を見てゐなかった。今にも眠りに落ちてしまひさうな顔、集中力が途切れてゐる顔、内容を理解するのが難しくあきらめたやうな顔。生徒の表情には心が授業に向いてゐるか否かが表れてゐる。私は一時間の授業で生徒全員と一度は視線が合ふやうに心掛けた。心が授業に向いてゐない生徒は私と目が合ふとはっとしたやうな顔になり、私の話すことが自分に話しかけられてゐるものだと感じたかのやうに心を授業に向ける。時には、目で伝へることは口で言ふことよりもはるかに多くを伝へることが出来ることを学んだ。

 A無意識に基準を緩めてゐた

 授業中の私語や居眠りは許されることではないが、一学期は口うるさく注意をせず、いきなり怒鳴り声を上げてゐた。また、授業時間がもったいないといふことで見逃すこともなくはなかった。「勉強をする、しないは生徒の自由でテストで点を取れないのは因果応報、私の責任ではない」と自分の指導力不足を棚に上げる責任転嫁の気持ちがどこかにあった。しかし、授業中に別のことをする生徒がゐる事実は教員としてごまかしてはならないと強く思ふやうになると、生徒に守らせなければならない授業態度の基準を私が緩めてゐたことに気付いた。

 生徒も授業態度が悪いことは分ってゐる。しかし、私がその時々で指導する基準を変へてゐたため、同じやうなことをしても叱られる生徒と叱られない生徒が出るやうになってゐた。生徒には不公平だと思はれるやうになってゐたのだ。

 授業に喰ひついて来る生徒とさうでもない生徒、男子生徒と女子生徒、クラスで影響力を持つ生徒とさうでない生徒といった具合に生徒を見て基準を変へてゐた。全ては生徒に嫌はれたくないといふ私の思ひと授業を無難に進めようとした私のひとりよがりだった。授業を通して生徒に数学の力を身につけさせることは私の仕事であり、生徒のために基準を曲げずに指導する。この信念を持って授業態度の悪い生徒は大声で厳しく指導するやうにした。授業態度が極端に悪い生徒がゐれば、授業時間を削つてでも生徒を教室外へ連れ出し、納得するまで私の思ひを伝へた。

  教員としてはまだまだ雛だが…

 現在、私の授業は落ち着きを取り戻しつつある。教壇に立つ者として生徒をきちんと見つめること、指導基準を曲げないことの二点は当然のことのやうに思はれるが、実践するのは存外難しい。先輩教員が私の研究授業を見て「授業は生徒と作り上げるもの」と言って下さったが、自分で納得の行く授業が出来たことはまだない。しかし、最高の授業を目指す日々は楽しく、試行錯誤の繰り返しである。教員として「+α」でやりたいことも多々あるがまだその余裕がない。しかし、この一年間を何とか駆け抜けることが出来た。

 今、私に多くを気付かせてくれた生徒と先輩教員、私を支へ励ましてくれた両親や周りの方々に感謝してゐる。教員としてはまだまだ雛だが、さらなる高みを目指して、これからも精一杯頑張って行きたいと思ってゐる。

(私立高校常勤講師 数へ二十五歳)

ページトップ  

 今年で五十四回目を迎へる毎夏の「全国学生青年合宿教室」は一年間かけて準備される国文研の一大行事であり、その準備・運営には多くの諸先輩が役割を分担されてゐる。

 私は、学生時代(九州工業大)最後の年の平成十四年夏、江田島(広島県)で開催された第四十七回「合宿教室」に参加して以来、社会人になってからの参加も含めて計七回参加した。合宿に参加するためには学生の時と違って勤務先で業務調整をしなければならない。年々、そのやり繰りに苦労するやうになってゐるが、それだけ職場での責任が増してゐるといふことなのであらう。

 これまで参加した七回のうち五回は指揮班または事務局の一員だったから、裏方としての参加が多かったことになるが、普通の参加者が味はふことのできない体験をしてきたと感じてゐる。それらについて少し述べたい。

  指揮班・事務局の役割

 (1)指揮班

 合宿全日程の進行を統率する運営本部=運営委員会(東北・関東・関西・福岡・熊本・鹿児島など各地区からの委員七〜八名で構成)の下で、開会式から閉会式までの一連のスケジュールを滞りなく進めるため、第一線に立つのが指揮班である。日程の確認と連絡、講義資料の配付、講義題目表示の貼り替へ、講義室での席順変更など、様々な業務をこなす。指揮班長は個々の日程が終了する都度、次の集合時間の指示や日程変更の連絡等々を行ふために日に何度もマイクを握ることになる。班長を中心に全体の動きを見ながら次の日程に備へるのが指揮班の役割である。

 (2)事務局

 事務局は、指揮班のやうに表に出ることはないが、出納管理や全参加者の動向、朝昼夕の食数の把握と手配、招聘講師の送迎等から、合宿参加者の名簿作成等の事務作業を担当する。さらに講義室での音響確認や講義の録音も事務局の範疇である。

  指揮班・事務局の仕事

 (1)合宿開会の前日

 指揮班・事務局の仕事は、合宿前から始まる。会場設営作業等の準備があるため、前日から現地入りする。この前日の宿泊を「事前合宿」と呼んでゐる(以前は、もう一日前に集まって「太子の御本」の輪読をしてゐたと伺ってゐる)。

 ただし、この時点で指揮班・事務局を担ふ全員が揃ふわけではない。社会人だと長期の休みをとることが難しい場合があり、開会当日から参加の指揮班員・事務局員もゐる。そのため、遠方から参加するなどの理由で、事前宿泊してゐる学生・社会人を交へて、皆で設営作業に勤しむ。この作業は譬へるなら、高校時代に経験した文化祭の前夜祭に近い雰囲気があって、なかなか楽しい。開会直前の受付時に参加者に配る諸資料の袋詰め作業もある。

 さて、事務局には国文研事務所の職員の方がをられるので、私の目には事務局設置の準備作業はスムーズに見える。しかし、指揮班は若手の国文研会員で構成されるため、年度によって熟練度にばらつきが出てしまふことがある。私が初めて指揮班に参加した時は、指揮班長以外は全員が指揮班初体験だったため、かなり苦労したといふ記憶がある。

 準備作業で、私が最初に困ったことは録音機材の設置である。私にとっては初めての施設であり、その場で機器設備を確かめ、国文研から持ち込んだ録音機材と繋がなければならない。施設によっては設備や配線が変るため、最初にこの仕事を任された時はうまく作業をこなせるか不安だった。しかし、先輩方が長年に渡って備品・マニュアルの形で経験を残してきてをり、それらを頼りに何とか作業を進めることができた。

 (2)合宿期間中

 合宿が始ってしまへば、指揮班は日程の進行のために走りまはることが仕事になる。講義資料の配付準備、次の講義に向けた講義室(壇上、座席順、エアコンなど)の点検、突発的に発生した事態への対処等々やる事はたくさんある。朝は「朝の集ひ」に先立って起床し、声を掛けながら各班室を一巡する仕事もある。雨天時は集合場所の変更も周知しなければならない…。

 事務局に属した時は、音響・記録の仕事を担当としたことが何度かある。その場合はステージ横の音響スペースにこもるが、私には日常生活の中で出会ふことのなかった新しい経験であった。

 音響・記録担当は、指揮班のやうに走りまはることはないが神経を使ふ場面が多い。その一つに、講義の録音作業がある。講義をきちんとテープに収めることは『国民同胞』合宿特集号(九月号)の編集や合宿レポート『日本への回帰』の作成にも大きく関連してゐるからである。作業自体は、録音機材のスイッチを入れていくだけであり、難しくはない。ただスイッチが上手く入ってゐなかったとしたらと思ふと全くの冷や汗もので、毎回、冷や冷やさせられる。 また、開会式・閉会式等の式典で音楽を流す時も緊張する。国歌斉唱の際、「君が代」の演奏を流すが、再生ボタンを押すタイミングは気が抜けない。作業は単純だが、音響スペースからは会場の様子が直接見えないことが多く、式の進行に上手く合ふやうに細心の気配りが要求される。

 その他には、講義室のマイクやスピーカーの調整も重要な作業である。放送設備は施設によって異なり、機器の癖を把握することも大事な任務である。事前のテストでは良好だと思っても、二百人余が着席すると音が吸収され、聞きづらくなることもあるし、登壇者の声量やマイクとの間隔によっては、スピーカーの音量が変はるため、その都度ボリュームの調整に気を遣ふ。

 慰霊祭の折には「海ゆかば」のテープを流すが、スイッチのタイミングがまた難しい。昨年の伊勢合宿の場合は屋内での慰霊祭であったが、照明を全部落したため真っ暗な中で作業をすることになり、神経を使った。開会式閉会式の「君が代」はその冒頭で流すからまだやりやすいが、慰霊祭では祭儀の後半で「海ゆかば」を流すので待ち時間が長く、しかも、息を詰めるやうな祭りの静寂も加はって、張り詰めた気持ちになる。その上再生のタイミングを外せないといふプレッシャーもあって、わづか二十数分の待ち時間が何時間にも感じられる。それだけに無事に祭事が終了した時は、本当にほっとした。

 (3)閉会式後

 閉会式で合宿教室は幕を下すが、裏方としては合宿は続く。設営した機材を撤収しなければならない。
 撤収作業時は、設営した機材を全て梱包するため、事前合宿時と同じくらゐの労力がかかる。多くの指揮班員・事務局員は翌日からの勤務のため合宿地を去るから、事前合宿時に比べて従事する人数は少ない。その日のうちに機材を梱包し発送して、全機材を撤収することは無理なため、もう一泊する。これを「事後合宿」と呼んでゐる。 撤収作業は慌しく進むが、無事に合宿運営の責任を果したことから、裏方としては満ち足りた気持ちで作業を進める。なほ、合宿期間中は連日夜遅くまで細々とした仕事をこなすが、翌日のスケジュールに影響しないやうに限られた時間ながらも若干の睡眠はとる。しかし、この晩だけは、翌日は帰路につくだけだから、さらに遅くまで話込む。

  「裏方」の仕事で見えたもの

 指揮班も事務局もまさに裏方の仕事だが、諸先輩が一年かけて準備してきた「合宿教室」の運営の一端を担ってゐるといふ重味と、二百名余の参加者を支へてゐるといふ充実感を覚えながら取り組んできた。 左記は初めて指揮班に属した第四十九回「合宿教室」(平成十六年、阿蘇)の折の拙詠である。

  指揮班員として合宿に参加して

 汗だくに走り回りつつ感ずるは皆を支ふる陰の楽しさ

 この時は指揮班の業務があって短歌創作をかねたレクリエーション(阿蘇登山・草千里散策)に参加できなかったので、右の歌を詠んだのだが、当時の気持ちを表してゐる。

 合宿教室の魅力の一つは、日頃接することのないさまざまの分野や世代の方々と会へることにあると思ふ。学習班でも稀有な交流ができるが、裏方における交流も別の趣がある。特定の班といふ枠を越えて多くの人達と話をし、具体的に物事を処理する場面が多いからである。

 今回、指揮班・事務局の日々を回顧しつつ、思ったこと感じたことを書かせてもらった。裏方として関はったことで、合宿教室の違った側面を多く見ることができた。そして一つの事業が遂行するためにはそれを支へる目に見えない意思力の結集が不可欠であるといふことを実感できた。かうして得られた新しい視点は、日常の職場生活においても必ずや役立つはずと思ってゐる。

(ラック ホールディングス(株) 数ヘ三十二歳)

昨夏の伊勢合宿教室の記録

 日本への回帰 第四十四集
・「内なる国家」を見つめよう
・よみがへる『古事記』
・国家の「自立」とは……ほか

価九百円 送料二百十円

ページトップ  

 本書は昭和二十七年十二月に初版が刊行された『日本創世叙事詩』の(平成四年の復刻版に続く再度の)復刻版で今年三月に上梓された。このたびの復刻にあたり読者にその内容をわかりやすく説明するために、新たに〈新訳古事記〉を副題として付したと凡例にあったが、『古事記』本文書き出しの「天地の初発の時」から「天孫御降臨」までが五音七音の調べで収められてゐる。

 著者の恩師・折口信夫は本書の〈はじめに〉-昭和二十七年八月十一日-の中で、「人はあわただしく、之を古事記の詩語訳本のやうに思ひなすかも知れぬ。併し山川君にとつては、古事記を新しく活すのは、此道ほかなかつた訣なのである」「古事記全篇を、語部の口に乗つて居た、以前の叙事詩の姿に還すのが、君の願望であり、又若い彼の最正しい行き方だと信じて居たに違ひない」と記してゐる。〈新訳古事記〉を読み進むうちに、天武天皇の勅語を承けて稗田阿礼が誦習した「原古事記」ふるごとぶみとは、かかるものではなかったかとふと思はれた。冒頭の「天地の初発の時」の一部を掲げてみる。

  天地の初発の時し
おのづから天つみ神は
かぎりなき久しき時ゆ
成りましき天の御中に

  くに稚く脂のごとく
  くらげなす浮きただよへる
  天地の杳きみなかに
  天つ神なりましにけり

大いなる神のみ光
たださせば四方の国々
み光に照りかがやきて
おのづから所えにけり …

  昭和十八年七月応召して翌年九月台湾に転じてゐた著者は、國學院大学で国学と神道、国史国文を研究し、すでに詩人・歌人にして国学者として刮目されてをり、評論集『国風の守護』(平成十八年、錦正社から復刻版刊行)ほかの著書や詩歌集があった。本書は彼の地での軍務従事の厳しい制約の中で練られたもので、「古事記全篇を、語部の口に乗つて居た、以前の叙事詩の姿」に還すことを願望してゐたに違ひなからうに、「天孫御降臨」で擱筆してゐる。 

 本書の〈あとがき〉で山川京子先生(歌人、「桃の会」主宰)は御夫君である筆者を追想しつつ本書成立の経緯に触れてをられる。
 それによれば「天孫御降臨」までの原稿が、故国で安否を気遣ふ新妻・京子先生(召集令を受け、急遽挙式。お二人の生活は旬日にも満たなかった)のもとへ友人に託されて届いたのは台湾転属から二ヶ月後の昭和十九年十一月二十五日であった。翌二十年一月九日着の書簡には「古事記ののこり木花咲耶姫より神武天皇のご出発まではまもなく送ります。序文もその際おくりませう」とあったが、同月二十一日到着の〈序文〉の原稿に添へられた手紙には「生還はなかなかきしがたい」とあって欄外に「木花咲耶ひめ以下はやめます さきに送つたのとこの序文で全部終り」とあったといふ。以て、戦局利あらずして緊迫する状況下、日夜、一層厳しく軍務に恪勤する著者を想ふばかりである。それから半年余り後の昭和二十年八月十一日、台湾南部の屏東飛行場で暗号解読の任務中、フィリッピンから飛来した米軍機の爆撃によって落命してゐる(享年満二十八歳)。玉音放送の四日前のことであった。「今少し時を与へられましたら木花咲耶姫以下も綴られたのではないでせうか/そのいたましい思ひもこめて、作者が序文に記してをります安田靫彦画伯の名作『木花之佐久夜毘売』を表紙に頂戴させて頂きました」との一節に、改めて表紙を見つめ直した。

 それにつけても、二十歳代にして、かくの如き〈新訳古事記〉をものされたのは著者の稟質ただならぬことを示すものだが、それが彼の戦ひの最中で形を成したことは戦争が「文化の戦ひ」でもあったことを如実に物語ってゐる。

(五月八日記 山内健生)

第五十四回全国学生青年合宿教室

この夏、厚木で「日本」を学ばう!
- 先人はどう生きてきたか 私たちはどう生きるべきか?-

招聘講師に 長谷川三千子先生 ペマ・ギャルポ先生
8月20日(木)〜23日(日) 厚木市立七沢自然ふれあいセンター


編集後記

新型インフルエンザウイルスの日本国内への潜入を防ぐべく各国際空港で防疫が強化されたが、潜入を防げなかった。しかし、GHQ演出の「戦後的価値観」(東京裁判史観・日本国憲法体制)といふ「日本弱体化ウイルス」には防御の備へがない。それどころか、マス・メディアは積極的に呼び込み役を演じ、政治も教育もその影響下にあるため、竹島占拠や同胞拉致、「南京」記載の教科書等々を憤る声は盛り上がらず、その上、小学校「英語」で国民教育の焦点は益々呆ける…。

(山内)

ページトップ