国民同胞巻頭言

第567号

執筆者 題名
理事長 上村和男 「日本を守る」救国の政党出よ!
- 金融危機の渦中で浮上した「国家の役割」 -
山口秀範 子供たちに「日本人としての根」をどうつなぐか
- ドイツ・ミュンヘンでの「寺子屋」授業 -
福田忠之 現下の日本はどうなって行くのか
亀井孝之 「夜久正雄先生をお偲びする会」に参加して
澤部壽孫 「陛下の御心を知る努力を!」
- 新刊『平成の大みうたを仰ぐ 二』(あとがき)から -

ことしは天皇陛下御即位20年の慶賀すべき年であるが、12月上旬、御公務が一部取り止めになったと伝へられ、その後御公務に復帰されたとの報に接したが、年末年始の諸儀については調整が図られるとのことである。陛下の果てなき御心労に恐懼しつつ、1日も早い御回復を祈念申し上げるばかりである。 さうした中にあって内外共に厳しさが予見される一年が始まった。

昨年9月のリーマンブラザーズ証券の破綻に端を発したアメリカの金融危機は、サブプライム・ローン問題と相俟って全世界的規模に波及し、日本でも株価の暴落・円の急騰で産業界はこれまでにない苦況に喘いでゐる。

金融危機の更なる拡大は、G8に新興国を交へた20ヶ国首脳会議(11月)等で協調体制が確認され当面は避けられたかに見える。それは各国が協調して公的資金を注入するといふもので、市場原理主義とは逆方向にあるものであった。戦後日本が見失ひ、さらには市場原理主義が軽視してきた「国家の役割」が再認識されたのある。

そもそも今回の金融危機には起きるべくして起きた必然の面があった。ブッシュ政権の政策の根幹には、新保守主義(ネオ・コンサーバティブ)のイデオロギーがあって、自由主義と民主主義、そして市場原理主義を広く世界に広げようとする意図があったが、それは、市場の自律性を過大に評価して、「小さな政府」を主張し、国家による規制をできる限り排除するといふものであった。結局はアメリカ企業を有利に導き、冷戦後の世界を「一極支配」せんとする戦略が垣間見えたのである。

しかも小泉内閣による「改革」路線は、かうしたアメリカの政策に歩調を合はせて、市場原理主義へと大きく舵を切ったものであった。その結果、保守政党であるべき自民党は「改革」を叫ぶ自由主義政党に変質してしまったのである。

保守主義の目的は、家族・共同体の絆や社会秩序を保持し個人の恣意を抑制する道徳や規範を重視して、国民が歴史観・価値観を共有する国家を志向するところにある。ところが「官から民へ」の掛け声の下、目前の経済効率優先に走って共同体を支へる人的精神的基盤を壊したのが小泉改革ではなかっただらうか。

郵政民営化は小泉政権が推進した市場原理主義によるものであったが、現在問題になってゐる「派遣社員」制度もその線上にある。一見、労働環境が自由になり誰でも適職を選択できさうに見えるが、不況になれば忽ち解雇される。

経営者は労働の対価を支払ひ労働者は働きに応じて賃金を受け取るだけといふ、マルクスの労働価値説を地で行くやうな非人間的な関係である。そこには日本人が何よりも大切にしてきた人と人との心の通ひ合ひといふものが全く感じられない。

先般、日本商工会議所の岡村正会頭が「企業も人を大切にする心がなければならない」と述べてゐたが、全く同感で現今の経営者には自社の損得だけでなく人間としての温もりも持って欲しいと心底から訴へたい。その心掛けが日本の明日を生み出す原動力になるものと確信してゐる。

目を国外に転じれば、オバマ政権の発足、その対日・対中・対アジア政策の新動向-金融危機の中で対米存在感の増大を目論む中国の外洋戦略「ソ連帝国」の復活-を夢見るロシアの新戦略、等々の国家の威信を懸けた駆け引きが展開されてゐる。北朝鮮は核所有を既製事実化せんと虚々実々の策を巡らせてゐる。各国とも国益の実現に必死である。

翻ってわが日本はどうだらう。政権与党の自民党も野党民主党も、明確な国家ビジョンを提示することなく、「政局」を意識してか、不況・雇用対策もテロ対策も、党利党略化して政府攻撃の材料にされてゐる。はしなくも「田母神論文」によって政界全体の思考停止と自縄自縛ぶりが炙り出された。日本の文化伝統を守る明確な理念を掲げた政党の出現以外に救国の途はないのではないか。

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「寺子屋」をドイツで!

半年余り前の6月10日の朝、いつものやうに開いたメールボックスに「ミュンヘン de 寺子屋を開催出来ないものでせうか」との来信があり、驚きかつ喜んだ。差出人は、ドイツ在住で、2月に東京出張の時間を割いて、福岡まで見学に見えた小泉公人さんで、ミュンヘン日本人国際学校(生徒数は小学生100人・中学生30人)の理事長を務めてをられる。

同地に住む邦人子女が、日本人としての教育をしっかり身につけるやうにと腐心して来られた小泉さんの、いはば集大成として日本人学校での「寺子屋」実施を企画したいとの内容であった。

南ドイツバイエルン州の中心都市ミュンヘンは人口130万人、自動車産業やハイテク関連でドイツ経済を大きく支へてゐる。

在留邦人は約3千人で、その子弟は(旧)ドイツ語による現地校、英語によるインターナショナルスクール、日本語による日本人国際学校、のいづれかを選択し日々の教育を受けてゐる。 そもそも全世界に全日制(月曜から金曜まで終日)の日本人学校が72校、土曜日だけの補習校が100校近く存在してゐる。

すべて当地の日本人会が経営する私立学校で、教師は原則として文部科学省から派遣される公立小中学校の教員である。

ドイツで生活する邦人子女にとって、恐らく唯一の機会となるであらう今回の45分間「寺子屋」に、どの偉人を採り上げるべきかと熟慮のうへ、1・2年生には、丁度千年紀を迎へた『源氏物語』の作者紫式部、3・4年生には北里柴三郎、5・6年生には伊藤博文と決めた。

後者のふたりはいづれも若き日にドイツ留学を果してをり、志を抱いて欧州へ渡った先人に焦点を当ることにした。さらに中学生向けは、日本とゲルマンの神話伝説を比較しながら、日ごろ子供たちが感じてゐるであらう民族性の違ひを文献に即して再認識してもらはうと考へた。

母親向け、並びに日本人会有志の成人対象講話も含めて、福岡での予行演習は延べ20回を超えた。実際に渡航したのは横畑雄基(平成12年帝京大法学部卒)と私の2人であったが、これまで積み重ねてきた当社・寺子屋モデルの総力を挙げて、海外在住の子供たちの心に火を灯したい、そんな思ひで11月8日成田を飛び立った。

何を伝へるか

11月10日の朝から、横畑が担当して小学生への寺子屋授業を順次展開した。国内の同年代の子供たちと比べて、姿勢がよく集中して話を聴いてゐるなあ、といふのが第一印象であった。

紫式部を採り上げた授業では、漢字から片仮名・平仮名を編み出した先人たちの工夫を紹介したが、それ故に、ヨーロッパでも未だ殆どの民族が混沌とした状態にあった千年前に、女流文学の花が咲いてゐたといふ日本文化の奥深さと連続性に目を開いてもらへたやうに思ふ。

北里柴三郎については名前すら初めてといふ児童がほとんどであった。伊藤博文は教科書にも登場してはゐるが、それとても表面的な業績しか習ってゐないので、偉人たちの生き方を大変新鮮に受け止めてくれた。

2人ともドイツで学びその成果を持ち帰って日本のために尽した点に子供たちは共感を覚えたやうで、明治といふ時代をこれまでと違った視点で捉へてくれたのではないかとの手応へを感じた。

そして私が、中学生向けに、「ドイツと日本の神話・伝説」と題して話をした。海外に出たとたん私たちは、否応なく日々自分が日本人であると意識せざるを得ない環境に包まれるが、圧倒的なドイツ文化に曝されてゐるに違ひない子供たちが、そこでも自国を誇りに思へるか、反対に自虐的に陥るかは、個々人の将来にとってのみならず、国全体にとっても大きな分岐点となる筈である。

かつて仕事のため米英に10余年滞在した折、我が子3人を同道して育てた経験上、民族・歴史の差異をありのままに受け止めることから自国への健全なる誇りが芽生えると確信してゐたので、右のテーマを選んだのである。

北欧神話

ドイツ人は勿論ゲルマン神話を持ってゐる。それをたどれば北欧神話に行き着く。後世までキリスト教の影響を受けることの少なかった北欧神話から、むしろ古代ゲルマン民族本来の特徴をよく窺ふことが出来るやうである。

まづ天地創造であるが、世界中ほとんどの神話は、何もない無の状態から始まる。北欧神話でも「原古にはまだ天もなければ地も海もなく、ただ底知れぬ巨大な裂け目だけ」の中に巨人が、そしてやがて神々が生れ、その神々が天地万物を創り始める。そして最後に至高神が海を漂ふ 2 本の流木から男女の人間を作る。

他の神話でも様々な動植物から、中には泥人形から神は人間を創造する。モグラのやうに地下から人間を湧き出させるといふ神もゐる。さうして作られた人間が地上で国作りを始めるといふのが概ね共通のストーリーである。

ところが北欧神話はそこから予想外の展開を見せ、やがて神同士で熾烈な大げんかを始めて、せっかく出来上がったすべては無に帰し、神と共に人間も絶滅に瀕する(「神々の黄昏」と呼ばれる)。その絶望的な中でわづかに生き残った神々と人間が新しい世界の再建に取りかかる。

今回、ヨーロッパのほぼ中央に位置するミュンヘンに立ってみると、改めてその地政学的な厳しさを痛感せざるを得なかった。少しでも油断すれば、あっと言ふ間に他民族から侵略されるといふ恐怖心は昔も今も変らない筈である。現にソ連崩壊後も「民族浄化」が幾度か話題に上った。国や歴史を守るためには、時と場合によっては敵を全滅させる、その覚悟と備へを常に持ってゐなければ生き残れないといふ厳しい環境が、神話にも反映してゐると、生徒たちに理解させたかったのである。

日本の神話

我々日本人の祖先たちは神々をどう把握してゐたのか。「天がまづでき上がって、大地はその後でできた。そして後から、その中に神がお生まれになった」と『日本書紀』巻第一にある通り、神様の出現時には既に天と地が出来上がってゐた点が北欧神話をはじめ他の神話と大きく違ふ。『古事記』上つ巻も「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は…』で始まる。所与のものとして天地が先づ存在する。

さらに神と人間の関係については、神々の住む高天原からやがて神々が地上に降りて来られる(天孫降臨)。するとそこには既に土着の山の神・海の神たちが住んでをり、降りてきた神々は、その娘たちと出会って子孫を遺していく…。

そんな記述が展開するところから考へてみると、他の神話では、神と人間は全く別の存在で、絶対に交はることはないが、われわれ日本人は、祖先を遡ると神様につながってゐると言へる。

「神が人間を作った」と記したが神話自体は古代の人間がそれまでの歴史や地理的環境を踏まへて、民族の願ひや戒めなどを神々に託して成立したものである。きっと日本は島国だから、そして四季が巡り穏やかな自然に恵まれてきたから、人間と神はつながってゐると考へても不思議ではなかったと思はれる。

           ○

以下はこの授業に関する拙詠である。

ゲルマンと我らがみ祖の物語比べつつ語る「ドイツ寺子屋」 多民族ひしめく歴史をくぐり来し
その逞しさ神話にも著し海囲み四季の恵みの育みし我らが神々なべて穏やか
外国に住まふ子らにも日の本の麗しき心伝へてしがな古代英雄の伝説

神話に見る各民族の特徴は、伝説物語にも当然反映してゐる。 ゲルマンの代表的英雄は『ニベルング物語』の主人公ジークフリートであるが、この剛勇大胆でしかも信義に篤い美貌の王子は、『古事記』中つ巻で最大の英雄・倭建命と多くの共通点を有してゐて、彼もまた悲劇的最期を遂げる。

ところが前者では、夫の唯一の弱点を敵将に漏らし、それ故に夫を死に追ひやったジークフリートの妃クリームヒルドが、温良柔和な淑女から峻烈残忍なる復讐鬼へと変貌し、権謀術策の限りを尽くした殺戮が繰り返される。そしてこの物語は「恨みに狂う一人の女(クリームヒルド)のために、修羅の巷となって…この悲しく痛ましい饗宴の思ひ出が、いつまでも悪夢のやうにこびりついてゐた」といふ寒々とした記述で結ばれてゐる。

我々からすれば、目をそむけたくなるほどの描写であるが、剛腹冷徹でありながら忠誠と意地を貫く敵将ハーゲンも含めた主要登場人物の中には、ドイツ人の国民性が躍動してゐるとの定評がある。

一方、質実剛健かつ純情なる我らが倭建命や、倭建命と任務を共有しつつ愛と犠牲を体現して潔く入水した妃弟橘比売命は、現実苦難に立ち向ひつつ、ふたりともその人生の終りを自らの歌で締めくくってゐる。その美しい調べを祖先の心を偲ぶよすがとすべく、『古事記』の一節を中学生全員で声を揃へて朗読してもらった。

国思ばして歌よみしたまひしく、倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはしまた、歌よみしたまひしく、 命の全けむ人は畳薦平群の山の熊白檮が葉を髻華に挿せその子 この歌は思国歌なり。また歌よみしたまひしく、 愛しけやし吾家の方よ雲居起ち来もこは片歌なり。この時御病いと急になりぬ。ここに歌よみしたまひしく、嬢子の床の辺に我が置きしつるぎの太刀その太刀はやと歌ひを 竟へて、即ち崩りたまひき。ここに駅使を貢上りき。

生まれ故郷の大和(奈良)を間近にして、恋ひ焦がれるが如き望郷の思ひを抱きつつ生涯を終へた倭建命。その物語に初めてふれた生徒たちは、自らのふるさと或いは祖国日本への望郷の念と重ね合はせて、我が民族の英雄の心情と共鳴してゐるやうであった。

後日届いた感想文のごく一部をご紹介する。

「私はヨーロッパの神話や伝説にしか関心がなかったが、日本にも神話があることを知って驚きました」 「北欧神話の神は強い戦いに勝つものばかりが求めらるが、日本神話の神は力以外に思いやりや優しい心が求められていることが面白い」

「古事記では最後の力をふりしぼって故郷を思う気持ちを歌ったのが印象的でした。私も日本を遠く離れていますが、その気持ちは大事にしたい」 「心優しく勇気ある偉大な人として、何百年何千年経った今もこうして受け継がれていく神話や伝説を大切にしたい」 (仮名遣ひまま)

等々、瑞々しい感性が溢れるものばかりであった。

ドイツで見た日本教育の混迷

午後の部も多くのお母さん方が熱心に参加してくれた。前日夜の日本人会有志の人達との勉強会から心地よい緊張感が持続し、かくして「ドイツde寺子屋」は成功裡に幕を閉ぢることができた。ところがその晩、「慰労懇親会」のお誘ひを受けてイタリアンレストランに赴いた私たちは、思ひがけず日本の教育混迷の現実を、このドイツの地で目の当りにすることになった。

会場には10名ほどの日本人学校教諭が集ってゐたが、校長先生の遅刻もあって、暫くの間だらだらとした雑談に終始した。この店のメニューを誰がうまく解説できるか…、様々なコンサートが驚くほど安価で開催されてゐる…、アウトバーン(ドイツの名高い高速道路)は快適で週末のドライブが楽しみだ…云々。

遂に痺れを切らして私は次のやうに促した。「プロの先生方から今日の寺子屋授業の感想や、当地での実践などを伺ひたい」。これに対しやうやく、幾つかの発言があった。

「横畑さんの出来はまづまづだったが、自分の考へを出し過ぎる。最近は生徒に考へさせるのが主流で、教師が意見を押し付けるのはちょっと…」「ここでの三年間の貴重な経験を岩手県に持ち帰って役立てたい…」。しばらく開いた口が塞らなかった。

教師が自らの思ひを語らずして子供たちをどう導いて行くと言ふのか。今この海外で目の前にゐる日本の子供たちに全力でぶつからずして何を持ち帰ると言ふのか。そして遂に私たちへのきちんとした大人としての労ひの言葉は最後まで聞かれず終ひであった。私たちが「招かれざる客」だったのは致し方ないとして、では海外でも日本人としての根をつなぐ健全で力強い教育は誰が施してくれるのだらうかと考へさせられてしまった。

日本国内の状況からして全く予想してゐなかったわけではないが、それにしても混迷の極みだと慄然とさせられた。海外の日本人学校へ教師を送り出す文部科学省当局にも選考基準や託すべき使命などの再点検を強く望みたいところである。

どの国にも負けない歴史伝統を承け継いでゐる私たちであるが、それを営々と次の世代へ伝へるべく努力を怠ってはならないと、ミュンヘンの街角で改めて痛感した次第である。

((株)寺子屋モデル代表取締役社長 数へ62歳)

夜久正雄著(国文研叢書1)『古事記のいのち』
価 900 円 送料 210 円
THE KOJIKI IN THE LIFE OF JAPANの原著

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昨年11月の事だが、受験生の服装や髪型等の乱れを合否の理由にした事で、神奈川県の高校長が更迭されて、父兄がその取消しを県教委に求めるといふ事があった。県教委の方がをかしいのではないかといふ事だ。自分の子供を学校で集団生活させる父母が、かやうな反応を見せるのに無理はない。

しかし県教委としては服装や髪型は「個人の自由の範囲内」との前提を無視したといふ訳だ。此の事について、元校長の1人が「更迭された校長の行動は、不正ではないが不適正だったのだ」と発言して周囲が納得するといふ場面に偶然出会した。教育の世界では困難な場面で良く採られる解決策だ。

10年以上も前だが「戦後かなりの変遷を経てきた教育委員会制度には問題があり、更に昭和31年の鳩山内閣で教育長のポストを3役なみに格上して、官僚の狙ふポストの1つになってしまったのを反省せねばならぬ」との識者の意見を聞いた事がある。

「不正でないが不適正」といふなら「正義の中に適正と不適正がある訳だから、不適正だけど正しいといふ事もある」といふ事になる。だから、男女の情事等の場合、それを昔から悲劇として小説の題材にし、世上の紅涙をしぼってきた。

しかし、この言葉遊びのやうな事は、あくまでも小説の世界だから済まされて来たのだ。大事で、真面目な場面では、それでは済まないのが日本人の健康な常識感覚ではなかったのか。

しかし、かやうなやり方が政治の世界にまで及び、総理大臣が「田母神航空幕僚長の行為は不適切であった」と言ふに至っては疑問を呈さざるを得ない。つまり「正しいかも知れないから不正だとは言へない。

しかし国際関係上具合が悪い」といふ事だ。かの幕僚長は、そのをかしな国際関係を変へる為に論文を書いたのではないか。先づ担当大臣との間で、真剣で率直な議論が展開されなければならなかった。

だが、その大事な部分を逃げて権力だけが振廻されてゐる。総理の祖父の吉田茂は「自衛隊は戦力なき軍隊です」といって当時の国会を乗り切ったが、それは野党にも「自衛隊は軍隊のやうなものであっても良い」といふ観念があったからではないか。

現下の日本では「国は軍隊で守る」との世界の常識は通用しない。「専守防衛の自衛隊で良い」と思ってゐるのだらう。「実際にはそんな事は出来ない」と専門家までもが述べるのにだ。

今、「地方の時代へ」といふスローガンがあるが、疑へば、実は「中央集権が面倒臭くなった、全うする自信もない」といふのが本音ではないのだらうか。例へば定額給付金をめぐっても所得制限の判断を地方自治体に委ねて混乱を招いてゐる。ローマ帝国も自信を失った時に崩壊した。

世界は金融危機の最中にあり、マルクスの言った資本主義の最終段階、つまり国家独占資本主義となってゐるが、元・現を問はず共産主義世界こそが、それを望んでゐるのではないか。グローバルが時代の流れと言って終へばそれまでだが、世界はさうならざるを得ないとして、かくの如き状態に陥った。アイスランドの経済はそれで崩壊した。歴史的な地元の経済を無視せざるを得なくなった悲劇だ。そして、それは当該国だけで済むのか。

ケインズは通貨の相場について、美人コンテストのやうなものだと言ったさうだが、今、米ドルの価値が下がって日本の円が世界で急上昇してゐる。金本位制でない通貨は、結局は軍事力が背景になるから米ドルの価値はそんなに下がることはなく、日米安保の裏付ある円は経済力が、そのまま評価される事になってゐるが、その代り米国には難題を与へられる運命にある。つまり、今年の美人コンテストは出来が悪く、その中では日本の円が 1 番良いといふに過ぎない。

実験中としか思へないEUは、ローマ帝国の経験を生かさうと考へるのだらうが、貨幣を共通にすれば物価の安い貧しい国は益々生活し辛くなるのではないか。

韓国の李大統領は日・韓・中で同じ通貨に出来る筈だとぶち上げてゐるが、日本の政治家はそれに対してハッキリとものが言へるのだらうか。北朝鮮の問題すら解決されない現状だ。

「言葉を正確に使はない日本人はもう一度、あの敗戦時のやうな苦しみに会はねばならないだらう」との旨の夜久正雄先生の文章を40年以上前に読んだ時の衝撃を思ひ起してゐる。

(元神奈川県公務員 数へ71歳)

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昨年3月、数へ94歳で逝去された夜久正雄先生を「お偲びする会」が、去る11月23日午後、78名の方々が参会して東京・神田錦町の学士会館で開かれた。亜細亜大学入学以来、足掛け49年に亘って御指導を賜った私にとって感慨一入の追悼の集ひであった。

今回の集ひの案内は、関東在住の会員を中心にメール網の会員諸氏に投函されてゐる。12月1日付の産経新聞の「集う」欄にも会の模様が紹介されてゐたが、私の感想を少々記してみたい。

会場の正面には岩越豊雄氏によって揮毫された「夜久正雄先生をお偲びする会」といふ標題が掲げられてゐて、一隅には、「先生が昭和16年吹き込まれた『古事記』朗読のレコード盤」「昭和53年録音のテープをもとに平成13年に刊行された『古事記』全巻朗読のCD」「昭和60年の宮中歌会始で選に預かった際の宮内庁からの通知とその折の恩賜の短冊箱」「昭和13年11月の日付が記入され高木尚一・田所廣泰・桑原暁一・小田村寅二郎・南波恕一等々のお名前が寄せ書きされた国旗」などが展示され、さらにスナップ写真を拡大した40余枚のパネル、御略歴年譜が貼り出されてゐた。合宿教室・亜大合宿・コンパ・地区合宿のものなどには、私も写ってをり懐かしく学生時代が蘇ってきた。

私が『古事記』朗読のレコード(天孫降臨・神武天皇東征・日本武尊)をお聴きしたのは、大学3年の時であった。このレコードは応召する前に、この世に残すやうにと小田村寅二郎先生からすすめられて吹き込んだとのことで、聴く者に悲壮感すら与へる声調であったことを覚えてゐる。昭和53年の『古事記』全巻朗読テープ録音の経緯は先生御自ら本紙第208号に書いてをられる。

お偲びする会では、初めに黙祷が捧げられた後、上村和男理事長が開会の辞を述べ、次いで10分間ほどのDVDが上映された。冒頭で、昭和天皇の御前で「旅遠くルンビニの野に行き暮れて橋のたもとに蛍飛ぶ見き」の預選歌が披講される昭和60年の歌会始の模様が写し出された。

そして披講中起立してゐた先生が玉座に向って頭を深く深く垂れて着席される場面は、これまでも何度か拝見してゐるが、

あなかしこわが大君のおんまへにわがうたもたかくよみあげられぬ

と詠まれて、「生涯の面目」と後に仰言った光景であった。

この場面について、小田村四郎会長は(閉会の辞の中で)、「兄寅二郎が最敬礼といふのは夜久先生の神前に向ふ礼の仕方が模範であると語ってゐたことを覚えてゐる」と回顧されたが、まさに鄭重この上なき最敬礼と言ふべき一礼であった。

当時、テレビ中継でこの光景を目にされた小田村寅二郎先生は、

大君のみ前にはべりうやうやしく最敬礼したまひぬ君おごそかに

と詠まれゐる。また夜久先生の一高時代からの親友・宮脇昌三先生は、今上の御歌研究に努め来し君なればこそ殊にうれしきとお詠みになって、預選の栄に浴された夜久先生をともに祝はれたことが思ひ出された。

またDVDには、大学行事・合宿教室・太子研究会などのひとコマや、還暦・米寿のお祝ひなどのスナップ写真も収められゐて、最後は第 30 回合宿教室(阿蘇)の壇上でユーモアを交へつつお話をされるお姿がお声を伴って写し出された。時間にすれば10分弱の上映ではあったが、先生との思ひ出のあれこれが瞼に浮び思はず目頭が熱くなった。

DVDの編集やパネルの作成等に尽力された最知浩一氏に感謝を申したい。

参会者には先生の御著『古事記のいのち』(改訂版、国文研叢書1)と今回編集した小冊子『夜久正雄先生をお偲びして』(合宿教室での御詠草百九十余首・御略年譜等を收む)が配られたが、この小冊子にはさらに「夜久正雄先生 晩年の御詠草」と題する 2枚のプリントが折り込まれてゐた。

これは先生がメモ紙等にお書きになったお歌を奥様が清書され、開会の3日前に御遺族との連絡を担当してゐた山内健生氏宛に速達で届けられたものといふ。同氏が奥様の御了承を得て、ワープロ打ちしたものであった。

夜久先生のお歌は、歌集以外には「合宿記録」「国民同胞」「青砥通信」「澤部通信」等で数多く拝見してゐる。しかし、平成になってからは歌集としてまとめられたことがなかったし、まして晩年のお歌については拝見する機会がなかったので、このプリントを頂けたのは嬉しかった。

昭和38年に先生の歌集『いのちありて』が刊行された時、学生の私にも頒けて下さったが、その際、「専門歌人でもない者の歌集は、簡素な小冊子である方がよい」と言はれたことを思ひ出した。晩年のお歌がプリント 2 枚にまとめられたことも許されるのではないかと思った。

「晩年の御詠草」は、平成19年で終ってゐるが、その最後の2首は

小田村大兄がみ心こめて創りたる 社団法人国民文化研究会 略称国文研の育てたる若き人々同信の友みな活躍す

である。

上村理事長は開会の辞の中で「お亡くなりになるひと月前にお訪ねした際に、先生は国文研を頼むぞと仰言った」と先生のお言葉を紹介したが、御子息の夜久竹夫氏(日本大学文理学部教授)は「父の資料を散逸させずに保管して国文研の皆さんに役立てるやうにしたい」と最後に御挨拶された。

先生が一高昭信会からの道統を継承する国文研の将来について、いかに気にかけてをられたかといふことに改めて思ひ到った。 同時に、「短歌をつくるといふことが、私の生活の意味をたしかめることだった」と仰言った夜久先生のお言葉の通り、短歌は先生の人生そのものの表現であった、と改めて実感した「お偲びする会」であった。
(元皇宮護衛官 数へ68歳)

夜久正雄先生 晩年の御詠草
- メモ紙等に書かれたものを奥様が清書されたもの。( )内は奥様による注記です -

                 ○

(御詠草時期不詳)
みな人のあつきいのりのかひによりいまぞ去りゆくさきくとばかり《心のこして》

                 ○

(平成17年か)
久し振りに遠不二のかげ木枯らしの風にゆれ立つ黄葉のかげに俳句
古りにけり端午節句のお鍾馗さん
青空に木枯らしの編む光かな
(同年5月)
リハビリにはげみて歩む公園のベンチに休めば風さはやかなりぬ
昨日より今日は若葉の尚更にみどりをましぬ生命のいぶき
(夏)
夕空に若葉の間をとびかへるコウモリ二つかろやかに舞ふ
(同じく平成17年)
(加納祐五様への返事10月25日とあれども未投函)
かにかくにいのちある日を畏みて生くとふみうた大きみ教へ
(小田村四郎様の論文を読み10月2日記とあり)
こまごまと書かれし君のふみ読みていよいよたふとししきしまの道
(8月)
なつかしきみ名のみ歌をひろひつゝ読みつげゆけばいつか夜更けに
《夜も更けにけり》
遠き日に日毎にきゝしそのみ名のみ歌にこの日めぐり合ひにけり
み名をみればみこゑみ顔を今こゝにおはすがごとに唯なつかしき
(何方か分りません)

                 ○

(平成18年、南波恕一様が退院したとのお便りを頂いた時に)
君がうた声あげてよむ老い痴れのやまひの床に形ただして
生くべしは生きんとよみしうたよみてわれも生くべしいのちのかぎり
九死に一生いくたびへしか寿命こそはかるべからず今日も明日も
たゞ感謝して君がよみけんうたよみてわれも生きなむ力めくまで
2週間のリハビリ(あんず苑)を退所して
出所してまづ見せられし君がたよりうれしかりけりよみがへるごと
詠み人不知と君がよみけんうたよみてわれも生きなむ力めくまで
(平成18年)
(あんず苑に俳句の先生が来てゐて俳句を作るやうに云はれたさうです)

俳句

余寒尽きて雛のはやしや待つ身かな
国々のタンポポきそふ野となりぬ
魂も消ゆしだれ桜の花見かな老い知れて思ふとすれば国内外つ国
経めぐりて旅の思ひ出いま経るごとに
明けにけり満目みどり音たえて
もどり来て見る窓外や緑満つ
端午雛わが家の鍾馗も老いぼれにけり
      役 杜 風
(5月)
ヒマラヤの朝のしじまに高ひゞくチベット男の山恋の歌
(11月)
うすあかき葉さきのもみぢ葉ふちとりてみどり若葉のうつくしきかな

                 ○

(平成19年)
人の世はかゝるものとは知りながらなほもはからふあはれわがさが
高々と咲きたる花の青き実を子規居士いかに見たまひにけむ

小田村大兄がみ心をこめて創りたる社団法人国民文化研究会
略称国文研の育てたる若き人々同信の友みな活躍す

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本書は、平成11年11月に発行された『平成の大みうたを仰ぐ』の続編です。

前書と同様、全執筆者が(社)国民文化研究会の会員であります。刊行に当り、本書の編集責任者として、私から若干述べさせていただきます。

年頭に当り、元首が国民に和歌(詩)でメッセージを伝へるといふ、世界に類のない国が日本ですが、それにもかかはらず、このメッセージがテレビや新聞雑誌で解説されることは殆ど無く、大多数の国民に伝はってゐないやうに見えます。

そこには種々の原因があると思はれますが、明治以降、西洋文化の流入により、日本文化を蔑視する風潮が広まり、特に敗戦後の占領政策により、日本の文化伝統はないがしろにされ、同時に日本文化の真髄ともいふべき短歌も大多数の国民にとって疎遠なものとなりました。

古来かけがへのないものとして日本人の心を大きく占め、また日本の歴史に重要な役割を果たして来た「短歌」 - しきしまの道 - の意義も理解されなくなり、その結果、「短歌」に対する深い思ひが私達の心に希薄にったことに一因があると思はれます。元々、短歌は、日本人にとって、自分の心を磨くものであり、お互ひの心を通はせる重要な手段でありました。

この混迷の時代の風潮の中で、皇室においては、古くから日本人が大切にしてきた美しい日本の心が、明治、大正、昭和を経て平成の御代に脈々と伝へられ、継承されてゐます。そのことを、天皇・皇后両陛下の御製・御歌を通して、私達も知ることが出来ることはまことに有難く幸せなことであります。

今年(編注・平成20年3月)にお亡くなりになった夜久正雄先生(亜細亜大学名誉教授・国文学者)は、前書の「はしがき」のなかに、「日本の国がらの中心をなす天皇と国民の心の通ひあひ、それは国民が天皇のお心を知ることに尽きると思ふのだが、その天皇のお心を知ることのできる最も確実な道は、天皇のお歌をよむことであると私どもは信じてゐる。勿論それは知りつくすことのできない道である。しかし、知る努力を怠ってはならない。私どもが、御製、御歌の研究をつづけるのはこのやうな心持ちからである」との重要なご指摘をなさってゐます。

本書の第1部は、平成12年以降の月刊『国民同胞』2月号に同人会員5人が認めた御製・御歌についての謹解と感想文で構成されてをり、第2部は、『国民同胞』、『日本への回帰』(以上、国民文化研究会)、『祖國と年』(日本協議会・日本青年協議会)および『正論』(産経新聞社)に掲載された会員の文章で構成されてゐます。

今上陛下のご即位20年の節目にあたるこの秋に、両陛下を敬慕する国民の奉祝の意をこめて、本書を公刊できることは、まことに喜ばしい限りであります。

天皇・皇后両陛下のお心を知ることは、果て知らず乱れてゆく日本に最も必要なことであり、そのことこそが、日本を救ふ道に通じると思はれてなりません。 本書が一人でも多くの日本人に読まれ、天皇・皇后両陛下のお心の一端をお偲びするよすがになれば、これに勝る喜びはございません。

ご協力頂いた関係各位、殊に展転社社長・藤本隆之氏の献身的ご助力に心から御礼申し上げます。

平成20年12月19日
                                 (本会副理事長 元日商岩井 数へ69歳)

待望の続編 刊行!

国民文化研究会編 展転社刊
御即位20年奉祝記念出版
『 平成の大みうたを仰ぐ 二 』
第1部年頭の大みうたを拝して
平成12年から平成20年まで
第2部両陛下の御心を仰ぎて
小田村四郎会長、小柳陽太郎副会長はじめ、会員諸氏の文章九編
他に「平成の御代略史」「宮中祭祀一覧」を收む

読者特別価格 2,000 円

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(1冊) 290円
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10冊以上は1割引きです。

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編集後記 旧臘19日、御即位20年奉祝中央式典に参列。今秋にかけて各県で奉祝式典が相次いで挙行される。何よりも先づ奉謝の念があって然るべきだらう。この20年の間、内政・外交・教育等々がどれだけ「国の尊厳」を損ねてきたことか。思ふだに慄然とさせられる。マス・メディアの偏向と思ひ上がりは常軌を逸してゐた。年初に当り、歴史的な「国の統合」の重みを噛みしめてゐる。

本年も宜しくお力添へ願ひます。(山内)

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