国民同胞巻頭言

第571号

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執筆者 題名
北村 公一 感じ取らなければ分らないことがある
- 「その努力を惜しんではならない」 -
久保田 真 卒業おめでたう - 「真心を尽す人に」 -
-
追悼 元常務理事 山田輝彦先生
那須 三元 山田輝彦先生を偲びて
折田 豊生 山田輝彦先生の訃報に接して
藤新 成信 厚木合宿への参加者勧誘の呼び掛け
- 山口秀範先輩の記念講演に目が覚めた -

 S君へ

 先日の会合で、君は「自分は学生の時から合宿教室に参加してゐるが、実のところ『天皇』といふ御存在については未だに自分の中で『これだ』と得心が行ってゐない」と話してくれましたね。自分をよく見つめた、正直な言葉だと思ひました。

 何と答へたらいいのだらうかと私なりに思ひを巡らせて来ました。やはり天皇の御本質は「祈り」だと思ひます。しかしこのことを説明することは私には荷が重過ぎますし、また言葉だけで説明できることでもないやうに思ひますので、ここでは私自身の体験をお話しさせていただきます。

 平成7年1月に、私が住んでゐた神戸を阪神淡路大震災が襲ひました。私の住んでゐた社宅も全壊したため、着の身着のままで家内の実家に身を寄せました。多くの被災者が避難所暮しを余儀なくされたのに比べ、私たちは怪我もなく幸運でした。そんな中、天皇皇后両陛下が被災地を見舞って下さったのです。御所で摘まれた水仙の花束を焼け跡に供へられ、避難所になってゐる体育館に足を進められました。

 私はテレビで拝見したのですが、床に敷き詰めた布団や毛布の上に被災者が座ってお迎へする中に両陛下は分け入って行かれ、お言葉をお掛けになります。両陛下の優しいお姿に手を合せて拝む老人、涙する人、つひには皇后陛下の御腕にとりすがって号泣する婦人もありました。

 その婦人はなぜそんなに激しく泣いたのでせう。地震の恐怖、家族や家を失った悲しみ、避難生活のつらさ、今後の不安など、様々な思ひが一気に溢れ出たに違ひありません。当然のことながらそれらは恨みつらみとは違ってゐました。皇后陛下のお言葉や眼差しに接した時、その婦人は自分の苦しみを分って頂けたと感じたのではないでせうか。幼子が母の胸に抱かれるやうに、安心しきって、泣けたのでせう。私自身は避難所でお迎へした訳ではありませんが、私たちも含めて全ての被災者に御心を寄せて下さってゐることがよく分りました。

 両陛下はそれから後も何度も兵庫県を行幸啓下さり、3年前には私たち県民は奉迎の提灯行列を行ひました。その日、ご宿泊のホテル前広場に2,000人の提灯を手にした県民が参集し、両陛下のお出ましを待ちました。やがてお部屋の灯りが消され、両陛下がバルコニーに提灯を持って立たれました。

 聖寿万歳の嵐、皆提灯を持った手を振り上げます。すると両陛下もこれに合せて提灯を上下に振られるのです。しばらくして今度は両陛下が提灯を左右に振り始められました。我々もそれに合せて、提灯を左右に振ります。何とも美しい上下一和、君臣感応の光景ではないでせうか。そして湧き起る国歌君が代の斉唱。私はこの時ほど、日本に生まれて良かったと思ったことはありません。

 これらの感動は陛下が常に国民の幸せを祈ってをられる、その大御心が私たちにも感じられることから起るのだと思ひます。感動は理屈ではありません。心と心が触れ合ふ無限の世界です。知識と理論は大事ですが、人間として生きて行く中で、もう一つ大事な感じ取る世界があることにも気づいてほしいと思ひます。

 S君は人の心が分るといふことに思ひを凝らしたことがありますか。何かを真剣に祈ったことがありますか。皇后陛下の御腕にとりすがって号泣した婦人の胸中は感じ取ることでしか分りません。陛下のご日常は「国安かれ民安かれ」の祈りの日々です。そのことを御製やお言葉から拝察するわけですが、まさに感じ取らなければ分らない世界です。その感じ取らなければ分らない世界に近づくにはやはり努力が必要です。その努力を惜しんではならないと思ひます。さうした中で、自づと天皇の御存在が見えてくると思ひます。

 S君、勉強の成果をお聞きする日を楽しみにしてをります。

(平山直樹税理士事務所 数へ43歳)

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 去る3月1日、三年間担任した生徒を卒業させた。商業科のクラスで3分の2は就職して実社会に出ていく生徒たちであり、この1年間、彼らに何を伝へようかといつも考へてきた。
 左記の一文は、将来、いつの日にか読んでもらひたいと思って卒業生に贈ったものである。この文章を書きながら、小田村寅二郎先生が御講演の中で「心を尽さずんば日本人にあらず」と述べられた一節(国文研叢書27『学問・人生・祖国 - 小田村寅二郎選集』所収、「心を尽す人を」)や、毎夏の合宿教室で「大学の違ひ、学年や文系理系の相違を超えて、互ひに心を尽して語り合って欲しい」と開会の御挨拶をされたお言葉が思ひ起されてならなかった。先生のお姿をお偲びするたびに、戴いた学恩の大きさを改めて感じてゐる。

       「真心を尽くす人に」

 卒業おめでたう。3年間君たちの担任をして、思ひ出は尽きません。教員生活17年目になりますが、1年から3年まで持ち上って担任をしたのは初めてだったので、君たちとの日々は忘れられないものになりました。

 入学の頃のやや緊張した、あどけない表情が昨日のことのやうに思ひ出されます。大学・専門学校への進学、あるいは就職と各自進路は違ひますが、それぞれの人生航路の中で大きく舵をきる今、君たちは青年らしく、新たな決意に胸をふくらませてゐることと思ひます。
 その一方で、何となく不安感も抱いてゐることと思ひます。
 まづ、青年期特有の社会に向ふ不安があるでせう。これまで何度も言ってきたやうに、新しい仕事を覚える苦労、人間関係の苦労は誰にでも必ずあります。就職する人は、3年、最低でも1年は是非頑張って下さい。周りの人は皆経験をしてゐることですし、慣れていくと知恵がつきます。頑張ってゐる内に、困難を乗り越える道がきっと見えてきます。

 また、明るい話題の少ない近年の世相から、漠然とした不安を覚えてゐるのではないでせうか。平成21年は良い年でありますやうにと願ってはゐますが、今年も、少し前までは考へられなかったやうな信じがたい事件や、アメリカの金融危機に端を発した未曾有の不景気、財政破綻や年金問題から来る将来への不安など、残念ながら暗いことが話題となることは避けられないでせう。

 しかし、断言します。日本は必ず復活します。さういふ底力が日本にはあると思ってゐましたし、3年間君たちと過し、今は確信に変りました。何度も話してきたやうに、日本経済や日本社会を支へてきたのは、現場の頑張りと工夫です。「自分の持ち場で気づき、工夫することが日本を支へてきたのだ、ボーッとするな」と何度も言ったと思ひます。そして、「誠実に生きなさい」と。

 最近は、自分達で教室の掃除をしたり、折り紙などで飾ったりしてゐました。「誰か雑巾で棚を拭いてくれ」と言ふと、数人が出てきてやってくれました。後ろの黒板に行事予定を書き、積極的に自発的に行動してゐました。入学試験や就職試験に赴くクラスメイトに激励の手紙を書いて渡してゐましたが、多くの生徒が勇気づけられたと合格体験記に書いてゐました。また、冬休みに入って教室に生けておいた花を忘れたと思って取りに戻ったら、なくなってゐて、「あれっ」と思ったのですが、新学期には生き生きとした花が教卓に飾ってありました。誰か家で水をやってゐてくれたのです。今でも誰がしてくれたか分りませんが、学年が進むにつれて、クラスのまとまりを感じるやうになったのはかういふことなのか、一人一人の真心と創意工夫なのだなと思ふやうになりました。感心することがたくさんあって、入学時からすると本当に驚いてゐますし、頼もしく思ってゐます。日本人の底力を信じられる所以です。

                    ◇

 箱根の奥山に人知れず咲く桜の下に、「あれを見よ深山の桜咲きにけり真心尽くせ人知らずとも」といふ碑があるさうです。

 人が見てゐようがゐまいが、誠心誠意、心を尽してきたのが日本人だったのだと思ひます。日本人が一所懸命掃除をしてきたのはかういふことだったのか、掃除をして自分の真心も磨いてきたのだとやうやく気づきました。

 西欧諸国の侵略に対峙した、激動の近代日本の先頭に立たれた明治天皇に次のやうな御製があります。

        教育(明治39年)
     いかならむ時にあふとも人はみなまことの道をふめとをしへよ

        をりにふれたる(明治45年)
     しのばれぬ時をしのびしのちにこそ人のまこともつらぬきにけれ

 どんな時でも真心を貫いて生きていくことこそ大切だ、教師や親はそれを教へよといふことです。そしてまた、いやなことが目につきいろんな困難にぶち当ることの多い人間社会ですが、そんな人間社会で真心を通すことは難しいことですが、むしろその困難を忍んでこそ真心を貫けるはずだと詠まれてゐるのだと思ひます。大変意味の深いお歌です。そのためには僕らは心身ともに健康でなければなりません。私自身も日々心を新たにし、共に頑張って生きていきたいと思ひます。

                    ◇  

 それでも落ち込むし、元気をなくすことがあるでせう。さうした時、頑張れる力はどこから来るのでせう。「千円札」の野口英世と母、さらに恩師との関係を紹介します。
 黄熱病の研究などで第1回のノーベル賞候補にもなった野口英世は、福島県の貧しい農家に生れ、一歳の時、囲炉裏に落て、左手が握ったままで固まってしまひました。小さいときから事あるごとにそれをタネにいぢめられ、小学校3年の時は朝家を出るけれども学校には行けなくなってサボってゐました。それを知った母は自分を責めて泣きました、私が目を離したばっかりにと。しかし母は心を鬼にして言ひます。「でもね、お前は手が使へなくても、頭ならいくらでも使へるはずだよ。いぢめられて悔しかったら、うんと勉強して、みんなを見返してやったらいい。どうか辛抱して学校に行っておくれ。母さんも今まで以上に頑張るから」。お酒飲みで働かない父に代って、朝から晩まで働いてゐた母の言葉だけに「ごめんよ母さん。明日から学校に行くよ」。胸中深く「一所懸命勉強をして、誰にも負けない人間にならう」と決意し、トップの成績を残すやうになったのです。

 障害を持ちつつ頑張る英世を不憫に思って、手術のための募金を行ったのが小学校の恩師小林栄先生でした。おかげで手の手術を受けることができ(手は開いても生涯小さなままだったやうですが)、その感激から当時も難関の医学を目指したのです。

 アメリカで研究をしてゐた英世のもとに、60歳の母から手紙が届きました。教育を受けてゐない母の手紙が残ってゐますが、ひらがなだけでしかも間違ひが多く、スッとは読みにくいものです。手紙には借金などがあり心細く、神頼みをしてゐる。「はやくきてくだされ。はやくきてくだされ」と書いてありました。英世は研究を一時中断して、2ヶ月ほど帰国してゐます。

 その後、英世は黄熱病患者の治療に当ります。その黄熱病にかかりアフリカ・ガーナで51歳で亡くなりますが、38歳の時、こういふ言葉を残してゐます。

「私の過去において、最も私を心配し、最も奮起させたのは母上です。将来における私の光明と勇気も一に母の愛に負ふものです」

 

 英世の人生を支へたものは母の思ひでした。そして、不遇ではあったでせうが、恩師や医師との出会ひから人生を歩んでいったのです。

 また、努力していくことに対して、次のやうな言葉を残してゐます。 「忍耐は辛し、されどその実は甘し」(寺子屋モデル・三林浩行氏の講義から)

                   ◇

 奮起する力はこのやうにして生れてきたのです。だから日本人は、西欧の侵略に対して独立を達成し、先の大戦でも命がけで戦抜き、敗戦後は世界が驚くやうな高度経済成長を成し遂げたのです。君たちにも「母」は近くにゐます。

 心掛け次第で「心はいつでも元気に」できます。大切なことは、プラス面もマイナス面も含めて、自分自身を好きになることです。

   「最も幸福な状態を10点とすると今 は何点ですか」
   「今4点ですか…」
   「それじゃ、あと何ができると合格 点になるかな」

 今自分がしなければならないことは何か、それはそれぞれの場所で創意工夫の努力を続けることだと思ひます。落ち込みさうになった時は、自らに鞭打ち、気持ちに張りのある充実した人生を送って下さい。そこで初めて幸せに出会ふのです。

 また会ふ日を楽しみにしてゐます。

 直木賞作家、天童荒太は『悼む人』の中で、主人公にこう言はせてゐます。「人生の本質は死に方ではなくて、誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたかにあるのではないか」。 君たちの将来が幸多きことを祈ってゐます。

(平成21年3月1日) - 寄稿に当り歴史的仮名遣ひに改めた -
(熊本県立菊池高校教諭 数へ44歳)

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 本会元常務理事の山田輝彦先生にはさる2月19日、逝去。享年89歳。先生は大正10年、現在の北九州市若松区にお生れになり、旧制若松中学から、旧制佐賀高等学校に進まれ、同信会に入会。高瀬伸一(昭和20年7月戦死)、小林国男、小柳陽太郎氏らの1年先輩に当る。昭和20年、九州帝国大学法文学部国文学科を卒業。福岡県立若松高等学校教諭を経て、福岡教育大学教授。同大を昭和59年退官、その後中村学園大学、九州女子大学教授を歴任。

 一方、国文研発足後は長らく常務理事として本会思想活動の中枢を担はれ、毎夏の合宿教室では例年のやうに講義を担当された。深い思索と鋭い思想分析に基づく数々の御講義は、その根底を貫く祖国の再建を念じられる御心情と相俟って、聞く者をして引き付けずにはおかないものがあった。

 先生は御著『明治の精神』の「はしがき」で、戦後思想に欠落してゐるものは「国」と「死」の問題であると指摘され、個人の欲望充足に奔る戦後の思想を「欲望自然主義」であると厳しく批判されてゐる。思想の濫れが価値観の多様化の名の下で愈々、増幅する今日、先生を喪ったことは限りなく悲しいものがある。

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 私が山田輝彦先生に師事するために福岡教育大学中学課程国語科に転学したのは、昭和53年のことであった。その2年前、熊本大学理学部に入学し、熊大信和会の学生寮「時習義塾」で学ばせていただいてゐた私が、将来の進路に迷ひ退学を決意した時、私の考へを聞き出しその漠然とした計画の無謀さを懇々と諭してくださったのは、折田豊生さんを初めとする熊大信和会の諸先輩であった。そして当時熊本県立高校に勤務され、信和会の活動を指導してくださってゐた片岡健さんからアドバイスを頂き、大学1年・2年次に国文研の合宿教室でその謦咳に接してゐた山田輝彦先生のいらっしやる福岡教育大学に転学することとなった。

 私は早速先生に手紙を差し上げ丁寧な御返事を頂戴したが、今手元になく、参照できないのが残念である。爾来30年、私を熊本の地から福岡へ送り出してくださった方々や恩師山田先生のお心を思ふと、正に慙愧に堪へない。先頃、先生の訃報に接して、改めて深き学恩に感謝を申し上げるとともに、福岡教育大学で山田先生のご指導を忝くした者として、思ひ起されることの一端を記させていただき先生のご冥福をお祈り申し上げたい。

       先生は大学でも戦ってをられた

 福教大の入学式を終へ早速山田先生の研究室を訪ねた日のことは、今でも鮮明に記憶してゐる。それまでは合宿教室の壇上に立たれる先生を見上げるだけであったが、初めて直にお話することができた。私は転学の顛末をお話しし、先生から激励のお言葉をいただいた。そして、1・2年次の間私の指導を担当される教授の研究室に連れて行って下さり紹介して下さった。

 その日以来卒業するまでの4年間、講義の空き時間や講義終了後、先生が居られようが居られまいが、いつも先生の研究室にお邪魔させていただくことになった。

 私が入学した昭和53年当時、福教大はまだ過激な学生運動の余波が残ってをり、以前には抗争による死亡事件まで起ってゐた。学生自治会は革マル派系の学生によって私物化され、学生会館も学外の活動家によって占拠されてゐた。私自身、バリケードの中に入ったため長時間詰問されたり、私の安下宿の部屋にいきなり見知らぬ活動家風の男が2人飛び込んで来て私の素性を探って行ったこともあった。それに対し、日本青年協議会の学生組織であった教育問題研究会の学生達が少数ながら、日本の思想・文化に学ぶ学風を求めて孤軍奮闘してゐた。

 山田先生は、彼らが企画する講演会の講師を引き受けられ学内の講演会で度々お話をされてゐたやうである。入学して間もない頃であったが、大学正門に山田先生の講演会を知らせる大看板が立てられた。このことは、暴力事件まで起ってゐた荒れた学内でご自分の立場を宣言されるに等しかった。先生は、その講演の中で「毎日あの立看板の前を通る度に、早くこの講演会が終って欲しいと思った」といふ意味のことを冗談めかして話されたが、思想的対立も刺々しく厳しかった当時の大学においても、国文研における言論活動をそのまま展開され、大学正常化のために戦ってをられたのである。

 1・2年次の時、私は九州大学・西南学院大学・福岡大学の信和会で学ばせて頂いたが、3年次の時、当時福岡県立高校教諭であった小野吉宣さんが1年間福教大に留学され、小野さんのご指導の下に「福教大信和会」として独自に活動するやうになった。後輩として是松秀文君・脇元光法君・中園裕二君・太田和宏君の四名が入会し、そのうち私と是松君・脇元君の3名で大学の近くに部屋を借りて「明日香寮」の看板を掲げて共同生活を始めることになったのは、昭和55年であった。開寮式の時には先生にも来ていただき、お祝ひしていただいたことは忘れられない思ひ出である。彼らと共に、北九州市若松区の先生のご自宅にお伺ひしたこともあった。先生の研究室では、合宿教室の参加学生とともに短歌会を開いてご指導を受けたり、御多忙の中、時には『講孟余話』の輪読会にも参加していただいた。

       先生のご指導で卒論は「漱石」に

 先生のご専門は近代文学・近代思想史、特に夏目漱石の研究であり、その方面の代表的ご著作は『夏目漱石の文学』(桜楓社刊)である。ここには、「草枕」から「明暗」へ至るまでの漱石の代表作10編に関する論文が収められてゐる。先生は、論文のご執筆には夏休みを利用されてゐたやうだが、8月は国文研の合宿教室と重複して、そこでのご講義の準備に多くの時間を割かれてをり、論文の完成には大変なご苦労があったやうだ。論文が漸く完成して筆を擱く時には解脱感のやうなものがある、と仰ったこともあった。

 先生のご研究の特徴は、漱石の文学を広く近代思想史上に位置づけ、ナショナリストとしての思想家の側面や、近代国家明治日本の持ってゐた奥深さを正当に評価された点であり、近代において倫理的に生きるとはどういふことか、を徹底的に追求した思想家として漱石を捉へてをられる点だと言へる。この様な漱石観はそれまでの漱石研究史上画期的な視点であり、漱石研究の世界でもっと取り上げられてよいものではないかと思はれる。

 大学の先生のご講義では、1年次に森外、3年次に夏目漱石の作品を対象とした演習、同じく3年次に近代文学思想史の講義を受講させていただいた。また、3年次からは先生の研究室に所属し、卒業論文は夏目漱石の「文学論」をテーマに作成した。こちらの方面でも私はよい学生とは言へず、演習における発表にしても卒論にしても大変恥づかしいものであった。ただ、北村透谷や岩野泡鳴、夏目漱石などによる近代文学思想史のご講義の中で、形式に囚はれない人間の内心から自然に発する生命的なものの系譜を指摘されたことは、30年を経た今でも強く印象に残ってゐる。

       高木市之助先生に師事された先生

 先生は、大学内でも研究以外の職務も多く、また福岡教育大学付属中学校の校長も勤められ、国旗や国歌の扱ひを初めとして様々な改革をなされた。また、火野葦平とも深い交友を持たれ、彼の自死の前、最後に会はれてゐる。

 先生は九州帝国大学時代、高木市之助先生に師事され『万葉集』を研究された。お好きな歌として「振り仰けて若月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも」(3531)を挙げられたことがある。高木先生の論文には、先生が学生時代に踏査された成果が先生のお名前とともに引用されたものがある。内発的に躍動する人間の精神を大切にされる先生の感覚は、『万葉集』に親しまれたご体験に負ふところが大きいのかもしれない。

「綾にしき何をか惜しむ 惜しめ ただ君若き日を いざや折れ花よかりせば ためらはば折り て花なし」(佐藤春夫訳『車塵集』)

 

 卒業の時、先生が私たちに餞としてお贈り下さった詩である。
 学生時代以来、30年余の長きに渡たり指導を賜った先生にあらためて感謝申しあげたい。

(福岡県立城南高校教諭 数へ52歳)

       山田輝彦先生の御遺詠

   孫二人来る、「ぢぢばか」と人はいふらむ(昭和62年8月)

   言絶えていとしきものかうまごらは目を輝かせ蝉の殻とる
   か抱けばもろ手重しも生れしよりはやも三年は過ぎにけるかも
   部屋ぬちの玩具の山にあにおととこけつまろびつ声あげ遊ぶ
   祖父祖母につきせぬ思ひ残しつつけふ帰りゆくうまご二人は
   機首あげてひむがしへ行く飛行機のまた逢ふ日まで真幸くもあれ

(『澤部通信』第8号から)

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 2月22日の夜、白濱裕兄から山田輝彦先生が19日に亡くなられたやうだとの電話があった。翌日、国文研事務所からすでに御葬儀が終はつてゐる旨の電子メールが届き、それには、御遺族の御意向でお悔やみを遠慮するやうにとの添書きまであった。先生が敬愛された森鴎外は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と言ひ遺し、一切の虚飾を排してこの世を去つたのであったが、そのことをふと偲ばせる、先生らしい奥床しい訃報であった。

 山田先生は、竹のやうなお方だった。一見華奢で柔和であられたが、しなやかで折れない強靭さを持ってをられたやうに思ふ。いつも物腰柔らかく、理路整然と懇々と説かれるのが常であられたから、高校教諭であられた頃の日教組との熾烈な闘ひの様を伺ふとき、そのやうな強烈な闘志をどこに秘めてをられるのか、不思議にさへ思ふことがあった。

 先生は、我々の世代にとっては、最も大きな影響を受けた恩師のお一人であり、ことに国家観を学ぶに当たって、「内なる国家」といふ独特の御表現や明治の先達に対する深い敬仰の念を偲ばせるお心の籠もったお言葉の数々を通して、その深甚なる御指導を仰いだのであった。

 先生が御専門とされた学問は近代文学であり、わが国の稀有の変革期を乗り越えて生きた先人の偉大にして複雑極まる生き様を綿密に辿られ、その精髄を御講義や御著作にお示し下さったのであるが、それは単に先達の栄光をのみ教示するものではなく、その光と影を余すところなく指摘し、まさに人生の真実に照らして歴史を顧みさせるものであった。

 先生は日頃、「僕の生き方の根底にあるものはニヒリズムです」と言つてをられた。御著書『明治の精神』の中のお言葉に、

生きるとは、この「虚無」といふ得体の知れない奴との不断のたたかひである。かういふ痛感のないところでは、日本人の深層に生きつづけて来た「天皇」の問題など分かりつこないのである。自らのよるべを模索しつづける苦闘を身にしみて体験したとき、はじめて「天皇」の御存在の意味が納得できるのであらう」(160〜161頁)

 

 

とあるが、先生の人生の真実に痛徹するお言葉の背景には、想像を絶する内面の苦闘があられたのであらうと拝察しまつる。

 数10年前の理事会の席で、ある著名な学者が夏季合宿教室の招聘講師の候補として挙げられたとき、先生は「あの人は品がないから駄目です。招聘講師は、優れた学者であるだけでなく、優れた人格者でなければなりません」と言はれたことがあるが、虚無に徹し、常に至上の価値に照準を当ててをられた先生にとって、その慧眼に適ふ学者はさう多くはなかったであらう。

 また、我々が先生に御指導頂いた大切なことの一つに「しきしまの道」がある。夜久正雄先生との御共著『短歌のすすめ』『短歌のあゆみ』は、しきしまの道の不朽の名著である。世に短歌のテキストは多々あるものの、御製を掲げ、国家のあり方、日本人としてのあるべき生き方を示唆したものは、この二つの御著書のほかに類を見ない。先生の短歌指導は、すべて御自身の学問と人生と友情の御経験に裏打ちされた、切実にして奥行きの深いものであった。時としてユーモラスであり、人生の機微を悟らしめ、安堵を誘ひ、救ひをすら覚えさせるそのお言葉に、我々はしばしば感嘆し、そのしみじみとした情意の世界に導かれて行くのであった。

 先生が「短歌通信」にお歌をお寄せ下さったのは平成17年9月が最後であった。晩年のお歌は亡き友を偲び、友を恋ふお歌が多く、涙を誘ふ。

(晩年の御詠草)

□平成十四年

   天寿なほ尽きざる如しわが生のさいはての日々畏みて生く(6月26日)

       長島秀男海軍技術中佐、寺尾博之海軍少尉の慰霊祭献歌(8月18日)

   わが友のみ名を刻みし石碑は黙して立てり山のしじまに
   逝きまして五十とせ余り七とせの月日は過ぎぬ夢のごとしも
   亡き人の魂かとぞ見る秋めきしみそらに群れて赤蜻蛉とぶ

       ○(10月5日)

   老い二人病みて棲みゐる陋屋におとづれうれし短歌通信
   みちのくの友の歌あり肥の国の友の歌ありにぎはしきかな
   ひと夏を庭いろどりし紅葉葵燃えつきて秋深まらんとす
   耳たぶに手の平あててもの聞くが性となりけり老いにけらしも
   新聞の訃報欄見て亡き人の逝きましし歳まづたしかむる
   わが病さもあらばあれ友らみなま幸くあれとたヾに祈らる

□平成15年

       雑詠(1月8日)

   友らみなおのがつとめにいそしむを病みてなすなきわが身かなしも
   いねがたき浅き眠りに現はるる友らの面輪みなうら若き
   すこやかにあり経し日々のわが歌はきほひししらべありてなつかし
   冬枯れの庭ひとところ華やぎてくれなゐ深く山茶花は咲く
   温かき黄金色して橙はたわわに稔る冬の日ざしに
   ひしめきて寒気夜空を過ぐるらし真夜さめて聞く風の鳴る音
   沈丁の蕾はいまだ固けれどはや来む春のいそぎすらしも

       関正臣さんを悼む(2月28日)

   言絶えて悲しかりけり関さんのみこゑ再び聞くよしもなし
   神祭るきびしき日々を一すぢの信貫きて逝きたまひしか
   日本語の乱れつぶさに指摘して嘆きたまひしことを忘れず
   病みますとつゆ知らざりき亡き友の稀有の一生を偲びやまずも

       雑詠(同日)

   さいはての地を行くごときわが生の余命の日々を紅梅の咲く
   沈丁の香りを嗅げばちちのみの父のみことの逝きし日思ほゆ
   さざめきて通学路ゆく少女らの頬美しもすき透るごと
   道の辺に赤き衣着し地蔵尊誰が手向くるや折々の花
   命の全けむ人はとうたひたる倭建のみうた悲しも
   束の間は病苦忘れてよみふける短歌通信の友の歌草

□平成十六年

       寺尾博之さんのみたまに(8月)

   みそらゆく雲やうやくに秋めきてたま鎮めの日はめぐり来りぬ
   国亡ぶときに男の子はかくあれとみづから命絶ちし君はも
   逝きまして五十九年を経たれどもみ声みすがた今もうつつに
   君眠る西の山辺をおろがみて捧ぐる祈り通へみたまに

       宝辺正久兄への返し(11月)

   神宮の紅葉の繪葉書目に沁みて明治節てふ呼び名なつかし
   ひとところ日ざし明るむ心持して石蕗は咲く病院の庭
   家政婦の作りてくれし素麺をひとりすすれり秋の夕べを
   わが生のさい果てにしてかへりみる過ぎしはなべて夢にかも似る

□平成十七年

       みたまの前に(8月)

   われはかく病みて老ゆれど君果てしかの夏の日を忘れて思へや
   年ごとのみたま鎮めも得も行かずなりにしわれをゆるし給へや

       小柳陽太郎さん一時失神せるとか(9月24日)

   たのむべきくすしいませばしばらくは静かに病やしなひたまへ

       妹を思ふ(同日)

   日をおかずハイビスカスは咲きにけり妹がめでゐしくれなゐの花

       小田村寅二郎さんを偲びて(同日)

   小田村大人が好みたまひし「冬の夜」の唱歌浮び来いねがたき夜に

優しく靭く、み心深く、偉大な教への親であられた山田輝彦先生に深甚の謝意を述べ、お別れの言葉としたい。

   有難き学びのえにしここだくの思ひ出熱き涙となりゆく

(熊本市環境保全局 数へ60歳)
- 折田豊生編集『短歌通信』第66号〈2月28日発行〉「編集後記」 -


山田輝彦先生 国文研関係御著書

(夜久正雄先生との御共著)
『短歌のすすめ 創作と鑑賞』 昭和46年刊 - 頒価900円 送料290円 -

(夜久正雄先生との御共著)
『短歌のあゆみ 続短歌のすすめ』(品切) 昭和46年刊

『明治の精神 - 近代文学小論』 昭和57年刊 - 頒価800円 送料290円 -

『われらがマン・ツー・マン運動の 戦後史
- 全国学生青年「合宿教室」 レポート(昭和37年から28年間) の「はしがき」から -』
平成8年刊 - 頒価900円 送料210円 -

(日本青年協議会 発行)
『短歌のこころ』 平成8年刊

(櫻楓社 刊)
『夏目漱石の文学』 昭和59年刊

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 昨年5月30日、私の母校福岡県立修猷館高校で行はれた創立記念日の記念講演に、(株)寺子屋モデル代表世話役社長の山口秀範先輩(本会常務理事)が登壇されました。現役の後輩生徒1,200名に対して、志を高く生きることの大切さを真っ正面から説かれました。当初予定されてゐた伊藤哲朗元警視総監(本会会員)が内閣危機管理監に就任されたため、伊藤先輩の要請で急遽、修猷館高校同期(昭和42年卒)の山口さんが代はられたのです。私は同窓会の役員として拝聴しましたが、生徒諸君の魂を揺さぶり心に灯をともすやうな素晴らしいお話でした。

 山口さんは、冒頭で15年にも及んだ海外での生活を振り返りつつ日本がどのやうな国なのか、日本の誇りとは何なのかを考へ続ける日々だったと回顧して、グローバルスタンダードに惑はされてはならないと生徒の胸の中に入って行かれました。その力強いお話には私も感動しました。そして伊藤内閣危機管理監から託されたメッセージを紹介して、「公と私」といふ人生上の大きな課題について語られました。メッセージには吉田松陰「士規七則」の一節、「凡そ生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし」が引かれてをり、鳥や獣は自分の生命を保持し、自分の子孫を残すことが生きる全てだが、人間はそれだけではないはずでせうと問題を投げかけたのです。そのほか殉職した宮本邦彦警部の生涯をたどりながら「より高くより良く生きる」ことの尊さを生徒たちに熱く語りかけたお話でした。

 私は講演を聴きながら、高校時代の恩師小柳陽太郎先生(本会副会長)から頂いた学恩に、山口さんはご自身の人生をかけて応へてをられるのだなと実感させられて襟を正さしめられました。山口さんは、かつて高校時代、教室の中だけなく先生のご自宅をも「学び舎」として、十余名の仲間と古典を輪読して、そこから汲めども尽きぬ学問の喜びを感じ取った思ひ出も語られましたが、一緒に先生の門を叩いた友、つまり学問を通して結ばれた友との友情が現在の山口さんの志を支へてゐることを語ってゐたやうに思はれました。

 かうした友情の世界は、修猷館のOBであるなしにかかはらず、日本人として立派に生きようと発起して若き日に合宿教室に参加した皆さんが感じてゐるはずです。合宿教室を機縁にして、共に学んで来た私どもは、例外なく沢山の学恩と友情に恵まれてきました。かつて合宿教室と言へば、「学問・人生・祖国」といふ言葉が良く冠せられてゐましたが、「学問・人生・祖国」の一体的把握こそが私どもの目指すべきものであると改めて確認したいものです。

 現在全国で学生が参加する輪読会が少なくなってをり、また寮生活による研鑚が稀薄になってゐますが、その中で今夏厚木で開催される第五十四回合宿教室に、どう三ケタの学生参加者を勧誘するかが喫緊の課題です。大変困難であることが今から予想されます。すべては私の心のせゐであらうと思ひます。我が身に受けた学恩を忘れ、友情を軽んじて参ったからに他なりません。

 国文研の会員の皆様、学生と接し、また職場にて心知る方と出会った時は、身に受けた学恩と友情を思ひ起し、もう一歩前に出て、後輩に、そして新たな友に語りかけようではありませんか。小田村寅二郎先生がいつも仰ってゐたマン・ツー・マンが活動の原点であるとのお言葉が甦って参ります。

 山口さんの講演は眠ってゐた私の目を覚させてくれました。

 厚木にてお会ひしませう。

平成21年5月1日

追記

山口さんの「記念講演録」をご希望の方には国文研を通してご連絡下さい。私の方からお送りします。

(日章工業(株)代表取締役社長 数へ50歳)


第54回全国学生青年合宿教室

この夏、厚木で学ぼう! - 先人はどう生きて来たのか、私たちはどう生きるべきか? -

招聘講師に長谷川三千子先生 ペマ・ギャルポ先生

8月20日(木)〜23日(日)
厚木市立七沢自然ふれあいセンター


編集後記 

「常若のいのちの泉湧く国となさばや友ら力合せて」のお歌は、平成10年正月、山田輝彦先生からの賀状に記されてゐたもの。私事ながら同月末に上梓した拙著『「深い泉の国」の文化学』の最終校正中で、先生のお歌に励まされた感じがして有難かった。

「国のあり方」を問ひ続けられた先生は、また人間の内面を常に見据ゑてをられた。合宿教室での御講義からは若い世代への信頼のお気持ちが伝はってくるやうで、聴講する我らをいつも温かく後押しして下さった。那須三元、折田豊生両兄の追悼文に、改めてを先生を仰ぎ見る思ひがする。 (山内)

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