
第651号
執筆者 | 題名 |
理事長 今林 賢郁 |
年初に当り、「悠久の国家理念」を思ふ - 今年の合宿教室は「東」と「西」で開催 - |
布瀬 雅義 | 「米作り」の歩みと日本人 - 〝絶え間ない「品質管理活動」の連続だった〟 - |
合原 俊光 | 大御心を間近に拝した喜び - 皇居勤労奉仕に参加して - |
小柳 左門 | 「親子で楽しむ新百人一首」の発刊に寄せて - 名歌で育む日本のこころ - |
国民文化研究会60周年 記念出版 『〈解説・原文・訳〉語り継ごう 日本の思想』(明成社刊) 父祖の思想に学び、日本人の心を取り戻そう! |
よく晴れた冬の朝早く、拙宅の近くから雪をいただく富士山を遠く望んでゐると、子供の頃に歌った唱歌、「ふじの山」(作詞・巖谷小波(いはやさざなみ)、作曲・不詳)が思ひ出されてなつかしい。
青空高くそびえ立ち
からだに雪の着もの着て
かすみのすそを遠く引く
富士は日本一(につぽんいち)の山
その「日本一の山」富士は、古来、日本人にとって霊峰であった。『万葉集』第三期の代表的歌人・山部赤人は、駿河に聳え立つ富士の雄姿を
天地(あめつち)のわかれし時ゆ 神(かむ)さびて高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 不盡(ふじ)の高嶺(たかね)を… (万葉集巻3・317) |
と感嘆の念をこめて詠った。
ご歴代の天皇で富士山をはじめてご覧になったのは明治天皇である。
慶応四年(1868)3月14日「五箇条の御誓文」発布、同8月27日、即位の大礼を行はれた明治天皇は、9月20日、神武天皇の東征さながらに新都東京に向けて京都を出発されたが(10月13日東京着)、その途次、駿河湾沿ひの東海道、原宿(はらじゆく)(現在の静岡県沼津市付近)に、み車が着い時、行幸に供奉(ぐぶ)してゐた三条(さんじよう)西季知(にしすえとも)(幕末の「七卿落ち」の一人。維新以後は明治天皇の側近として仕へた)が、天皇に奉った歌がある。
君よ君よくみそなはせ富士の嶺(ね)は国の鎮(しづ)めの山といふなり
目前に聳える高嶺をはじめて仰がれる天皇、その傍らで己もまた一心に富士を見つめる三条西季知、そして「君よ君よくみそなはせ」と、万斛の思ひをこめて17歳の若き君主に呼びかける三条西季知のまごころがしみじみと伝はる忘れがたい一首である。
秀麗なる富士は、神代から変ることなく悠然として大空に立ち、高貴さを帯びた神々しい姿はいつの時代にも人々に畏敬の念を抱かせてきた。富士を仰ぐ日本人のこの畏敬の念はそのまま皇室を仰ぐ心でもあった。神武天皇以来、ご歴代の天皇は民を「大御宝(おほ み たから)」として慈しみ給ひ、御自ら皇室祭祀を執り行はれて国の平安と民の安穏を祈り続けてこられた。わが父祖たちはその天皇を国の中心と仰ぎ、天皇の民であることに光栄とよろこびを覚えながら生きてきた。この君民一体の国柄が二千年以上も続いてきたのはまことに稀有なことと言はなければならない。
だが、いつしかわれわれの意識から崇高なるもの、気高いものへの敬仰の心は遠ざかり、品位や名誉や慎みといった倫理に関はる規範がわれわれの所作を左右することは本当に稀になってしまった。気高さへの畏敬の心を喪へば人は野卑となり、国民から国柄への信がなくなれば国は内部から崩れていく。内では規範意識の希薄化が指摘され、外は国際関係がいよいよ錯綜する今日、われわれはあらためて父祖たちの生き方に学び、日本人としての姿勢を整へ直さなければならないと思ふ。憲法改正も国の真姿を明らかにすることから確かな道筋が生れるはずである。
昨年は当会にとって60年の節目の年であった。昭和31年(1956)の設立以来毎年続けられてきた合宿教室は今年61回を迎へる。今年は運動の裾野拡大と参加者の利便を考慮し、はじめて東日本と西日本の二ヶ所に於いて開催することとなった。
「東日本」は今年の9月2日(金)から9月5日(月)の3泊4日、御殿場市「青少年交流の家」で、「西日本」は8月19日(金)から21日(日)の2泊3日、福岡市「さわやかトレーニングセンター福岡」で開催の予定である。
本来の日本を取り戻すためには「記紀万葉時代からの史観を素(もと)に、悠久の国家理念の追憶からスタートするしかない」と語られた当会の初代理事長・小田村寅二郎先生の合宿教室での最後の言葉(平成10年・阿蘇)を胸に思ひ返しながら、今年の合宿教室でもまた、若い人々と共に学び語り、「悠久の国家理念」を回復する道を求めたいと思ふ。
稲作に不向きだった日本列島
日本の国のことを、古来、「瑞穂(みずほ)(水穂)の国」(瑞々しい稲穂の稔る国)、とも呼ぶが、日本列島は稲作にはまったく不向きな土地であった。熱帯性植物の稲が東南アジアで栽培されてゐる様子と比較するとよく分る。世界各地の稲作を研究してゐる京都大学の渡部忠世名誉教授のチームが東南アジアで撮ったビデオには次のやうな風景が映ってゐる。
〈広大な湿地帯を思はせるデルタの深い水の中に、葦のやうな丈の長い食物が雑然と生ひ茂ってゐる。人々は胸まで水につかりながら穂の先をちょん切るやうに刈り取ったり、舟で水の上を滑りながら穂先を刈り取ったりしてゐる〉 |
これが「天水田」、つまり天然自然のままの水利条件に依存し、稲が育つのを待って刈り取る稲作の原風景である。東南アジアには、メコン川のやうな大河が広大な平野を流れてをり、その流域や海にそそぐデルタ地帯は、そのまま水をたたへた湿地帯になる。稲はそこで自生する。
日本列島は山が海岸まで迫ってゐて、川は短く流れが急である。人間が知恵を絞り、地形を変へて水を管理しなければならなかった。
気候条件から見ても、日本列島は米作りには適してゐなかった。稲の苗は温度が八度以下になると生育が止まり、零下一度に下がると枯れる。東南アジアのやうな気候温暖な地域にこそ適した作物であって、そもそも東北地方や北海道で栽培できる作物ではなかったのである。
稲が日本列島に入ってきたのは、最近の研究では縄文時代にさかのぼる。日本人は何千年もかけて、品種改良しつつ、世界で最もおいしい米を作り上げてきた。渡部名誉教授は「日本は地形的にも平地が少なく、急峻な川が流れ、気候的にも温帯で、熱帯植物である稲の生育には決して恵まれた条件とはいえなかった。日本人は知恵と努力によってそれを克服して、世界的な稲作国家になったわけです。そういう意味では、劣悪な条件が日本人を鍛えたともいえます」(1、31頁)と結論づけてゐる。
急峻な地形を水田に…「灌漑田」
不向きな条件を克服した知恵と努力とは、まづ急峻な地形を水田に変へることである。棚田を想像すれば良い。傾斜地を、ある部分は削り、ある部分は土を盛って、水平にする。一定の高さごとに区切って、何段もそれを作る。そして、近くの川から水を引き、田に水が流れ込むやうにする。上の田から下の田へと水が流れるやうにする。当然、一枚の田は平らに作らなければならないし、水量をコントロールするためには、水路の大きさや傾斜を適正に設計しなければならない。かうして人工的に水を引く田を「灌漑田」といふ。
そのためには、精密な土地測量技術、土手や畦を作る土木技術などが必要である。また人々が力を合せて田を造成するために、共同体の運営技術も発展させなければならない。
天水田が行はれてゐるメコン川のやうな大河川の流域では、ひとたび豪雨があると大洪水となり、あたりを呑み込んでしまふ。人間の努力は消し飛ぶから、この面からも人力で工夫などはせずに、自然のままに稲の自生を待つといふ形になる。
このやうに天然の沼地やデルタ地帯に籾をまいて稲が育つまで待つ「天水田」と、人間が地形を改良し水を引く「灌漑田」とは、本質的に異なる。高天原(たかあまはら)の天照(あまてらす)大御神(おほみかみ)がまづ手がけた仕事が、神々を指揮し米を作ることであった。高天原の「狭田(さなだ)」や「長田(ながた)」に稲を植ゑたといふ神語が伝はってゐる。「狭田」や「長田」とは、いかにも山間の狭い土地を段々に水平にならして作った細長い棚田を思はせる。よくある真田、長田、山田、谷田などの名字は、まさに水田造成の努力を象徴してゐる。
「一生懸命」は「一所懸命」の転化と辞書にある。一つの領地を命を懸けて守るといふ鎌倉武士から生れた言葉のやうだが、その土地で何世代にも渡って水田造成をして来た努力を偲べば、先人たちの「一所懸命」の思ひも伝はってくる。
手間をかけただけ収穫が上がる
東南アジアで作られる品種は主にインディカ米である。二メートルもの背丈を持ち、深い湿地帯や沼でも容易に育つ。日本で栽培されてゐるのは、丈の短いジャポニカ米である。人工の灌漑田はそれほど深くないので、背の低い方が適してゐる。
インディカ米は丈が高いから、周囲に雑草が生えても、陽光が遮られて、生育が邪魔されるといふことはない。ジャポニカ米は、丈が短く、雑草に太陽を遮られると衰へる。そのために、雑草取りが欠かせない。
伊勢神宮には毎朝毎夕、神様にお供へする御飯(おんいひ)のための約三ヘクタールほどの神田(しんでん)がある。その管理責任者・森晋(すすむ)氏によれば、田植ゑをした時、ちょっとした雑草でも稲の栄養を奪ってしまふので、怠りなく草取りをしなくてはならないといふ。「苗が30センチくらいになるまでに、一枚の田圃(たんぼ)で三回は草取りをせんといかんわけですが、田圃の中を這いながら草取りをしていると、苗が目にささって痛いんですよ。昔は、この時期になると、よく目医者が流行ったものです。まさに汗と涙の結晶でした」とも語ってゐる(1、30頁)。
10月に入って、収穫が終ると、田を深く掘り起こして、稲を育む土に新鮮な空気と陽光を吸収させるが、これが同時に雑草を除くことにもなる。この耕耘(こううん)といふ作業を四、五回繰り返す。我々の先祖は、かういふ作業を数千年、続けてきたのである。
耕耘の際には、土に栄養となる肥料を施す。今は化学肥料だが、戦前までは鰊粕(にしん かす)や大豆粕(だいずかす)が使はれた。
ジャポニカ米は、肥料を施すことで、一株の稲の茎の数が増えて増収につながる。しかしインディカ米の方は背丈だけが高く伸びて倒れてしまふ。インディカ米は肥料をやらない方が、むしろ収量が安定する。田植ゑにしても、ジャポニカ米は一定間隔を置いて稲を植ゑると適度に栄養を吸収して収穫量が上がる。
伊勢神宮の別宮、伊雑宮の作長・別所保氏は「コメ作りというのは、知恵をしぼって手間をかければそれだけ収穫が上がり、手を抜けばその分だけ収穫量が減る。台風のような天災は別として、人間の努力にたいして正直な結果で報いてくれる」と述べてゐる。(1、31頁)。
「灌漑田」耕作が、勤勉、真面目、几帳面な日本人を作った
我々の祖先はこのやうな手間をかけて灌漑田を作り、それを毎年耕し、肥料を施し雑草をとって、少しでも質の良い米を作らうと、数千年、取り組んできた。それが日本民族の性格に影響を与へた。京都大学霊長類研究所の元所長、久保田競(きそふ)名誉教授は、次のやうに語ってゐる。
「…灌漑農業をやるようになると、農業には考えるということが絶対必要になった。水を引くとか、堤防を作るとか、耕すとか、苗を植えるとか、雑草を取るとか、天候や気候のことを考えなくてはいけませんし、そのようにして計画的に、先を見ながら、よく考えながら、手足身体をこまめに動かしてコメ作りをやってきたということが、勤勉さや真面目さ、几帳面さといった日本人の性格を作り上げ、また知的な興味も湧いてくるようになったのではないでしょうか」(1、33頁) |
近代工業化に繋がる稲作文化
欧米で発達した近代工業を日本がいち早く導入し、さらに様々な分野で追ひ越してしまった。この発展には、前述のやうに灌漑田耕作で培はれた国民性が大きく寄与してゐる。久保田名誉教授は、「農作業はある意味で絶え間ないQC(品質管理)活動の連続のようなものですから、生産性向上、品質向上、粗悪品を出さないといった活動をやることついては、日本人は何の抵抗もないわけです」とも語ってゐる(1、35頁)。
東南アジアでもメコン川の下流域のベトナムは例外的に灌漑田耕作で、田が整然と仕切られ、畝が作られ、除草、施肥、耕耘、土壌作りが丹念に行はれてゐる。品種は基本的にインディカ米だが、ジャポニカ米のやうに背丈が低く、相当な品種改良が行はれてゐる。
ベトナム人は「日本人によく似た民族」と言はれるが、灌漑田耕作をしてきたからだと言へるのではないか。さう言へば、モンゴル帝国がアジアで侵攻に失敗したのは、日本とベトナムである。両国とも日清戦争や中越戦争でシナを破り、アメリカにも手を焼かせてゐる。ベトナムはフランスの植民地統治で近代化が遅れたが、筆者がいくつか見た日系工場は規律正しく、技能訓練を熱心に受講するなど、日本的なモノ作りとの相性の良さを感じた。ベトナムの工業化は急速に進展するだらう。
日本人が「稲昨」に取組んだ理由
第一に米の方が小麦よりも美味しい。シナでもインドでも長年、米と小麦を食べ比べてきた。民衆は常に米を望んでゐて、そのため小麦よりも高価である。欧州でもリゾットやパエリアなど米料理があるが、人類の歴史を見て、小麦から米への転換はあるが、その逆は存在しない。
第二に水田の持つ環境維持機能がある。小麦や玉蜀黍(とうもろこし)などの単一作物の連作を続けると、土地がやせて不毛の半砂漠状態になる。水田は保水機能を持ち、また無数の微生物や昆虫、おたまじゃくし、水鳥の共生するエコ・システムである。日本列島で何千年も水田耕作を続けてこられた理由はこれである。
天照大神が御孫ニニギノミコトを地上に降す際、稲穂を渡して、これを地上で栽培せよと言はれた、と日本神話は伝へる。以来、日本人は先祖からいただい米に感謝し、子々孫々のために、一所懸命に田を守り広げてきた。先祖への感謝と子孫への思ひが、日本人を困難な稲作に立ち向かはせてきた第三の理由である。
(1)上之郷利昭著『コメと日本人と伊勢神宮』(PHP研究所)
(在米国、会社役員)(国際派日本人講座 第791号改稿)
昨平成27年11月9日(月)から12日(木)までの4日間、国民文化研究会の会員有志による皇居勤労奉仕団(小野吉宣団長、戸田一郎副団長以下男性15名、女性4名、合計19名)の一員として、皇居及び赤坂御用地での勤労奉仕に参加しました。一昨年に続き二度目でした。
1日目、朝八時に桔梗門前に集合
朝八時に皇居桔梗門(ききようもん)前に集合。皇宮警察官による本人確認の検査を受け、皇居内に入りました。まづ「窓明館」と呼ばれる集会所で、宮内庁の係官から勤労奉仕に係る説明、諸注意を受けました。正面のスクリーンには皇居の全景が映し出され、皇居の広さは約35万坪であること、陛下お手植ゑの果樹園や昭和天皇の御発意で造られた武蔵野の面影を偲ばせる「二の丸雑木林」とそれが陛下のお意向で、さらに拡張された「新雑木林」のこと、香淳皇后の還暦を記念して建てられた「桃華楽堂」のこと、生物学者であられる陛下がインドネシアの鯉と日本の錦鯉を掛け合せて産みだされたヒレナガ錦鯉のこと等々の説明を受けました。
午前10時前、窓明館の入り口の前に各奉仕団毎に整列し、係官に先導されて宮殿の前庭を通り「鉄橋」を渡ったところで記念写真を撮りました。この後、わが奉仕団は「宮中三殿」の塀の前に移動し、塀越しに拝観しました。「賢所」には皇祖天照大御神が、「皇霊殿」には歴代の天皇と皇族の御霊が、「神殿」には国中の神々が祭られてゐるとのことです。陛下は国家の平安と国民の幸せをお祈りになる宮中祭祀を大切に受け継がれてをり、お出ましになるお祭りは年に30ほどで、その内の8つは陛下御自ら執り行はれるといふことでした。塀越しではありましたが、わが奉仕団一同、拝礼をさせていただきました。
次いで「生物学御研究所」に向ひました。ここでは昭和天皇に続いて今上陛下が生物の御研究をなされてをり、すぐ手前には68坪の水田があり、陛下お手植ゑの「ニホンマサリ」といふ粳(うるち)米と「満月モチ」といふ糯(もち)米が育てられてゐたさうです。今年はすでに陛下の御手で刈り取られてゐました。その後、昭和天皇と香淳皇后がお住ひになってゐた「吹上御所」(昭和天皇の崩御後、「吹上大御所」と改称)の正面前で約一時間、落ち葉掃きを主とする清掃を行ひ、午前中の作業は終りました。
窓明館に戻って昼食を摂った後、再び係官に先導されて、午前中に作業をし残してゐた吹上大御所から西詰橋に至る、かなり長い道路の落ち葉掃きを行ひ、さらに、同じ道路沿ひに植ゑ込まれてゐる龍の髭の生育を阻害してゐる小笹を刈り取り、この日の作業は終了となりました。
両陛下の御会釈を賜る(2日目)
心配してゐた雨雲も去り、8時に皇居桔梗門から入場、九時に窓明館を出発。三の丸、同心番所、百人番所の前を通って10時頃「果樹古品種園」に着き、小休止をとらせていただきました。係官からの説明によると、この果樹園は、陛下の思(おぼ)し召しにより、平成20年に造られ、全国各地の果樹の原種に近いものが植ゑられてゐるさうです。その折、陛下は紀州蜜柑の苗木をお手植ゑになり、「江戸の人味ひしならむ果物の苗木植ゑけり江戸城跡に」とお詠みになってゐます。
7年を経たミカンの木には赤ん坊のこぶし位の実が沢山ついてゐました。小ぶりの柿の実ももみぢ葉に混じって朱色に輝いてゐました。
再び歩いて、旧江戸城の松の大廊下の跡を通り、天守閣跡に行きました。すぐ近くには香淳皇后ゆかりの桃華楽堂があり、天守閣跡に立つと日本武道館の鮮やかな緑色の屋根が見えました。次に行った所は全国四十七都道府県の代表的な樹木が集められた庭園で、わが故里の福岡県の県木として久留米躑躅(つつじ)が植ゑられてゐました。更に行くと、前述のヒレナガ錦鯉が美しい姿で泳いでゐる「二の丸池」があり、そこには紀宮清子内親王の御印であるヒツジ草(水蓮の一種)が浮んでゐました。
午後は、両陛下の御会釈を賜るため、1時30分に全員「蓮池参集所」に集合。奉仕団毎に整列して両陛下をお待ち申し上げました。
午後2時10分、御車が横付けされ、両陛下が降りて来られました。
陛下は慈愛あふれる笑みを浮べられて、ゆっくりとした御足取りで参集所に入って来られました。皇后陛下もお優しい笑みをたたへつつ、半歩下がって、陛下の御足元に気を配られてゐるご様子で入って来られました。六奉仕団が揃って一礼してお迎へ申上げました。わが奉仕団は2番目に御会釈を賜りました。
小野団長に合せて全員が一礼の後、団長は「東京都、公益社団法人国民文化研究会、総員19名でご奉仕させていただいてをります」とまづ申し上げました。御下問にお答へする団長の緊張ぶりが直に伝はって参りました。私も間近く大御心を拝した感激で、熱いものがこみあげて来ました。
両陛下おもわやさしく笑みたまふ御姿を仰ぐわがまなかひに
御下問に言葉のつまる団長を陛下 はやさしく見守り給ふ
団長のいらへまつるを聞きたまふ御眼差しはやさしさに満つ
奉仕団毎に御会釈を賜った後、北海道からの奉仕団の団長が「天皇陛下、皇后陛下、万歳」と声高らかに先導し、全員で万歳三唱を奉唱しました。これまた感激の一瞬でした。
両陛下はお戻りの御車に乗り込まれる前に立ち止まられ、私たちの方を振り返られましたので、私達も最敬礼を致しました。両陛下は軽くうなづかれるやうな御会釈をされ、御手をお振りになってご乗車になりました。御車が参集所を出発すると団員は窓側に駆け寄り、御車の窓から御手をお振りになる両陛下をずうっとお見送り申上げました。
この後、約一時間、宮内庁自動車班建屋付近の落ち葉掃きをして、深い感動の余韻にひたりながら、この日の作業は終了しました。
東宮殿下の御会釈を賜る(3日目)
久しぶりの秋晴れの朝となり、7時45分、赤坂御用地西門前に集合、御用地へ入りました。春秋2回の園遊会の会場となる赤坂御苑が赤坂御用地の中央にあり、北側に東宮御所、南側に赤坂東邸、秋篠宮邸、三笠宮邸、高円宮邸があります。翌日が園遊会とのことで、その準備が進められてゐました。
8時30分、休憩所で係官から説明があり、大池、中池の前に集合して、記念写真の撮影がありました。そこは園遊会の中心会場のすぐ傍で、そのやうな場所で写真に収まるなど恐れ多いことでした。撮影が終ると直ちに作業開始となり、赤坂東邸の庭を含む秋篠宮邸までの道路の清掃を11時まで行ひました。
昼食後は1時30分に東宮御所正面入り口前の広場に集合、整列して、皇太子殿下をお待ち申し上げました。2時5分、殿下がお出ましになり、六奉仕団全員が一礼してお迎へ申上げました。殿下が各奉仕団毎に御会釈を賜り、小野団長の前にお立ちになりました。私たちは団長に合せて一礼しました。「東京都、公益社団法人国民文化研究会、総員十九名でご奉仕させていただいてをりました」と申し上げた団長は、言葉を選びつつお答へ申し上げました。
立ち並ぶ一人ひとりにいつくしみ深きまなざし皇子は賜へり
御下問に言葉を選びいらへゆく団長の声御苑(みその)に響く
温かき御まなざしを向けたまひ団長の声に耳傾け給ふ
この後、わが奉仕団は、赤坂御用地内をめぐる長い道路と植ゑ込みの落ち葉掃きを行ひ、この日の作業を終へました。
広々とした長和殿東庭(4日目)
8時、皇居桔梗門から窓明館に入り、8時50分にそこを出て、一般に宮殿と呼ばれてゐる「長和殿」の北車寄せまで歩き、皇居正殿横にある「つつじの庭」と「大刈込み」の裏を通り抜けて、皇族方が平素お使ひになられるといふ「表御座所」の前に来て、そこのお庭の清掃を11時過ぎまで行ひました。この庭は「南庭」と呼ばれ、和洋折衷の皇居で一番美しいお庭ださうです。
昼食後、長和殿を挟んで反対側にある広い石畳の庭で、落葉を掃きました。「東庭」と呼ばれるこの広々とした庭では正月2日と12月23日(天皇誕生日)の参賀が行はれます(昨平成27年の1月2日には8万人余が訪れたさうです)。午後の作業は2時半に終了し窓明館に戻りました。午後3時、宮内庁賜物伝達(しぶつでんたつ)室で担当の係長より賜物の伝達があり、小野団長以下2名が伺ひ頂戴して参りました。その後、団長から、奉仕団員一人ひとりに「天皇陛下からの賜り物です。謹んで伝達します」との言葉を添へて、菊の御紋章入りの和三盆糖干菓子と皇室写真集が手渡されました。午後4時、御奉仕を終へ、皇居をあとにしました。
前年に続いて御奉仕に加はることが出来て、何物にも代へ難い清々しい満足感に浸りました。「来年もまたお会ひしませう」と、言葉を交しつつ、団員の方々とお別れしました。
(元久留米大学附設高校教諭)
今秋の皇居勤労奉仕について
次回の勤労奉仕は、10月下旬を考へてをります。月曜日から木曜日までか、火曜日から金曜日までかの4日間で、体調不良を除き全日程参加が原則です。第4週か、第3週かで宮内庁に申請をする予定です。
ご希望の方は、事務局宛に氏名、生年月日、住所、電話番号(携帯電話番号)をご記入の上、4月20日迄にファックス又はメールでお申込み下さい。
(事務局 澤部壽孫)
古代から連綿と詠み継がれてきた和歌、それは我が国の花とも言ふべき文化の精髄です。先人の遺した素晴らしい和歌を、ぜひとも多くの人々に知ってほしい、そして後世に伝へたい。それは国民文化研究会で学ばせていただいた私達に共通した願ひであると思ひます。
私がはじめて和歌にふれたのが何時頃だったのかは定かでありませんが、そのきっかけは家族で遊んでゐた百人一首でした。意味も分らないままに、詠みあげてもらふ短歌をいつしか記憶し、その五七五七七の調べに親しみを感じてをりました。「田子の浦に…」と上の句が詠まれたら、「富士のたかねに…」の下の句のかるたを捜す。取ると嬉しいが、取られたらくやしい。家族や親せきの者どうし、遊んだ昔を懐かしく思ひ出します。
しかし短歌の素晴らしさに本当にはじめて目覚めたのは、ずっとあとになってふれた万葉集の防人の歌でした。「忘らむと野行き山行きわれくれど我が父母は忘れせぬかも」のやうな歌に、千数百年も昔の名も無き青年の悲痛な心が今の自分の心に迫って動かすことに、驚きと深い感動を覚えたのでした。先の大戦でも多くの若者が「万葉集」といふ唯一冊の本を懐にして戦地に旅立っていったと聞きました。それは日本人としての真心がその中にあふれ、悲痛なこの人生の中にあって、先人と共感し感応することによって立ちあがる勇気を与へられたからでありませう。
私たちの先人は、ことあるごとに喜びも悲しみも五七五七七の歌の調べに託してその思ひを遺してきました。我が国最初の歌は「古事記」に記された須佐之男命の「八雲立つ出雲八重垣妻こみに八重垣つくるその八重垣を」ですが、八岐大蛇を退治して美しい妻を得た歓びから和歌の歴史が始まるといふのは、何とも嬉しいことではありませんか。
倭建命の「大和は国のまほろば」の絶唱、聖徳太子の「この旅人あはれ」の慈悲深い御歌、そして万葉集の数々の名歌。これら古代の大和言葉が、美しい調べにのせて今に伝へられてきたことの不可思議さと幸運に、感動せずにはをれないのです。
滔々と流れ来る漢字文化に対して、日本人の感性や心を守り育ててきたのも和歌でした。「古今集」から続く勅撰集は、皇室を中心として日本の心が護られてきたことの証と言ってもいいと思はれます。時代の変遷とともに人心は変化し、言葉もまたその姿を変へてきました。戦乱や仏教の影響によって、雄渾でありながら一方では幽玄の世界を醸しだしたのも、和歌を根本とする国語の文化でした。江戸時代には俳句の誕生とともに和歌は脇役に回ったやうでしたが、素朴な庶民の歌が詠みつがれ、幕末の危機にはほとばしるやうに志士の絶唱が生れたのでした。
明治時代からの近代にはとくに正岡子規の精神につながる名歌が続々と詠まれ、うち続く大戦、ことに大東亜戦争前後において国民全体の哀しみせまる歌が生れたのです。そして国の中心にあっていかなる世にも変ることなく清らかな泉を湛へてこられたのが皇室、ことに天皇の大御歌でした。
しかし現代において、このやうな素晴らしい日本の伝統が徐々に忘れられやうとしてゐます。物質的な価値観に惑はされ、人間にとってほんとうに大切なものが家庭や教育の場でも教へられることがない。それは不幸なことです。そのために青年たちの心がどれほど荒廃しつつあるか。
◇
もう十年も前になりますが、私の父小柳陽太郎編著による『名歌でたどる日本の心』が国民文化研究会の会員の協力によって草思社から上梓されました。傍にゐて父の仕事を見、私自身もその一部を分担させていただきながら、先人が詠み継いだ和歌の道はそのまま歴史の精神の中枢をなしてをり、先人の命のほとばしりと云ふべき短歌こそは後世に是非伝へていかねばならないと感じました。そこに現代の人々が忘れつつある本来の日本人への再生の道があると思ふのです。
国立病院での定年が近づき、これから自分に何ができるかと考へてゐたほぼ3年前、私は九州大学医学部の恩師、井口潔先生の会に呼ばれました。井口先生は日本外科学会の重鎮で当年94歳になられますが、九州大学退官ののち現代教育の過ちに気づかれ、人間本来のありかたを求めて研究機関「井口記念人間科学」を全国的に展開してこられました。岡潔先生の文章に感銘を受けて教育の原点を感じとられた井口先生は、知性偏重の教育から脱し、まず感性を育てることの大切さを医学生理学的に示され、日本の伝統的教育に学ぶことを提言されてゐます。そして自由放任がいかに現代の人間を駄目にしてゐるかと警告を鳴らし続けてをられます。
子供には素晴らしいものをぐんぐん吸収する無限の能力があり、そのやうな時に最も基本である感性を育てることが重要で、その基本の上に本当の知性が花開くことを井口先生は示されました。子供の時には分る必要はない。いいものを与へれば、きっといつか分る時が来る。それを昔の人は知ってゐて教育したのであると井口先生は云はれます。それを聞いてひらめいたのが、先人がそれぞれの時代に遺した名歌、一生を通じて生きる命を与へる名歌を「新しい百人一首かるた」として選び出し、子供の時代から親しんでもらふといふ企画でした。
和歌は人の真心を歌ってゐます。大和言葉の歌は美しい調べをなして日本人の感性と共鳴し、これを育む。それは実に不思議な事で、天恵としか言へないものです。私たちの身の回りには素晴らしい自然が息づいてゐますが、命あるものにはかならずそこにリズムがあり、歌があります。それは目に見えないものですが、感じることによって豊かな人間性が育まれると思ひます。
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「かるた」には是非とも挿絵を入れたいと思ひました。子供たちは絵によって一つのイメージを与へられ、それは意識の底に潜んで一生を通じて懐かしい思ひ出に導くものでせう。私は子供のころに読んだ絵本の挿絵を今も思ひ出します。また日本の仮名文字の美しさも世界に比類のないものですので、読み札だけでも筆書にしたい。そのやうな事をひとり想像するのは、楽しいことでした。
ちゃうど寺子屋モデルの主宰者である山口秀範氏、それに和菓子の老舗「石村萬盛堂」社長の石村善悟氏たちの呼びかけで、『名歌でたどる日本の心』の輪読会が行はれてをり、福岡に帰って来た私も参加してゐました。そのメンバーのなかに幸ひにもプロのデザイナーの竹中俊裕氏や書家の山田紀代美女史がをられ、私の「新百人一首かるた」の企画を申し出たところ、皆さんが全面的に賛同して下さったのは本当に嬉しいことでした。
それからはまづ百人の歌の選択、そして解説書を作る作業に入りました。各時代を通じて沢山の歌の中から、あれもいい、これもいいと迷ひながら選ぶのも楽しい作業でした。三井甲之先生など国文研につながる方の歌三首も入れました。解説書は中学生ないし高校生なら読める程度としてできるだけルビを打ち、歴史への親しみもわく内容としました。ある程度出来上がり、企画の具体的な内容も煮つめてから国民文化研究会の主要な方々を中心に相談しましたら、どなたからも歓びの声を頂きました。発起人となって頂き、企画書を揃へて致知出版社の藤尾秀昭社長に出版についてお願ひしましたところ、社内での検討の後に承諾して頂くことができました。
竹中氏にはじつに楽しい挿絵を書いて頂きました。解説書の一部は山口秀範氏にも執筆して頂きました。和歌そのものはもちろん正仮名遣ひとし、自然に古文に慣れてもらへるやうにしました。ほんとうに皆様の大きな力を頂いて、このたび「親子で楽しむ新百人一首」として出版させていただくこととなりましたことを心より感謝申し上げます。
やうやく完成し、出版をまぢかにした11月末、私の父が他界致しました。生きて見てくれてゐれば、きっと喜んでくれたことと思ひます。父はこの完成まで見護り、私どもに元気を与へてくれてゐたやうに、今では感じてをります。
(平成27年12月9日)
(社会医療法人原土井病院院長)
小柳左門編著 本体2,800円
『親子で楽しむ新百人一首』
竹中俊裕・画
山田紀代美・筆
致知出版社 刊
FAX 03-3796-2109(アマゾンを通してネットでも注文できます)
はしがき 國武 忠彦
日本人が大切にしてきた言葉や思想を若い人たちと一緒に学んでみたい、これが私たちの長い間の願いでした。
戦後70年の節目に当たり痛切に思うことは、あれほど自国を愛し、誇りに思って生きてきた父祖たちの生き方が、顧みられていないのではないか、ということであります。父祖たちが長い時間をかけて育(はぐく)んできた文化・伝統は、古いものとみなされ、戦後の日々はこれを忘れ去ることに費やしてきたのではないか。
父祖たちの生き方は「封建的」と見なされ、父祖たちとまったく違った新しい人間になることに努力してきたのではないか、とさえ思います。戦後とは、過去を忘れて、ただ前へ前へと進む日々だったのではないでしょうか。
戦後、謳歌(おうか)された「自由」「平等」「平和」「個人尊重」などは、敗戦と占領という屈辱的な事態のなかで、十分に吟味されることなく慌(あわ)ただしく導入されました。
それは、父祖たちが大切にしてきた秩序と価値の否定と同義語であり、古くからの伝統的な生き方の否定でありました。その結果、戦後の流行思想に追従すればするほど自分を見失い、不満と不安の感情を懐かざるを得ない状況に陥(おちい)りました。私たちの心に漂う空虚感はどうしようもなく深まっていくのです。
最近、各分野で頻繁(ひんぱん)にみられる悪質な犯罪や奇怪な不祥事は、敗戦以来、日本人の心に棲(す)みついた精神の弱点がさらけだされたように感じます。この病的な世相を見ていると、かつての日本人が身につけていた勁(つよ)くて健康な精神に触れてみたい、それを取り戻してみたい、という強い思いに駆(か)られます。
そのために、少しでも役に立つものにしたいと考えて、本書の刊行は企画されました。
私たちが自分を取り戻し、自立するためにできる唯一の道は、父祖たちが大切に語り継いできた言葉や思想に、きちんと向き合い、そこに自分を移し入れて、問答し対話することしかない。父祖たちに愛情と尊敬の念をもって、父祖たちが大切に語り継いできた言葉や思想に近づく努力が必要であると思います。
父祖たちの心の根本にあった、揺(ゆ)るがぬ基軸を、その言葉や思想を若い人たちと共に感じ取ってみたいという本書編纂の願いから、「原文」に親しみを持つ手がかりとなるように「現代語訳」を施(ほどこ)しました。本書を手にして、先人の声を聞き、その精神を追憶し、自らも生きてみる悦(よろこ)びを得ようではありませんか。(仮名遣ママ)
目 次(抄)
1 聖徳太子 和を以て貴しと為す
2 古事記 倭は国のまほろば
4 万葉集「言霊の幸はふ」の大歌集
6 法 然 専修念仏の教え
10 源 実朝 短歌史に名をとどめた悲劇の将軍
15 世阿弥 秘すれば花なり
18 山鹿素行 学問は「日用の学」にあり
23 本居宣長 35年をかけた『古事記』の研究
26 賴 山陽 武家の興亡を描いた『日 本外史』
32 吉田松陰 留め置かまし大和魂
37 孝明天皇「御述懐一帖」
38 西郷隆盛 私心なき政治を説いた『南洲翁遺訓』
40 五箇条の御誓文と明治維新の宸翰 新政の方針と若き天皇のご 決意
41 福沢諭吉 「独立の気力」を説き続けた啓蒙思想家
45 大日本帝国憲法における「三つの前文」
48 樋口一葉 国家の命運とともに生きた明治の女性
49 清国に対する宣戦布告の詔
52 正岡子規 近代短歌革新の勇者
55 露国に対する宣戦布告の詔
56 山櫻集 日露戦争を戦い抜いた軍民の詩歌集
58 戊申詔書 ゆるんだ国民精神へのいましめ
61 森 鷗外 時代は二本足の学者を要求する
64 小林秀雄 歴史は決して二度と繰り返しはしない
66 福田恆存 昭和を代表する保守思想家
編集後記
昨年の「安保法制」論議は、“有力”メディアが依然として「第九条賛歌」(国防の抛棄)、即ち被占領期の酔夢の裡にあることを明らかにしたが、守るべきは領土だけではなく、日本の歴史、道徳、教育、ひろく国の誇りであり自尊心である。わが国の確かな前途に向け、努めんとする本会に変らぬお力添へご叱声を。 元旦
山内健生