国民同胞巻頭言

第570号

執筆者 題名

古川 広治

三年目に入った勉強会
- 福岡地区での時事問題研究会 -

岸野 克巳

天皇皇后両陛下ご成婚五十年を寿ぎまつる
- 「昭和34年4月10日」のご婚儀から満50年 -

山川 京子

『平成の大みうたを仰ぐ 二』国民文化研究会編(展転社刊)至尊のしらべ
(『神社新報』3月2日号所載)

小柳 陽太郎

『平成の大みうたを仰ぐ 二』から 今上天皇
- 「象徴」の意味するもの -

内田 厳彦

中国滞在記
- 日本語教師として滞在した八十日 -

 福岡地区の若い世代の仲間(昭和40・50年代生れ)が、月1回の時事についての勉強会を持つやうになって3年目を迎へる。取り上げる内容は多岐にわたるが、国民の一人としてどう生きるべきなのかといふことを根底に取り組んでゐる。

 勉強会では最初に、加納祐五先生がお書きになった「すずろごと」(平成15年から平成17年の間10回に亘り本紙に連載されたもの)を輪読してゐる。自分の生き方と遊離した単なる意見交換にならないやうにお互ひに自戒するからである。戦前戦中戦後を生き抜かれた先生が、ここで一貫して考察された事柄は「天皇と国民の相互信頼」「国体の深義」といふことであった。

「国体について『君臣一体』とか『一君万民』とかその他いろいろに言はれてゐるがそれらの概念化観念化はそれが若し君臣間の信頼といふ直接経験として内的化されないならば百害あって一利もないであらう」

 

  
- すずろごと(一) -

 勉強会のやり方は、毎回担当者を決め、テーマを事前に参加者に伝へておいて、当日は担当者の発表後、皆で意見を交換する。切り口は担当者によって異なるが、問題の本質は何か、どう対処したらよいのか、自分にできることは何か、を互ひに述べ合ふ。

 テーマの論点が絞り切れず意見交換の内容が表層的になったり、誰かが言ってゐることを紹介するだけに終ってしまふことも間々ある。また問題点の指摘に終始して、自分のことはさて置いて気が付いたら評論家になってゐたと反省させられることもある。

 勉強会を開く上で特に気をつけてゐることは、「あれは良くない、これは間違ってゐる。政治やマスコミが悪い」等々と、批判だけの非生産的な会にならないやうにすることである。参加して気持が滅入ったり気持ちが沈んでしまっては、勉強会を持つ意味はないし、続かない。

 そもそも、憲法、安全保障、国籍法、雇用、金融、教科書…と関心を抱いてゐても、その直接的な当事者ではないので、もどかしく感じることは度々である(ただ「教科書」はわが子にも直結するから当事者だが)。

 しかし、自分の力でどうすることもできない事柄であっても、世の中で問題となってゐることに無関心であって良いのか、関心を持ち、考へることは無意味ではないはずだ、との思ひは常にある。そして、その日のテーマを調べ語り合ふ過程で、見えてくるものがやはりあるのである。

 特に昨今の不況を思ひ浮べる際に、心をよぎるのは、天皇陛下が新年にあたり御発表になったお言葉である。

「…秋以降、世界的な金融危機の影響により、我が国においても経済情勢が悪化し、多くの人々が困難な状況におかれていることに心が痛みます。国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています…」
                                         (『祖国と青年』3月号)

 昨秋来の非正規社員の削減や派遣切り等の問題で、経営者が悪い、非正規で働くことを選んだ本人の責任だ、欠陥のある法律を放置した政府の無策が原因だ等々の議論はあったが、そこからは「心が痛む」といふ言葉は聞えてこなかった。

 直接相談窓口に座ってゐる自分はどうであったか。そのことを思ふ時、陛下の御心が本当にありがたく感じられてくる。「国民の英知を結集し」「人々の絆を大切にして」「お互い助け合う」ことによってこの困難を乗り越えて欲しいと陛下は願ってをられる。その御心を胸に刻み、日々の自分の職務を全うして行きたいとあらためて思ふ。

 これからも、世の中の動きから目をそらすことなく向き合ふ機会を持って、何が問題なのかを考へ続けるやうにしたいと思ってゐる。そして共に学ぶ仲間との交流を重ねて切磋琢磨していきたい。時事問題を考へる勉強会の意義はそこにあると思ってゐる。

(大牟田公共職業安定所 数へ43歳)

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   ご即位から20年

 本年平成21年は天皇陛下ご即位20年、また天皇皇后両陛下ご成婚50年の佳き年にあたります。両陛下ともおんすこやかに、この佳き年をお迎へになったことは、まことに喜ばしくありがたいことです。

 平成2年11月12日、一点の曇りもない素晴らしい秋空の下、即位の大礼が行はれ、天皇陛下は内外に即位を宣明されました。名もなき民の一人ではありますが、私もその日、ご即位の盛儀をテレビで拝し、日本に生を得た喜びをかみしめてをりました。つい昨日のことのやうであります。

   ご婚儀を思ひ返された皇后陛下のお言葉

 日本中が「ミッチーブーム」に湧きに湧いたといふ両陛下のご成婚当時の様子となりますと、年若い私にはもはや知る由もありません。
今からちょうど50年前の昭和34年4月10日、両陛下はご成婚の儀を挙げさせられました。けれどもご成婚後の歳月が決して平坦なものではなく、たゆみないご修養、ご研鑽の日々であられたことは、折々に示される御製、御歌やお言葉を通して、その涯なき厳しさをわづかとは申せ、うかがふことが出来るやうに思ひます。その中でも私にとって特に印象深かったのは、去る平成16年、古稀を迎へられた皇后陛下が、お誕生日に際し記者団の質問に答へられたお言葉の中の一節です。

  《もう45年も以前のことになりますが、私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思ひ返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないといふ重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷をつけてはならないといふ思ひもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思ひます。》

(『皇后陛下お言葉集 歩み』)

 わが国の悠久の歴史に思ひを寄せられたこのお言葉に、わけても「私もそこに生を得た庶民の歴史に傷をつけてはならない」といふ厳しいご決意に、「ああ、皇后陛下は国つ神のご代表として皇室にお入りになったのだな」と、私は直感し、今の世に『古事記』『日本書紀』が伝へる神話の世界が甦ってきたといふ言ひしれぬ感動を覚えました。

   皇祖の神々の神婚、聖婚

 天照大御神のご命令により、皇孫邇邇芸命(瓊瓊杵尊)は天上の高天原から地上の国(豊葦原水穂国)に天降りされました。日向の高千穂の峰に宮居を定められ、国の統治を始めるにあたって、邇邇芸命がまづなされたのは、国つ神、即ちもともと地上の国にいました神々のうちから、第一の乙女を求め、后とされることでした。

 

《天孫又問ひて曰く、其秀起つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏に織経る少女は是れ誰が子女ぞや。答へて曰さく、大山祇神の女等、大を磐長姫と号ひ、少を木花開耶姫と号ふ。亦の号は豊吾田津姫と、云々。皇孫因りて豊吾田津姫を幸す。》

(瓊瓊杵尊は又お尋ねになりました。「波頭が白く立つあの海の上に大きな御殿を建てて、手玉もころころと機織る少女はどの神の娘だらうか」。お答へ申しますに、「大山祇神の娘たち、姉は磐長姫、妹は木花開耶姫、またの名は豊吾田津姫です」と、云々。そこで瓊瓊杵尊は豊吾田津姫を后として召されました)

(『日本書紀』巻第二 神代下)

 木花開耶姫は、桜花満開の様子にも、また霊峰富士にも喩へられるわが国第一の美しい女神にましますが、顔かたちの美しさだけでなく、「手玉も玲瓏に織経る」、手仕事の音の正しさに、魂の高さを認められて、后としてお召しになるといふ、この『日本書紀』の伝へに、私はたいへん尊いものを感じます。

 また人皇初代神武天皇が大和の国橿原の宮に即位された後、皇后伊須気余理比売をお召しになった様を『古事記』は次のやうに伝へてゐます。
大和の国の高佐士野に行幸された神武天皇は、そこに野遊びしてゐる七人の乙女に出会ひます。この時、天皇に随従してゐた大久米命は、歌詠みして天皇にお尋ね申し上げます。

    大和の高佐士野を七行くをとめど も誰をし婚かむ
     (大和の高佐士野を七人で行く乙女たち。そのうちの誰をお后になさいますか)

彼女たちの先頭に立ってゐる伊須気余理比売を見初められて天皇のお答へになった御製。

    かつがつもいや前立てる兄をし婚かむ
     (まあ、言ふなら、あの先頭に立ってゐる一番のお姉さんあたりがよからうか)

 御製の初句「かつがつも」は、「まあまあ。不本意ながら」の意味である由ですが、后選びに際しての気負ひ、照れが表れてゐるやうで、まことに微笑ましい情景が浮かんできます。いにしへの大和の春の野、野遊びする乙女たち、羞らひを含みつつ求婚される若き天皇。匂やかに美しい一幅の絵であります。

    神婚、聖婚の今日的意味

 いまこのやうに皇祖の神々の神婚、聖婚の伝へを振りかへってみた訳ですが、これらの伝へは、ただに美しいばかりでなく、むしろ今日においてこそ切実な意味を持ってゐる、と私は思ひます。

 邇邇芸命が天降りされる以前のわが国は、《多に蛍火の光く神、また蝿声なす邪しき神有り。また草木咸に 能く言語》ひ、《いたくさやぎてありけり》といふ有り様だったと、『古事記』『日本書紀』は伝へてゐますが、悪神跳梁し、世に災ひが満ちみちてゐた様が想像されます。

 神武天皇のご即位も、日向の国を進発し、大和へ向かふ東征の途次、幾多の困難を乗りこえ、最後には神助を仰いだ末に漸く成し遂げられたものだったことが、古典には生々しく伝へられてゐます。

 あまたの困難を乗りこえた末に、木花開耶姫、伊須気余理比売といった、わが国第一の乙女を求め、后とされるといふこの建国神話はいったい何を物語ってゐるのでせうか。

 天つ神と国つ神とが、血統においても、魂においても、深く固く結ばれ一致協力してゆくこと。この「むすび」が、様々の災ひを払ひのけ、国の礎を太く強く確かなものとなし、国のいのちを生き生きと甦らせる力となる、これこそが、わが建国神話の秘鍵であると私には思はれます。

 国史未曾有の敗戦の憂き目を見た現在のわが国もたいへん厳しい苦難の中にあると申せませう。なるほど現在われわれは平和と繁栄を享受してはをりますが、国威は地に堕ち、道義は退廃し、「草木能く言語」ひ、「いたくさやぎてあ」る災ひ多き世、天降り以前の世界に比せられる、暗夜の如き苦しみのただ中にゐるとも言へるのです。

 50年前、皇室は長い伝統を破って、「初の平民出身の妃」を迎へ入れました。「皇室の民主化」「開かれた皇室の実現」とマスコミはもてはやしましたが、このご婚儀はそのやうに底の浅いものに過ぎなかったのでせうか。 決して然らず。

 冒頭に掲げた皇后陛下のお言葉に、私は記紀神話の伝へを直感したのですが、この50年の御歩みを辿ってみますと、暗夜の如き世にあって、わが国第一の乙女を求め、見出され、深く固く結ばれてゆく、建国神話が再び目の前に繰り広げられてゐるのだといふ不思議の感を覚えずにはをれません。

    今上陛下のご婚儀に息づく建国神話

 今上陛下のご婚儀には、先帝陛下昭和天皇の深き慮りがましましたことは申すまでもないでせう。しかし、私にはなほその奥に、尊い「神慮」といふべきものが働いてゐると思はれてならないのです。皇族華族以外の家柄からお后が皇室に入られたのは新時代を意味するかのやうに受け止める向きがありますが、この歴史の流れの底には、建国神話が深々と息づいてゐます。

 わが国の霊性の根源である建国神話に立ちかへることで、国のいのちを甦らしめるといふ、ご神業が展開する様を、いま私どもは目の当たりにしてゐるのではないかと畏まれるのです。

 尊き皇祖の御心を心として、常に国民の幸福を願ひ、日々御祭りにつとめてをられる陛下の御姿を、暗闇を打ち払ふ暁の光、尊い光明と拝し、ただ讃仰、敬仰の思ひに打たれるばかりです。

 陛下を仰ぎ奉る時、私どもはわが国に生れた喜びに満され、国のいのちの再び甦らんことをこころ素直に信ずることが出来るのです。これこそまことの幸福と申せませう。

 ご成婚50年の佳節にあたり、大御代の弥栄を祈り奉りつつ、謹んで一文を草し、奉祝の微意を申し上げる次第です。

(埼玉県・調神社権禰宜 数へ42歳)

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 昭和8年12月23日、皇太子様御誕生のサイレンは、日本中を奉祝で湧き立たせました。内親王様が続いていらっしゃいましたので、皇子様の御誕生を全国民が熱祷してお待ち申し上げてゐたのです。御誕生後はじめてのお写真を新聞紙上で拝した時は、その高貴なお可愛らしさに全国民が恐懼感激しました。 『平成の大みうたを仰ぐ』1・2の2冊を拝誦して、あの御誕生の日の歓喜を知る世代の者は、言ひ知れぬ感動を味はってをります。

        御製
    戦なき世を歩みきて思ひ出づかの難き日を生きし人々

の一首には特に心を打たれました。陛下が学習院初等科に御在籍のころは、既に大陸で戦争が始ってをり、やがてアメリカとの戦争に突入するといふ、実に容易ならぬ国難の日々でした。

 御幼少の御身で御両親の天皇皇后の御膝元を離れられ、日光に疎開なさった日々は、どんなにかお寂しかったことでせう。御疎開先へ、天皇様皇后様がお出しになった皇太子様宛のお手紙が、後日新聞紙上に発表されたことがありました。あの逼迫した非常時下の御心情を畏れ多く拝察するものでした。

 昭和天皇は、わが国開闢以来はじめての敗戦を経験なさいました。戦中戦後の異常な御苦難が、上御一人の御肩にかかってゐるといふお立場でした。そして実にお見事に国体を護って下さったことは、国民が今以て感涙を以て讃仰申し上げるところです。

 今上陛下はお若い御心で、その間の昭和天皇の御心情、御動静、御決断のお姿を御覧になったでせう。昭和天皇のお姿に近々と「生き難き日」を実感なさり、御自らも経験なさったことでせう。

 にもかかはらず、陛下は御自身の悲痛な御経験、困難なお立場に触れられず、一般の国民が戦中戦後、いろいろな場面で、いろいろな苦労をしたことにお思ひを馳せて下さってゐると、私はこの御製に拝するのです。この御製に拝するものは、高いところから思ひやるといふ、惻隠の情ではなく、御自身の御経験を仰せられず、国民の苦しい立場を、同じ目線で見て下さってゐます。

 あへて言ふならば、同じ立場にあって記憶を共にした人の、ひそかに涙の湧くやうな、温かいお気持ちが窺へるのです。この奥行の深さは、僅か31文字による和歌といふ伝統の形であるが故に、奥深い内容が拝誦する者に伝はるのでせう。

 和歌には文学的価値以上の霊力があると信じられて来ました。散文に於て31字で表現するとしたら、和歌と同じやうに心の深奥まで訴へることは不可能でせう。しかも和歌の発生は、須佐之男命の神詠に発すると伝へられて来ました。連綿とこの形式は継承され、しかも御歴代の天皇によって護られてきました。

 建国の太古から、近くは明治、大正、昭和の天皇によって大御心を国民が承ることが出来ました。125代といふ皇統の万国に比を見ないお血筋は、日本の誇であり、われわれの光栄ですが、更に御歴代の天皇が詩人でいらっしゃるといふことは、他国に例を見ることが出来ません。御製を拝することによって、すめろぎの大御心を、国民は老若男女共に拝承し、道を誤ることがなかったと申せませう。これが日本の君臣のあり方です。

       御製
     あまたたび通ひし道をこの宵は亡き母君をたづねむと行く

 開闢以来はじめての敗戦に、殊に米占領軍が進駐してから、日本は大きく変りました。変動の荒浪は大内山の中までおし寄せました。陛下の御母君香淳皇后にお寄せになったお気持ちは、厳しい歴史を経て来られた格別のお思ひがおありでしたでせう。御永訣のお悲しみはお深かったことでせう。感情を押へた御表現の中に、深い追慕の大御心をお察し申上げます。

 時々に大御心を短い詩型に託して広くお示し頂く、このやうな君主が他にどこにあるでせうか。しかもそれは神武の遠い昔から、皇統と共に伝承された日本の君臣のあり方です。

       御製
    務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

       御歌
    年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

 皇后様とのお美はしい御唱和も『平成の大みうたを仰ぐ』2に収められてゐます。

- タイトルは原文のママ -

(歌人、桃の會主宰)

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 終戦の年、その時今上天皇、当時の皇太子殿下はまだ小学校6年生に御在学中でした。

 しかしその幼い身でありながら殿下はこの日本の歴史に未だ嘗てなかった敗戦といふ悲痛な運命を背負って、自分は次の天皇の位につくのだといふ強い決意を胸に日々おすごしになるのです。

 殿下は僅か12歳にも足りない御幼少の時から、このやうな運命のただ中で、天皇として生きるといふことがどういふことなのかを考へつづけながらご成長なさる。そのやうな御体験は、125代の天皇を通じて全く前例のない御体験だった。そのことを私たちは深くお偲びしなければいけないと思ふのです。

 そしてその時から2年、昭和22年5月、日本国憲法が施行され、その第一条にはご存知の通り

   「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって…」

 といふ表現がなされてゐました。天皇の御存在を「象徴」といふ言葉で現はしていいのか。人々はこの「象徴」といふ言葉についていろいろと議論を重ねてきました。しかし皇太子殿下としては、「象徴」といふ言葉は、それを議論の対象とする前に、御自分の生き方の根底を示すものとしてお受けとめになったのではないか。

 その時殿下の心に浮んだのは、これまでの長い歴史を通じて天皇が歩んでこられた生き方だったのでせう。象徴といふ言葉と歴代の天皇に伝へられてきた御心情と、それがどのやうに結びつくのか、それが皇太子殿下にとって最大の課題だった。かうして昭和58年、御誕生日をお迎へになった時の記者会見の折に殿下は、「憲法で天皇は象徴と決められたあり方は、日本の歴史に照らしても非常にふさわしい行き方と感じています。やはり昔の天皇も国民の悲しみをともに味わうように過ごされてきたわけです。

 象徴のあり方はそういうものではないかと感じています」とお述べになり、さらに昭和61年には同じく「天皇が国民の象徴であるというあり方が理想的だと思う」と仰ったあと、その典型的なお姿として、疫病の流行や飢饉に当って民生の安定を祈られた嵯峨天皇(平安時代)以来の写経の御精神や「朕、民の父母と為りて徳覆ふこと能はず、甚だ自ら痛む」といふお言葉を写経の奥書にお書きになった後奈良天皇(室町時代)をお偲びになって、象徴のあり方を直接、歴代天皇の御足跡に求めていらっしゃやるのです。

 従って平成2年、御即位式の折りに、「日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果すことを誓う」と仰ったのも、単に「日本国憲法」の条文をそのまま引用されたのではなく、御即位をお迎へになるまでの、長い御思索の末に生まれた確信の御表現だったと言っていいでせう。

 「国民と悲しみをともにするのが象徴ということの内容である」との御旨のお言葉、それをこの憲法の原案を作った占領軍に聞かせるなら全く思ひもよらない、驚くべき解釈だと思ふでせう。それはこれまでの国民の悲しみを悲しみとして生きてこられた歴代天皇の御足跡、その「君臣の情」にうけつがれてきた日本独自の精神伝統があってはじめて生れた解釈ではないでせうか。

 天皇は「象徴」といふ言葉に「いのち」を与へられた。そしてそのやうな意味での皇室本来の道を陛下はいまひたすらに、歩みつづけていらっしゃるのです。そのやうな今上陛下の御心境を、とりわけ印象深くお述べになったのは皇后陛下が平成七年の記者会見の席でお話しになった時の次のお言葉でした。

  「人の一生と同じく、国の歴史にも喜びの時、苦しみの時があり、そのいずれの時にも国民と共にあることが、陛下の御旨であると思います。陛下が、こうした起伏のある国の過去と現在をお身に負われ、象徴としての日々を生きていらっしゃること、その日々の中で、絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈りつづけていらっしゃるのです」

 この「起伏のある国の過去と現在をお身に負われ、象徴としての日々を生きていらっしゃる」といふお言葉に天皇さまのみ心のすべては表現されてゐるのではないでせうか。

 さらに今年(平成11年)の1月1日に発表された両陛下のお歌の中で、皇后さまは次の一首を詠んでいらっしゃいます。

       ことなべて御身ひとつに負ひ給ひうらら陽のなか何思すらむ

「ことなべて」とは、「あらゆることをすべて」といふ意味でせう。この日本の国のすべてのおもひを自分の一身に背負って天皇さまは生きていらっしゃるのだが、いまうららかな春の日射しの中に立っていらっしゃるそのお姿を拝見してゐると、陛下の御胸中にどのやうなおもひが去来してゐるか、それが偲ばれてならないといふお気持でせう。

 「うらら陽のなか」の陛下の御姿、それは「後ろ姿」とは書いていらっしゃらないのですが、私にはさう思はれてならないのです。天皇さまの背中ににじみ出てゐるやうなおもひ、何かにじっと耐へてをられる、さういふ御姿-象徴としての日々を生きてをられるといふのはさういふことではないでせうか。

(元九州造形短期大学教授 本会副会長)

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       「中国を内側から見てみたい」

 昨年の9月、山口県内の人材派遣会社から中国山東省莱陽市にある日本語学校に派遣され、日本語の教師として赴任した。専門学校ではなく、日本への研修生(中国人の派遣労働)を送り出すための機関であり、全寮制の学校で80日間、約80名の生徒と寝食を共にした。当初の予定は1年であったが、世界同時不況の影響で12月までの滞在で終った。

 私の中国語の会話能力は日常会話が少し出来る程度で、中国人ばかりの中で一年間暮らすことはかなり不安でもあったが、「何より中国を内側から見てみたい」との思ひが強く、定年後で身軽なこともあって赴任を決めた。

 赴任地に最も近い空港は青島で、福岡空港から搭乗し、一時間半程でその上空に達した。青島上空から見る中国の景色にはまづ驚かされた。見事に区画された田園風景は美しく途方もなく広大であった。そして空港が近づくにつれ、目新しいアパート群、広大な団地の棟が次々に目に入ってきた。建設工事中のものも多く、正に建設ラッシュといふ感じであった。

 任地に向かふ途中、ビルの間や主要道路沿ひに「一个世界一个夢」「同一世界同一夢」といふ看板をよく目にした。これは北京オリンピックの標語であったが、思はず「ぎくり」とした。これこそチベットやウィグルなど異民族への暴力的な文化抹殺的支配もどこ吹く風の、国民と周辺民族をも欺く中国共産主義の独善的体質を物語るものであった。

 任地へは研修生の採用面接を行ふ山口県の中小企業経営者三名と一緒に向った。学校に着くと整列した生徒達と職員から万雷の拍手で迎へられ祝砲が鳴った。初めてのことでもあり、何だか自分の結婚式の時のやうな気恥かしくも晴れがましい気分であった(中国には祝ひ事があれば何時どこでも所構はず花火を打ち上げる風習がある)。

       軍事訓練で体と精神力を鍛へる

 会議室で校長から職員の紹介と学校の内容、日本への研修生の派遣実績などひと通りの説明を受けた後、改めて教室で生徒達による様々な催し物が行はれ、我々を驚かせた。それらは日本の歌や踊りや寸劇であったが、全て日本語であり、そこには日本へ行きたいといふ彼らの強い願望が表れてゐた。彼らが日本行きを強く望む理由は後述する。

 学校には日中の友好を表すものとして国旗が並べて掲揚され、正面の壁には「日本語の習得は一生の成功を約束する」と書かれた大きな看板が掲げられゐた。そして至る所に[福][福]の文字が見られた。宗教のないこの国は[福]こそが彼らの神なのであり、金持ちになることが人生の目標なのである。

 私が滞在してゐる間これらの採用面接に伴ふ歓迎の行事は月に二度にも及んだ。

 この学校で特筆すべきものとして軍事訓練がある。生徒達は入校直後日本語の「あいうえお」を習ふ前に、徹底して軍事訓練を受ける。さうすることで日本での厳しい仕事や生活に耐へる強固な身体と精神力が養はれるのだといふ。かうした学校が日本に一校でもあれば日本の教育も随分良くなるのではないかと思った。

 生徒達の1日は、朝6時の起床に始り夜9時の消灯まで、7時間の授業・夜の自習時間・午前と午後45分づつ2回の軍事訓練等の時間割が決められゐて、それに沿って行動してゐた。さうした中でも生徒達は実に礼儀正しく、お互ひの仲も良く常に和気藹々としてゐた。

 私は午前と午後3時間づつ計6時間の授業を持つことになったが、教職経験がない私には日に6時間も話し続けることはかなりきつく、授業中早く時間が経たないものかと時計を見ることも度々であった。

       「研修」労働の現実に衝撃を受ける

 生徒の多くは中国の企業で2年以上働いたことのある20歳代前半の若者達である。彼らは低賃金(月額約1500元、1元は15円)で、休みも月に2・3回しか取れなかったといふ。自国で仕事を続けることに将来の夢を描くことが出来ない彼らが目を向けたのが、日本の外国人研修制度であった。

 それは日本に行って研修1年・実習2年合計3年の期間限定で 日本の企業・農家等さまざまな分野で派遣労働に従事するものである。しかし建前は技能修得の研修となってゐる(彼等の関門の第一は中国における日本語研修であり、関門の第2は日本で研修から実習に移る際に実施される日本語と専門分野の技能検定である)。

 彼等に関門があることは事前に知ってゐたが、彼らの計画と外国人派遣労働のビジネスが両立し得る理由を知った時は衝撃を受けた。それは次の3点から成り立ってゐた。

 @日本企業(雇用主)→低賃金の雇用で人件費を抑制できる
 A来日研修生→極端に切り詰めた生活で貯蓄できる
 B日中間の大きな物価格差(中国の物価は日本の4分の1-5分の1)

 日本にきた研修生の多くは会社の寮に入ったり、住み込みであったりするが、1月の生活費を1・2万円に切り詰め、少ない給与の大半を貯蓄に廻すといはれる。3年間辛抱すれば、それが物価の差から大金になることから、彼らがそれに夢を馳せるのも無理はなく、私は彼らのあまりの過酷な運命と計画に同情する他はなかった。

       小柳陽太郎先生に助けられる

 赴任して3週間ほど経った頃、私は日本語の授業で或ることに悩まされた。それは毎日同じクラスに3時間づつ(2クラスを受け持つ)授業をしてゐると、最早話すことが何もなくなるのである。加へて教科書が二冊あるとはいへ、1日中日本語漬けの彼らは、「先生、そこはもう学習しました」と言ふのであった。

 このやうな時に頭に浮かんだのが本紙『国民同胞』で随分前に読ませて頂いた小柳陽太郎先生の「日本語」と「古典」に関する御論考の一部であった。それには「言語を習得するには、どうしても必要な使ふ回数が要る」といふ趣旨のことが書かれてゐた。私は「これだ!」と思ひ、授業で黒板に「言葉をモノにする力=感情×回数」といふ公式を黒板に書き、「君らが会話などの応用力が不足してゐるのは、この回数が不足してゐるからだ」と説いた。

 自分は「この学校で只1人の日本人であるから、日本人の日本語らしい発音を聞かせ、生徒は日本語を使ふ回数が不足してゐるのだから、同じ内容を何度でも生徒にレッスンさせれば良い」とさう気が付くことで、この壁を乗り越えることが出来た。

 授業では生徒達が日本に行ってから直面するであらう日本の企業での礼儀作法や、生活面に至ることまでいろいろと話した。さうする中で最初硬かった生徒達もだんだん私に打ち解けてきた。

 私も「中国は反日教育をしてゐると聞いてゐたから、中国に来る前はあまり好きでなかった」とか、日本人は『三国志』『水滸伝』『西遊記』に親しんでゐる人が多いこと、日本人は中国を「白髪三千丈の国」と言ってゐると等と言ふと生徒達も笑った。

       防人の歌を朗誦した!

 生徒達と親しくなると中国の若者に直接、話が出来るこの稀有な機会に、日本が過去、中国とどのやうに関り合ひ、どのやうな道を歩んだかを是非話したいとの念にかられた。
そこで左の五点を少しづつ話して行った。

 @中国から漢字の伝来 
 A日本語表記の誕生(仮名文字と訓読み)
 Bアジアの植民地化と日本の危機
 C論語と幕末の偉人
 DABCDラインと第二次大戦

 @とAでは当時の先進国、中国から日本がどう文字(=漢字)を学んだか、漢文は勝れてゐる半面、日本の文化には合はないことが多く、漢字を受容したけれども、やがて日本人は仮名(ひらがな、カタカナ)を普及させ、漢字に訓読みを付けて、現在の漢字仮名混じり文の国語表記が出来たこと等である。 日本語の習得に自分達の将来の夢を託す彼らにとって参考になったと思ふ。

 また、日本語の特質を知ってもらふには日本の詩歌や日本の美しい言葉を味合はせるのが早道と考へて、防人の歌を黒板に書いて朗誦し解説した。また、夕暮れ時太陽が山ぎはに沈むときの情景を黒板に書き、古の日本人はこの美しい情景に「黄昏」といふ漢字を当て「たそがれ」といふ訓み方をしたと話した。 右は全て前述の小柳陽太郎先生の玉稿の中から拝借させて頂いたものである。授業をしながら何度この玉稿を思ひ浮かべたことか、何度も何度も先生に後押しして頂いた思ひであった。

  (拙詠)黄昏と仮名をふりにし古の人賞でられし師の御文思ふも

 BとCでは歴史的な天皇を中心とする国民国家体制に脱皮することで植民地化の危機を乗り越えたことや、武士達の教養の一つが論語だったことを語った。論語に関しては私自身は門前の小僧であったが、岩越豊雄先輩の『論語「百章」』を読ませて頂いてゐたことが大いに役に立った。

 生徒達も古くは自国に素晴らしい文化が存在してゐたこと、また日本が危機を乗り越へ、日本を近代化に導いた多くの偉人・知識人が論語を学んでゐたことを知り、大いに自信と誇りを持ったに違ひない。

 Dではブロック経済化と対日包囲網に呻吟してゐた当時の日本について語ったが、「反日教育」のせゐか、夢に描いた日本での仕事が目前に迫ってゐたためか、あまり興味を示さなかった。

       一党独裁下のテレビ・メディア

 中国の印象は月に1、2度外出した時に見たものと、自室で見るテレビに限られるが、それでも印象は強烈であった。 テレビのチャンネルは多く、その上コマーシャルが頻繁に流される点は日本の民放と変らない。

 しかし、テレビ局はニュース番組を自由に編成できないらしく、どのテレビも一斉に同じニュースを流してゐた感じだった。基本的には統制されてゐる。国営テレビ(CCCTV)になると共産党による一党独裁の国だけに、その「指導性」は際立ってゐた。

 中国に到着した9月中旬は北京オリンピックの閉会から三週間が経った頃で、まもなくして有人衛星「神船七号」が打ち上げられ、数日後内蒙古に着陸生還したことに国内は湧いてゐた。 また、テレビは胡錦涛国家主席や温家宝首相が農業・工業を問はず生産の現場に足を運び、担当者と会話してゐるシーンを数多く映し出し、まるで社会主義建設途上の国のやうな印象を受けた。

 そして、某地方の農家は改革解放以来所得が三十倍に増え、政府の諸施策が成功してゐると報じてゐた。さらに、人民大会議が行はれる11月になると、テレビをつけると必ずといってよいほど、どの番組からも国歌が流れてゐた。

       日本の将来が心配になった

 中国滞在は予定より大幅に短い80日で終った。滞在期間中、何度となく脳裏をよぎったのは、圧倒的な数の人口と広大な領土を有するこの巨大国家に我が日本が呑み込まれはしないかといふ不安の念であった。改革開放以来の軍備増強路線は今や空母の保有まで具体化してゐる。繰り返される尖閣列島海域への侵犯、東シナ海ガス田の一方的掘削…。

 その一方で、日本国内には親中派が跋扈し、中国に対する警戒心がまるでない。東京の新聞社とテレビ局の流す情報からは中国の実情を窺ひ知ることは不可能に近い。核保有を目指す北朝鮮の動向は話題になっても、中国が既に核を保有してゐることさへ忘れてゐるかのやうだ。国防といふ意味では、現在の日本は明治維新前の小国日本以下かも知れないと思った。その意味では毒餃子事件で白を切る中国は日本人にはいい教訓になった。

 賃金格差(物価格差)を前提とする研修生制度(外国人派遣労働)は、厳しい国際競争に曝される日本企業にコスト削減をもたらしてゐる。そして、中国を初めとする海外の圧倒的な数の労働余力から押し寄せる派遣労働は、いまや工業に留まらず農業・水産加工等、多岐の分野に及び、研修期間も3年から5年に改正される動きもあって、現下の同時不況が収まれば、その数はさらに増加するに違ひない。

 しかし、賃金の二重構造を固定化しかねない制度は日本に馴染むものではなく、外国人派遣労働はどこかで歯止めをかけるべきものと思ふ。日本人とのトラブルも徐々に増えてゐるやうだ。

 それはさうと、世界的な不況の影響で私は日本語教師の職を失った。定年後で身軽な私と違ひ、日本に行くことに将来の夢をかけてゐた生徒達は日本語学校の段階で足止めを喰ってしまった。彼らの落胆ぶりが思はれてならない。 (拙詠)生徒らの顔次つぎと浮び来て悲しかり海隔つとも

((株)SIS勤務 数へ65歳)

昨夏の伊勢合宿教室の記録
『日本への回帰 第44集』

「内なる国家」を見つめよう 損保料率算出機構主査 鎹 信弘
よみがへる『古事記』 国立病院機構都城病院長 小柳左門
国家の「自立」とはどういふことか 日本政策研究センター代表 伊藤哲夫
明治維新の光と影 福岡県立太宰府高校教諭 占部賢志

『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の
輪読にあたって

富山県立富山工業高校教諭 岸本 弘

定価900円 送料210円

【訂正】
2月号4頁1段22行目
  第59回全国植樹祭(北海道) →  第59回全国植樹祭(秋田県)

編集後記

ちょうど 50 年前の昭和 34 年 4 月 10 日、午後だったと思ふが近所の同級生を誘って、御成婚馬車御列のテレビ中継を見るために街の電器屋の店先へ足を運んだ。中学校 3 年生の春のことで、雪国・越後魚沼の櫻はまだ先だったが、陽光を背にテレビに見入ったことを覚えてゐる。

  山川京子先生・小柳陽太郎先生の御文章、岸野克巳兄の論考に彼の日のご盛儀が、日差しの暖かさが、蘇ってきた。 (山内)

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